2018年11月6日火曜日

スローインスローアウト

なんとなく聞いたことのあるような言葉だと思うが、
それは多分、スローインファストアウトではないだろうか?

クルマや二輪でカーブに入る時は十分速度を落として、
カーブから出る時は再度速度を戻すという意味だが、
誰もが知ってる通りカーブでは遠心力が働くから、十分速度を落とさないと曲がり切れず車道から飛び出してしまい危険だということ。

これがトラックやバスなら横転しかねないし、列車でも同様。
台湾での脱線事故にしても、カーブ前で十分速度を落とさなかったため起きた事故であり、乗客をたくさん乗せていると今回のように大惨事になってしまう。

さて、ではスローインスローアウトとは?

これは太極拳を套路を練る時、定式に入る時はスローで入って、スローで出なさいという意味。
これが出来ない人があまりにも多いので、わかりやすくするためにこのように呼んでるが、
略して「スロースロー」と呼んでいる。

そもそも定式とは?

定式とは大方、技が決まった瞬間の形をこう呼んでるが、
太極拳愛好家の方々の中では定式で技を決めると思っている方が意外と多いよう。

ここで考えてみたい。
定式で技を決めるならそれは、空手や少林拳などの剛拳となんらかわらない。
太極拳では受けたり打ったりしない。
特に楊式太極拳では。

受けずにいなし、
打たずに発する。

太極拳の技は一般的に技と思われている定式と定式の間にあり、
定式とは技をかけ終わった後の形となる。

ちょっとややこしい表現になってしまったが、
いわゆる太極拳の技は常に繋がっているということ。

定式前はゆっくり、定式後もゆっくりというのは美しく見せるためではない。
まるでゆったりと舞っているかのような太極拳の動きは精巧な技の連続であり
無駄な動きは何一つない。

技が掛かった瞬間から相手は戦闘不能状態へと導かれる。

定式までゆっくり動くのは、特に楊式太極拳では前述した通り打たない。
ゆっくり動く中で氣を溜め氣を流す。
ゆっくりが目的ではなく、気を溜めたり流したりする内面の動きに時間がかかるから結果ゆっくりになるだけ。

では、定式後もゆっくり動くのはなぜか?

ひとつは、早い動きは相手に動きを察知されやすく不利な状態になりやすいということと、
もうひとつは、技によっては定式が定式ではないからだ。

定式のようで、実は過渡式で、更に技が続く。

だから、定式で技が決まったと思わない方が良い。

検定向け太極拳である簡化太極拳に関しては定式でしっかり見せることを指導される。
それは動作と形を正しく覚えているかどうかを見るためであり、武術とは無関係。

話は反れるが、
簡化太極拳を武術化しようという動きがあるが、簡化太極拳とは本来、中国政府が武術の要素を省き健康のために作った太極拳であるのに、それに武術の要素を付加するのはどうだろう?

「簡化太極拳だって闘えるんだ!」と言っても、それを目的としている人が簡化太極拳を始めるとはとても思えない。

まあ、太極拳をどのように楽しむかは自由なのだが・・

話を戻す。

定式は技が決まった瞬間だけではなく、
技の始まりであり、技の途中でもあるということ。

だから、
スローインスローアウト。
もっといえば途切れることなく連綿と動かねばならない。

これを「相連不断」という。

こんなふうに強さを求めた結果がゆっくりと連綿とした動きになり、
その結果美しい演武となる。

強さを目指すと美しくなるということ。

2018年10月29日月曜日

自然に逆らわない力 『ええかっこすると勁力落ちる?!』

最近、普段の鍛錬に表演用の練習を加えて練習をしているが、
前からも思っていたが、やはり確実に勁力が落ちる。

表演は見た目を重視する。
それは見ている人を感動させるためだが、
それはそれで素晴らしいこと。

しかし、見た目を重視すると必ず装飾的な動作や
派手な演武をしようとするためにアウターマッスルと使って演武することになる。

アウターマッスルを使うことが悪いことではない。
驚くようなアクション、美しい演武は見ていて楽しい。

しかし勁力とは別物。

ではここで考えてみよう。
どうして勁力が落ちるのか?

そもそも勁力とはとことんまで脱力してはじめて出せる力。
いわゆる脱力することで地球と一体化するということ。

人間完全に力を抜くと、起きていることすら出来なくなる。
寝ている状態とは、いわば生きながらして死んでいる状態(?)

氣の力を最大限にしようと思ったら、
生死の境に入ることでその力を出せると私は考えている。

「人間死ぬ気になればなんでもできる」と言うではないか。

いずれも勁力が最大限に発揮できるのは極限まで脱力している時。
その状態は表演武術とは全く別の世界だし、
意識も使う力も違う。

演武力を高めようと勁力を意識される方がおられるようだが、
私の経験上、勁力を意識すると演武力が落ちる。

実際に実験してみた。
人生が掛かっている大会だというのに、
引退試合でもある最後の大会は勁力を意識した演武をした。
実験というか、最後ぐらい「自分らしく」やりたかったのだ。
そして過去最低の点数がつけられた。

悔しかったが、想定もしていた。
なぜなら、全く派手さがないのだから、審判にしてみれば良い点数のつけようがない。

タイトルを「ええかっこすると勁力が落ちる」としたが、
派手に見せよう、美しく見せようとすると、自ずと勁力とは関係のない筋肉を使い、
柔らかく見えても、自分の中では硬い動きになる。

もしこんな力で推手をし、打たれたら
恐らく木の葉の如く吹っ飛ばされてしまうだろう。

このことは最近、表演を意識して八卦掌の練習をし始めたことで改めて確信した。
かっこつけようとすると脱力でなくなる。
よって、私が目指す八卦掌ではなくなる。

だから、見る人には申し訳ないが、華麗な演武は捨てることにした。
やってやれないことはないのだが、自分を偽りたくない。

素直に生きたいと思って武術をはじめたのに、
嘘をつきたくない。

誰が認めてくれなくとも、私は脱力した演武を自分自身でとても気に入っている。

伝統武術=無骨 と思われがちだが、
私は全くそんなこと思わないし、
それよりも、
川のせせらぎや風になびく木の枝葉や草花、舞い落ちる雨や雪。

そんな自然界にある動きを目指したい。


2018年10月26日金曜日

ピントをぼかす

太極拳がなかなか覚えられず伸び悩んでる人は、
一点にピントを合わせ過ぎているためだと思う。

私が師の動きを見て覚えようとする時、
どこかにピントを合わせることはしない。

なぜならピントを合わすと他の部分がぼけてしまい
結果見なかったことになってしまう。

最近、加齢によって老眼が進み、物を見る力が弱ってきた。
本を読む時や標識などを見る時は苦労するが、いいこともいっぱいある。
ぼけて見えるからこそ発見できることもたくさんある。

最近のデジタルテクノロジーは物凄いスピードで進化しているが
例えば動画の画質がどんどんよくなってきている。
本物よりリアルなのでは?と思うほど。

しかし私はあまり画質に拘らない。
今の画質でも十分だと思うし、
あまりにもリアルに見えてしまうと、見たくないものまで見えてきそうで怖い。

話が脱線しないうちに戻そうと思う。

太極拳を最初に覚える時は、まずはざっくりと覚える。
木彫りと同じで、まずはざっくり削って、その後じっくり彫刻刀で彫って行く。
細かなことはあとでやればいい。

だから、見て覚えようとする時は、
あまり先生の近くに寄らず、少し離れてぼんやりと見る。
こうして見ると、姿勢や全体的な動きが際立って見えてくる。
最初にしっかり学ばないといけない部分だ。

最初はどうしても手ばかり見てしまう。
そうすると手だけしか覚えられず、姿勢や歩型がめちゃくちゃになる。
これはよくない。

手品師はこれを逆手にとって、相手の目を手に惹きつけ、タネが見えないようにする。

太極拳の場合は、そのタネ(基本原理)である姿勢と動きが大事。
これを見るにはピントをぼかすこと。

ぼんやりみて、とにかく真似てみる。
これが一番の上達法だと思う。

2018年10月25日木曜日

5000回崩されろ

推手をやっている時、
何度説明しても、頑張ってしまう人がいる。

推手では決して頑張ってはいけない。

頑張るというのは「頑な」に「張る」と書く。
張るのではなく緩む。
それも「頑な」にではなく「柔軟に」

推手の感覚を掴むのが早い人は性格が素直。
私が言った通りにやろうとするし、
私がやってる通りに真似ようとする。

あえてこれ以上の上達方法はないと言い切りたい。

推手で上達したかったらどれだけ崩されたか?
崩した数を自慢するのではなく、
崩された数を自慢する。

なぜなら「推手上手は崩され上手」だから。

私はざっと計算しても今まで5000回以上は崩されたと思う。
そしてまだまだ記録更新して行こうと思っている。

崩されるということは、相手を受け入れているということ。
この受け入れる心があれば、おのずといなす力が見えてくる。

逆に相手の突きを拒んで腕ずくで払い除けてもそれは推手ではないし、
太極拳でもない。
それでうまく行ったとしても、それは単なる力自慢に過ぎない。
その力、
自分より力ある人に敵うだろうか?

もう、ここで答えが出てくる。

力では力あるものには絶対勝てないということ。
それなら、力を使わない方法を探す方が懸命ではないだろうか?

柳の枝に雪がどれだけ積もっても折れることはない。
柳の枝はひょろひょろでごくごく細い。
なのに折れない。
それは雪の重さに対抗しようとしていないから。
その重さをそのまま受け入れ、重力に任せそのまま受け流している。

私にとっての負けは、推手で崩されることではない。
力に頼ってしまうことが自分の中では負けなんだ。

だから1万回崩されても私にとっての負け数にはならない。
そうではなく
1万回、相手の力を知ることが出来、
そしてこの方法ではいなせないという発見をしたということになる。

少なくとも私にとっての修行は
学ぶことであり勝つことではない。

2018年10月16日火曜日

横への重力

「押さないでください」
推手をしている時にある会員さんからこう言われた。

私は押してもなければ引いてもいない。
なにもしていない。

なにもしないことは地球と同調している状態。

では逆に押しているように感じさせないためには何をしなければいけないだろう?

それは力を使うこと。
力を使って重力に逆らわなければならない。

それはいわば朝目が覚めて体を起き上がらせるような感じ。

私が一日で一番嫌いな瞬間。
寝ている状態はいわば最もリラックスしている状態。
その体を重力に逆らって起こさなければならない。

人間の体の60%以上は水分。
いわば水の入った皮袋のようなもの。
その体を起こすためには筋肉を使わなければならない。
そうしないと体を起こしたり立たせたりすることはできない。

逆に力をどんどん抜いていくと、固体であった体が液体になる。
包み込まれた液体は下へと流れようとする。
その流れ落ちようとする力が足裏に到達すると、
今度は行き場を失い横へ流れようとする。

ビニール袋に水を入れて床に置くと横へ横へと流れていこうとするのと同じ。

だから脱力した状態で手を合わせるとその力が相手に伝わる。
重力によって生み出される力である。

力を抜くというのはなかなか難しい。
何故なら生まれてこのかたずっと力を使って生きてきたのだから。

力を抜くことを最も邪魔しているのは心。
心がゆるまなければ体は決してゆるむことはない。
なぜなら体は心が支配しているのだから。

力を抜こう抜こうと躍起になっては余計に体を硬くしてしまう。

まず頭を空っぽにする。
意識を腹に落とす。
重さを足裏に沈める。

私がいつも立禅の時に説明することだが、
頭を空っぽにすることは、それに慣れていない人にとってはもしかしたら勇気のいることかもしれない。
特に優れた頭脳を持っている人ほどそう思うのではないかと。
考えることで今までうまくやってきたのであれば、尚のことだろう。

しかしこれしか方法はない。

頭を空っぽにする。
思考回路の電源を切る。

すると心がゆるみ体がゆるむ。
とても気持ちがいい。

2018年10月10日水曜日

肩の力を抜けば丹田を感じる

なかなか力が抜けないという人は結構多い。
力を出すことは簡単だが、力を抜くことはなかなか難しい。

しかし寝ている時は自然と力が抜けている。
そうしないと寝ている間に損傷した細胞を修復することができない。
人は起きている間に老化し、寝ている間に若返っている。

しかし気功と太極拳に関しては違う。
その寝ている時の脱力を起きている状態で行う。
いわゆる"起きているのに寝ている"状態。

このように脱力することで体の中に"スキマ"ができる。
氣が通るスキマだ。

中国では古くから人間の体は血と水と氣で出来ていると言われてきた。
血は骨であり肉であり、水はいわゆる体液、
そして氣はエネルギーであるとされている。

人間の体は骨と肉で出来ている。
しかし人間は他の動物にはみられない不可能を可能にする特殊な能力を持っている。
その力を生み出すのが氣である。

折角人間に生まれてきたのだから、この能力を引き出したい。
そうしなければ勿体ない。

そのためにまず目指すこと。
それが脱力。

「脱力出来るようになりました!」

それは嘘です。
脱力に意識はありません。

本当に脱力できたのなら脱力できたという感覚すらないでしょう。
脱力とは目指そうとするための言葉であり、
そうなっている状態のことではないと私は解釈する。

仮に脱力できたと感じたなら、もう一度脱力しようと心掛ける。
その繰り返し。
私が本当に脱力できたのは16年間太極拳やってきてたった一度だけ。

その時の感覚は脱力しているという意識すらない。
何度も書いてきたが、
体中が氣で満ち溢れ、膨らみ、そして自分の身体が光体になる。
この時に脱力という言葉は出てこない。

まず肩の力を抜いてみる。
とろ~と肩が溶けるように。

すると自然と意識は丹田に向かう。

意識が丹田に沈むと、
体がふわ~っと軽くなる感覚と、
とろ~っと沈む感覚の両方が得られる。

非常に気持ちいい。

この感覚は他では得られないし、しかも持続性がある。
マッサージチェアに座っている時は気持ちよくとも
そこから立ってしまうと気持ち良さが消えてしまう。
それはあくまでも外から与えらえた力だから。

自分で生み出した気持ち良さは簡単には消えない。

とにかく肩の力を抜こう。
そして丹田を感じよう。

2018年10月9日火曜日

大きく練って無心で動く

今、伝統楊式太極拳をじっくり練った。
体全身からぶわっと汗が噴き出る。

普段生活している時よりも
ずっとゆっくり動いているのに体が燃え上がるように熱くなる。

体をゆっくり大きく動かすことによって
心を揺さぶられる。
心を揺さぶられることによって意識が丹田に沈む。

その意識が氣を生み出し体中をめぐり出す。
そこから力(勁)が生まれる。

今はほとんどないが、昔のバイクはキックスターターでエンジンをかけた。
昔の飛行機は手動でプロペラを回しエンジンをかけた。
それと同じように、丹田というエンジンをかけるために、まず大きく動く。

すると丹田に火が入り、徐々に火力が増してくる。
その火力は体全体を温め、
体中に粘りのある氣が絡みつき
まるで氣の海の中をゆったりと泳いでいるような感覚になる。

この時決して"カタチ"を意識してはならない。
(正しい姿勢や動作をしっかり修練した後の話だが)
意識は無意識に丹田に向き、丹田が体を動かし始める。

先程言ったように、
まずエンジンを手動で回し、そしてエンジンをかける。
そしてそのエンジンがタイヤを回しプロペラを回す。

燃え上がるような感覚と共に体が浄化されていくのがわかる。
邪気が燃えていく。
不安やストレスが消えていく。
活力が湧いてくる。

この時、体の治癒力はマックス状態になり、
体を自動修復してくれる。

人間というのは本当に便利な生き物だ。
バイクや車をぶつけても自動修復はしてくれない。

こんなふうにして、太極拳ならではの体の動かし方を覚える。

そして実際に技をかける時は、
風のようにいなし
風のように打つ。

ただただ無心で動く。

相手を意識するのではなく、意識するのは結果であり、
これから迎え撃とうとする敵ではない。

ややこしい表現になってしまったが、
技をかける前に技というのは決まっている。
その結果(未来)に戻る感じだろうか。

さらにややこしくなってしまった(汗)

しかし、鍛錬を積んでいくと、こんな感覚が自然と備わってくる。
これが太極拳の楽しさだろうか。

太極拳は心も体も同時に鍛えてくれる。