2013年12月30日月曜日

朝の抜筋骨

抜筋骨(ばっきんこつ)はいつやってもいいのだが、朝が最も効果が高い。
私の体感では5~10倍ぐらいだろうか。
私が行っている抜筋骨は8式。約5~10分程度。

肩がこっている時にやってもいいのだが、重度の肩こりの場合なかなか簡単にはほぐれてくれない。
いわゆる肩がこってからではなく肩がこる前に行うのがベストということになる。

肩がこるということは肩がこるような姿勢や力の使い方をしているからだ。
小さな肩こり動作がどんどん積み重なって大きな肩こりとなる。
整体院などに行けば確かにラクにはなるが、時間が経つとまた元の肩こり状態。

ここで冷静に考えてみる。
肩がこる姿勢や力の使い方をしている限り、どんなに肩をほぐしても無駄だということになる。
そこで肩のこらない姿勢や力の使い方を朝寝ぼけたままの状態でやる。
すると体がその感覚を覚えてくれる。
この“寝ぼけた状態”というのが重要。
潜在意識に入りやすいからだ。

因みに日中に抜筋骨を行うと雑念が入りやすい。
未処理の仕事が気になったり、
今日の献立はどうしようかとか、
身の回りの心配ごととか・・
この精神状態では体の体操にはなっても、力の抜き方を自分自身にインプットすることができない。

そもそも抜筋骨とは立禅気功に入る前に体をほぐすための体操なのだが、
同時に経絡のつまりを取り除いてくれる。(経絡とは気の通り道)
経絡が詰まっている状態で立禅をしても気がめぐりにくいということになる。

気が体に廻れば、それは大きな活力になるし、何より無駄な力を使わなくなる。

私は勁力のことを力を使わない力と解釈しているが、どんなジャンルでも達人の動きは無駄がない。
そういうことだと思う。

朝の抜筋骨は、肩こりだけでなく、もしかしたら人生を大きく変えてくれるほどの効果があるかもしれない。
たった毎朝5分程度行うだけで。

2013年12月25日水曜日

練習順を変えてみる

自主練の時、私の場合いつも準備運動、抜筋骨、立禅、太極気功、操手、套路という順序で行っている。
しかし、毎回この順序で行っているとマンネリ化し、中身のある練習というより惰性でやるようになってしまう。(少なくとも私は)

膝を回したり肩を回したり等の準備運動は必ず練習前に行った方がいいが、あえて気功をやらずにいきなり套路の練習をやってみる。

すると、あることに気づく。
気功の重要さだ。
もちろん体に気をめぐらせながら套路を練ることもできるが、やはり違う。

気功は立禅で行った方が断然集中できる。
動いてしまうと動作の方に気が行ってしまうので、気をめぐらせるという意識がどうしても薄れてしまう。

いずれもたまには練習順をシェイクしてみることはとてもいいと思った。
明らかに脳が活性化するし、ひとつひとつの重要さを再認識することもできる。

2013年12月22日日曜日

動作が硬くなったら?

力を抜くことは力を入れること以上に難しい。

今、套路を練りながら、まだまだ抜くことができないかと更に抜いてみた。
すると、しばらくご無沙汰だった「気」が戻ってきた。

手と空間に摩擦を感じ、手に電気のようなものが生じる。
そして手がふわふわと空間を漂う感じになる。

結局、力を抜けていると思っていたのだが、いつの間にか悪い習慣が少しずつ積み重なりまた力みが生じていたということだ。

そもそも今、太極拳をしようと思ったのは、最近套路で気を感じなくなってきていたから。
理由はいくつか考えられるが、大会向けに新しい套路をいろいろ覚えているということが大きいと思う。
型を覚えるまではどうしても力みが生じてしまうから。

因みに手の力を抜こうとしただけでは、そうはならないこともわかった。
というよりそこのことは過去の経験で知っていたのだが忘れてしまっていた。

意識を足裏に持っていくと、自ずと歩型が安定し、腰が据わってくる。
すると、それと連動するかのように肩と肘と手の無駄な力が抜けてくる。

以前、師に「力が必要なのは足の指だけ」と教えられた。
地面を掴むことを意識しながら動けば、確かに意識がそこに行くから、上体が軽くなる。

因みに今パソコンのキーボード操作がとても軽快に行えている。
これでなくては太極拳をやる意味がない。

また悪い癖に戻らないよう、このことを毎日意識しながら明日から練習しよう。

2013年12月18日水曜日

読まれない力

今日、友人のブレイカー(ブレイクダンサー)に1日5分だけ散手の相手になって欲しいと頼んだら、快く引き受けてくれた。
とても優しい人だ。

一応、練習台になってもらう代わりに護身術を教えるという取引で。(笑)

まずは、起勢からやってみる。
さすがブレイカー、筋力が半端じゃない。
なにしろ片腕で体を逆さに持ち上げ、回ったり跳ねたりできるのだから、相当な筋力だ。

両手を力いっぱい握ってもらう。
そして、力を使わず相手を崩す。
何度やっても成功した。

これが勁力というのかどうかはわからない。
だが、力で相手を崩したのではないことは確か。
なぜなら力を使おうとすると相手も力で抑えてくるし、
いずれも力対力では相手に絶対敵わないからだ。

要するに反撃に出ることを相手に読まれてはいけないのだということがわかった。

すると、今度は片手を掴まれたらどうする?ということで片手を強く掴まれた。
とっさに倒輦猴(とうれんこう)を使ったが、相当ビックリしていたようだ。

次に逆の手で片手を掴まれた。
玉女穿梭(ぎょくじょせんさ)という手もあったが、ひとまず野馬分宗(のばぶんそう)で対応。

なるほど。
こうされたらどうする?という具合に攻めてもらうのもとてもいい勉強になると思った。
というより、そうでなくては護身術にはならない。

いずれも太極拳の技ってよくできているなと改めて感心してしまった。

力を使わない力

太極拳ばかりやっていると、どうしてもゆっくりと柔らかく動くことばかりに意識がいってしまう。
それはそれで好きだし、今後も更に腕を磨いていきたいと思う。

それにゆっくりとした動きには神秘的なイメージがある。
魔術師がトリックを使う前に手で気を練るような動作をするが、なにか不思議なことが始まるような雰囲気がある。(笑)

ところで来年、形意拳でも大会出場することを決めてから、形意拳に対し本腰を入れて取り組むようになった。
まあ、本腰と言っても本当に練習している人に比べたらまだまだだと思うが。。
そこで要求されるのがスピード。

太極拳は防御型の拳法だが、形意拳は攻撃型の拳法に見える。(少なくとも私は)
しかし勁力を養うためには出来る限り脱力しなければならないという。
脱力に対しての解釈は様々だが、私は脱力でいいと思っている。(力を脱するという意味だから)
(脱力という代わりに放鬆(ほうしょう)という言葉もあるが、これもピンとこない)

用意不要力(よういふようりき)という太極拳の言葉もあるが、
力で相手を制するのではなく意をもって制するということになると思うが、実際力を抜いたほうが見た目のスピードは速い。

筋力を使った突きは最初から早いが、力を使わない突きは厳密に言うとゆっくりから急加速するような感じだ。
車で言えば、高出力エンジンとターボエンジンの違いだろうか。
高出力エンジンはロケットのように急加速する。
一方、ターボエンジンは立ち上がりが遅いがかかりだすと強烈な加速が得られる。
最初の加速に騙されているといきなりすっ飛ばされる感じだ。
当時のフェアレディZやスカイラインGTRに乗った時にそれを感じた。

ところで、力を使わない力を「勁力」というが、最近、勁力という言葉に対してなぜか拒否反応が起きる。
「勁力を使って」と言われても、その勁力の使い方がわからないから、やりようがない。
だから、私がサークルで教える時は勁力という言葉は使わない。

まずは力を抜く。
そして更に力を抜く。
なおかつ力を抜く。
その時にどんなパワーを発することができるか自問自答してみたり、実際に拳を突き出してみる。
すると、なんとなく「これが勁力かな?」という感覚を得る。

力を使わないで打とうとすると、ふうぅぅぅぅぅぅぅぅわっ!!!という感じで突きが出る。
その時に腕の中の水分が拳側にスコーンと移動するのがわかる。
水と言うより、もっと重たい鉛のようなものだろうか?

だから、私みたいな勁力初心者にとっては、今後も勁力という言葉を使わないという方向で行こうと思う。

力を使わないで打つ。
それこそが意で打ってる状態なんだと思う。

2013年12月16日月曜日

ゆらぎ

太極拳の十要に動中求静(どうちゅうきゅうせい)という言葉がある。
今まで言葉としてなんとなく理解しているつもりだったが、10年経った今なんとなくわかってきたような気がする。(違うかもしれないが)

最近意識的に十分気を静めてから演武を行うようになったが、その時にゆらぎが起こることがわかった。

音楽でも正確なリズムで演奏することは大事だが、それではグルーヴは生まれない。
特にキメの部分では貯めて演奏しなくては単調なコンピューターミュージックのようになってしまう。

 いずれも、ゆらぎはどこから生まれるのだろう?
演武しながら静かに観察してみると腹であることがわかった。

腹の躍動感でもって静かに動くとゆらぎが生じる。
それが良いのか悪いのかはわからない。
 ただ、それがひたすら気持ちいい。

そもそも宇宙も、インフレーションというゆらぎから生まれたのだから、
演武均等(えんぶきんとう)と言えど、多少のゆらぎがあるのは自然な形だと思った。

2013年12月14日土曜日

自信

自信とは?
自分を信じること?

なら、どうすれば自分を信じることができる?

1秒で自信がつけば誰だって苦労はない。
自信とは経験からしか得られないものだと思う。

今の時代、情報はいくらでも得られる。
が、
情報を得ただけでは決して自信は得られない。
お金でも買えない。

いわゆる「練習あるのみ」だと思う。

寒い季節になったが、今日も外に出かけよう。
そうすると、寒いのに頑張ってる仲間にも会える。

2013年12月12日木曜日

受け入れる、許す

最近、内面が変わってきたように思う。
演武している時の自分が今までと違う。

正直今まではきれいに演武しようとしていた。
が、
最近は誰かと戦っている。
戦うことが嫌いだった自分がだ。

前にもブログに書いたと思うが、自分自身に対してだ。

しかし、戦ってばかりでもいけないと思う。
最終的には戦おうとしている自分をありのままに受け入れなければと。

戦おうとしている自分を受け入れる。
ヨガや圧腿をしている時はまさにそういう感じだ。

痛いと思うのは、戦おうとしているからだ。
そうではなく、それを受け入れる。
言い換えれば「許す」ということだろうか。

これは、ヨガや圧腿だけでなく、套路を練る時も、推手をする時も、組手をする時も同じだと思う。
相手の攻撃を許す。

打ち寄せる波もその反動で引いていくように、受け入れて返す。

先日、推手で先制攻撃を掛けようと思ったらまんまと相手の手中に収まりバランスを崩した。
勝とうと思うと負けるんだな。

2013年12月8日日曜日

何も考えないで剣を振ってみる

昨日は久しぶりに充実した日だった。

朝は9時から武術仲間と野外練習。
枯葉が舞い散るこの季節は日向がとても気もちいい。

太極拳、形意拳、推手・・
力の動きやそれによって自分の体がどう反応するかなどを観察する。
たまにゆっくり推手をやってみるというのはいいかもしれない。

そして夕方からは体育館で自主練。
途中から会員さんが練習会にやってきたので、気功や推手、太極拳などを行う。
すぐ隣のコートでソフトバレーをやっていたのでかなり賑やかだったが、そんな中でもこちらは静かに気功。
集中力が要求される。(笑)

普段サークルでは時間に限りがるので、やりたいことをかなり端折ってるが、二人だとたっぷりできるのがいい。

だから本音を言えばサークルは、よほどの事情がない限りは遅れて来て欲しくないと思う。
なぜなら健康、美容、リラクゼーション、太極拳の演武力、武術としての向上、怪我の予防として緻密に組んだプログラムであり、なにひとつ無駄がないから。
映画でも最初の1分を見逃すと内容がわからなくなったりするが、それと同じだ。

ところで、今日の自主練では刀と剣をじっくり行った。
あえて套路の練習を控えめに、剣の動きと動作を一致させる練習。
つま先から剣先にいたるまで意識をめぐらせ、心と動作を一致させる。

何も考えないで剣を振ってみる。
子供に棒を持たせると勝手に振り回して遊ぶが、まさにそんな感じ。

前、後ろ、斜めとあらゆる方向に足を丁寧に運びながら思うがままに剣を振る。
その時、剣の動きにムラがなく、そして途切れることのないよう。
集中力が途切れると、動きも止まる。

今、私が思っていることは、技術的な向上以外に1年前の自分とどう違いを出せるかだ。

2013年12月4日水曜日

歩かなければ退化する?

人間は二本足歩行するようになって進化したと言われる。
逆を言えば歩かなくなると退化するとも言える。

現代ではインターネットの多大なる普及で、人が移動せずに必要なものを手に入れ、或いは収入が得られるようになった。
このことはエコロジーに大変貢献していると言える。

何を隠そう私もIT革命時にIT普及に対し積極的に活動した。
異常なまでに進んでしまった地球汚染にブレーキを掛けたかったからだ。

確かに地球汚染は一頃に比べたら落ち着いたように思える。(新たな汚染を除いては)
しかし、人間はどうなってしまっただろう?

家に居ながら生活が成り立ってしまうため、人と接しなくなり、それが理由で人と会うのが面倒になり、挙句は人と会うのが怖くなってしまう。
これがいわゆる「ひきこもり」だ。

私はIT普及のため不眠不休の勢いで頑張ったが、その後は前述した通り。
毎日100人以上の人と接し、それが生きがいだった私が人と会うのが怖くなってしまうほどに陥ってしまった。
おまけに足腰はどんどん弱り果て、体は老化の一途をたどるばかり。

人間は歩かなくなると退化し老化するのだ。
要するに、身も心も衰えるということ。
身を以て体験したことだ。

これこそが私が太極拳を始めた一番の理由。
というより、これ以外の理由はない。

サークルを始めて、8か月が経ったが、何らかの不調を理由に休まれる方が増えた。
話を聞くたびに暗い気分にさせられる。
この時いつも思うことは、「だからこそ参加して欲しい」

私は不調だからこそ太極拳を始めたからだ。

身も心も衰えてしまっては何も出来なくなる。
何も出来なくなると何もしなくなる。
何かすることが面倒になり怖くなる。

ここで考えたいのは、“自分が何のために生まれてきたのか”だ。

人は植物ではない。
移動できる高等な生き物。
マイクロチップで人間の脳を超える情報を記憶をさせたり、雲つくような高層ビルを建てたり、
宇宙にだって行ける。
犬や猿には絶対真似できないことだ。

IT革命時に言われたこと。
「人は仕事のために使う時間が減り、趣味に使う時間が増える」と。
現に私はそうなった。

その趣味が太極拳だ。

インターネットはとても便利だ。
しかしインターネットには大きな副作用があることを知ってほしい。
人間が人間らしくなくなってしまうという恐ろしい副作用だ。

体を動かそう。
しかしいきなり激しい運動は避けたい。
だから太極拳がピッタリなのだ。

太極拳は亀のように歩き、鶴のように舞う。
鶴は千年、亀は万年生きると言われるが、それは迷信にしても、ゆっくり動くことは長寿健康法として数多くの師がそれを証明してくれている。

私が太極拳を愛する理由だ。