2018年4月28日土曜日

バイナリ

この世は全て原子の最小単位、
アップクオークとダウンクオークだけで成り立っている。
木も火も土も金も水もなにもかも全て。

これを陰陽に置き換えると陰陽説に。
二進法(バイナリ)に置き換えるとデジタルに。

つまり現実も仮想現実も最小単位は同じということ。

バイナリは1と0だけの世界。
つまりコンピューターの世界。
有か無か。

これを太極拳に置き換えると、有が実で、無が虚。

太極拳をバイナリで考えてみる。
上を虚とし下を実とする。
つまり頭は無、丹田は有。
気沈丹田。
こうすることで軸が安定し、
動いていても静を得ることができ感覚が鋭くなる。

下がることを虚、出ることを実。
太極拳で技をかける時は虚でいなし、実で発勁する。
逆をいえば、発勁する前は虚でなければ氣を発射することはできない。

打とうと思ったらダメということ。
なにも考えない。
ただ意識を相手の方向に向けるだけ。

因みに虚の状態の時に、パワーを充填して、発射口を開くために抜く。
抜くというのは詰まりを取り除いておくこと。
銃口に物が詰まっていると暴発してしまうが、
そうならないためにも腕の中を空洞にしておく。

ということで、
すべて虚と実、
無と有、
陰と陽、
0と1で考えられる。

コンピューターを操作する時、操作する側は1と0で計算していない。
それを行っているのはコンピューター。
今こうして文字を打ってる時もコンピューターの中では1と0で計算している。

太極拳でも虚実を無意識にできるようになれば達人になれるのだろう。

それにしてもすべてバイナリで処理できるのだとすれば現実と仮想現実の区別を一体どうやって見分ければいいのだろう?

仮にこの世が仮想現実だとすれば、すべて自分が思っていることは思い込みであるということになる。
出来るか否かも思い込み。
病気か否かも思い込み。

出来ると思えば出来、
健康だと思えば瞬時に健康になれるということになる。

2018年4月27日金曜日

太極拳の源流

様々な説があるが、私は楊式太極拳が太極拳の始まりだと思っている。

そもそも太極拳の定義とはなんだろう?
ぱっと浮かぶのはゆっくり奇妙な動きをする武術??
少なくとも私のイメージはそうだった。

あの動きから連想するのは
手品師、霊媒師、占い師、魔法使い、超能力・・

あの神秘的な手の動きからそういうものをイメージしてしまう。
だから最初から太極拳は力任せの技ではなく不思議な技を使うのだろうと思っていた。

では、実戦の時もゆっくり動くのだろうか?
いいえ、実際、技を使う時の太極拳は速い。
他の流派の武術と変わらぬぐらい速い。
あくまでも見た目は。

というのも、技を掛ける側は速いとは思っていない。
なぜなら速く動こうとしていないから。

太極拳の考えかたに捨己従人(しゃきじゅうじん)というのがある。
己を捨て相手に従うという意味。
いわゆる、太極拳の使い手側から速く動くということはない。
もし速い動きになったとしたらそれは相手がそうさせているだけのこと。

相手が動かなければこちらも動かない。
相手がゆっくり動けばこちらもゆっくり動く。
相手が速く動けがこちらも速く動く。
相手が力を使ってくればこちらは勁を使う。
違うのはここだけ。

太極拳が他の流派と圧倒的に違うのは化勁。
決して相手の力とぶつかり合うことはない。

その化勁も幾種類もあり、特に楊式太極拳の化勁は独特。

今まで、陳式、呉式、楊式、武当派の方と手合わせをしたことがあるが、
中でも一番不思議な力を使うのが楊式だった。
そしてやはり楊式に一番興味を抱いてしまう。

因みに演武のカッコよさで言えば陳式が一番だと思う。
剛と柔、緩急をつけた動きが独特でその躍動感ある動きは見る者を惹きつける。

しかし私は楊式に一番魅せられる。
その理由はやはり神秘性だろうか。
演武はあくまでも連綿と動くので陳式のような躍動感はない。
下手をすれば見ていて眠くなってしまうこともしばしば。

しかしそれこそが楊式の狙いでもある。
陳式が見せる太極拳なら楊式は見せない太極拳。
楊式は決して手の内を見せない。

だから演武だけ見ていても決して楊式の凄さは解らない。
というか、解ってしまったらダメなのだ。

今回タイトルを太極拳の源流としたが、
私が勝手に太極拳を定義づけるとしたら「技が見えない、力を使わない拳法」
これに一番当てはまるのが楊式太極拳。

太極拳の五大流派である陳式、楊式、孫式、呉式、武式の中の陳式以外は
すべて楊式から派生した流派。
しかも陳式は本来太極拳とは呼ばず砲捶と呼んでいた。
実際、陳式太極拳の一路は太極拳らしい動きだが
二路に太極拳らしい動きはなく、長拳や南拳、査拳等の動きよりも力強く激しい。
少し真似事をしたことがあるが、とても私の心臓ではついていけない。

結果、私が思う太極拳の源流とは流派ではなく、形のないものだと思っている。

太極拳の源流と言えば、陳式太極拳や伝説の仙人である張三豊と言われることがほとんどだが、仙人が山の中で野獣などから身を守るために陰陽説を元に編み出された技がやがて様々な人に伝わり太極拳へと発展していったと考える。
その中でも最も太極拳を世に広めた人物が楊式太極拳の開祖である楊露禅。

いつから太極拳が太極拳と呼ばれるようになったかは歴史を紐解いても明らかになっていないが、今のところ楊露禅が編み出した拳法が太極拳の始まりだとする説が最も有力とされている。

なにが言いたかったか?

いわゆる、太極拳の源流は形ではないということ。
仮に陳式や楊式の套路だけを覚えたところで、それは源流を覚えたことにはならない。

源流は陰陽思想であり、
それが理解できなければ太極拳を知ったことにはならないし、
私もまだ知ることのできない一人であるということ。

その答えを知る方法は修行あるのみだと思っている。

2018年4月16日月曜日

套路にすべてが詰まっている

套路を漫然と通してる人をみかける。
順番を覚えたら嬉しいし、通すことが楽しいと感じる。

しかし、熟練者の套路を練る姿を見ていると、明らかに何かが違う。
一目でわかるのは目。

その目には目的意識と、内面を見て感じようとする意識を感じる。

套路を通すことが出来るようになったら、そこが大事だと思う。
少なくとも私はそうしている。

今、套路を通している時、「なんのため?」と聞かれてすぐに答えられるだろうか?
おそらく大半の人が「上手くなりたいから」と答えるだろう。
「ではなぜ上手くなりたいのか?」
ここで答えが二つに分かれると思う。

ひとつは人に評価されたいから。
もうひとつは自分の可能性を知りたいから、
と。

私はどちらかと言えば、
どちらも(笑)

しかし、普段鍛錬するのは自分の可能性を知りたいからであり、人に評価されたいからではない。
別に格好つけて言ってるわけではなく、
実際に他人に自分の練習を見られたくない。
だから最近人目のつくようなところで練習しなくなった。

さっきどちらもと答えたが、
自分の可能性に挑戦し、その過程で人から評価されるのは素直に嬉しい。
しかしそれは目的ではなく自分にとって副産物的なもの。

話を戻す。

套路にはすべてが詰まっている。

套路は準備運動であり、
気功体操であり、
立禅であり、
站椿功であり、
気を練る練功であり、
技を練る鍛錬でもある。

私が普段行っている体をほぐすための抜筋骨にしろ、そのまま足も動かせば套路になる。
立禅も同じ。
套路を途中で止めればどこでも立禅になり站椿功になる。
意識することで動きながら気を流すことも出来るし、技のイメージトレーニングにもなる。

もちろん初心者は準備運動からしっかりやったほうがよい。
体が出来てくるまでは十分曲げ伸ばしやほぐしを行う。
冷えた体のままやると筋を痛めたり、関節を痛めたりしてしまう。

しかし10年、15年経ってくるとさすがに体ができてくる。
それに立ち上がりが早くなる。

パソコンに置き換えると、安いパソコンは起動に時間が掛かるがハイスペックモデルならあっという間に起動が完了する。
そんなふうになる。

それに脱力して套路を練れるようになれば套路中に体をほぐしていくこともできる。
もちろん体に過度な負荷をかけないことが鉄則。

ここで大事なことは、
ただ漫然と套路を通すのは順番を忘れないための作業だと思った方がいいということ。
死んだ目のまま套路を通しても套路で得られる恩恵の数パーセントも得られないだろう。

なんのために套路を練るのか?
まず考えよう。

姿勢が崩れないようにするため?
正しい動作ができるようになるため?
力みのない動きができるようになるため?
氣を練るため?
技を練るため?

それによって套路の内容が変わってくる。
それは本人にしかわからない。

目的と対策。
結果を決めてから原因作りをする。

特に最近伸び悩んでいる方は、ここが大事だと言いたい。

2018年4月10日火曜日

筋力禁止

型を練る時、
推手を行う時、
散手を行う時、
自分の中で筋力を使うことを禁止にしている。

力まないよう、
脱力しよう、
ゆるめよう、
そんな甘っちょろいものではダメ。

例えば、煙草を本数を減らす節煙とか、
ダイエット中、なるべく食べる量を減らそうとか、
明らかに症状が出てるのに禁酒でなく減酒とか、
そんな生ぬるいものではなく

筋力絶対禁止!
「禁筋」なのである。

なぜなら筋力に頼っている間は決して太極拳ならではの技法である
聴勁も化勁も発勁も鍛えることができないからである。

「鍛える」と言えば、体の負荷をかけて筋肉を鍛えるイメージが強いかもしれないけど、
私の場合の「鍛える」は脱力と意の力(イメージ力)

イメージする力が、
良い企画を生み出し、
名曲を生み出し、
名作映画となったり、
名画となったり、
美味しい料理となったり、

更には、
天を突くような高層ビルを建てたり、
人工島をつくったり、
音の数倍の速度で飛ぶジェット機、
巨大な空母、
宇宙ロケットまで作り出してしまう。

とにかく
太極拳で無限の力を得ようと思ったら何が何でも絶対
筋力禁止なのである。

だから、私は筋トレを一切しない。
というより、站椿功と套路が太極拳のためのいわば筋トレ。
筋トレと言っても、太極拳で得られる筋力は目には見えてこない。
ムキムキにもならないし、筋張ったりもしない。

私はこれを便宜上、インナーマッスル(内禁、赤筋、遅筋とも呼ぶ)と言ってるが、
実際は物質的なものを超えた、目に見えない筋肉だと考える。

毎日、腹筋と腕畳伏せをし、
何百回と突きの練習をし、
サンドバッグを突きまくるといったトレーニングを一切せず、
ただ、腕をぶらぶらさせて歩いているだけなのに、
拳をひょいと前に突き出しただけで相手の体を貫通するようなパンチが打てるのは一体どういうことだろう?

その突きを行う時にはっきりしてることは「打とう」としていないこと。

これ以上話すと長くなるので今回はこの辺にするが、
とにかく筋力を使うことを禁止にすると、無限のエネルギーを導き出せるように感じるようになる。

今はまだ感じるというだけなので、
これから更に筋力を使わない鍛錬を積んでいこうと思う。

2018年4月6日金曜日

簡化太極拳は難しい

以前、2年程ついて習っていた中国のJ老師が仰るには、
簡化太極拳(24式太極拳)は難しいと仰った。
過去2年ほど簡化太極拳を習っていた私もその通りだと思った。

どこが難しいか?

そもそも套路の組み方が極端過ぎること。

踵脚のすぐ後に下勢が2回も続く。
伝統で育った私から見ると、膝を痛めないだろうか?と心配になってしまう。
この組み方はどう考えても高齢者にはきつい。

それに太極拳は攬雀尾(らんじゃくび)が基本なのに、最初に出てくるのはなぜか野馬分宗(のばぶんそう)。

攬雀尾には太極拳の基本技である8つの勁がすべて含まれ、しかも応用技が豊富。
しかし野馬分宗の技はその逆で、野馬分宗で使う勁そのものが攬雀尾に入っている。
なぜ野馬分宗から始まるのか不可解でならない。
まあ、動きが一番シンプルだからだと思うが。

それに簡化太極拳は細かな要求が多い。
わずか24式で組まれた太極拳なのにそのテキストは大きくずっしり分厚い。
それを正確に出来るようになって何が得られるのだろうか?

武術として少しでも護身に役立つのならいいが、
そもそも簡化太極拳は護身のためにつくられた太極拳ではなく、中国政府がつくった健康体操。

あくまでも私の推測だが、簡化太極拳の初期の頃はもっともっとシンプルだったはず。
動作の説明も簡単で、専門用語も少なく、それこそ誰もがすぐに始められそうな内容だったはず。

それがなぜ今これほどまでに複雑になったか?

人間心理学から見るなら「物足りなかったから」と推測する。

自慢ではないが私は24式太極拳を5日で覚えた。
順番も覚え、一人でできるし、それを先生に見てもらったがダメ出しひとつもらわなかった。
もしかしたら酷過ぎたからかもしれないが・・(苦笑)

いずれも伝統楊式太極拳を練ってきた私にとってはあまりにも簡単過ぎて物足りなかった。
やり終わっても充実感も得られず、体がすっきりするといった効果もなかった。

しかし簡化太極拳を教えている教室はそれを何年も何十年もやるわけだから、
教えることがなくなる。
そこで始まるのが粗さがし。
今までなかった用語や、指導項目がどんどん増え、今やテキストの文字数は爆発寸前。

たまに簡化太極拳を指導されている風景を見ることがあるが、
わずか一言で済むことを、4つも5つも数多くの言葉を並べて指導されている。
そして教えられる側はパニックになる。
現に私がそうだった。

日米を跨いでビジネスしてきた私の経験で言わせてもらうなら、
日本人は簡単なことを複雑にするのが得意な人種。
またその複雑なことをこなせるのも日本人。
日本人は頭がいい。

逆にアメリカ人の頭の構造は日本人のそれとは違う。
常にいかにシンプルに出来るかを考える。
計算をするにしても引き算は使わず足し算だけで計算しようとする。

アメリカ人の頭はシンプルだから行動が早い。
日本人は複雑に考えるから行動が遅い。
アメリカ人は物事をシンプルにとらえるから物を覚えるスピードが異様に早い。
日本人は時間がかかる。
シンプルなことを難しく考えてしまうからだ。

それに、日本語は文字や言葉が膨大にある。
ひらがな50音、カタカナ、無数にある漢字・・
しかし英語はアルファベット26文字だけ。

英語版のパソコンは26文字のアルファベットだけで処理するからワンランク下のスペックのマシンでも驚くほどサクサク軽快に動く。
しかし日本語をぶち込んだマシンはハイスペックマシンでも重く、時間の経過と共に頻繁にフリーズし動かなくなる。

マシンに置き換えても解る通り、
日本人は簡単なものを難しくする天才なんだ。
それが日本の技術力に繋がっているのだろう。

しかし簡単な簡化太極拳まで難しくしてはいけないと思う。
習う側としても常に新しい要求をされ、いつまでたっても気持ちの良い太極拳になっていかない。

伝統太極拳にテキストはない。
ただただ師の動きを見て盗めというスタイル。
人間の動きやその場の雰囲気や温度、空気、言葉に出来ないことは山ほどある。

ライブに行けばぶっとぶほど興奮するのに、
同じ曲をCDで聞いてもライブほどは興奮しない。

太極拳は文字で学ぶものではないと思う。
大切なのは感覚。

難しくするのは自由だが、ここで考えてみて欲しい。
本来の太極拳の目的意識から遠ざかってないかと。

気持ちいいと感じなければ心はゆるまない。
心がゆるまなければ体もゆるまない。
体が硬くなれば、気血のめぐりが悪くなり病気を引き起こす。

簡化太極拳が難化太極拳になってきている。
正しさを求めるあまり人間の心を置き去りにしていないだろうか?

太極拳は精巧なマシンをつくるのとは違う。
気持ちいいと感じる太極拳にするためには本来のシンプルな姿に戻すことが大事だと思う。

2018年4月2日月曜日

可視光線と不可視光線

可視光線とは目に見える光。
不可視光線とは目に見えない光。
すなわち赤外線や紫外線。

光は電磁波でもあるわけだが、
電磁波は目に見えない。

人間で言うと、肉体が可視部分。
その周りを取り囲むのが氣(エーテル体)が不可視部分。
目に見えない。

裸の王様ではないが、あると思えば氣が集まり、
ないと思えば氣は集まらない。
裸の王様は実は裸ではなかったということ。

又、氣の体の部分が1メートル以上ある人もいれば
まったく氣がない人もいると言う。
病気の人であったり、精神的に病んでいる人もそれに入る。
当然、氣の存在を否定すれば氣は集まらない。

つまり人間は光と同じで、可視部分(肉体)と不可視部分(氣の体)から成ると言うこと。
また、氣は電磁波とも考えられている。

今は、特殊な装置を使って氣を測定することができる。
そして、オーラの部分と氣の体の部分も一致しているということも解っている。

私の師はその氣の部分で化勁を使われる。
手を触れていないのに操られてしまう。
氣でいなし、氣で打つ。

こんな魔法のような技が使えたらどんなにいいだろうと、
魔法世代の私らにとってはとてもおいしい話。

今は暇さえあれば氣の力を増大させる鍛錬を行っているが
どこまでパワーを引き出せるか楽しみだ。