2018年3月27日火曜日

1/4歩崩拳

形意拳は五行説からなる五行拳と、
12の動物の形を真似た十二形拳があるが、
一番好きなのは崩拳。

崩拳には防御がなく、ただ拳で打つのみというシンプルさに魅力を感じる。
防御がないということは打たれる前に打たなければならない。
一瞬でも判断が遅れると命取りになる。

最初はそのことに不安に感じたが、
今ではそのことが男心をくすぐられる。

私が崩拳を指導する時、
三つのことを特に重視するよう伝える。

一つは拳の形。
二つ目に脱力。
そして三つ目にタイミング。

崩拳は力一杯打とうとすればするほど、パワーが衰える。
それも当然。
熟練した空手家やボクサーのように徹底的に鍛えぬいた腕から突きだされる拳と異なり、
こちらは突きの練習なんか一切していない。
力を使って打とうとしたら、へなちょこパンチになるのは目に見えてる。

だから力を使わない。
その逆。
脱力する。
打たずに、スっと拳を前に進めるだけ。

子供の頃、殴る時はコインを握って打つとパワーが増すと友達から教わったが、
恐らく何かを握ることによって握る力が強くなるのだろう。

ところがこれまた形意拳では逆。
しっかり握らない。

拳の形を指導する時は、少しでも違ったらすぐさま直す。
崩拳の拳は絶対重要。
恐らく、何も考えないで握った拳より数倍から十倍以上は威力が増すと思う。

タイミングも大事。
拳に自分の体重とパワーのすべてを注ぎ込む。
体重が60㎏なら質量60㎏の拳になり、
エネルギーを注ぎ込めば、そのパワーは体の表面を貫き背中を貫通する。

なんだか恐ろしい話だが、
崩拳の達人である郭雲深は、敵の正面を打てば背中の骨が折れ、更には壁をぶち抜いたこともあるとか。
他にも崩拳の達人である尚雲祥に関しては寝ているところ窓から侵入した敵に腹を踏まれ、その弾みで跳ね返され窓の外に放り出されたという。
達人ともなれば寝ていても強いんだと(笑)

それはともかく、
昨夜も弟子相手にミット打ちを行ったが、
私が打つ、崩拳や鑚拳は半歩も進まない。
半歩の更に半歩。
10㎝ぐらいだろうか?
つまり1/4歩で、ミット越しと言えど、背中まで貫通する崩拳となるらしい。
弟子曰くその日はずっと背中が痛かったらしい。

いずれもどんなにパワーが上がってきても、
結局相手が打つ前にそれを察知し、素早く打ち込まねばならない。
これに関しては太極拳で聴勁を鍛えたほうが良さそうだ。

これからも様々な実験を繰り返しながら鍛錬を積んで行きたいと思う。

2018年3月23日金曜日

カタチからの脱却

先日弟子に尋ねた。
「最近、私の演武、下手になってないか?」と。
その答えは、全くそんなことはないとのことだった。

なぜこんな質問をしたか?
理由は二つ。

一つは、最近、全くカタチを気にしなくなったから。
もう一つは、指導する上である程度の演武力は必要だと思ってるから。

私は14年目にしてようやくカタチの世界から抜け出すことが出来た。
最初はなんでもカッコから入り、先生の真似から始める。

「先生のように柔らかくカッコよく演武できるようになりたい」
そう思って、先生の後姿を追いかけてきた。

演武力を身につけるため、積極的に演武会や大会、試合など片っ端から出た。
演武力をつけるには人前で演武するのが一番だと思ったから。
確かにそれでそこそこの演武力はついた。
人から良い評価をもらうことも増えた。

しかし、私は太極拳の演武力を身につけるために始めたのではない。
それはあくまでも手段であり、目的ではなかった。

とはいうものの多くの人から注目を浴び、良い評価を頂き、
それによって全く気持ちが浮ついていなかったかと言うと嘘になる。

その浮つきかけていた自分を真正面からぶった斬ってくれたのが我が恩師。
久しぶりに拝見した師が套路を練る姿は、大会等で見るソレとは全くことなる異次元の世界だった。

己を意のままに操り、
空間を操り、
その力を使って見えない敵と闘っているように見えた。
もう、本当に例えようのないほどの衝撃だった。

それは感動ではなくショックだった。
その日の帰りの新幹線で私はとめどもなく落ち込んだ。

目的を見失うことはなかっただろうが、
師は遠回りしそうな自分を本来の目的へと引き戻してくださった。

確かにのんびりはしてられない。
40から始めた太極拳。
人前で行う太極拳にばかり力を入れていたら、内功に専念する時間はどんどん減って行く。

そして今、ようやく腰を据えて内功重視の鍛錬ができるようになった。
站椿功を行っている時、
套路を練っている時、
見ているのは鏡ではなく内面。

どこから入れて、
どこから出すか。
入力と出力。
浄化と増幅。

推手をしている時も、相手ではなく相手の内面を見るようになって、自分の推手が変わった。
かつての自分はテクニックで相手を崩そうとしていた。
しかし今は違う。

「どう崩すか?」ではなく、
「崩した」という未来に戻るという感じだろうか。
現在から未来ではなく、
未来に戻るための現在。

とはいうものの、熟練者相手にはそんなことを思う余裕はない。
ただただ学ばせて頂きたいと思うだけ。
私の今の力は単に過去の自分よりも少し腕が上がったというだけで、
今の自分とは比べ物にならないほど大きな力を持っている先輩や師は大勢おられる。

話は戻って、
いずれも鏡を見なくなったことで、
見た目を捨てた自分は今無様な演武になっているのではないかという、
ちょっとした不安が過ったということ。

そんなわけで昨日の稽古風景を動画に撮ったので先程それを観たが
私の演武はなにもかわってなかった。
いわゆる演武力が落ちたということではなくという意味で。

実際はかなり変わった。
それを自分で言うのもおこがましいので割愛するが、
ようやく「内外相合」と「動中求静」の意味が少し解ってきたかな?ということ。

このどちらも文字としては理解できるが、
本当にこの意味が理解できるのには長い長い時間がかかるのだろう。

解ったとは言い切れないが、
解りかけたような気がするまでに15年かかった。

これからまたどんな発見が出来るのか楽しみだ。

2018年3月20日火曜日

双辺太極拳の未来

双辺太極拳は99式からならなる太極拳。

歩型は最初から最後まで形意拳や八卦掌の歩型である中定歩(前4後6の比率)なので
架式は高く、その分どうしても地味に見えてしまう。

しかし、この太極拳には形意拳の凄まじい破壊力と、八卦掌の禽拿法や俊敏性、それに太極拳の化勁をうまく融合させ、とことん戦闘能力を追求したまさに闘うために生まれた太極拳。

見た目そう見えないのが面白い。

双辺太極拳は台湾ではかなり盛んで、短くまとめた競技用套路もあり、それで競技も行われいている。
競技用套路は確かに美しい。
荒々しい双辺太極拳を美化するとここまで美しくなるのかというほど。

しかしその動きを見ると戦うための要素がほとんど消されてしまっている。
それはまるで戦車から砲台や機銃を全て取り外し、高級車のごとく美しい光沢塗装に塗り替えたようなイメージだろうか。
美しいが実に弱弱しい。

双辺太極拳は踊るためにつくられた太極拳ではない。
大切な家族を武装した敵から守るためにつくられた内家拳を総動員した太極拳。

太極拳から套路だけを抜粋しそれを美化し舞踊にするのは、それはそれでアリなんだろうが、
少しばかりでも技を知っている私から見るとなんともったいないことをしているのかと思ってしまう。

それにその技を使えるようにするため、たっぷり站椿功を行い、じっくり套路を練り、推手、散手で実践的に使えるように鍛錬して行く。
技に磨きをかけるための鍛錬こそが武術で最も大事な部分であり、だからこそ優れた技は舞踊を遥かに凌ぐほど美しい。(と私は感じている)

しかし美しく見せようとする練習法の実際はストレッチと筋トレ主体。
これは内家拳の鍛錬法ではなく、踊りのためのいわば準備運動。

今後太極拳は武術として発展していくのだろうか?
それとも舞踊として広まり親しまれていくのだろうか?

創始者の気持ちを考えると、複雑な気持ちになるし、
少なくとも私は武術として伝えていきたいと思っている。

なぜなら強くなることは美しくなることだから。

2018年3月19日月曜日

太極拳と太極舞

これらが比較されることがあるらしいが
ここでハッキリと述べておく。
これらは全く別物。

太極舞は中国拳法を真似てつくった、いわゆるフィットネスダンス。

身法や歩法、氣の巡らせ方など
太極拳に要求される厳しい技術的な要素は全くなく、
太極拳の名を借りた、いわゆる誰もが気軽にできる体操である。

その動きに武術として緻密に計算された動作はなく、
武術的健康効果も知られていない。

又、太極舞はまだ数年しか歴史がなく、
太極拳は中国が元の時代、即ち約700年前に創始されたとされている。
何十世代にも渡って多くの名士によって磨かれ練り上げられてきた高級武術なのである。

誤解しないで欲しい。
太極舞を否定しているのではない。
フィットネスとして体を動かすことを楽しみたい人にはいいだろうし、
全身を動かすことによる健康効果も得られるだろう。

私が伝えたいことは比較してはいけないということ。

太極拳は人間を超越した仙人が作り出した氣功を取り入れた極めて精巧な中国武術。
それによって得られる恩恵は健康効果だけに留まらず、禅としての悟りを得たり、超人的な力を身につけることも可能な行なのである。

そもそも「太極」とは陰陽思想による宇宙の根源を意味する言葉。
その意味は非常に奥深く、安易に使用すべきでないと私は考える。

体は動かすことは良いこと。
だが、太極拳はスポーツでもなければ体操でもダンスでもない。
数多くの恩恵が得られる禅であり、
誰もが手に入れたいもののすべてが太極拳の中にあると私は考える。

*****

追記:
なぜ今回このような記事を書いたかと言うと、
実は私自身も太極舞が創始される以前(2006年頃)に太極拳を普及させるための一つの方法として、誰もが気軽に楽しめるよう太極拳にファッション性を取り入れたフィットネスダンスにしたら流行るのではないかと考えたからである。
その時に私が考えたネーミングが「タイチーダンス」
いわゆる太極舞。
良いアイデアだと思ったが、今では太極拳だけに専念してきて良かったと思っている。

2018年3月14日水曜日

刀と包丁

刀と剣の指導で苦戦している。

手本を見せても、
ゆっくり見せても、
わかりやすく説明しても
なかなか伝わらない。

無論その場ですぐに出来ることではない。
しかし、毎日欠かさず練習すればできるようになる。
少なくとも私は毎日欠かさず武器の基本功を行ってきた。

棍も同じ。
必ず基本功をたっぷり行ってから套路の練習をしてきた。

はじめて刀を持つと、刀に振り回される。
ただただ刀を振り回すだけになる。
それは刀を持つことに意識が行ってしまっているから。

私も最初は腕力で刀や剣を振っていた。
そうでなくなるようになるには、やはり毎日の練習だった。

刀は包丁と同じ。
切るもの。

包丁で食材を切る時、どこに意識が行ってるだろう?
恐らく切る部分だと思う。
よそ見なんかしながら切ったら指を切る羽目になる。

しかし、刀になると、平気でよそ見しながら振り回してしまう。

刀や剣は刃物であるということをまず念頭に入れる。
そして空気を斬っていく。

或いは箸ならどうか?

箸の持つ部分を意識してご飯を食べる人はいないだろう。
箸でものをつまむ時は必ず箸の先端を見ているはず。
それに箸を持っているという感覚すらないのでは?
箸が体の一部になっているはず。

なぜか?

毎日箸を使うからだ。

刀や剣も同じ。
毎日箸でごはんを食べるように、
毎日刀や剣を持って空気を斬ったり突いたりして練習する。

刀や剣がごはんと同じぐらい好きになれば嫌でも上達するということ。

クオークと陰陽

太極拳を量子力学で考えると様々な発見がある。

特に最近気がついたのは万物の最小単位であるクオークそのものが太極拳で言われる陰陽そのものであるということ。

人間はなにでできているだろう?
ほとんどの人がタンパク質と答えるのではないだろうか?

しかしそれより多いのが水。
人間の体の約30%がタンパク質で約60%が水でできている。
つまりタンパク質に水を入れてこねれば人間ができるということ。

私はこのことをいつも栄養学で語ってきた。
だから、食べ物を選ぶ時は、お水とタンパク質に拘りなさいと。
汚水と質の悪いタンパク質ばかり食べていると、質の悪い人間ができることは容易にわかる。
なぜなら人間は代謝によっておよそ200日で生まれ変わっているのだから。

今なんらかの病気や症状を抱えている人は水とタンパク質を変えればすべて治るということ。

さて、量子論で考える太極拳。
その人間のほとんどが水でできている。
その水は水素と酸素でできている。
更にその酸素は原子核と電子から成り立っている。
太陽の周りを回る地球のように、原子核の周りを電子が回っている。
その原子核と電子の距離は、おおよそにして原子核が1㎜としたら電子までの距離は50mと言われる。
つまりスカスカだということ。

更にその原子核。
これは陽子と中性子からなる。
これが最小単位かと思えばそうではない。
まだある。
その陽子も中性子もいくつかのクオークからなりたっている。
つまり今解明されている最小単位はクオークだということ。

このクオークにもアップクオークとダウンクオークがある。

ここで思い出してみよう。
万物は全て陰陽からなるという東洋思想。
それがそのままこのクオークに当てはまってしまうのだ。

タンパク質と水からなる人間だけでなく、木も火も土も金もすべての最小単位はアップクオークとダウンクオーク。
つまり陰陽で成り立っているということ。

なんとすごいことだろう。
古くから伝わる東洋思想である陰陽説は最新科学である量子論によって解かれたということ。

今目に見えている物質は形あるものだと誰もが思っているだろう。
しかし、それは宇宙の始まりといわれるビッグバン以前(インフレーションの前)の小さな小さな目に見えない程の陰と楊のクオークから始まった。
そして地球にあるものすべても宇宙もすべてクオークで成り立っている。

実は物質を象っているのはクオークでありエネルギーであるということ。
言いかえると仮想現実となにも変わらない世界であるということ。

太極拳で極限まで体をゆるめるとなにが起こるか?

体がまるで煙のように空間の中に溶けていく感覚を得る。
そして氣のパワーが集まると光になる感覚。
恐怖のない幸福感だけの感覚。

これらすべて量子論と陰陽説で辻褄が合ってくる。

「できる」とか「できない」とか言うのは自分の思い込みでしかない。
なぜなら人間皆だれもが宇宙と同じクオークで成り立っている。

なのになぜ実力の差がでるのか?

それはエネルギーレベル。
私の経験では、回ってる感覚。
体の中で何かがぐるぐる回っている。
その正体が今でこそ電子であるということが解る。

つまり、その回る力でその差が出るのではないかと考える。

太極拳の功夫(実力)を上げることは、自分の存在も宇宙も全て知るということにつながる。
気功や太極拳、ヨガが今もてはやされるのは、今まさにこういう時期に来ているからなんだ。

どうだろう?
今執筆している自分もこのことに気付いた今、興奮と感動とともに人間の可能性が無限大であると感じざるを得ない。


2018年3月13日火曜日

内家三拳

私が頻繁に使っている施設では利用する前に利用者名簿に名前と種目を書くのだが、
その種目でいつも困る。

その日によって練習内容が変わるからだ。
太極拳だけの時は太極拳とだけ書けばいいが、形意拳や八卦掌をやることもある。
だからまとめて内家拳と書いている。

私が形意拳をやり始めてから数年経った頃、八卦掌はやらなくてもいいかなと思っていた。
太極拳と形意拳だけでも一杯一杯なのに、八卦掌まで入る余地がないと思っていたし、
くるくると舞って踊っているかのようにみえる八卦掌にあまり魅力を感じなかった。(感じた時期もあるが)

そんな私が八卦掌をやり始めたのはやはり師の影響が強い。
師がされることは全てカッコいい。
だからやりたくなる。
実に単純な理由(笑)

そして今、この内家三拳をやっていて良かったと思える場面がある。
それは自由推手や組手などの時。

太極拳は相手の力を無効化するのに有効。
相手にとっては、打てでも打てども空を打つことになり、それを返されてしまう。
しかし、ノーモーションで発勁されると聴勁や化勁が間に合わない。
(単に私のレベルがまだまだ未熟なだけだが)

その時に八卦掌の歩法が役立つ。
八卦掌は相手をかく乱させ、隙をなくすことに役立つ。
相手に打つ機会を失わせ、歩きながら突いたり倒したり・・
しかし、大きな破壊力に欠けるように思う。
(これもまた私が未熟だからだが)

形意拳は圧倒的な破壊力がある。
相手が打って来ると同時に飛び込むようにして打ち込む。
カウンターになるわけだが、そこに跟歩が入るから、相手が受ける衝撃は相当なものだと思う。
しかし形意拳もまた護身武術。
静止した状態で相手の出方を待つ。
いわゆる聴勁が遅れると自分がやられてしまう。

結局、内家三拳をやっておくことはとても便利だということに気付いた。

双辺太極拳はこの内家三拳すべての技をまとめてあるが、改めてこの太極拳が実に実戦的であるかがわかる。

とまあ、こんなことを考えていても一生使う場面はないのだが、
戦術を練ることは練習のひとつだと私は思っている。
それをモチベーションに稽古に励むことが出来るし、身の詰まった練習をすることができる。

それにより体も心も鍛えられ、病気しない丈夫な体をつくることができる。

またもや前回と同じ締めになってしまうが、
内家拳は健康法として最高だと思う。

2018年3月12日月曜日

定式ではない

最近私は演武をしなくなった。
音楽に合わせて太極拳を演武するのが楽しかった時代が終わったという感じだろうか。

今の自分の套路には規則的なリズムがない。
だから曲に合わない。

今のリズムは「採-引-渡-戻-増-圧-発」という流れで套路を練っている。
原理的にはターボジェットエンジンと似ているように思う。

そもそも太極拳は護身武術。
相手が打ってこなければ技を使うことはないし、
そもそも技が使えない。
だから推手で相手が打ってくることに対して慣れる必要がある。
恐れていてはいつまでたっても太極拳の技を身につけることはできない。

太極拳は相手の力を効率よく取り込みそしてそれを相手に返す。
その時に増幅することをする。
その増幅の方法こそ「地球の力を使う」ということになる。

相手からみれば、戦っているのは人間ではなく、
人間に見える地球ということになる。

なんだかややこしい話になってしまったが・・

今回話したかったことは、太極拳は定式ではないということ。
定式の部分だけをとれば、それは太極拳でなくとも、どんな武術や格闘技でも同じ。
いわゆる発する部分だから。
力いっぱい打てばいい。

そうではなく、その発するための方法が他の武術と違う。
その力をどうやって生み出すか?

私がこれまで師から学びながら研究しみつけた現段階の答えが、
相手の力をもらって、天地の力で増幅し、それを相手に返す。
その際に筋力は必要としない。

普段、私は自分の持ってる力を出すことは絶対しないが、
その力を生み出すための行いそのものが健康レベルを異常な程まで上げることができる。

全速で走っている学生達と並んで走ることが出来、
駅の階段も一段跳びでポンポン駆け上がり、駆け降りる。

普段ウォーキングやランニングもしないし、そもそも根っからの運動音痴。
学生時代、かけっこはのろまでいつもびりっけつだった。
そんな私が50代半ばにきて、確実にパワーが上がってきている。
風邪をひいて寝込むこともない。

太極拳の套路練習で大事なことは定式ではないんだ。
定式で発するために体の中で何を起こすかが大事。
私の場合、定式に行くまでの体の中は大忙しの状態になっている。

宇宙戦艦ヤマトが波動砲を打つ前、
機関室が大忙しとなるがアレと似ている。

その動きは明らかに演武ではなく、
発射するための準備をしているという感じ。

繰り返すようだが、これによって健康レベルが格段上がる。
そもそもパワーがなければ発射することはできない。
発勁の威力を高めようとする行いは体にイイということになる。

私が今、太極拳を通して一番伝えたいことである。

2018年3月9日金曜日

太極拳依存症

太極拳をやっているからと言って、他のことが疎かになっていないだろうか?

私は前職で美容健康関係の食品等を扱っていた。
ダイエットも私の専門分野だった。

そして、私の指示通りに実践して驚くほどスリムになった人もいれば
私の指示を完全無視して全く効果が得られなかったり逆効果になった人もいる。
そして、そういう人に限って私に文句をつけてくる。

それにしても、何故成功する人と失敗する人がいるのだろう?
理由は簡単。

例えばダイエットサプリ。
そのサプリがどんなに良いものでも、それに依存してしまったらおしまい。
いわゆるサプリ飲んでるから大丈夫と安心しきって、暴飲暴食をしてしまう。
そして逆太り。
これでは本末転倒。

太極拳もしかり。

太極拳やってるから多少お酒を飲み過ぎてもいいだろう。
太極拳やってるから多少の喫煙はいいだろう。
太極拳やってるから普段歩かなくてもいいだろう。
太極拳やってるから食べ過ぎてもいいだろう。
太極拳やってるから夜更かししてもいいだろう。

これ太極拳依存症なり。

よく考えてみて欲しい。
そもそも健康になりたくて始めた太極拳ではなかったのか?

依存してしまったら終わりということは、
誰もが今まで散々経験してきていると思う。
だから依存しそうな自分がいたら、自分に対して注意すべき。

誰かが言ってくれるだろう。
いいえ。
誰も言いません。
今は昔みたいに注意する人も減っている。
家族にしても。
誰も最初から相手が嫌がることなんか言いたくない。

こう考えて欲しい。

太極拳やってるからお酒を減らそう。
太極拳やってるから禁煙しよう。
太極拳やってるから引きこもってないで出歩こう。
太極拳やってるから食べ過ぎに注意しよう。
太極拳やってるから生活を正そう。

そう思って欲しい。
そうでなければ意味がない。

私はかつて喫煙者だった。
しかしある日からキッパリやめることができた。
そもそもやめようと思うからやめられない。

というか煙草というのはやめられないように作ってある。
中毒するようにニコチンの他に薬品をたっぷり仕込んである。
その薬品は厄介なことに発がん物質がほとんど。

おまけに最近の煙草は放射性物質まで含んでるから始末が悪い。
(知らない人はネットで調べてみるといい)
吸えば吸うほど内部被ばくする。
そして災難なことに周りにいる非喫煙者も被ばくする。
その場で吸っていなくてもだ。

吸い終わるとまた吸いたくなる。
すると誰からすすめられることなく煙草を買いに行きまた吸う。
だから煙草は儲かる。
中毒患者にすることでそれを売ってる人が大儲けできるのはアヘン戦争で十分学んでいるはず。

喫煙者は自分が騙されているということに気付いて欲しい。

ところで私は煙草をどうやってやめたか?
それは煙草を吸う代わりのことをみつけた。
それがヨガだった。

なぜヨガか?
私は子供の頃から体が硬かった。
だからヨガは私にとって苦痛。
煙草の禁断症状が出てきた時に、苦痛なヨガをやるとその痛みで吸いたい気持ちを忘れてしまうというわけ。

それに呼吸法も取り入れた。
煙草を吸うのはあのくらくらする感覚が欲しいから吸うのであって、
それは別に煙草でなくとも同じような感覚は得られる。
これもヨガの呼吸法。

空気を思いっきり吸う。
止める。
更に吸う。
止める。
更に吸う。
止める。
しばらくそのまま。

どうだろう?
くらくらしないだろうか?

煙草はずっと吸い続けるとくらくらしなくなる。
しかしこの呼吸法は何度でもくらくらを得ることができる。

習慣を変えるにはちょっとした勇気と工夫が必要。
太極拳をはじめたことで、今までの悪い習慣を変えようと努力して欲しいと思う。

なぜ見る?

定式(技が決まった瞬間)で手を見るのはなんとなくわかる。
しかし、過渡式(技に至るまでの動作)で手を見るのは何故だろう?と思ったことはないだろうか。

私は幼いころから丸暗記が苦手だった。
理由が解らなければ覚える気になれないし、
逆に理由が解れば覚えようとしなくとも覚える。

だから「手を見なさい」と言われても「なぜ?」という疑問が起きる。

しかし具体的に手を見る意味を教えてもらったこともなければ、
そのようなことが書かれた文献にも出会ったことがない。
(探せばあるのだろうが)

巷に溢れいてる太極拳本は動作のことしか書かれていない。
無敵!と書かれたタイトルに惹かれ買ってみたら、
無敵になる方法なんてどこにも書かれておらず動作の説明ばかりで面食らったこともある。

まあ、そんなことはどうでもよく
私は指導の際、何故見るかは「氣を集めるため」だと説明している。

氣というのは意識したところに集まる。
更に早く集めようと思えば見ればいい。
その部分を見れば嫌でもその部分を意識せずを得なくなる。

いわゆる見ることによって氣を集めているのではなく
見ることによって意識せざるを得なくなり、それによって氣が集まるということになる。

「意あるところに氣あり」だ。

実際に見れば氣が集まり、
私の場合はその部分がすぐにピリピリし、磁力のようなものを感じる。

氣のないところに勁(筋力ではない力)は出ない。

手眼相合(しゅがんそうごう)
は氣を集めるための手段であるということ。