2014年12月20日土曜日

スイッチング

いつも思ってることは、
武術性も追求していきたいと思う傍らで表演にも力を入れていきたいと。
理由は単純に太極拳は美しいと思うから。

だからといって、表演だけに専念しようとも思わない。
私が初めて体験した太極拳はその意外な強さに惹かれたから。

ところで、套路を練る上での気構えというか心構えと言うか、
目的に応じて全く異なる。
当然それは演武にも表れる。

試合の為
表演の為
瞑想する為
気を練る為
鍛錬の為
技の習得の為
基本動作の模範を見せる為
等々。

もしここに検定は入ればそれもまた違うものになる。

因みに試合と表演も違う。
試合は審査対象となる演武をしなくてはならない。
時間の制約や、制定された形式や動作。これらを踏まえて演武しなくてはいけない。

一方、表演は芸術性をテーマに細かな制約なしに自由に演武できる。
この套路は鍛錬のためでもなく気を練るためでもなく、魅せることで人に感動を与えるのが目的になる。

瞑想に入るためや気を練るための演武は制約を忘れ、放鬆を重視した演武となる。
見せることを目的としないので、見た目の演武は美しいというより気持ちよさそうに見えると思う。

鍛錬のための演武は、極めてゆっくり行う。
足腰を鍛え、軸感覚を養い、武術性を高めるための基礎をつくりあげる。
流れが一定しないのであくまでも自分の鍛錬のための演武となる。
決して見ていて楽しいものではないと思う。(無論本人は楽しい)
身体がつくられていく喜びがある。

技の習得のための演武は、技が技でなければならない。
だから、実戦性の高い練功法となる。
イメトレを伴うので本人は楽しいが、動きはゆっくりでも荒々しいものになる。

そして基本動作の模範。
実はこれが一番つらい。(笑)
合同練習での動きを合わせるため基本動作を踏まえ正しく動くことが重要になる。
己を捨て徹底的に基本を全うしなければならない。

つらいと言ってもこれはとても大事。
教える立場として適当な演武をしていては滅茶苦茶になってしまうし、動作を正確に覚えることは後にそれはすべての目的の演武につながるからだ。

当会では、何かに偏ることなく、芸術性も武術性も健身性も重視し、どのような目的でも、どのような場面でも対応できる太極拳を行くことをテーマにしている。

いずれも、同じ套路を練るにしても目的に応じて内外共に全く異なる演武になるということ。
そのためのスイッチングはとても重要だ。

2014年12月18日木曜日

講師として

自分が素晴らしいと思った太極拳を地元と人々と共感したくて去年の4月にサークルを立ち上げた。
その太極拳は強く美しい。

今までの常識からすれば美しいものは弱く、強いものは無骨だと思っていた。
その常識を覆してくれたのが楊式太極拳。

楊式太極拳では最初から最後まで同じリズムでゆっくりと動くから体の内面に耳を傾けやすく瞑想状態に入りやすい。
とにかくとても心地良い。

この気持ち良さを一人でも多くの人と共感し合いたいと思った。

それから私の人生は学ぶだけの太極拳から教える太極拳へと変わっていった。

全くの初心者に太極拳を教える時、自分が最初どうだったかということを振り返る。
正直な感想は「思っていたより難しい」だった。
今先生に教わったばかりなのに、それができない。
思い出そうと必死にもがいていると、先生がそれでいいんだと笑顔で仰った。

てっきり自分だけが出来ないと弱り果てていたのだが、先生の笑顔をみて、ちょっと安心した。

後でわかったことだが、
思い出せないことより思い出そうと努力することこそが修行なのだと思った。
確かに普段使わない頭を使う感覚があった。

ところで、何故このタイトルでブログを書き始めたか?
それは、私が教えている会員さんたちの上達があまりにも凄いからだ。
他の教室のことはわからないが、少なくとも私の上達より明らかに早い。

一日も早く太極拳の本当の気持ち良さを知ってもらいたいという気持ちがあるから、ついつい指導に熱が入る。

ここで不安がよぎる。
超えられるのではないか?と。

私はそれでもいいと思っている。
よりいっそう修行に励めばいいだけのことだから。
これこそが自分が理想とする師弟関係だと思っている。

先日も個人レッスンである会員さんの演武を見ていて、あまりの上達ぶりに惚れ惚れとしてしまった。
しかし私は立場上、修正すべき点を指摘しなければならない。

私は少しでも上達したらまずそれを評価する。
それは意識的なものではなく、私自身人を認めることが好きだし、努力する人が好きだから。
指摘するのはその後。

講師としての心得。
教えることばかりに徹するのではなく上達したことをその場で評価すること。
少しでも早く上達してもらうため心を込めて指導すること。
超えられることを恐れず更に自分自身努力すること。
それはつまり「教えること=学ぶこと」である。

2014年12月12日金曜日

動いてから考える

先日、Mさんの個人レッスンにおいて本番に向け駅前で演武を行った。
最初から一人では心細いだろうと、まずは一緒に演武した。
現場に到着してから、演武開始までの時間は多分5分ぐらいだったろうか?

ビデオカメラのセッティングに時間が掛かってしまったので少々もたついたが、
それがなければ1分かからず始められたと思う。

いずれも駅前なので練習と言えど、いわばストリートパフォーマンス。

ストリートでの鉄則。
躊躇してはいけないということ。

モジモジしていてはいつまでたっても始められないし、内にこもったしょぼい演武になってしまう。

ストリートでなにが得られるか?
それは間違いなく度胸。
メンタルが鍛えあげられる。
ストリート上がりのアーティストは逆境に強い。

いずれも勢いが大切ということ。
考えないで始める。
考えるのは終わってからでいい。

演武にしても、考えながら動くと丹田がオフになった状態になってしまう。
演武は脳で動くのではなく丹田から動くのだから。
丹田から動いた演武は強く美しい。
しかもそれを見た目で真似ることはできない。

そもそも武術は理論から始まったのではなく、実戦から始まった。
動くことによって知識と知恵がつき、そして理論ができあがった。
武術本ばかり読んでいてもとても上達するとは思えない。

套路も推手も散手も考えながら動こうとすると、どこかぎこちなくなる。
なんでもいいからまずはやってみることだ。

話は戻るが、次はMさん一人で演武するよう伝えた。
一瞬焦った様子だったが、ほとんど躊躇することなく始め、最後まで堂々とした演武を行った。
とても素晴らしかった。

私が評価したいのは演武中はもちろん、躊躇せずに始めたこと。
勇気のいることだ。
いつもとは明らかに目つきが違ったし、凛とした気が出ていた。

考えずに始めればあとは自分を信じるしかない。
きっとMさんは自分を信じて演武していたのだと思う。

2014年12月8日月曜日

形意拳は本当に内家拳?

今日は徹底的に形意拳を練った。
とても気持ち良く、長時間練習することできた。

今日の試みとしては、出来る限り緩んで打ってみた。
いや。実際は打ったというより手を前に差しのべただけ。

打とうとすること自体力みが生じているわけで、
そうすると経絡が詰まり勁が通らなくなってしまう。

とにかく、ゆるゆるで打つ。
そして跟歩(こんぽ)で十分体重を落とす。
勁力は筋力をはるかに超える絶大なパワーがあるという。

もうひとつの私の中でのタブー。
それは息を切らすこと。

五行拳を始めたばかりの頃、足腰に響き、すぐに疲れてしまっていた。
疲れると集中力がなくなってしまうし、気力も落ちてしまう。

が、今では当時ほど疲れることはない。
やはり無駄な力を使っていたのだろう。
太極拳もそうだが、形意拳も力みが抜けるのに何年もかかるということだ。

私が初めて形意拳を見た時は、とても内家拳とは思えなかった。
どう見ても空手のような動き。

しかし、前述したように無駄な力を一切省き、内面に耳を傾けると体内に静かなパワーが潜んでいることに気づかされる。

いやぁ、今日は実に気持ち良かった。
太極拳もやればやるほど楽しくなるが形意拳も同じ。
ガンガン打つのではなく、じっくりと吟味しながら練る。
明日もこの感じで行こう。

2014年12月3日水曜日

タバコとアルコール

タバコとアルコール。
二つとも確実に老化を促進させ、寿命を縮めるもの。
あえて私が語らなくとも誰もが認識してることだと思う。

タバコが恐ろしいのはその添加物。
化学薬品だらけ。
不快な臭いの原因は殺虫剤。
オマケに中毒症状を増強させる薬品まで含まれている。

体内のビタミンCをどんどん破壊し、免疫力を下げ、癌化を促進させる。
肌は荒れ、ハリを失いシワも増える。

アルコールも寿命を縮める。
肝臓にダメージを与え、
肝臓の解毒処理がピークを超えると、毒素(アセトアルデヒド)が体中にまわり、
厄介な頭痛を引き起こしたり、持病をも悪化させる。

食道や胃の粘膜を破壊し、消化機能に打撃を与える。
ビタミンBが欠乏するので体がだるくなったり、ヤル気がでなくなったりするのはそのため。

私はどちらもやらないからこう言ってるのではなく、
どちらもやってひどい目に遭ったからこそ、その恐ろしさを知っている。

そもそも、なんのために太極拳を始めたんだろう?
私は在宅ビジネスを始めてから体がどんどん弱り、危機感を感じたからだ。

体を一から作り直すつもりで始めた。
体の中の毒素を全部出し切りたいとも思った。
それが後にデトックスと言われるように。

気功がおもしろいのは、体を動かさないのにイメージ力で毒素を排出することができること。
太極拳がおもしろいのは、頑張っていないのに体力がつき、健康になること。

別にタバコもアルコールもやめなさいと言っているのではない。
ただ、コップに入った汚い水を出そうとしているのに自ら注ぎ込んでしまっては、イタチゴッコでしかないということ。

いつまでも若々しく生きたかったらこれらを控え気功と太極拳を楽しめばよい。
当会ではそのお手伝いをします。

健康を願う人に健康になるお手伝いをすることこそ私の使命だと思ってます。

2014年11月29日土曜日

呉式太極拳

今日は先輩である武術仲間と8時間に及ぶ練習を行った。

一緒に套路を行ったり、推手、技の用法練習、基礎対打、自由散手などなど。

自由散手ではフルコンタクトで行ったので、手と足は打身だらけ。。
なにしろ相手の突きや蹴りがやたら重い。

ところで今日は思わぬ発見をした。
楊露禅直系と言われる楊家太極拳が呉式太極拳と非常に酷似しているという点。
(専門的な話になってしまい申し訳ない・・)

呉式太極拳の特徴として、前傾姿勢や虚実が他の流派に比べてハッキリしている点だが、
楊家太極拳の虚実の体重バランスは10:0とのこと。
ほとんど片足で立っていることになる。
大木に添え木がしてある感じだろうか。

そういえば私の師匠も始めて太極拳を教えてくれた時、最初は体重バランス7:3でいいが、慣れてきたら9:1又は10:0が望ましいと仰っていたことを思い出した。

これこそが楊無敵と言われた楊家太極拳。
そして最強と言われる呉式太極拳。
そして陳泮嶺の創始した太極拳である双辺太極拳。
これまた前述した2つの流派に非常に似ている。

因みに楊家太極拳は勁力が最大限に発揮できるような独特の歩法や手法を用いる。
圧倒的に強いと感じた。

それに似ている呉式太極拳に対し今までとは別に角度からとても興味が湧いてきたということだ。
極めたい武術は数あれど、呉式太極拳は今では無視できない流派となった。

2014年11月28日金曜日

寒い季節こそ太極拳

11月も下旬に入り寒さも一段と厳しくなってきた。
夜になると気温もぐっと下がり温度も一桁になる。

周りでは早々とコートを羽織り、インナーにはヒートテック等を着こみ寒さをしのいでいるようだが、
私は未だにインナーは夏物の長袖Tシャツだ。
そしてその上は夏物の長袖練習着。

足代わりに250㏄のバイクに乗るが、こんな寒さでもその上に薄いウインドブレーカーを一枚羽織るだけ。
寒いどころか練習後は体がポカポカでそれさえも脱ぎたくなるほど。

かつての私はとても寒がりだった。
だから今のこの状況がちょっと信じられない。

ダウンコートやヒートテックなどなかった時代は、寒い季節になるとブルブルと震え、体を動かすしかなかった。
小学校時代は子供は風の子と言われるように、真冬でも半ズボンで登校してくる同級生がいたことを思い出す。

いずれも今自分の中で決めていることがある。
今年の冬はヒートテックを身につけないということ。
身につけた時は確かに温かいが、時間が経つにつて体がそれに慣れてしまい体自身が発熱しようとしなくなってしまう。
というよりそれを身につけて練習しだすと暑くてたまらなくなる。

そういえば昨夜のサークルの時、空調が暑かったので冷房を入れようとしたら女性会員数名から悲鳴が。
仕方なく冷房を入れるのは諦めたが、おかげで最後まで暑くてたまらなかった。(苦笑)

因みに自宅のエアコンの設定温度は20度。
これでも部屋の中で練習しだすと暑くて汗が出てくるのでエアコンのスイッチを切ってしまう。

ここで思った。
太極拳はエコに貢献すると。

それだけではない。
寒さに負けない丈夫な体がつくられていく。

太極拳は道具がいらない。
どんなにやってもタダ。
それで電気代も衣類代も節約でき、健康になり、肌もきれいになり、足腰が強くなり、いつまでも若々しくいられる。

やっぱり太極拳っていいなぁ。
(笑)

2014年11月25日火曜日

W1の反省会

昨日、第8回目の伝統武術観摩交流大会W1-GPに出てきた。

去年は入賞ならずだったが、今年は銅メダル。
自分の出来からして入賞は期待していなかっただけにとても嬉しかった。
周りからも嬉しいお言葉をたくさん頂いた。

しかし煮え切らない自分がいる。

今思うことは、「まだまだ出来た」ということ。

何故出来なかったのかははっきりしている。
練習方法の詰めが甘かった。
以前は動画チェックを頻繁に行っていたが、最近それをあまりしなくなっていた。
自分ではできているつもりでも動画を観てみるとぜんぜんできていなかったりする。

動きの正確さや、リズム、足運び、手の動き、丹田から動けているか、套路全体の構成などなど。

他の選手を見ていてそれを凄く感じた。

大会は自分の実力をどれほどのものか知ることもできるが、
それ以上に、大会に出ることによって次への目標や課題が明確になる。
無駄な練習をしなくなり、必要な練習をしっかり行うようになる。

次の県大会が終わった時は「まだまだ出来た」ではなく「最高の出来だった」と思える自分でいたい。
再度練習メニューを見直し、すべきことを明確にしようと思った。



2014年11月15日土曜日

行ったり来たり・・

その後体を休めてみたが、
疲れがとれたのかどうかわからないが今度は夜眠れなくなってしまった。

まったくなかなかうまく行かないものだ。。
しかし、1日休んでハッキリわかったことがある。

身が軽くなった。

そういえば重くなろう重くなろうとし過ぎて本当に重くなってしまったようだ。(苦笑)
試しに震脚を打ち込んでみた。
軽い。

体が適度に疲れると無駄な力を使おうとしないから、
体が沈みやすく、しかも震脚も図太く鳴り響く。
が、逆に脚が上がらなくなり、脳の働きも鈍くなり、しかも速い動作でもたついてしまう。

又、適度の疲れていると夜ぐっすり眠れる。
ベッドに入ったとたん熟睡できる。

要するに軽くも重くも自在にコントロールできなければいけないということだと思う。

それは、気によって体内の水分を移動させるような感じだろうか。
ゆっくり息を吸って、ゆっくりと吐く。
すると気が落ちる。
それによって身体と動きが安定する。

呼吸とイメージが大事だと思った。

因みに私に気功を教えてくださった先生は、イメージしなければ気を巡らせることはできないと仰った。
要するに意識しないと気は集まってこないし、巡らせることも練ることもできないということだ。

何を見るか?
人は普段、目に見える物質だけを見ている。
だが、気功ではそうではなく、見えない部分を見る。
すると見えないものが見えだすのではなく、手のひらを中心に体中に気が集まってきてそれを感じることが出来る。

気は見るものではなく感じるものだということ。

2014年11月12日水曜日

休む勇気

ずっと筋肉疲労がとれない。
脚も上がらなくなった。
妙に体に力が入る。

ついでに前はスラスラできた套路も途中で詰まるようになった。
明らかに何かの落とし穴に入ってしまったようだ。

多分、練習疲れが溜まって疲労が慢性化してるんだと思う。

練習状態が良くないから、しんどくとも練習を続ける。
すると、どんどん落ち込む。
これではマズイと更に練習を続ける。
そして状況は更に悪化する。

全くもって悪循環。

以前、先生に「休む勇気も必要だ」と言われたことがある。
確かにそうだ。
休めないのは気持ちに余裕がないから。
ここはやはり思い切って休まなければならない。

試合の日が迫っているというのに休むなんて。。
いや、勇気だ。
今日は休もう。
なにがなんでも。

ゆっくりお風呂に使って、早めにベッドに入りゆっくり体を休めるとしよう。
元気になれば、きっと何もかもがスカッとうまくいく。
そう信じて。

2014年11月9日日曜日

表演は格闘だ

表演というと踊りというイメージがあるかもしれない。
でも、仮に踊りだとしたら?

踊りでもいいじゃないか。(笑)

太極拳は武術だ。
だけど、見ていて美しいし、きもちいいし、どんどん健康になるし、肌がキレイになる。

私は練習の中に散手単打というのも組み込んでいるが、でもそれだけでは物足りない。
太極拳のあのゆっくりとした動きの中には無限の可能性が秘められている感じだ。
速い動きは日常生活でも求められるが、遅い動きを日常生活ですることはない。

昔、私は足が遅かった。
学生の時はかけっこでいつもびりっけつだった。

しかし社会に出るようになってから足がどんどん速くなった。
理由は簡単。
仕事でいつも時間ギリギリだったからだ。
ギリギリにならないとエンジンがかからない。
そして、猛ダッシュで職場に駆け込む。
これを毎日繰り返していれば自動的に足が速くなるという具合だ。

でもどうだろう?
出勤までに時間がたっぷりあるからといって、太極拳のようにゆっくり歩いたりすることはあるだろうか?
太極拳をしている人が老若男女問わず信じられない程元気なのは、そのゆっくりの中に隠されていると思う。

因みに今の私はギリギリ人間ではない。
走ることに疲れたからだ。(汗)
10分前に着くよう余裕をもって行ったほうがラクだし、無駄な労力を使わずにも済む。
そしてパンパンだったふくらはぎも細くなり、体つきも太極拳の体になった。

話を戻すとしよう。(笑)

表演は単なる踊りではない。
人前で演武するには勇気がいる。
勇気がいるのは闘う時だけではない。
いわゆる自分との格闘だ。

私は思うのだが、
自分に勝てないものが相手に勝つことが出来るだろうか?

健康にしてもしかり。
病気になるのはいわゆる、自分の中の自分が環境に負けているから。
体内では常に免疫細胞が外から入り込んだウイルスと闘っている。
その免疫を上げる方法は様々だが体を動かすことで活性化させることができる。
特に太極拳はすごく良い。
太極拳を始めてから私は風邪で寝込むことがなくなった。

太極拳は武術だが、美しい演武をするのも、健康を手に入れるのも武術のひとつだと私は考える。

2014年11月8日土曜日

青空と表演

同じ太極拳を行うにしてもその場所によって内容は大きく変わる。

始めて習った太極拳をまず自宅でやってみた。
というより体が勝手に動き出したと言うのが正しいだろうか。

仕事中デスクに向かいながらも手は雲手(うんしゅ)、
リビングでは玉女穿梭(ぎょくじょせんさ)、
廊下では野馬分宗(のまぶんそう)、玄関にぶち当たるまで繰り返す。
トイレでも便器に座りながら雲手。

そうこうしながら部屋の中でやるだけでは物足りなくなり
近くの小さな児童公園でやってみた。
場所を次々と変え、近所の遊歩道や、少し大きな公園、そして河原・・

いわゆる太極拳はどこでもできるのだ。

2年程前に習っていた先生は、梅田から天満橋まで形意拳を打ちながら帰ったらしい。
新快速の中でも先頭車両から最後尾車両まで跟歩(こんぽ)で歩いたとか。

そんな話を思い出し、
いつか終電でうっかり別の路線に乗ってしまい家に帰れなくなってしまった時のこと。
已む無く下された駅の近くのファミレスで少し時間をつぶし、そこから駅までの1.5㎞ぐらいの距離を形意拳を打ちながら歩いてみた。
真夜中にだ。(笑)

するとなんだか更に体がソレを欲しがるので、
駅近くの大きな駐車場で思う存分形意拳を打つ。
真っ暗闇でだ。(汗)

タイトルと話がそれてしまったので話を戻す。

青空と表演は違う。
青空は演武を人に見せるのではなく、自然との融合がテーマだ。
誰も見ている人はいない。
だから内面の世界に集中することができる。

一方表演は人様に見て頂く。
なので内面探求している暇などない。
といっても美しさとは内面から湧き上がるエネルギーによって作り出されるものだと信じる。
決して形作ろうとして生まれるものではないと。

自分の中の自分を思いっきり放出させる感じと言おうか。

これは裸の自分を見せるよりも恥ずかしい。
何しろ自分の中の自分なのだから。
しかしその羞恥心を超えた時に素晴らしい演武が生まれるのだと思う。

私は教室では自分の中の自分は出さない。
というか出せない。
スイッチが入らないのだ。

このスイッチは大勢の人前に立った時の緊張した空気の中で初めて入る。
この時の心の声は・・
「もう逃げられない。やるしかない。」だ。

2014年11月7日金曜日

ヤル気が出ない時はどうする?

イベントや大会が近付いているというのになぜか意欲が出ない。
練習は毎日3~5時間ぐらいはしているのだが。

これだけ練習していれば意欲が出ないとは言わないだろうか。(笑)

いずれも太極拳の倦怠期のようなものに入っているような気がする。
いや、太極拳は好きなのだが試合向けの練習に対しての意欲がイマイチ芳しくない。

去年はモチベーションがいっぱいあった。
しかし、今年は平和過ぎる。

私の場合、逆境の中でヤル気が起こる。
荒波の中でこそ意欲が燃える。
ここはピンチを作り出すためにもマイナス思考を高めなければいけないのだろうか。(笑)

そういえば、今日ある会員さんと話していてこんな話が出た。
当会員のUさん。
最近意欲が凄い。
何も言わなくとも率先して練習し、しかも休まない。
私よりも意欲が凄いと言う噂だ。

そして、Fさん。
最近急激に伸びてきた。
明らかに練習しているのがわかる。
本人に聞いてみると、わからない部分が出てくると寝る前であっても動画チェックしたりして、徹底的にそれを解明しないと眠れないのだそう。
で、結局、明け方になってしまうとか。

皆凄いなと思うのだが、考えてみれば私もそういう時期があった。

う~ん、
このふわふわした感覚はなんだろう?

ひとまず、ヤル気が出ないなりにヤル気を起こさせるための練習を行う。
それが基本功だ。
ひたすら同じことを繰り返す。
何度も何度も繰り返す。

五行拳もいい。
ずっと崩拳を打ってるとだんだんハイになってくる。
あの単調な繰り返しがどうやら脳内の快楽物質の分泌を促すようだ。

普段最もつまらないと思える練習は、実はやる気を起こさせるためのモチベーターになりそうだ。

いろいろやってみると新たな発見があって面白い。

2014年10月28日火曜日

パワーをためる

形意拳の練習主体になってくると、どうも悪い癖がでてくる。
ついついパワーを出そうとして力んでしまうのだ。
そしてすぐに疲れてしまう。

疲れるとやる気を失い、
その結果練習不足になる。
なんとも悪循環だ。

ということで、形意拳を太極拳のようにゆっくり練習する。
ゆっくりだけではなく
形を作ろうとせずにできる限りの力を抜いてやってみる。
傍からみるとかなり不恰好に見えると思う。

が、そんなことは関係ない。
大事なのは同じ時間を使うのにも練習成果を出すことだから。

こういう練習をするとおもしろいことが起きる。
体が疼いてくるのだ。(笑)
これこそが太極拳をゆっくりやる意味のひとつだと悟った。

ゆっくりやればやるほど、どんどん体内にパワーが溜まってくる。
発散することができないエネルギーだ。

ためてためてどんどんためていくと、どんどん体が熱くなり、
そしてじんわりと汗をかき、
不思議なほどリフレッシュ感を味わえる。

大きな力を発するためには、ためなければならない。
だからこそゆっくりゆっくり動いてパワーをためる。

さて、
それが炸裂するとどうなるんだろう?

2014年10月24日金曜日

最高のドクターは自分自身

うちの会員さんが背中を痛め、今整体に通っている。
他にも当サークルに参加しながら整体に通っている会員さんが何人かいる。

私も何度かお世話になったことがあるし、
確かに指圧やマッサージをしてもらうととても気持ちがいい。
しかし、その後すぐにまた同じ痛みが起こる。

なんでもそうだが、依存してしまってはいけないということ。
その場で気持ち良いからといって、その後また悪い姿勢を続けると何度でも同じ痛みが起きるだろう。
整体師さんにマッサージしてもらったら、「今日を機に良い姿勢を心がけるようにしよう」と心がければそれはとても意味のあることになる。

私もいろいろ試したが、最終的に行きついた方法が、気功と太極拳。
気功はまず正しい姿勢が求められる。
姿勢を正し、体をゆるめ、ゆったりとした呼吸を行い、心を鎮める。
このどれが欠けても邪気を払ったり気のエネルギーを取り込むことはできない。

気がなかなか感じることが出来ない人の共通点。
それは集中力がなく、気が散漫になっていること。

気功を行う時は是非、その時だけでも頭と筋肉の緊張のスイッチをオフにして欲しい。
立ながら眠るような感じだ。
何か考えながら気功をしているのでは、学校で廊下に立たされているのとなにもかわらない。
気功は瞑想法のひとつなのだから。

人間の体はとても精巧にできている。
体に異常が起きたら、きちんと痛みとして信号を発する。
痛みを感じると人間はそこに意識が行く。
意識が行くとそこに気のエネルギーと必要な栄養が集まる。
人はこうして自ら病気を治して行くことが出来る。

治癒力こそ最高のドクターなのだ。

2014年10月16日木曜日

表演武術について

表演が大好きな人もいれば、表演に肯定的でない人もいるだろう。
私はどれも否定しないし、良いものはどんどん取り入れたいと考える。
人の数だけ考えがあるわけだし、私はその人が良いと思うものをするのが一番だと思う。

私自身は検定を受ける予定はないが、
だからといって検定を否定しているわけではない。
検定のために努力している人たちは美しい。
目標を持って頑張っている人の姿は輝いているし、心から応援したくなる。

そういえば、昨日ある会員さんが、練習方法によっては体を害することがあるという当会HPの文面を読んで不安を感じられ、それについて尋ねられた。
私の説明不足だった。。

太極拳が体に悪いのではない。
いくら健康に良い太極拳と言えど正しい練習方法を行わないと、腰や膝、筋を痛めることがあるということ。
これは太極拳に限ったことではない。
どんなスポーツでも同じこと。

そのために、当会では準備運動や鬆身法に時間を多くかけている。
会員さん達の健康を願ってのこと。
私は武術指導も行っているが本業は美容健康カウンセリングだから、美しい演武や強くなることの前にまず健康になって欲しいと強く願っている。

美しくなるためにも強くなるためにも徐々に体を慣らしていくことが最も重要だと。
泳げない人がいきなり冷たい海に飛び込めば、溺れてしまうばかりか心臓にショックを与えてしまうだろう。

話は変わるが、
昨日、別の会員さんに、表演について「どんな演武がしたい?」と尋ねてみた。
すると「美しい演武がしたい。でも舞踊のように見える演武ではなく武術として見える演武がしたい」とのことだった。

まさに私の目指すところ。
というより武術としての武術がそのまま美につながることを目指したい。
美だけを目指すと美のみになるが、
武術として目指せば強く美しくなれると私は信じる。

2014年10月13日月曜日

演武会を終えてみて

昨日神戸での表演を2ステージ終えて、ようやく一段落。

今回わかったこと。
やはり本番前に十分緊張しておいたほうが良いということ。

全日本の時は緊張しなさ過ぎて、本番になって緊張してしまった。
今回は前日までガチガチに緊張していたが、本番では緊張の糸がプツンと切れたようにリラックスして、自分らしく演武できた。
視線がたくさんあるのに、普段の練習どおりに。

バンド活動をしていた時も、仕事で大きな講演が控えている時もそうだった。
緊張しておけば、本番リラックスできる。
だから練習の時は大いに緊張すべきだと。

練習とは単に身体的なトレーニングだけではない。
気を練ったり、
それに本番に備えてのメンタル作りにもなる。

そういえば昨日、本番前、司会の女性と少し話をした。
今回まったく初めてなんです・・と緊張した笑顔。
そこにチーフ的な男性が歩み寄って気ってその司会の女性たちにこう言った。
「噛まずに喋ろうとしないように」
「むしろ噛んで喋ろうと思うように」と。

以前、私が講演の仕事をしていた時と全く同じだ。
始めて人前でスピーチする人に対し同じことを言っていたのを思い出した。

「上手に喋ろうとしないように」
「どれだけ下手に喋れるかやってみよう」と。

表演でも同じこと。
上手に演武しようなどと思わないこと。
むしろ失敗するぐらいの気持ちでやればいいんだ。

表演が苦手な人はきっと、人前で演武するのが怖いのだと思う。
私だって怖い。
でも怖いからこそやりがいがあるのだ。

いずれもやり終えた後の達成感と解放感はかなり素晴らしいものがある。



2014年10月11日土曜日

目標をもつこと

今日、練習場で施設の苑長さんと少し話をした。
苑長さんは剣道有段者で県代表に選ばれているという。

私も選ばれているわけではないが、明日の演武会に奈良から出場するのは私ひとり。

苑長さんが言う。
正直大変だと。
私もそうだ。
正直しんどい。

周りの人はさぞかしイベントに出る私達のことを、やりたくてやっていると思っているかもしれないが、
本音を言えばいつだって逃げ出したい。
人前で演武する以上はマイペースではダメなのだ。
ベストペースで努力しなければならない。

輝いている人は陰で相当努力をしている。
挫折~悔しさ~発奮~努力~喜び~感動
これの繰り返しだ。

しんどくたって、辛くたって、練習を休むわけにはいかない。
しかし、その先で得られることはとても大きい。

目標を持ってる人とそうでない人とではぜんぜん違う。
目標を持っている人間は強い。それに輝いている。
少なくとも私はそっち側でいたい。

練習で疲れ切ったこの体が明日どう動いてくれるか?
自分にも解らないが、とにかく悔いが残らないよう最善を尽くしたいと思う。

2014年10月10日金曜日

頭打ちをどう克服するか?

楊式刀をこよなく愛し6年目になろうか。
今夏の全日本大会までは自分なりに良くなっている感触があったが、
最近めっきり頭打ち。。

この状況をどう克服するか?
自分の心に聞いてみると、どうやら倦怠期のようなものに入っているような気がする。

決して今の演武に納得しているわけではない。
いや、まったく納得していない。

問題は「やる気」だ。
腹から湧き出すようなパワーが出ない。

やる気を出すために、先生方の動画を観たり、刀の手入れをしてみたり、今までの実績を振り返ってみたり、新しい練習着やシューズを買ってみたり・・

とまあ、ブログを書きだせば答えがみつかるかと思ったが、どうやら見つかりそうにない。
このまま自然に体をゆだねるとしよう。

明後日は神戸のイベントで2ステージ楊式刀を披露しなければならない。
本番に弾けるようなパワーが出せるか?
今夜はベッドに入ってからイメトレをしてみるとしよう。

2014年9月30日火曜日

嫌いだった形意拳が・・

形意拳を知ったのは10年前程。

当時、ほんのかじる程度に形意拳教室に参加したが、そこでは動作を直接教えてもらえず、
先生と先輩方の動きを横目で見ながらあたふたしながら必死でついていく・・
というような稽古内容だった。

動きが直線的で、
技も単調。
正直魅力を感じなかった。

が、今では形意拳が楽しくて仕方ない。
思えば、嫌いなものが好きになるとめちゃめちゃ好きになるのはすべてに共通する。(笑)

今日、ひたすら形意拳の練習をして、いろいろ気づいた。

なぜ後ろ体重なんだろう?
なぜ跟歩なんだろう?
なぜ思いっきり突かないんだろう?
なぜ直線的な動きなんだろう?
なぜ技が単調なんだろう?

これらの「なぜ」が明らかになった。(あくまでも自分の中では)

それに内家拳最強と言われる理由もわかったような気がする。

特に好きなのが崩拳。
恐ろしいほどシンプルな技。
実に男らしい。(笑)

今、試合向けに自選套路を作っているが、あまり複雑にしたくない。
というより、いろんな技を詰め合わせても、頭が動きについていけないから。。
だから凄まじくシンプルにしようと。(笑)

先日、るろうに剣心・京都大火編を観に行った。
一番痺れたシーンは、激しいアクションシーンではなく、剣心が逆刃刀を受け取るシーン。
そこまで溜めるか!っていうほど、まるでビデオを長時間一時停止したかのようなシーンだった。
そして溜めまくった後の凄まじい一斬り。
鳥肌もんだった。

これを大会でやったらさぞヒンシュクだろうな。(笑)

2014年9月28日日曜日

無様に演武してみる

来月イベントを控えているので、そのための練習を始めてる。
かといってガツガツやってるわけでもない。

これは自論だが、
カッコイイ演武をしようとするなら陰でいかにカッコ悪い練習をするかだ。(と思う)
美しい蝶も元々はキショク悪い姿だったのだ。(笑)

正直、私は自主練を人に見られたくない。
なぜなら、めちゃめちゃカッコ悪い練習をしているから。(笑)

ひたすらボーっと立っていたり・・
気が狂ったように体を震わせたり・・
酔っぱらってるかのようにぐでんぐでんに演武したり・・

去年、大会初出場ということでガムシャラに練習したことがあったが、
それでクッタクタになり、疲労は溜まる一方、筋肉痛はひどくなるばかり・・
練習効率は下がる一方だった。
そんな経験の中から今の練習法を編み出した。

力量は練習量に比例する。
だが、練習すれば練習するほど疲れる。
ではどうすればいいか?

その結果が、疲れない練習法だ。
きちんとやるのは最後の最後でいい。

演武ですら鬆身法(ゆるめる体操)だと思ってやる。
そうすると無駄な力が抜け、必要な時に必要な力だけを引き出せるようになる。

カッコ良く演武しようと思ってはいけない。
いかに無様に演武するかだ。
無様な演武をすれば美しいということがどういうものかハッキリ見えてくる。

さあ、今日もカッコ悪い練習をしよう。(笑)

2014年9月26日金曜日

じんわり汗をかくこと

太極拳をするとじんわり汗をかく。
私の場合は集中すると立禅でも汗をかく。
この汗が実に気持ちいい。

この汗は、体の中に溜まっている毒素であり、邪気である。
この汗をかいたあと、妙に体がスッキリする。
体だけではない。
頭もスッキリし、ゴチャゴチャしていた頭の中がきれいに整理され、今すべきことがハッキリ見えてくる。
人間何に優先順位を置くかで人生大きく変わるが、
今何をすべきかと考えることはとても重要。

太極拳はその気になれば畳一畳あればできる。
套路をそのまま行うことは出来ないが、進んでは戻るということを繰り返せば可能だ。

当会の会員さんで、伝統楊式太極拳を20分かけて練り、しかもそれを一日に4回もしたというのだから驚いた。
私ですら楊式太極拳を4回したことはない。
私の師匠ですら1日2回と言っていたが私もそう。
この会員さんは将来大物になるに違いない。

伝統楊式太極拳には簡化太極拳にはないやり終えた後の充実感がある。
私は教えるために簡化も少々行うが、なんというか・・体が温まってきた頃に終わってしまうと言う感じがどうしても拭えない。

例えば簡化なら収勢で終わらずそのまま4回繰り返せばいい汗をかけるかもしれない。
連環簡化太極拳と言おうか。

いずれも、
仕事が捗らない。
家事が捗らない。
こういう時は、それらをやろうやろうとせずに、一時、仕事、家事の手を休め太極拳をすることをすすめる。

間違いなくその後仕事も家事も捗るはずだ。(少なくとも私は)

2014年9月23日火曜日

筋力を超えるパワーとは?

先日仲間と勁力の試し合いをした。
片方が受けて片方が打つ。

私はなんとなく拳をひょいっと突き出した。
すると受けようとしていた仲間がまるで車にでも跳ねられたかのようにすっ飛んだ。
正直ビックリした。

まあ、車に跳ねられるというのは大袈裟かもしれないが、とにかく想像以上に飛んだ。
私がしたことは、何も考えなかったということと、自分を信じたということだけだろうか。

今までは打とうとして打っていた。
しかし私にはほとんど筋力がない。
突きの練習や、腕叩伏せなどそういうトレーニングは全くしていない。
だから打とうとしても所詮知れている。

実は私は好き好んで体を鍛えることをしないでいる。
体を鍛えてしまうとついつい筋力に頼ってしまい勁力が出しずらくなるからだ。
丹田も意識しずらくなる。
いずれも私の体系はひょろひょろ。

ただ、試合のために足腰だけは強くなるよう少々トレーニングしている。
あと、器械を自在に操れるようになるために少し重めの木刀で練習したりもする。
それ以外の筋トレは一切しない。

というより、立禅や太極拳そのものが未知の力を引き出すための特殊な筋トレだから。

それにしても筋力を使わずどうして相手を飛ばしたり、動いたりできるだろう?
私にもよくわからない。
自分ではない何者かがスっと入ってきて自分の腕を動かしているような感覚。

手で打とうとしても自分の筋力を超えるパワーは出せない。
が、丹田を使うとそのパワーは筋力を超えていくらでも増大する。
科学では証明できない分野だと思う。

そしてひとつだけ言えるのはこれはコツではないということ。
毎日ひらすら鍛錬あるのみだと思う。

2014年9月9日火曜日

套路を覚えてからが始まり

私が最初、太極拳を始めた時は套路を覚えるのが楽しかった。
先生や先輩方のように最後まで通せるようになったらどんなにいいだろうと。

が、今は覚えることより練ることのほうが楽しい。
今も大会向けに新しい套路を覚えたり、自選套路をつくったりしているが、早くこれらを終わらせ練りたくて仕方ない。

練るとは、練習するという意味と、気を練るという意味の二つの意味があると解釈しているが、
いずれも練らなければ得られないものは多い。
じっくり煮込んだスープがおいしいように、即席では決して得られない味がある。

武術にしても、やり込んでいけば行くほど、様々な気づきが得られ、そして、内外相合(ないがいそうごう)といわれるよう、意と体が一致し、体のすみずみまで意識が行き届くようになる。
それは足や指先にも脳があるかのような感覚。
覚えるまでは脳が指令を送っていたのが、今度は手や足が自ら動き出す。

容易く言えば「体で覚える」ということになるが、
それをクリアすると今度は導かれるような感覚が得られるようになる。

気功の時間で「操り人形のように」といつも説明するが、それは套路でも同じこと。
操られているような感覚になるまでやり込む。

かといって套路の練習をやり過ぎると逆効果。
疲れてしまって長続きしなくなるからだ。
一日1~2回を毎日行うのが一番いいと思った。

2014年9月8日月曜日

青空太極拳で体感できること

昨日の青空太極拳は久しぶりに晴天にも恵まれ、しかも初参加の方も数名おられ、楽しい時間を過ごすことができました。

そもそも青空太極拳の意義は?

  • 普段サークルで行っている練習の成果を出す機会として。
  • 朝の部と夜の部の会員同士の交流の場として。
  • 普段、時間の都合でできない気功に時間が掛けられること。
  • 厳しい時間の制約がないのでゆったりと楊式太極拳を全套路通すことができること。
  • 気功や太極拳を知らない人に体験してもらう機会として。
  • ご家族、お友達と一緒に参加できる機会として。
  • 野外で行うことで天と地、そしてその狭間にいる自分を感じやすいこと。

まだまだいろいろあるが、私が最近主眼としてるのは、「共に感じたい」ということ。

サークルでは気功や太極拳を基礎から指導しているが、それはこれらをやる上でとても重要なこと。
しかし、指導する側も指導される側も正確に行うことに意識が行くので、“感じる”ことは難しい。
自分の動きを気にしている間は本当の太極拳にはならない。
少なくとも「気」を感じるためには、完全に脱力し、邪念を捨て、自分の中の意識に集中せねばならない。

人は他人のことはよく見えるが、自分のことはなかなか見えない。
気功はそういう意味で自分を見つめ直す、いわゆる禅なのだ。
“己を知る”ということだろうか。

己を知ることが出来なければ本当の意味で他人を知ることは出来ない。
自分が痛い経験をしなければ人の痛みがわからないのと同じだ。

以前、雨に打たれながら青空太極拳を行ってから、確実に自分の中で目指そうとするものが変わった。
先ほども述べたように「共に感じたい」
だから、昨日は、「今日は指導はしないので、皆さん自分なりに感じてみてください」と伝えて始めた。

助言を与えることも大事だが、自分で探求することも大事。
だから、青空太極拳は目の前の大自然を眺めながら、大自然の空気を吸いながら、そして
美しい音楽だけに集中し気を沈め気を高める。

昨日は私も自分に意識を向けることができたので、パワースポットである石舞台で自然との融合を感じ、体の周りにジワジワというエネルギーに包まれる感覚を得ることができた。
その時感じたことは、心地よさ、安らぎ、そして勇気だろうか。

2014年8月28日木曜日

誰でも片足立ちのプロフェッショナル

太極拳で一番厄介なのが独立歩(どくりつほ)。
片足で立って、もう一方の膝を上げたり、脚全体を高く上げたり。
当然、誰でもバランスを崩しやすくなる。

脚を上げようとするとふらふら~っと。
私もかなり苦戦しましたが、これって実はメンタルなんですよね。

なぜなら私達は普段から、いや、二本足で歩くようになった幼児期から片足立ちを行っている。
歩く時にもう一方の足を前に出す時、一瞬だが片足になっている。
いわゆる子供の頃から片足立ちになることは誰でもプロフェッショナルなのだ。

サークルの会員さんでも片足を上げたとたん、極端にバランスを崩す人が約二名ほど。
ふらっとする程度ではなく、脚をちょっと上げた瞬間極端にグラグラし、次の瞬間バターーーン!と床に足を着いてしまう。
本人達もこのことに悩み、私もどう教えようかと考えた。

まず、片足立ちは誰でもそうなることを伝える。
そして、先ほど言ったように今特別なことをしているのではなく、普段歩く時から片足立ちを行っていることを伝える。
いわゆるメンタルの問題であることを伝える。

次に二つ三つアドバイスを送る。

すると、どうだろう?
かなり短期間で本人達の努力が実り、見事に片足で立つことができるようになった。
つい最近の出来事だ。

さぞかし練習したんだろうなと。
正直感動した。

さて、独立歩の時何を意識すればいいだろう。
それは「意識しないこと」
さあ、脚を上げるぞ!などと思わないことです。

私が最初に教わった先輩の言葉を借りるなら、「波動を飛ばす」
足のことは足に任せて、腹から全方向に波動を飛ばす。

それともうひとつ。
これは独立歩に限ったことではないが、自分というものが単体ではなく地球の一部であることを思い出す。
人は誰でも地球と宇宙の狭間に生きている。
いわゆる、繋がっているということ。

地球には引力があり、そして宇宙はビッグバン以降常に広がっている。
この沈む力と広がる力を利用しない手はない。

フラミンゴはあの細い足でずっと片足で立っていられる。
地球に生きる生物は本能的にそれを知っているんだと思う。

と、偉そうなことを言っておきながら、私も人前で演武する時はついヘンな意識を起こしてしまい、足に意識がいってしまう。
そしてバランスが怪しくなる。
実はこのことを一番踏まえないといけないのは自分自身だ。(笑)

2014年8月25日月曜日

伝統大会の反省会と原因探し?

皆さまの熱いご声援のお蔭で、昨日行われた中国伝統武術近畿交流大会は何とか入賞を果たすことができました。

入賞は全く考えてなかったので本人かなり驚いているのですが、少しは日頃の練習の成果が出たのかなと。

正直、大会向けの練習はハードだし、体の各所にも支障も起きる。
なので、どんなに練習時間の枠をたっぷりとっても肉体との戦いになり、なかなか思うような練習はできない。

そこで考えることは、どうすれば体に負担を掛けず効率の良い練習ができるか?
そう考えて取り組んだのが、完全脱力の太極拳を練るという練習法。
これが実に気持ちいい。

もちろんこの太極拳は試合には全く通用しない。
料理でいえば下ごしらえみたいなもので、揚げる前のエビフライのようなものとでもいいましょうか。(笑)

私の場合は形意拳での出場だったので、同じ歩型の双辺太極拳を選択。
美しさとか形とか全く考えず、まるで眠りに入るかのように脱力して套路を練る。
カラダは地面に沈んでいくように。
手は空を舞うように。

このように套路を練ると、無駄な力みがどこにあるかが浮き彫りになるし、更に力のコントロールが容易になる。
自分の体を自分で支配できるようになるとでも言おうか。

こんなこと当たり前だと思うかもしれないが、なかなか思うように演武できないのが太極拳。
意と体が一致するとまるでそれは自分で自分をリモートコントロールするような感じになる。
といいつつ、まだまだ出来てないのだが。(苦笑)

いずれも、今回何故私は入賞できたのか?
自分でもまだわからない。
他の選手はどうみても自分より素晴らしい演武をされていたのに、私は一体どこを評価されたのか。

ひとまず、自分の中で良かったと思えることは最後までスタミナを温存できたことだろうか。
息切れすることなく最後まで自分自身をコントロールすることができた。

反省会というより、何故自分が入賞したのかが解らないと言うのが本音です。(汗)

といっても反省点も大いにある。
手直ししなかったことが結局本番に間に合わなかったこと。
本番で一か所少しバランスを崩してしまったこと。

今回の反省点は站椿功(たんとうこう)がいつもより少なかったことだろうか。
やはり站椿功と放鬆太極拳(ほうしょうたいきょくけん)をバランスよく行うことが大事だと思った。

それにしても試合に出ると自分のすべきことが明確になりますね。
次の目標に向かってまた頑張ります。

2014年8月22日金曜日

太極拳で美しくカッコイイ体をつくるために

気功と太極拳をバランスよく行うと、如実に体に変化が起こり始めます。
私がまず感じたのは、肩こり腰痛の軽減。
いや、ほとんどなくなったと言ってもいいほど。

特に腰痛は辛かった。。
しかし今では腰もピンピンしております。(笑)

もうひとつは、体がスリムになった。
特に感じたのは下っ腹。
私は元々痩せ形だが、下っ腹がぽっこり出ているのが子供の頃からの悩みだった。
多分胃下垂なのではと思う。

が、今では見事に下っ腹が引っ込みきゅっと引き締まっている。
息を吸ってお腹をひっこめたりするズルなしでだ。(笑)
おまけにウエストも細くなり、ズボンがずり落ちてくると言う始末。

こうなるまでに45年掛かった。
というより、こうなったのは気功と太極拳を本格的に始めたからだ。

最近入会された男性会員さん、ご本人には申し訳ないけど、体系の割におなかがぽっこり。
典型的なメタボ体型なんでしょうね。
そのお腹が見るたびにどんどん小さく。
ご本人はあまり気づいてないようだが、私の中ではかなり驚いている。

ということで、美しいボディ、カッコイイカラダを目指すなら、気功と太極拳はかなりおすすめ。
不思議なのが、決して息が荒れるようなハードな運動をしないのに、ゆる~い動きの中で楽しみながらどんどんシェイプアップすること。

ただ、単に気功と太極拳だけでそうなるかといえば、そうとも言い切れない。
私は栄養学が専門だが、ボディを引き締めるためにも、丈夫な足腰をつくるためにも良質なたんぱく質は絶対欠かせない。
人間の体の約30%はタンパク質でできているからだ。

タンパク質を摂らなければ代謝がどんどん遅れ、肌の表面は古い角質で鬱積するだろう。
見た目も浅黒くなり、ハリがなくカサカサとした肌になる。
これ、タンパク質不足のバロメーターです。
引き締まったボディにするためにもタンパク質は欠かせない。

私は毎晩、完全無農薬、完全無化学肥料の100%オーガニックプロテインを毎晩飲んでいる。
カッコイイボディつくりには栄養は欠かせないのだ。

折角、気功と太極拳で美しく強く健康になれるのだから、食生活もきちんと見直したい。

2014年8月20日水曜日

太極拳に近道はない

私もそうだったのだが、套路を覚え始めると楽しくて、どんどん先に進みたくなる。
そんなこんなで11年。
未だにしっくりこない。(笑)

サークルでも先へ先へと進みたがる会員さんを今までに何人か見てきた。
が、結局途中でスローダウンしたり、フェードアウトしたり。

何事も急ぎ過ぎると息切れして長続きしないが、太極拳に限っては特にそう。

いきなりまとめに入るが、
太極拳とは一生かけて取り組んでゆくものだ。
よく言われることだが、私も今までやってきて確かにそうだと感じた。

太極拳に近道はない。
もちろん毎日たくさん練習すればそれなりに美しい演武が出来るようにはなる。
が、それは太極拳の一面に過ぎない。
そもそも400年もの歴史がある太極拳を数か月で習得できるはずがないのだ。

伝統楊式太極拳にしろ、まだまだ研究したいことは山積み。
この奥深い太極拳が楽しくてならない。

2014年8月19日火曜日

誰にでもできる太極拳を

前回の記事を読んだある会員さんから「練習内容が変わるんでしょうか?」という質問が届いた。
どうやら説明が足りなかったようです。。

練習内容は今まで通りです。
ただ、私の口数が減るだけです。(笑)

どういうことかと言うと、何度かこのブログでもお話してきたが、あまり言葉で細かく説明すると、かえって混乱したり、言葉によって雁字搦めになり、のびのびとした本来の太極拳から遠ざかってしまうのではと感じたから。

例えば、検定向けの太極拳はあまりにも動作に対する約束事が多い。
もしかしたら、元はたった一言で伝わることだったのかもしれない。

太極拳に限らず、約束事が多ければ多いほど力みを抜くことは難しくなる。
車の運転にしろマニュアル片手に運転する人はいないし、横から教官にごちゃごちゃ口うるさく言われると余計に感覚が鈍ったりするものだ。
要は慣れの問題だと思う。

当会では、太極拳を通して、ゆるみの中にある心地よさを逸早く体感して欲しいと思っている。
そのためには約束事を減らさなければならない。
従って口数が減ると言うことになると思う。(笑)

私は元々体が固く、筋力もあまりない。
学生時代、美術と音楽が好きだった私にとって運動は無縁だと思っていた。
しかし今では中国武術で最も有名な太極拳の指導を行っている。

いずれも、私は空高く脚を上げたり、ジャンプしたり、地を這うような下勢をしたりはできない。
素直にカッコイイと思うし憧れもするが、そのような動作を求めるあまり体が悲鳴をあげるような過酷なトレーニングを強いることは避けたい。
なぜなら心地よい太極拳から遠ざかってしまうからだ。

身体の固い人も、体力のない人も、高齢者にとっても、
誰にでもできる太極拳を伝えて行きたい。

ゆるみの中から得られる、真の強さを身につけ、本物の美しさを手に入れて欲しい。
無論私もそれを目指している。

2014年8月18日月曜日

太極拳によってゆるめる

最近、サークルで高齢の方が増えてきたので、方針の軌道修正しようと試みている。
いわゆる基本的動作よりも、ゆるめることにウエイトを置こうと。

私は自主練の時に必ず抜筋骨や気功を最初に行うが、
次に行う太極拳も、太極拳として太極拳を行うのではなく、ゆるめるための太極拳を行うととても調子がいい。
いわゆる、太極拳を動く気功と考える。

意識の持ちようなのだが、ゆるめることを重視しながら套路を練ると、無駄な力が入っているのがよくわかる。
それを気が付くたびに、ゆるめる方向に。
すると、指先、掌、腕、体全体で気を感じるようになる。

この“気”を味方につけることで、様々な奇跡を起こしてくれる。

例えば、ストレッチも筋トレも行っていないのに、その後の競技用套路が実に好調。
筋力に頼らずして軸がぶれにくくなる。
それになにより、体のリフレッシュ感がぜんぜん違う。
肩こり腰痛が嘘のように軽減し、気分もスッキリ。

ということで、今後は見栄えはパッとしないだろうが、ゆるめることを主体とした套路を指導して行こうと思う。

逆に形から作ろうとするとどんどん力みが生じ、リフレッシュ感どころか正しい形が出来ないことにストレスさえ感じてしまうだろう。
しかし、ゆるめる太極拳を行えば、美しい太極拳も意のままになると感じた。

ひとまず、実践しながらそれを証明していくしかないのだろうな。

2014年7月28日月曜日

気のシールドはできるのか?

当太極拳サークルでは気功を重視している。
その理由は一言では語りつくせないが、武術的に太極拳を極めて行くための土台となるからだ。
木で言えば根っこの部分。

根っこは土の下にあるから見えない。
この見えない部分をしっかり練習すると、それがやがて図太い幹になり、枝葉が出、そして美しい花をつける。

通常、太極拳の基本功といえば歩法練習である場合が多いと思うが、気功の場合は太極拳で絶対必要不可欠なゆるみが得られる。
それに、毎日気功を行ってきて、感じたことは、体の周りに目に見えないベールのようなものができてくる。
このベールに包まれるととても安らぎ感じ、勇気が得られ、しかも攻撃をうけた時のショックをも和らげてくれる。

これを気の鎧と呼んだり、気のシールド、気のベールと呼んだりしている。

気は意識すると集まってくる。
身体の中を巡ったり、身を包み込んでくれたり、それに筋力に頼らなくとも大きな力が得られるようにもなる。

その実験として、定期的に仲間と打ち合いの練習をする。
筋力に頼らない気の力を利用した勁力で相手を素手で打ち、そして、受ける側も気のシールドでそれを迎え入れる。
相手が突いてきても決して対抗しようとせず、そのまま受け入れる。
対抗しようとすると筋肉が硬直し、かえって皮膚表面が傷む。

実はそうもいいながら、昨夜入浴前、服を脱いだ時に胸のあたりに赤痣を発見。(汗)
言い換えれば筋肉を硬直させてしまった証拠が残っているということ。(笑)
こんなものが出来てしまうのはまだまだ修行が足りないってことだ。

いずれも気は、弱りかけた体に活力を与え、心を安らかにし、そして体を丈夫にしてくれる。
こんないいことを太極拳を始める前にしないのはあまりにももったいないと私は考える。

***

因みにサークルでは打ち合いなどしません。
美容健康のために気功を行います。

2014年7月22日火曜日

円転太極拳と双辺太極拳

昨日、仲間と円転太極拳なるものを少しやってみた。
私が尊敬するひとりである川村老師が考案された太極拳だ。

少しやってみてすぐに感じたことは、とてもリラックスした状態で動けるので、すぐに気を感じることができたこと。
とても気持ちがいい。
しかもこの後の散打にもその効果はすぐに表れた。

私は試合のために表演系の套路も練るが、こちらはある程度形を作らないといけないのでどうしても完全にチカラを抜くことができない。
というより、以前表演の先生に習った時は、脱力ではなく緊張感が必要だと教えられた。
確かに表演ではそうだと思った。

が、そのままの動きで相手を打とうとすると力が死んでしまう。
力みによってブレーキがかかってしまうのだ。

そして、今日は双辺太極拳を可能な限り力を抜いて行ってみた。
これまた気持ちがいい。
形を気にしない放鬆(ほうしょう)の世界は無我無心になれるし、瞑想状態にも入りやすい。
動きながらもスーッと気が落ちて行く感覚も得られる。

どちらの太極拳も形意拳と八卦掌の要素を含んだ、武術的要素の高い実践的な套路。

人目を気にしない太極拳は実に気持ちいいし、身体的効果も高いし、強さを身につけることもできる。

だが、私は人を楽しませる太極拳も好きだ。
数多くの中国武術を覚えるのも楽しみのひとつだろうが、
私の場合は一つの太極拳を2倍も3倍も楽しみたいタイプなんだと思った。

2014年7月15日火曜日

太極拳に終わりはない?

私は11年前に初めて太極拳を教わった。
今までに見たこともない先生の神秘的な動きに一発で魅了され、その後すっかり太極拳のとりこに。

私が最初に思ったこと。
「早く先生と同じように演武できるようになりたい」

だから、家に帰ったらすぐに習ったことを復習した。
いや、正確に言えば復習したというより体が勝手に動いていたという感じだろうか。

私の仕事はデスクワークだが、パソコンを操作しながらも気が付けば手が動いていたり、リビングでも廊下でもトイレの中でも太極拳をやっていた。
便座に座りながら雲手(うんしゅ)を行うとお通じがスムーズになることもその時発見。(笑)

部屋の中だけではない。
習い始めて半月ぐらいで公園でも練習した。
しかし、まだ型を覚えて間もないので単鞭(たんべん)までとか、十字手(じゅうじて)までとか。

私の場合、少々目立ちたがり屋なところがあるので、覚えたことをすぐにでも人に見てもらいたかったというのもあった。
無論、その頃の演武なんて無様で見れたもんじゃない。(汗)

ところで、私の上達は早かっただろうか?
自分ではわからないが、先輩方からも先生からもその上達の早さに驚かれ、気が付けば先輩方を追い越し、そして周りからも認められるようになっていた。

でも、それは何故だろう?
一言で言えば夢中になっていたということだろうか?
「好きこそ物の上手なれ」ということわざがあるが、まさにそんな感じだったように思う。

とにかく先生にくっついてまわった。
全員で演武する時はいつも先生の一番近くに行ってそのパワーをもらおうと思ったし、演武しながらも盗めるところは盗みたいと思った。
 個別練習の時も、「先生早く来てくれないかなぁ~」と待ち遠しく、耐え切れず先生を呼んでしまうことも。(笑)

先輩方もそんな私のことを気遣ってか、食事会の時も常に先生のすぐ隣の席を譲ってくださった。
今思えば私は先輩方に恵まれていたと思う。

その後、引っ越しのために教室を移らざるを得なくなったが、その教室でも同じだった。
練習開始時間より30分早く練習場に行き、部屋の照明を入れ、夏は冷房、冬は暖房と、先生が来られる前に部屋の準備を済ませ、そして先生が来られる前に自主練しまくった。

稽古中も先生にくっついてまわり、2年目には先生と二人きりで共演もさせて頂いた。
先輩方からも将来有望と褒めて頂き、そこでも食事会の時は先生の隣の席を譲って頂いた。
本当のことを言えば食事会の時まで先生のそばにいるというのは恥ずかしかったのだが、今思えば先輩方も私のやる気を買ってくださっていたのだと思う。

隣県の道場に通っていた時も同じ。
常に先生に密着しまくった。
お茶会でも先生を質問攻めにし、帰りの電車ではその日覚えたことを思い出す限りノートに書き出した。
無論先生に対しての礼儀も忘れなかったし、お礼のメールも欠かさなかった。

そして今の私は?
一応、去年からサークルで教える立場にもなったが、まだまだ修行中の身。
11年やってきて、本当に気持ちのいい演武ができたのは自分の記憶の中では2~3回程度。
常に自問自答しながら日々練習している。

恐らく太極拳に終わりはないんだろうなと感じた。
逆に、これこそが太極拳の醍醐味といおうか。

2004年8月

2014年7月7日月曜日

全日本反省会

全日本を終え、昨夜バスで帰ってきた。

結果は審判の方々に良い点を頂け、去年に比べ順位も上がったが、自己採点は非常に厳しい。
自分が腹立たしくて仕方ない。
ベストコンディションで挑んだはずなのに、本番ではいつもより気が上がってしまい、それを最後まで引きずってしまった。

実はいろいろ心配ごとがあった。
ここで書くに値しないほどつまらない理由なので割愛するが、
やはり試合の時は試合だけに集中できるよう、準備を整えておきたいと思った。

試合はもちろん、気功でも太極拳でも大事なこと。
無我無心の状態をつくること。
ざっくり言えば、頭の中を空っぽにすること。

頭の中に余計な情報が入っていると、試合に集中できないし、神気も宿らない。
いわゆる考えながらやったのでは、本来の力が出せない。

次に、心を鎮めること。
今回はちょっと気持ちが浮ついていた。
理由は解らないが、気が散漫になっていたので心がそのまま心臓にあるという感じだった。
本当は足の裏、いや地中にまで落としたかったのだが。

陳式太極拳では、型の最初の方に震脚(しんきゃく)があるが、今その理由がわかったような気がする。
最初の時点で気を地中に沈めておけば、その後、心も体も安定し、良い状態で演武が続けられる。

以前習っていた陳式の先生が仰ってたが、
「地球の真裏まで振動が伝わるように」という教えが今になってその意味がわかったという気がした。

それに振脚によって一瞬で邪気を払うこともできる。
物事がうまくいかない時や腹が立った時、地面や壁を思いっきり蹴りたくなるが、あれは人間が本能的に行う邪気を払う動作なのかもしれない。
確かにその後気分がスッキリする。

楊式太極拳である以上、振脚は出来ないが、本番前ならできる。
頭の中をクリアにし、気を地面に沈める。

8月の伝統大会ではこのことを踏まえ自分でも納得の行く演武ができるようになりたいと思った。

2014年6月27日金曜日

太極拳で気持ちよくなるために

最近サークルでは本当にやる気のある方が増えて来て、日増しに盛り上がっているサークルに喜びを感じている。
特に全員が口を揃えて仰ることは、「気持ち良くなりたい」ということ。
そして、私もまた会員さん達全員に気持ちよくなって欲しいと思う。

天、人、地、という言葉があるが文字通り、人は天と地の境におり、太極拳ではまずそれを体感しながら套路を練っていく。
大地を踏みしめ、そしてその上はすぐに宇宙だ。
大地も宇宙にも絶大なパワーがある。
人間はそのパワーとパワーの狭間に生きているのだ。

それを感じないで生活するのはあまりにももったいない。

だから型を一通り覚えたら、今度は天と地を意識しながら動いてみる。
脚は大地に根付くように、そして体幹と手は宇宙に溶け込んでいくように。
あるいは空を舞うように。

手足の位置がどうとか、関節の使い方がどうとか、そんなことを気にしていたらいつまで経っても太極拳の柵から脱出することはできない。
気持ち良くなるためには心を解き放ち、意と体の動きを一致させること。
やりこんでいくと意よりも先に体が動き出すだろう。

何者かが突き動かすように体をどんどん導いてくれる感覚。
これが武術につながるかどうかはわからない。

ただ、とにかくこの感覚は気持ちいいし絶大なヒーリング効果がある。
自分のいる世界がちょっと上がったような感覚。

身長は変わらないのにまるで体が浮き上がったかのように見ている世界もかわる。
そのためにも大事なことは力みを完全に抜くこと。

ここ感覚を得ながら全員で演武できるようになればどれほど素晴らしいだろう。

2014年6月23日月曜日

伸びる人そうでない人

私の指導歴も1年と2か月半となった。
その中でも経験の有無問わず伸びる人とそうでない人がいる。
なにが違うんだろう?

思いつくことはいくつかあるが、
一言に集約すると“素直さ”だと思う。

先日、野外で練習していたら丁度遠足をしていた小学生達と出会わせ、女の子も男の子も私の元へと集まってきた。
いきなり質問攻めにあって照れ臭かったが
せっかくだからと演武を披露することにした。
そして、ある子が私の演武をビデオで撮影し始めた。

あとで、そのビデオを観て驚いた。
数人の子達が私の演武を真似ているのだが、その動きがほぼ私と同じなのだ。

子供は余計なことを考えない。
頭の中に余計な情報が入っていない。
見たままを素直に受け入れる。
その結果、その場で動きを上手に真似ることができる。

私は50代になるが、それでも自分は素直でありたいと思っているし、死ぬまでそうでありたいと思っている。
なぜなら素直こそ上達の早道だと思うから。
それに素直な人は人から愛される。
そして私もまた素直な人が好きだ。

私が太極拳を始めた時はまず先生の動きを丸ごと真似することから始めた。
先生の演武に憧れたからだ。
自分も先生のように演武できるようになりたい。

そして、いつしかこう考えるようになった。
前で模範演武をしているのは先生ではなく自分だと。

あの人は自分より長いからとか、
才能があるからとか、
元々素質があるからとか、
だから自分には無理なんて思ったらその時点で成長は止まってしまうだろう。

見たものをありのままに受け入れる。
それが一番の上達法だと私は思う。

実際に上達の早い人は、模範に忠実で、しかも私が教えたことを家できちんとやってくる。
素直さこそ無敵だと言いたい。

2014年6月20日金曜日

なぜ気功をするのか?

沈むことと勁力が重要なのは知識としてはわかっている。
だが、実際自分がどこまでその力を出せているのかはわからない。

一昨日、仲間と長時間に渡って対練をした。
推手、散手、崩し合い、引っ張り合い、打ち合い、などなど。

最後の方はクタクタになってしまっていたが、後日仲間からメッセージが届いた。
私の勁力が数段上がっているということと、安定感が増しているというのだ。
全く自覚がないだけに喜んでいいのやらどうやら。
いや、でも嬉しい。(笑)

それにしても勁力とは一体なんのことやら?
因みに私は筋力に頼らない力だと解釈している。
それはいわゆるあらゆる方向に使える重力なのではないかと。

重力は万有引力の法則から上から下へ落ちる力だ。
が、体幹を使うことによってその重力をあらゆる方向へと働かせることが出来る。
正確には遠心力ということになるのだろうが、振り回すことによって振られる方向に働く力には遠心力と共に重力が働いている。

体幹を使えば手の筋力は一切使わなくともその重力を働かせることが出来る。
しかもこれが当たるとかなりの破壊力があることも対練で経験した。

話を戻すとしよう。(笑)

私の勁力がもし本当に上がっているのなら、それはなぜか?

普段毎日していることはといえば、気功だ。
太極拳の練習をする前には必ず気功を40~50分ぐらい行う。
歯を磨ないと寝れないのと同じで、気功をしないで太極拳をしようとするとなんだか気持ち悪くて仕方ない。

一見、何の効果もないような気功。
しかし、毎日の積み重ねで確実に目に見えない力が培われているのだと思った。

ある師は毎日ひたすら気功をし続けた結果、指先で人を吹っ飛ばす力を身につけた。
それを何度も目にしてきただけに気功の絶大なパワーは無視できない。

それゆえに、目に見える効果はすぐには現れなくとも、私の中では絶対欠かせない日課になっている。

2014年6月7日土曜日

モチベーション

私が太極拳を始めたのは仕事もデスクワークだし40近くなって体力の衰えを感じていたから。
なにか体力を養うことをしたい。
そう思いながら近くの公民館の張り紙をみて、これだ!と思ったのが太極拳だった。
太極拳には神秘的な魅力があったし、その不思議ワールドに首を突っ込んでみたいと。

ところで、太極拳を行うにあたってのモチベーションってどんなものだろう?

自分一人で演武できるようになりたい。
先生に褒められたい。
イベントに出てみたい。
試合に出てみたい。
資格をとりたい。
将来的に教室をもちたい。

いろいろあると思う。
私は習い始めた頃から、教える立場になりたいと思った。
それが私にとってのやる気になった。
だから先生に教わったことは、家に帰ってすぐに復習したし、今度までにきちんとできるようにしておきたいと思った。

そして今小さなサークルで教えているが、私が会員さんに対しアプローチしたいことは、教えることより見せることだと思っている。
突っ立ったまま腕組みして指示するだけでなく、太極拳って気持ちいいんだよというのを身を以て見せたいと。
なぜなら、私が最初に就いた先生がそうだったから。

気持ちイイは伝線する。
同じ空間でなければ得られない一体感。
前にも言ったが太極拳はライブなんだ。

私が初めて習いに行ってまず思ったこと。
「先生のように気持ち良くできるようになりたい」
そして、私もこれから始める人にとって同じように思われるようなりたいと思っている。

2014年6月6日金曜日

納得いかない自分の演武

最近、演武をしていて自分が下手に思えてならない。
そう思うと、ますます自信喪失し、状況は悪化する一方・・

が、よく考えてみれば、これって周期的に起こること。
良かったと思えた演武が、ぜんぜん納得いかなくなったり。

そんなこんなで今日は試合用の套路をビデオに収めてみた。
悪くない。(笑)
いや、むしろ悪い先入観があったからちょっと感動してしまったり。(笑)

以前は自分ではできているつもりでもビデオに収めてみたら吐き気がするほど許せない演武だった。
その許せないパワーで、基礎練習>套路練習>ビデオ収録>反省会 という具合にこれを何度も何度も繰り返した。

さすがにすぐには上達しない。
納得行く演武が出来ている自分を強くイメージし、毎日休むことなく練習を重ねるしかない。

去年の自分と今の自分の違いといえば・・
去年は丁寧に演武することでいっぱいいっぱいだった。
が、今年はある程度細かな部分まで気が行き届くようになったように思う。

やはり、やり込まないと風格は出ないんだなと感じた。

2014年5月30日金曜日

手は触覚?

太極拳には聴勁と言う言葉があります。
相手の動きをいち早く察知し、それに対応する力を身につけるわけですが、
これがなかなか難しい。

ある時ふと思った。
太極拳で言う、手は虫の触覚に似てると。
虫は目があまり見えない分、触覚であたりの様子を確認している。

太極拳もしかり。
手で相手の動きを読み取る。

少し前のブログにも書いたが、手で受けるのではなく手で相手の動きを読み、手で相手の動きを制したり無力化したり、あるいは相手の力を利用する。
決して力づくで制したりするのではない。
つまり手を触れておけば、相手の動きが読めるようになるので、次への対応が迅速にできるということだ。

最近、サークルで推手を始めたが、力んでいるとすぐにわかる。
一人ではわからなくとも二人で行うことによって、自分が力んでいるか、そして相手の力みもわかるようになる。
力まず離れず。

力むと聴勁が鈍り、かわしたり、いなしたりするどころか、そのまま相手に腕ずくで倒されてしまうだろう。

しかも、力むと勁も通らなくなる。
勁が通らなくなると発勁が使えなくなる。
非力な女性でも戦える太極拳は勁力を使うことで大男と戦える武術だ。
だから、まず最初は力みをとることを最優先したいと考える。

2014年5月22日木曜日

木刀で練習してみた

試合が迫っていると言うのについ油断してしまった。。

毎日平均12~15項目程の練習をこなしているが、剣や刀に関しては本当に練習場所に困る。
以前はところ構わず、家の前の道路や近所の駐車場、あるいは公園で剣や刀を振り回していたが、かつて公園で剣を振り回していたら管理事務所から苦情が入り、
はたまた無料施設でおもちゃの短いスポンジ剣を振り回していたら、こちらでも禁止命令が・・

かといって部屋でこれらを振り回すと照明にぶつけるわ、天井を突いてしまうわで・・
本当に困ったものだ。

太極拳を始めてからとても体が丈夫になったのだが、繊細肌は相変わらず。
野外で長時間練習していると、大気汚染の影響で気管支や肺が苦しくなり頭痛と共に熱っぽくなる。
かといって、マスクを着用して剣を振り回したりしたら、それこそ通報されかねない。(苦笑)

やむなく今日、有料施設を片っ端から予約したが、
ひとまず最近ずっと剣や刀を手にしていなかったので今日ひさしぶりに持ってみた。
すると、かつてのように勁が通らなくなってしまっていた・・

しょっちゅう練習していた時はこれらが体の一部のように感じるようになっていたのが、触っていないとこうもコントロールが効かなくなるものかと。

ということで、今日は部屋の中で重ための木刀を使って練習してみた。
重いだけのことはあり、刀の先端が下がり気味になるし、振り下ろす時は重みで下がり過ぎてしまう。
が、これこそ短期間で感覚を取り戻す最良の方法だと感じた。

チャンピオンクラスの選手の演武を見ていると、剣や刀の先端まで気が通っているのが見ていてわかる。
そうなるには、やはりどれだけ剣や刀を触っているかだと改めて思った。

2014年5月3日土曜日

力みの抜き方とは?

先日、師匠から教わったこと。
手で戦うのではないということ。

といっても別にそういう説明を受けたわけではない。
対練をして、そのことに気づかせていただいた。

こちらが攻撃をしようとして師匠と手が触れても、まるで柳の枝に触れたかのようにまったく抵抗がない。
その瞬間に師匠の拳や掌が自分の急所に入っている。
風のように動き、水のように襲い掛かる感じと言おうか。

そして、それは演武にも表れていた。
ずっしりと重いようにみえて、ふわっと軽くも見える。
天と地の狭間でそれらを自在に操っているかのよう。

正直カッコイイと思った。

それから私の演武も変わってきた。
沈むように、
そして舞うように、
明らかに気持ちがイイ。

力みを抜こうとガンガン抜筋骨を行っても、その動作自体に力みがあれば力みがとれることはない。
こればかりは自分だけでは決して気付けないことなんだと思う。

力みをとる最善の方法は、それを習得されている師と時間を共にすること。
その力みのない状態が空気から伝わってくるし、手を合わせることでそれを知ることが出来る。

あくまでも私の経験上だが独学で放鬆(力みがなく気が沈んでいる状態)を習得するのは不可能に近いと思う。

そういう私もまだまだなのだが。。

2014年5月2日金曜日

人は水であることを知る

私の本業は美容健康コンサルタントだが、相談を受けた方にいつもこう説明する。

人間の体の60%は水、そして30%がタンパク質
そして、人間の体(細胞)は200日で全て入れ替わる。(脳細胞以外は)
つまり人は200日周期に生まれ変わっているということになる。

肌のシミがとれない。
それは床についたシミと同じではない。
ダメージを受けたDNAがシミを作り続けているから消えないのだ。

まず健康になりたかったら、人間の成分の大半である水を変える。
汚染された水を体内に入れれば汚染された体がつくられ、きれいな水を入れればきれいな体になる。
健康になることは、とてもとてもシンプルなことなのだ。

それに加えタンパク質も良質なものに変える。
すると病気をしない丈夫な体になり、肌もどんどんきれいになる。

私のもうひとつのブログでこのことは散々唱え続けているが、それに共感してくださる方からの問い合わせがこの6年間止むことがない。
何を隠そう、私のひどかったアトピーが完治したのは水とタンパク質を変えただけだから。

武術の話とかけ離れてしまった。(笑)

いえ、まったくそうでもないのだが、要するに人間の体は水でできているということ。
水に思いっきり蹴りや突きを入れてもダメージを受けることはない。
それどころか、猛烈な勢いで水が押し寄せると、どうなるかというのはご存じのことだと思う。
水はとても優しくとても恐いのだ。

形から脱しよう。
人間の体は水なのだ。
水は打たれても力を無力化してしまうし、水をぶつければ相手を倒すことも出来る。
水鉄砲の威力を増せば鋼鉄であろうと穴を開けてしまうほどのパワーがある。
あのとてつもなく重い蒸気機関車を動かすのも水のパワー。

それともう一つ。
人間の体はアミノ酸でつくられているが、そのアミノ酸は分子からなる。
その分子は原子と電子の組み合わせ。
その原子と分子の間は空間。

この空間の正体はなんだろう?
私は“宇宙”であり“気”だと思う。

まとめると、自分は“水”であり“気であることがわかれば、本当の太極拳の意味がわかってくるのではないかと考える。
私はそれを突き詰めて行きたい。

2014年4月27日日曜日

独立歩を目標にしてはいけない

片足で立つことはバランス感覚が要求される。
だからといって、片足で立つことを目標にしてはいけないと思った。
因みに片足で立つ歩形のことを独立歩という。

なぜ片足でバランスをとることを目標にしてはいけないかということだが、武術的には片足で立つことが技ではなく、技を完成させるために片足になる必要があるから。
当たり前過ぎてわざわざ語ることでもないのだが。(笑)

例えば踵脚や金鶏独立。
蹴ろうとすれば自ずと片足立ちになる。

だから、片足立ちになることが目標ではなく、その上で蹴らなければいけないわけだ。

太極拳では蹴り技もゆっくり行う。
あのゆっくり蹴るという動作は軸感覚を養い、気を沈めることを自然と行うようになり、そして片足状態で思いっきり蹴ってもバランスを失うことなく体制を維持することが出来るようになる。
攻防一体型の中国拳法ではこの片足立ちでバランス感覚を養うことはとても重要ということになる。

いずれもバランスのとれた独立歩を目指すのではなく、目の前に敵がいると思って蹴る。
すると不思議と体が安定する。

この意識がないと、今でもバランスが怪しくなることはしょっちゅうだ。

いずれ、片足、指一本で両足で立つ相手のバランスを崩すことができるだろうか?
チャレンジしてみたい。

2014年4月25日金曜日

套路を覚えてからが出発点

私が初めて習った太極拳は伝統楊式太極拳。
あまりにも先生が気持ちよさそうに演武してるので、自分も早くそうなりたいと思った。

どうすれば先生のように力みがなく柔らかい動きになるだろうと。
そのためには早く覚えてしまうことだと思った。
先生の演武をみながらやっていたのでは、いつまでたっても力みは抜けないと。

だから、本当の太極拳は套路を覚えてからだと。
覚えるというより、覚えきってしまうという感じだろうか。

そして、今度は体にやらせる。
頭で動こうとするのではなく、自分自身に勝手にやらせるのだ。

何かを始めようとする時、決まって頭で考えようとする人をみかける。
かつての私も何か行動する前にいろいろ考えてしまう悪い癖があった。
太極拳を上手に演武するにはどうすれば?と考える。
この時点で本当の太極拳ではなくなってる気がする。(覚えるまでは無論頭を使うが)

いずれも頭の中に貯蔵されているデータは過去のデータのみだ。
過去のデータをどんなに参照しても今以上の演武ができるわけがない。

ではどうすればいいか?
私は“腹に任せる”という感じで考えている。

腹(丹田)は体の中で唯一未来のパワーを貯蔵することができる部分。

考えないで動こう。
頭を使わなければ自動的に丹田にスイッチが切り替わる。
腹は自分でものを考えることができるのでリトルブレインと言われているが、とにかく丹田にやらせる。

自分のまわりをとりまくものは空気だけではない。
水蒸気、イオン、磁気、プラズマ、宇宙線・・
さまざまなものが存在する。
その中でも自分にパワーを与えてくれるものだけを自分の中と周りに集める。

体幹から手をすぅ~~っと流していくと、空間の粘りのようなものとビリビリビリ~という磁力のような摩擦を感じる。
頭で考えたり力で動くとしているうちは決して体験できない感覚だと思う。

頭をからっぽにすることはストレス解消にも大きく役立つし、太極拳の本質を掴んでいくステップになると私は信じる。

2014年4月24日木曜日

キレイを目指すなら伝統楊式太極拳

タイトル通り、キレイになりたかったら絶対伝統楊式太極拳をすすめる。

これまで10年以上の武術経験の中で様々な武術を経験してきたが、最も美肌効果が高いのは伝統楊式太極拳だった。

私は本業が美容家なので、肌チェックは常に行っている。
肌チェックを行って良くとも悪くともその前にしたことを思い出してその原因を探る。
こうして、肌に良いことと良くないことを体で覚えてきた。

24式太極拳もいいのだが、時間が足りなすぎる。
それに技の展開が早いのでどうしても力みが生じがち。

伝統楊式太極拳は、仮に野馬分宗(のまぶんそう)にしても5回繰り返す。
1回目、2回目でしっくりこなくとも、3回目、4回目で無駄な力が抜け柔らかい動きができてくる。
繰り返すということには実に深い意味がある。

私は元ベーシストだが、ファンクミュージックを好んだ。
理由はひとつ。
ベースラインがとてもシンプルだからだ。
延々と同じパターンを繰り返す。
なのに飽きない。
それどころか、どんどん体内の躍動感のようなものが上昇し、丹田がうずき始める。
この時にグルーヴというものが生まれる。
グルーヴとは頭で感じるものではなく腹で感じるものだ。

繰り返すことは体にいい。
そして美容にもいい。
約20分ぐらいの伝統楊式太極拳を行う前と後とでは肌のツヤとハリが驚くほど違う。
それに、私は50になるのに尻がぜんぜん垂れていない。
腹も全く出ていない。

これ、伝統楊式の隠された美容効果。
論理的に説明することもできるが長くなるのでまた機会があればと。

とにかく一度体験されてみて欲しいと思う。
太極拳はとても気持ち良く、そして、どんどんキレイになる最高のエクササイズなのです。

2014年4月21日月曜日

人は人によって成長し変わる

昨日行った青空太極拳ではかなり自分なりに感じるものがあった。

かつてこれほど気持ちのいい太極拳があっただろうか。
ひとつ言えることは会員さん向けの模範演武ではなく、思いっきり自分のしたい演武。
中からナニモノかに突き動かされるように体が操られているようだった。

それは美であり、術でもあり、ヒーリングでもあったように思う。

もうひとつ感じたこと。
人は人によって成長するということだろうか。

私はこれまでの人生で何万人という人と接してきた。
人を知るためには自分を知らなければならない。
人の痛みを知るためには自分が痛みを知らなければならない。

大自然の中で行う太極拳も地球、宇宙との一体感が得られ大変気持ちいいが、
人の中で行う太極拳も明らかにそれとは違う気持ち良さがある。
特に今回は見せるための太極拳ではなく、自分が本当にしたい太極拳を表現するという感じだった。

私の演武を動画撮影されている方もおられたが、私が感じて欲しかったのは見た目の演武ではなく、私が何を感じているか。
それをカメラに収めることはできない。
音楽もCDで聴くよりライブの方が確実に演奏者の魂がダイレクトに伝わってくる

20代の頃、音楽活動をしていた私が10年近くかかってわかったこと。
人を動かすには自分が動かなければならないということ。
人を気持ちよくさせたかったら、自分が気持ち良くならないといけないということ。
その時こそ一体感が生まれることを知った。

ひとりでやる太極拳も楽しいが、大勢でやる太極拳も確実に楽しい。
そのためにも人の中でやらなければ、人を動かすことのできる太極拳は生まれないのではないかと思えてならない。

2014年4月10日木曜日

太極拳はカンタン

私の口癖。
「簡単でしょ」
サークルで指導している時、頻繁に口にする言葉。

これは私が勝手に思っていることだが、元々とてもシンプルだった太極拳が時代の流れと共に多くの人に親しまれるようになり、それに伴い指導者も増え、その結果非常に複雑化してきたように思う。
情報が多すぎるのだ。

たった一つの動作でも、あまりにも気にかけないといけないことが多すぎる。
それを気にして動こうとすると頭がついていかず、身動きとれなくなり挙句体中に力みが入ってしまう。
ガチガチの状態で、これが健康的と言えるだろうか?
美しいと言えるだろうか?
はたまたこれで戦えるのだろうか?

一度、白紙に戻してみよう。
頭をからっぽにし、本能に身を任せる。
すると実は太極拳がとてもカンタンであるということに気づく。

私の師匠は、弟子に套路を教えない。
ただついて真似るしかない。
だが、真似ているだけでも自然と覚えることができる。

いや、むしろいろいろ説明されない方が師匠から出ている空気を感じることが出来る。
その空気こそ太極拳で一番大事なことではないかと思う。

太極拳の技は早く動けばとても簡単な動作だ。
相手を倒そうとすれば、姿勢や動作、細かな注意点など気にしなくとも、自然と出来ていたりする。

太極拳は喧嘩するための武術ではない。
自分の身を守るための武術だ。
いつ、どんな災難に遭っても、老若男女問わず自分で自分の身を守ることのできるすぐれた護身用武術。

その上、健康、美容効果もすこぶる高いから願ったり叶ったり。
しかも曲線を描く動きだから、見た目もとても美しい。
美しくしようとしなくとも、美しいのだ。
見ているものを魅了する不思議な力がある。

これだけのことが得られる太極拳。
まったく難しくはない。
多すぎる情報に惑わされないよう。

私も、会員さんになんとか覚えてもらおうとついつい言葉数が増えてしまう傾向があるが、これからは言葉数を減らして行こうと思う。
情報の迷子にならないよう。
そして太極拳を心底楽しんでもらえるよう。

2014年4月7日月曜日

力みを抜くことは本当に難しい

一昨日、恐らく6年ぶりになろう恩師と東京で再会。
私に初めて太極拳を教えてくださった師だ。

その後どのように変わられたのだろうとドキドキだったが、お会いした瞬間、雰囲気お変わりなく懐かしい気分になるとともに少しホッとした。

太極拳と言えば、健康志向、表演志向など様々だが、師匠は完全に武道家。(ご自分では武術家とは仰らない)
ひたすら自分の中の“強さ”を求め日々修行しておられる。

今回、師匠を見て感じたことは、とても柔らかくなられたということ。
武術そのものだけでなく、人格的にもとても柔らかい空気を感じた。
以前の師匠はとにかく恐かった。
目つきが鋭く、触れるとこちらが痛い思いをするので近づくことすらできなかった。

稽古が始まり、まず最初に指摘されたことは筋力で体を支えようとしていること。
バレないようにと思っていたが、すぐに見抜かれてしまった。(笑)
確かに以前の自分は筋力で支えることを避け、常に力を抜くことを心がけていたのだが、試合向けの練習をするようになってから、筋力で支える癖がついてしまったようだ。

試合と言えど、筋力に頼らない沈む力と天(宇宙)に広がる感覚で動くことができないかが今後の自分の課題になりそうだ。

推手(すいしゅ)や散手(さんしゅ)も行った。
ここでもやはり力みを指摘される。
自分の中では限りなく力を抜いているつもりなのに、まだまだ力みがあったようだ。
どこに力みがあるかは解らないが、確かに無意識ながらも相手の動きに対抗しようとする力が働いてしまっていたんだろう。

「風を起こす」という師匠のアドバイスを元に限りなく力みを排するよう意識し、相手の動きに逆らわず合わせるように集中してみた。
一瞬それが出来たようで私の相手をしてくださったお弟子さんもそれに気づかれたよう。

そして、最後は勁力、いわば貫通する力を体験させていただく。
というより、今回私が師匠にお会いしたかったのはこれを一番体得したかったからだ。
勁力のコントロールを誤ると、内臓を傷つけてしまうばかりでなく死に至ることもあるというので内心怖くて仕方ないのだが、こればかりは経験しないと決して解らないこと。

腹に指先や拳を添えられ勁を通して頂く。
気は流れるものだが勁は貫く力があるという。

そしてこの時に初めて褒めて頂いた。
丹田が出来ていると。
毎日、立禅気功をした成果だろうか。

いずれも、腹に勁を通され、数十分後から腹に鈍痛のような痛みが出てきて、それが2時間ぐらい続いた。
今回、師匠もかなり手加減してくださったのだが、10年ほど前に勁を通された時はその瞬間から翌日まで腹痛が続いた。
それもそのはず、その頃の私はまだまだ全く丹田が鍛えられていなかったからだ。

やはり師匠の勁力は本物だった。
そして自分の丹田が以前に比べ変わったということが解ってとても嬉しい気分になった。

勁力は目に見えない。
発勁も目に見えない。
本物の勁力は体内を通って相手の体を貫通させてしまう力。
意識の世界だから目に見えなくて当然といえば当然なのだが。

いずれも力みがあるうちは、この力を得ることはないだろう。
今日から、筋力に頼ろうとせずに、もっともっと力みを捨てるよう練習しよう。

今回は本当に貴重な経験をさせて頂いた。
師には心から感謝の気持ちを述べたい。

2014年4月3日木曜日

架式を落とさないと見えてこないもの

当会では、個々の体力に応じ自由な架式で練習するよう推奨している。
因みに架式とは腰の位置であり、低い架式では高い架式より脚力と軸感覚が要求される。

現在、この武術界では怪我防止のために架式を高くする傾向にあるが、あえて私はそれにはあまり賛成できない。
なぜなら、高い架式ばかりで練習していては脚力を養うことができないばかりか太極拳で最も重要な“気づき”を得られるチャンスを逃すことになるからだ。

老化は足からくる。
だからこそ、最近ウォーキングやジョギング、ノルディックウォーキングなどがもてはやされている。
人間は歩くことによって進化してきたわけだし、赤ちゃんも二本足で歩き出すことによって知能が発達する。

太極拳は脚力や軸感覚を養うのに大変優れた武術だ。
しかし、足や膝を労わってばかりいたら老化防止の役に立たないものになってしまうだろう。

「使わないものは退化する」
これは私が長年健康医学を勉強してきて到達した答えだが、もはやそれも最近ではこの考えが徐々に広まりつつあるようだ。

だから、あえて、架式を徐々に落として練習することをすすめる。
落とさなければわからないことがたくさんある。
低くするとまず最初に感じることが脚力のなさだ。
そして次に軸感覚。
低い架式で歩行するにはバランス感覚が要求される。
逆に言えば、この練習を積んでいけばバランス感覚が養われていくということになる。

そして、私がもっとも重要だと思うことは、脚力を養うことで初めて無駄な力を省くことができるということ。
最初はどうしても手で動こうとしてしまう。
しかし手で動こうとするとどうしても体の各所に無駄な力が入ってしまう。
余分な力を排することが出来なければ気の通り道である経絡を開くことができないし、健康的にもあまり効果を望めなくなる。

いずれも余分な力を抜くことで初めて太極拳の本当の素晴らし世界に入ることができる。

自分をとりまく気の存在、そして粘り、そしてその心地よさ。
空間との一体感。
地球との一体感。
宇宙との一体感。

一体感は不安や恐怖心と取り除き、癒しと勇気を与えてくれる。
そして何よりとても気持ちいい。

この世界への入り口として、足を労わってばかりいるのはやめて、積極的に体を動かしていこうと呼びかけて行きたい。

2014年3月30日日曜日

お尻を突き出してみる

今、習ってる教室では老師にもっとお尻を突き出しなさいと指導される。
今でこそその意味が解るようになったが、
楊式太極拳ばかりやってきた私にとって、“お尻を突き出すこと=悪”とさえ考えるようになっていた。(笑)
それぐらい、お尻を突き出すことはタブーだと教えられる。

が、実際戦う場面を想定したらどうだろう?
楊式の場合は尻を突き出すような場面はほとんどないが、
陳式太極拳や他の拳法ではお尻を突き出すというか、腰を入れなければ勁力が使えない。
お尻を突き出せば丹田にパワーが漲ってくるし、上体や腕の余分な力も抜ける。

大事なことは、お尻だけを突き出すのではなく、「腰を入れる」ということだろうか。

何か重たいものを押そうとしたり、重たいものを引っ張ろうとする時、必ず腰を入れた体制になる。
これこそが尻を突き出す形になる。

股関節を折りなさい。
クワを入れなさい。
尾骨を入れなさい。
背筋をまっすぐにしなさい。
尻を締めなさい。
ヘソを上に上げなさい。

いろいろ言われるけど、腹からパワーを出そうとすれば自然と気沈丹田、鬆腰、尾呂中正の形になる。

言葉や情報は多い方がいいとは限らない。
なるべく自分の中でシンプルに整理することが大事だと思う。

2014年3月25日火曜日

考えて練る。無心で練る。

套路を練る時、考えながら練ることと無心で練ることが大事だと思った。

考えながら練る時は、歩法、動作の正確さ、技の用法、気の流れ、放鬆(ほうしょう)、気沈丹田(きちんたんでん)が出来てるか?などチェックしながら通す。
というか、ただただ套路を通していただけでは何の意味もないだろう。

かつて近所の公園で練習してた頃、決まって夜更け頃になるとある楽器を練習をする人と遭遇した。
毎回同じ曲を練習されているのだが、毎回同じところでミスをする。
それを何度も何度も繰り返し、それをひたすら毎日のように練習している。
過去、演奏家だった私は、何度アドバイスしようかとも思ったが、
まあ、本人が楽しんでいればそれでいいわけであって、私が横から口出しするのは余計なお節介にしかならないと。

いずれも何も考えないで練習していると、こういう現象が起きる。
套路を通す時もただただ通していただけでは、悪い癖はそのまま、いや、放っておくと良かったところさえ悪くなっていくことも考えられる。
だから、套路のひとつひとつの技を丁寧に練習することはとても大事だと思った。

苦手な部分があればそこだけを何度も繰り返し練習する。
その時もただ闇雲に繰り返したのでは悪い癖は直らないから、どうすれば良くなるかその方法を考えながら練習する。

自分で納得いく套路が通せるようになったら、今度は何も考えないで無心で通してみる。
その時に体の中のエネルギーの流れや自分のまわりをとりまく「気」を感じるはず。
無心でなくては得られない感覚だ。

だから太極拳は2度楽しめる。

2014年3月23日日曜日

楼膝拗歩の用法と効能

昨日は仲間と公園で3時間ほど練習。

楊式太極拳の楼膝拗歩(ろうしつようほ)の用法が今までイマイチしっくりこなかったが、ようやくその技の使い方がわかった。
一般に知られる使い方ではかなり無理があるというか、
アレでは敵の強力な蹴りには決して対応できない。

要するに演武通りにやると、まったく使えないということ。
踏み込んでから払って打つのではなく、同時に行わなくては相手の力に絶対負けてしまう。
実際何度か試してみたが、そうすることで相手をかなり遠くまですっ飛ばすことができた。

打たせてから打つではなく、打たれる前に打てという感じだろうか。

それに楼膝拗歩は、蹴りに対する攻防だけではなく、受け手を変化させれば、どんな攻撃にも対応できる。
しかも攻撃するところも狙うところによっては、相手へのダメージをコントロールすることもできる。

まあ、こうして技の用法を研究するのは実に楽しい。

どこの教室でも楼膝拗歩はとても重要と教わる。
が、なぜ重要かまではなかなか教えてもらえない。

今回のことでわかったのは、楼膝拗歩ひとつで軸感覚、丹田感覚、インナーマッスルの鍛錬、技の訓練としてとても優れていることがわかった。

やっぱり太極拳は楽しい。

2014年3月21日金曜日

伝統拳と制定拳

最近、ある理由で32式太極剣を独習し始めた。
ひとまず一昨日11式まで覚えたので、恐らくあと2日程で覚えられると思うが
ひとまず11式まで通して思ったことは、流れが滞らないよううまく編成されているなと感じた。
42式剣のように発勁動作もないので、動きもひたすら連綿とした流れになっている。

なぜ、いきなり32式剣を始めたかは、親しい武術仲間が大会出場を目指すことになり、私も何か力になることができないかと考えたから。

私は頑張る人が好き。
あまり練習しないで大会に出ようとする人もいるようだが、悔いが残らないよう出来る限りの努力をしようとする人が好き。
なぜなら自分がそうだから。

話は変わるが、昨日サークルでこんな話をした。

伝統拳といえど、先生によってはそれにアレンジを加えたり独自のやり方を盛り込んだりする方がおられるようだが、私はそれはしない。
理由はひとつ。
それを作った方に対して失礼だと思うからだ。

長い歴史によって練り上げられた研究と努力の結晶を簡単に変更を加えて良いものか。
今は情報化社会で様々な情報が手に入るが、その分人間の勘のようなものが鈍ってきているように思う。
要するに単に情報を組み合わせて作り変えただけのものでは意味がないし、本当の太極拳は失われてしまうと考える。

それはお経や祝詞、聖書を自分の都合のいいように書き換えてしまうのと同じこと。
その時代でなければわからなかったこと、気付けなかったことが必ずあるはず。
それを現代流に勝手に書き換えることは歴史や創始者の意向を冒涜することになると。
そう思えてならない。

当会では独自にアレンジを加えない古来から伝わる伝統拳にこだわり、歴史を重んじ、それを一人でも多くの人と分かち合いたいと思っている。

2014年3月17日月曜日

10を覚えるより1を極める

かつての私は套路のレパートリーを増やすことに喜びを感じていた。
が、今はその逆。
誰にも負けないものをひとつ極めたいと。

私の場合は伝統楊式太極拳だが、まだまだぜんぜん納得がいかない。
日によってムラがあるし、うっかりするとバランスだって怪しくなることもある。

いずれ目を瞑ってても空間に溶け込むような演武がしてみたい。
まあ、こうなると武術ではなく、もはやスピリチュアルな世界になるが。

私は制定拳を3年程習ったが、それは確実に私にとって大きな財産になっている。
伝統畑で生まれ育った私は制定拳を学んでいる頃はずっと煮え切らない気持ちだったのだが、今ではほんとうに良かったと思っている。

何が良かったかといえば、言葉にするのは難しいが、少なくとも制定拳では伝統拳ではおざなりになっている部分を丁寧に教えてくださる。
まあ、そのおざなりになる理由もわかるのだが。(笑)

そんなこんなで、昨夜から24式太極拳を再度練り直した。
一度覚えた套路なので、すぐに思い出すことができたが、改めて24式太極拳の良さみたいなものを再発見した。
それは、身体に過度な負荷が掛からないようにつくってあるということと、危険な武術的要素をそうでない技に置き換え、見た目の美しさを重視していること。
今までは簡化太極拳をひたすら毛嫌いしていたが、これはこれでいいじゃないかと。(笑)

ひとまずいろいろ経験してみることは大いにアリだと思う。
その中からこれぞ!というものを極めていくのが良いのではないかと。
少なくとも、ただただ套路をたくさん覚えるだけでは全く身にならないし、それより一つを徹底的に極めた方がよほど応用が利くと思った。

2014年3月13日木曜日

気功によって上がるMPパフォーマンス

昨日は指導の関係で一日に気功を2度行った。
連日睡眠不足でまっすぐ歩くことも出来ない状態だったが、今までの睡眠不足が帳消しになるほど元気が蘇った。
噂には聞いていたがこういうことだったのかと。

なにがどう良くなるかといえば、大きく分けて二つ。
メンタルパフォーマンスとフィジカルパフォーマンス。
いわゆる精神力と体力がアップするということ。

ただいえることは、ただ、形だけの気功をやったのではこうならないだろう。
大事なのは内面。

人間が持つ最大のチカラ。
それはイメージ力だと思う。
自慢ではないが、今までの人生を振り返ると私の場合、ほとんどイメージ通りの未来になる。
逆にイメージしなければその未来は得られなかったということに。

何を想おうがそれは人の勝手。
イメージすることに制限を掛けてもダメだ。
イメージ力は無限大なのだから、そのパワーを100%使わなければもったいないし、
それはいわゆる人間だけに与えられた素晴らしい能力なのだから。

自分の体は本当に一個の固体なんだろうか?
それとも無限大に広がる偉大なパワーの一部なんだろうか?

いずれも自分の中に勇気や豊かさ、優しさが湧いてきたら、それは自分の中と外に気が集まってきたという証拠だと思う。

正しい気功を行い、あとはただ“想うだけ”で、これだけの特典が得られるのであれば本当にこんなに良いことはないと思う。

2014年2月28日金曜日

瞑想太極拳の入口

私は定式の度に止めるという動作がどうも好きになれない。
あれはあくまでも検定用の動作。

実際、打つ手をひっこめないで出しっぱなしだと関節技か投げ技を決められるだろうし、
あるいは手の動きを制され迎撃されるか。
とにかくコテンパにやられてしまう。

分脚や踵脚にしてもしかり。
蹴りあげて2秒ぐらい静止させる。
実戦でそんなことをしたら、急所をドカッと蹴られて終わってしまうだろう。

相連不断(そうれんふだん)とか演武均等(えんぶきんとう)ということばがある。
いわゆる動作を止めずに流れるように連綿と行いなさいということだ。

これには先ほども言ったように、定式(技が決まる動作)で止める動作は危険だということの他に、
勁が切れてしまうからである。これを断勁(だんけい)という。

気功ベースで太極拳を行っていると、動作を止めるとそこで気の流れが止まってしまう。
だから、定式で止めることなく連綿と行うことこそが本当の鍛錬法なのだと言いたい。

因みに高探馬(こうたんま)から分脚(ぶんきゃく)に入る動作の途中に名称のない技がある。
なぜこれに名称がないのかわからない。
実に実践的な技なのに。

いずれも当サークルでは2度目の復習から、定式で止めずにひたすら連綿と糸を切らないよう演舞することを考えている。
これこそが瞑想太極拳の入り口だ。

2014年2月22日土曜日

なぜこれをやるのか?

私は義務教育はてんで成績が悪かった。
多分、クラスでもビリから数えて5本の指に入ったと思う。

勉強だけではない。
体育も2以上をとったことがない。
つまり運動神経ゼロってわけだ。

そんな私が今ではサークルで指導している。(汗)

何故、勉強しなかったのか自分でよくわかってる。
それが何のためかわからなかったからだ。
ただ、押し付けられるだけでは、てんでやる気が起こらない。

太極拳教室にしてもしかり。
なぜ先生がそれを教えようとするのか解らないと、モヤモヤしてきて、全く集中できなくなる。

だから、私はサークルで何かを教える時、“なぜこれをやるのか”を務めて説明するようにしている。

準備体操はなんのため?
気功はなんのため?
歩法練習はなんのため?
基本功はなんのため?
套路の形を細かく教えるのはなんのため?

これらをきちんと説明することで、何も知らされないでやるよりも練習に身が入る。(と私は思っている)

今になって学生時代もっと勉強しておけば良かったとか、大学に行っておけば良かったとか思うこともあるが、
私はこれで良かったと思っている。

勉強も運動もてんでダメだったから、太極拳の型をなかなか覚えられない人の気持ちがわかる。
それに思うように体が動かないこともわかる。
なぜなら、私ほどどんくさい人間はいなかったと思うから。(苦笑)

40歳になる前ぐらいから始めた太極拳。
今では大会やイベントにも積極的に参加し、指導もしている。

だから、
覚えられるか自信がない。
体力に自信がない。
こういう方々は大歓迎です。

そういう人たちこそ私にとっては温かく迎え入れたい仲間なのです。

2014年2月21日金曜日

通過動作に隠された技

制定拳を習っていた頃、しばしば先生から通過動作というものを教わった。
簡化太極拳や総合太極拳などなど。

が、本当に通過動作なんだろうか?
いわゆる、技と技をつなぐための単なる接着剤のようなものなんだろうか?

制定拳はともかく、伝統楊式太極拳では通過動作と思われる動きが最近そうでないということが解ってきた。
例えば、攬雀尾から単鞭へつなぐ動作。
その部分には名称がない。

が、これが実に使える技であることを最近発見した。
無論、攻防一体技。
しかも相手に与えるダメージは相当大きいと思われる。

ただ、そのままオリジナル通りに行ったのでは技にならない。
乱用しないように技を隠したのか?
それとも、表演用として美しくつくりかえたのか?
それは解らない。
手の動きをちょっと変えると、とても恐ろしい技に変わるのだ。

楊式太極拳を始めて11年目になるが、未だ飽きるどころかどんどんおもしろくなる。
こんなに面白みが増してくるのではまだまだ簡単には死ねないと思った。(笑)

楊式太極拳というと“やわらかくゆったりとした太極拳”というイメージがあるが、
それはゆっくり演武した時の話であって、実戦レベルの速さで行うと、恐ろしい技の集大成であることがわかる。

陳式太極拳や呉式太極拳も本腰を入れて行おうと思っていたが、それどころではない。
まだまだ楊式太極拳を吟味したいと思った。

2014年2月20日木曜日

久しぶりの双辺太極拳

昨夜、久しぶりに双辺太極拳をしてみた。
そして空間との一体感を感じた。

太極拳は武術であり、神秘体験をするために生まれたものではないが、この感覚は何度体験しても気持ちいい。

楊式太極拳と何が違うのか?

まず圧倒的に違うのは歩形と歩法。
双辺太極拳の場合はずっと形意拳や八卦掌の歩形である中定歩(ちゅうていほ)で行う。
体重バランスは4:6
しかも楊式太極拳のように体重が前へ後ろへと明確な移動がない。
だからラクなのだ。

その分、瞑想状態に入れやすく、手の動きに専念できる。

個人的な意見を言わせてもらうなら、
検定目的ならともかく、健康目的であれば簡化太極拳より双辺太極拳を普及させたほうがいいのではと思う。
簡化太極拳も高齢者にも幅広く楽しんでもらえるよう年々架式(腰の位置)が高くなってきているようだが、体重移動をハッキリさせるにしても、これでは脚を積極的に鍛えることができないと思う。

老化は足腰からやってくる。
だから逆に言えば足腰を鍛えればいつまでも元気でいられるということになる。
無論、脚を怪我をした場合は庇わなければならないが、そうでない時も庇っていては足腰は弱る一方だろう。
使わないものは退化するのが人間のしくみだからだ。

とにかく双辺太極拳は脚や膝に極度な負荷をかけることなく効率よく脚力を養うことが出来る。
体力のない人やお年寄りにも優しい。

当会はまだ始まって1年経たないサークルなので、
残念ながらまだ双辺太極拳を学ぶものはいないが、いずれ習得して欲しいと思っている。

2014年2月18日火曜日

手の位置は?足の運び方は?

結論から言えばそんなことチマチマ考えていたら、武術としての太極拳として成り立たないし、気にしてる間に敵にやられてしまうだろう。

が、私はサークルで手の位置や足運びを丁寧に指導する。
それはなぜか?

正確な動作を身に付けるため。

太極拳の技はとても精巧につくられている。
10センチ、いや5センチでもずれると技として成り立たない。
特に防御の動作は10センチもずれると確実に自分の身体に攻撃を受けてしまう。

攻撃もしかり。
急所を外してしまったら、相手の反撃によって深刻なダメージを喰らうかもしれない。
だから、なにがなんでもヒットさせなければならない。
野球では投げた球がボールになっても、空振りになっても死ぬことはないが、武術では生死がかかっている。

それに、もうひとつ。
集団演武をした時に形が揃っていないと美しさを損なう。
だから、全員に対しオリジナルに則った同じ動作やフォームを指導している。

ところで、私は自主練をしている時に様々な型を練習するが、
その日によってスピードも、フォームも動作も違う。
手の位置や足運びも違う。
それは動作を気にしながら套路を練っているのではないからだ。

その日の自分の中にあるものが自分の体を動かす。
それに、攻撃する手の位置にしても、日替わりだ。
今日は顔面を狙ってみようとか、今日は心臓を狙ってみようとか。

防御にしても、制定拳で教えられるように必ずその位置に手や足が飛んでくるわけではない。
臨機応変に対応できなければそれは武術とはいえない。と私は思う。

集団演武をする時は基準に則って美しく。
そして自分一人でやる時は心地よさを求めて、瞑想を求めて、技のイメージトレーニングとして・・
同じ套路を練るにしても、毎日違うのだ。

だから、太極拳って飽きないんだな。

***

乱筆乱文お許しください。決して文章力がある人間ではありません。
不快感を感じられる方は失礼ながら退出をお願いします。

2014年2月13日木曜日

曲線の動きはボケ防止に?

過去の記事を自分で読み返して、感じたこと。
なぜ、太極拳は見た目簡単そうなのに、イザやってみようとすると難しいのか?
今、わかった気がする。

情報量が多いからだ。

前にも述べたが、曲線を点で表そうとすると無数の点を描かなければならない。
点の数が少ないと滑らかな曲線にならないからだ。
直線なら始点と終点だけで済む。

コンピューターも同じく、直線の処理は得意だ。
しかし曲線は苦手。
曲線は膨大なデータを必要とするし、その結果、処理時間にも時間がかかる。
今、書いているこの文字(フォント)にしても、きれいな曲線ではなくすべて点(ドット)で構成されている。

昨日、久しぶりに快練(太極拳の技を早い動作で行う練習)をやってみた。
直線的な動きであれば、それなりにスピードも出せるしパワーも出せる。
が、曲線の動きはなかなかそのスピードが出せない。

ならどうすればいいか?

力を抜くこと。
力が入っていると美しい曲線にはならない。
技が決まる最後の最後まで力(筋力)を出してはいけない。
言い換えれば曲線の動きの中でパワーを溜め、技が決まるその瞬間にパワーを炸裂させる。

元プロボクサー、モハメド・アリの「蝶のように舞い蜂のように刺す」という言葉があるが、まさに太極拳にもぴったり当てはまる言葉だと思った。

太極拳は綿拳(めんけん)とも呼ばれる。
綿の中に針を隠すという意味からつけられた名称のようだが、これこそが本当の怖さのような気がする。

いずれも太極拳の技は非常に情報量が多い。
太極拳をやっている人は心身ともに元気だが、体を動かすだけでなく、ものすごく頭も使っていることになる。
つまり、ボケ防止につながるということだ。

2014年2月11日火曜日

信じるか信じないかではなく・・

信じたいか、信じたくないかでいいと思う。

「気」の存在の話である。

科学的に証明できないものはあり得ないと思う人もいれば、
科学的に証明できるものは容易いと考える人もいるだろう。

私は気の存在を信じてるんじゃない。
信じたいんだ。

そもそも元気とか、病気とか、気に掛けるとか、気を使うとか、気のせいとか、気がするとか、
信じてなくとも我々は普段から「気」という言葉を多用している。

「気のせいだろう」とある人が言う。
なら、その気とは何?
気を認めていることにならないだろうか。

「気を使う」といいのもなんだろう?
気を使われると嬉しかったり、或いはちょっと迷惑だったり、
なら、その気とは何?

科学的に証明できないものは存在しないと断定してしまうと、宇宙の存在そのものを否定してしまうことになる。(と思う)
つまり自分自身をも。
人は一から人間を作り出すことはできないのだ。

気は人にやさしい。
気に包まれるととても心地よく、そして勇気が湧いてくる。

当サークルでは、気を集めるための準備から始め、そして気を集め、練り、そして発する練習をする。
ろうそくの火を消したり、人を吹っ飛ばしたりそういうことをするのではない。

誰でもが欲しいと思う、優しさや、勇気、力強さ、幸福感を得るために気を集める。

その方法は?

逆に考えれば優しさや勇気が得られた時の状態から時間をさかのぼってみれば、どうやってそれを手に入れたかがわかるはず。

気は信じたい人、信じる人を好み、そして自分の周りに集まってくる。
少なくとも私は気と仲良しだし、お蔭でいつも元気だ。

2014年2月9日日曜日

反省会

昨日、県大会を終えひとまず一段落。
結果はとても厳しい判定を頂き、改めて気を引き締めねばと思った。

只、コンディションは最高だったし、最後まで楽しく試合に挑めた。
数日前から栄養、睡眠、生活リズムをしっかり調整し本番に備えたが良かったようだ。

練習も本番が近付くにつれハードな練習からソフトな練習へと。
本番当日、筋肉痛や筋肉疲労を避けるため套路の通し練習や站椿功(たんとうこう)も短めにした。

さてさて反省会。

楊式刀:
1番目ということもあり、立ち位置状態から緊張し、立ち上がりが遅れた。
時間オーバーによる減点を気にしすぎて、少々急ぎ足に。
普段の柔らかさが出せずゆったりとした演武にならなかった。
やはり体内時計に時間感覚をしっかり刻み込まねばと思った。

形意拳:
4種目の中で一番気持ち良くできた。
単調でつまらない三体式と五行拳を毎日練習してきて良かったと感じた。
只、迫力を出そうとし過ぎたのか、剛柔の柔の部分が欠けていたように思った。

楊式太極拳:
套路をゆっくり動ける型に組み直す必要有。
苦手動作でミスが出てしまった。練習を重ね克服しなければ。

呉式太極拳:
同上。
ミスはなかったが苦手動作がきれいに決まらなかった。練習あるのみ。

試合での問題は時間とコートの制約。
太極拳はゆっくり演武したほうが良いが、時間オーバーすると大量減点。
かといって、ゆっくりした演武をしようとすると移動範囲が狭くなる。

コートをいっぱいいっぱい使った方が得点が良いらしいが、ゆっくりの速度でたくさん移動すると時間オーバーになる。
この中でいかに基本を踏まえながらも自分の持ち味を出すことができるかが課題だ。

あとは床が厚めのカーペットであること。
これによって独立歩での安定感が損なわれる。
床を掴むことが出来ないのでバランスを筋力で補うことがほとんどできない。
つまり、つま先でも静止して立てるぐらいの軸感覚を養う必要があると思った。

これらを踏まえ練習プログラムを再度見直し、夏の全日本大会に備えよう。

2014年2月5日水曜日

点と点を曲線で結ぶ

私が最初に太極拳を教わった時は分解しては教わらなかった。
1、2、3という風に。
先生が模範を見せてくれるから、それをその場で必死に真似ようとする。

先生の動きはとても滑らかで柔らかい。
だから、その場ではどういう動きをしているのかすぐには解らない。
直線ではなく曲線で動いているからだ。

例えば一枚の紙に点で円を描こうとしたら、無数の点を描かなければならない。
点の数が少ないと単なる多角形になってしまう。
だから、本当は1、2、3だけでは言い表せないのだ。

私がサークルで指導する時、分解して教えているが、それはあくまでもスピーディーに大まかな動作を覚えてもらうため。

本当は点と点を直線で結んではいけない。
太極拳の動きは常に曲線だから。
曲線だからこそ美しく、そして精巧な技として使えるようになる。

長年太極拳をされている方でも、しばしば直線で動いている人をみかける。
点と点を直線で結んでいるのだ。

指導する時は分かりやすいよう点と線で教えているが、早く皆と一緒に曲線の世界を楽しみたいなと思う。
太極拳の気持ち良さは曲線の中にあるから。

2014年2月3日月曜日

「教える」ではなく「与える」?

そもそも私がサークルを立ち上げたのは、教えたいからではない。
無論、教えることも好きだが、それよりも共感することが好きだ。
多分このブログを立ち上げた頃も同じようなことを言ったかもしれないが、人と共感したい。

気功と太極拳、気功ベースの太極拳の気持ち良さを知ってほしい、体感して欲しい。
そして同じ感覚を得ながら皆と一緒に太極拳を楽しみたい。

これは同じ空間にいなければ決して得られないこと。
太極拳サークルはライブと同じなのだ。

太極拳の型だけなら、書籍やDVDなどでいくらでも学べる。
しかし、太極拳の型ができるようになっただけで、それがなんになろうか?

私の師は、太極拳の気持ち良さをまず教えてくださった。
いや、正確に言えば、与えてくださった。

11年前、師が恍惚とした状態で太極拳をされているのを見て私は憧れた。
そしてその感覚がわかってきたのはつい最近のこと。
最初は必死で先生の演武を真似ようとしたが、それだけでは絶対得られない。

人間の体が骨と筋肉で成り立っていると考えているうちは、決して太極拳の境地に達することはないと思う。

因みに、その骨や筋肉は何からつくられてる?
タンパク質?
そのタンパク質は?
アミノ酸?
そのアミノ酸は・・
マクロ的に見ていくと、最終的には原子と電子に行くつく。
地球を周回する月のように、太陽を周回する地球のように、銀河を周回する太陽系のように・・

つまり宇宙だと。

2014年2月1日土曜日

シンプルの美学

元々、私が太極拳に憧れたのはあのゆっくりとした動きに神秘性を感じたからだ。
どこを見渡しても、日常生活であんな動きをしている人はいない。

私は元々太極拳を武術だと思って道場を訪れた。
あの神秘的な動きから想像もできない不思議な技を教えてくれるのかなと。

が、初めて体験した太極拳は武術とは程遠く、どちらかといえば踊りに見えた。
その時、私が先生に言ったことは今でも覚えてる。
「これって本当に武術なんですか??」
隣で先輩が大笑いしていた。(笑)

しかし、実際に先生に技をかけられ床に叩きつけられた時、その一瞬の出来事に何が起こったかわからず、なぜ私は床に寝ているのか?という感じだった。
或いは、こちらから手を出したはずなのに、一瞬の間に先生の掌や拳が目の前まで来て凄まじい恐怖感を感じた。

穏やかで気さくな先生だが、それからは先生に近寄るのが怖くなった。(笑)

後に私は先生のすすめで形意拳を学ぶことになった。
が、正直形意拳にはあまり興味が湧かなかった。
かつて私が学んだ空手に似ており、しかもあまりにも単調な動きだったからだ。

が、今ではその形意拳にハマりつつある。
理由は単調に見えるのに実際にはとても難しからだ。

当時、私は八卦掌のように激しく動き回る拳法に憧れたが、今はそのシンプルな動きがたまらなく楽しい。
シンプルな動きは誤魔化しが効かないからだ。
それに、無駄がない。
呼吸も乱れない。

かく乱させたり、背後に回ったり、相手のバランスを崩したり、そういうややこしい動作がない。
形意拳の場合は相手が打ってきたら、ただただそのまま前進し迎撃するだけだ。
男心をくすぐる。(笑)

結果的にどんな練習方法になるかは、そのシンプルな一発にどれだけの威力は発揮させることができるか?
拳に命を吹き込むような感じだろうか。

表演的には見栄えしないかもしれないが、いずれシンプル美学としても完成させていきたいと思った。
威力だけでなく美も追及したいと。

邪道と言われるかもしれないが、実際、中国武術が世界的に人気があるのはその威力よりも動きの華麗さじゃないだろうか。
入りはそれでいいと思う。

2014年1月30日木曜日

寝ながら太極拳

寝ないで頑張るのも素晴らしいと思うが、私はあえて寝る。
というより、寝れば寝るほど調子がいい。
無論寝過ぎはダメだが。

寝ることは体の機能が停止しているのではない。
パソコンのように電源を落とすと全く機能しなくなるのとは大違い。

人間は寝ている間に成長する。
寝ている間に体の損傷を修復しているのだ。

体の疲れを回復するのは寝ている間に筋肉の損傷を修復しているから。
肉体だけでなく脳もしかり。
その日に起こった出来事や練習したこと等、きれいにまとめて頭の中で整理している。
いらないものは消去し、必要なものは重要フォルダに入れられる。

つまり、どんなに練習しても寝なければ、身にならないということ。
そもそも疲れが溜まっていっては運動能力が低下し、練習にも身が入らない。

良く寝て、元気いっぱいに練習する。
これが一番。

ちなみに眠りにつくまえに、脳内で套路を練ると翌日良い結果が得られることも分かった。
嘘でもいいから、頭の中だけでも理想の演武をしてみよう。
潜在意識はそれを本気にとらえ、その力を導き出してくれるから。

2014年1月27日月曜日

型をやらないほうが上手くなる?

試合本番への時間が迫っているというのに、最近ほとんど型をやらなくなった。
やってもせいぜい2回。
なのにビデオを撮って観ると確実に自分の演武が変わってきている。

気功にこだわり、かれこれ11年経つが、それが試合用演武が目的であっても私の考えは変わらない。
なぜなら太極拳は形ではなく内面から湧き出るものだと思うから。
動くと言うより動かされるという感じだろうか。

過去、形ばかりにこだわり練習していたこともあったが、一見きれいに見える演武も、それはあくまでもきれいに見せようとしているだけであって、にじみ出るような柔らかさがぜんぜん見当たらない。
というわけで過去のビデオは見るに堪えないものだ。。

かといって今それが出来ているわけでもない。
あくまでも発展途上であり、やれどもやれどもしっくりこなかった太極拳が、そのしっくりレベルが徐々に上がってきているというだけのこと。

とにかく、まずは気血を十分体の中にめぐらせ、それをぐるぐるまわす。
足の指先から頭のてっぺんまで、そして指先に至るまで、
いや、実際には頭の上の上まで、指の先の先まで気を巡らせる。
長年、気功をやっていると“気”は体内だけでめぐるものではないということがわかってくる。

その状態で体を動かすと、その“何か”が空気とふれあい摩擦を感じる。
これが実に気持ちいい。

サークルで教えるにあたって、まず会員さんに体感して欲しい感覚だ。

2014年1月24日金曜日

楊式太極拳にこだわる理由

これまで様々な武術を携わってきたが、結局、毎日練習するのは楊式太極拳だ。
体が欲するという感じだろうか?

どうしてだろう?
はっきりとした理由はわからないが、演武していて一番気持ちがいい。

のびのびとした動きの気持ち良さ。
ゆっくりと動いているのにそよ風を感じる感覚。
体に気が巡る感覚。
空気の中を泳いでいるような感覚。
空気に溶け込んでいくような感覚。
大河の流れのごとく連綿とした動きによって心が「静」へと導かれる感覚。
風になびく柳の枝のように、川の中で泳ぐ藻のように、
なにものにも逆らわない身をゆだねるような感覚。

これらが楊式太極拳にはある。

現代の楊式太極拳は武術的要素が抜かれているという意見もあるが、そんなことは構わない。
武術云々よりも先ほど述べたような感覚を得られるのは私が知る限り楊式ならではだからだ。
それに武術的要素は自分で開発していけばいい。

武術そのものは習うものではなく鍛錬の中から悟るものだと思うから。

いずれも、一人でも多くの人と楊式太極拳の気持ち良さを共有したい。

2014年1月19日日曜日

何のために?太極拳

先日、体験で来られたある方が、「何のために太極拳をやっているのかわからなくなった」という理由で当会を訪れられた。

私は深く頷いた。
そういう私もある時、それがわからなくなったから、今のサークルを立ち上げた。

要するに、太極拳の型を覚えて一体それがなにになるんだろうということ。
型を覚えるために正確な姿勢や動作を教え込まれる。
だが、その姿勢や動作はなんのために?という素朴が疑問が湧いてくる。
型をやっているだけで楽しいという人も多いようだが、そうでない人もいるわけだ。

もちろん、きれいに演武できれば気持ちいいしカッコイイ。
だが、そこに演武とは直接関係のないと思われることもいろいろと要求される。
それは何かといえば、武術的な動作を身につけるための要求だったりする。
しかし、太極拳を習ったからと、組手をやるわけでもなく、誰かと戦うわけでもない。
というよりその技すら教わらない。

これはあくまでも私個人的な意見なのだが、武術志向でないならば武術的要素は省いてしまっていいように思う。
体操、舞踊としてきれいに演武できればそれでいいのではないかと。
太極拳の枠を超えたもっともっと素晴らしい芸術的な演武が生まれるかもしれない。

まあ、それは極端にしても、健康目的や怪我防止策のための要求であれば必要だが、武術をしないのに武術要素を要求しようとするのはいかがなものかなと。

いずれも太極拳をどのように楽しむかは個人の自由だと思う。

武術として身につけたい。
きれいな演武ができるようになりたい。
健康になりたい。
きれいになりたい。
スリムになりたい。
元気になりたい。
癒しを得たい。
神秘体験をしたい。

人さまざまだ。

因みに私はよくばりだから、全部だ。
でも、順番がある。

まずは健康でなくてはならない。
だからまずは健康志向の太極拳を行う。
健康があって初めて美やスリムなプロポーションが成り立つ。
次にきれいな演武、そして最終的に武術として身につける。

私は太極拳が世界一美しい武術だと思っている。
だから演舞して楽しまれるのはごく自然な流れだと。

せっかくだから、太極拳で大いなる健康を手に入れ、美しく、強くなり、最終的には神秘体験も。
こんなおいしい武術は他にないと思う。

今そのプログラムを模索しながら組み立てているところだ。

1分だけやってみよう

套路や推手をやればやるほど、站椿功(たんとうこう)、立禅(りつぜん)の重要さに気づかされる。
そして、実践する。
明らかに演武が変わる。

が、これらの練習は実に地味だ。
やる気がしない。
この恩恵を実感できればすすんでやるようになるのだが、そうでないうちはどうしても後回しになってしまう。

そんな時、私は1分だけやろうと決めてとりかかる。
1分でもやる気がしない場合は30秒でもいい。
とにかく始めてしまえばいいのだ。

人間というのはわがままな生き物で制限されると超えたくなり、過剰に要求されるとサボりたくなる。
だから、あえてやりたくないことに制限を掛ける。
「決して1分以上してはいけない!」
とか。

そうこう言ってるうちに、私は体がうずきだしている。
今すぐにでも三体式をやりたいと。(笑)

安定した演武は安定して立つことから始まる。
立つことができないものが安定して動けるわけがないのだ。
コマや自転車のように逆のものもあるが、太極拳ではコマや自転車のような遠心力や推進力を利用できない。

ひたすら軸を保ちながら動くしかないのだ。
軸感覚と、足を前に送り出すための筋力と片足で全身を支えるための筋力。
いずれもインナーマッスルだ。

やはり站椿功(たんとうこう)がいいということになる。

2014年1月13日月曜日

相連不断と眼法

楊式太極拳で大事なことは、糸を切らないこと。
これを相連不断(そうれんふだん)という。

最近の自分の演武をビデオで観てわかったことは、まだまだ糸が切れてしまっていること。
起勢から収勢までの動きが一筆書きのようにずーっとつながってなくてはいけない。
これが他の拳法と決定的に違うところだ。
逆に言えばこの動きこそが優雅で美しさをかもしだすのだろう。

あとは眼法。
これも修正しなくてはいけない。
私の太極拳はどうしても瞑想太極拳になってしまう。
が、
これは試合では通用しない。

目線は常に実の手(攻撃に使う手)や敵を見ていなくてはいけない。
私の目は、どちらかというと直線で観ているのではなく、ぼんやりと広い視野でみている。
伝統拳ではこれでいいのだが、この眼法では力強さがまったく伝わらない。

話は変わるが、久しぶりに映画マトリックスのDVDを見た。
ネオが救世主であることに目覚め、死から蘇り、生まれ変わったかのように強くなった時の目はうつろだった。
相手を直視していない。
これで相手の攻撃をすべてかわすのだからカッコいい。

が、何度も言うが、これは試合では通用しない。
真面目にやろう。(笑)

2014年1月11日土曜日

プレイバック

試合向けの練習を始めると、頻繁に自分の演武をビデオに収録する。
そして、その場でプレイバックする。

自分の感覚や、鏡を見ながらの練習もいいが、ビデオに撮らなければ決してわからないことがある。
自分の感覚というのは結構自分に甘い。
鏡を見ながらの練習も、ずっと観ているわけにもいかないので、結局定式(技が決まったところ)のところだけチェックすることになる。

肝心なのは技と技の間だ。
試合では定式のフォームも重要だが、その繋ぎがダメならばダメだ。
実戦でも技の最終形よりも技をかけている動作の方が重要。

ビデオはそれを辛口で教えてくれる。
人はなかなか本当のことを言ってくれない。
しかしビデオは容赦なく本当のことを言ってくる。

そんなこんなで今日もビデオで撮ってみたのだが、演武している最中は「今日はなかなか調子がいい」と思っていたが、プレイバックしてみて愕然。
ひどすぎる。

こんなもんさ。
一流のプレイヤーは自分のプレイをビデオに撮り徹底的にその改善方法を研究している。
私自身もこの数年ずっとそれを続けている。

2014年1月8日水曜日

病み上がりの気功と太極拳

一昨日、年末できなかったバイクを洗車し、きれいになって気持ちよくなったついでにちょっとしたツーリングへ出かけた。
吉野口から御所方面へ。

ところが、バイクで走りながらひとしきり喉の痛みを感じていた。
帰ってから、地域の大気汚染状況を調べてみると天理でPM2.5濃度が24μg/㎡
結構高い。
どうやらこれをたっぷり吸いこんでしまったようだ。
バイクの場合はモロに外気を吸い込むからマスクをしなければウイルスもスモッグも黄砂もガンガン気管に入れてしまうことになる。

ということで、一気に体調不良。
熱はなくとも喉の痛みと鼻水と倦怠感が。
死ぬほどうがいをし、かりんのど飴とトローチと浅田飴をガンガン舐める。
その他にもビタミン剤やハーブなども摂取。
そして早めに寝た。

昨日はまだ本調子ではなかったが、今日は幾分いい。
ということで、練習再開。

正月から今回の体調不良もあって、最近まともに練習できていなかったが、
それがよかったようだ。
しかも風邪は浄化作用があるから、溜まっていた体の毒素が抜けたようだ。

とてもリフレッシュした気分で気功が行えた。
風邪によって痛みの神経が麻痺しているのか、手を長時間上げる動作をしていても疲れない。
太極気功では、手の軌跡が見え、妙に手足が軽い。

次に剣や刀を持ってみてびっくり。
いつもの半分ぐらいの重さにしか感じない。
それが良い演武へと反映したかどうかは別として、体の中にある重いものがすっかり抜け去ったような感覚。

ということで、今日は站椿功をひたすらやった。
下半身を安定させることが出来なければ、柔らかい動きはできない。

大会まであと丁度1ヶ月。
私が目指す太極拳は試合結果ではないけど、柔らかく美しい演武は私のテーマだ。
それでもって強ければいうことなし。

頑張ろう。