2013年12月30日月曜日

朝の抜筋骨

抜筋骨(ばっきんこつ)はいつやってもいいのだが、朝が最も効果が高い。
私の体感では5~10倍ぐらいだろうか。
私が行っている抜筋骨は8式。約5~10分程度。

肩がこっている時にやってもいいのだが、重度の肩こりの場合なかなか簡単にはほぐれてくれない。
いわゆる肩がこってからではなく肩がこる前に行うのがベストということになる。

肩がこるということは肩がこるような姿勢や力の使い方をしているからだ。
小さな肩こり動作がどんどん積み重なって大きな肩こりとなる。
整体院などに行けば確かにラクにはなるが、時間が経つとまた元の肩こり状態。

ここで冷静に考えてみる。
肩がこる姿勢や力の使い方をしている限り、どんなに肩をほぐしても無駄だということになる。
そこで肩のこらない姿勢や力の使い方を朝寝ぼけたままの状態でやる。
すると体がその感覚を覚えてくれる。
この“寝ぼけた状態”というのが重要。
潜在意識に入りやすいからだ。

因みに日中に抜筋骨を行うと雑念が入りやすい。
未処理の仕事が気になったり、
今日の献立はどうしようかとか、
身の回りの心配ごととか・・
この精神状態では体の体操にはなっても、力の抜き方を自分自身にインプットすることができない。

そもそも抜筋骨とは立禅気功に入る前に体をほぐすための体操なのだが、
同時に経絡のつまりを取り除いてくれる。(経絡とは気の通り道)
経絡が詰まっている状態で立禅をしても気がめぐりにくいということになる。

気が体に廻れば、それは大きな活力になるし、何より無駄な力を使わなくなる。

私は勁力のことを力を使わない力と解釈しているが、どんなジャンルでも達人の動きは無駄がない。
そういうことだと思う。

朝の抜筋骨は、肩こりだけでなく、もしかしたら人生を大きく変えてくれるほどの効果があるかもしれない。
たった毎朝5分程度行うだけで。

2013年12月25日水曜日

練習順を変えてみる

自主練の時、私の場合いつも準備運動、抜筋骨、立禅、太極気功、操手、套路という順序で行っている。
しかし、毎回この順序で行っているとマンネリ化し、中身のある練習というより惰性でやるようになってしまう。(少なくとも私は)

膝を回したり肩を回したり等の準備運動は必ず練習前に行った方がいいが、あえて気功をやらずにいきなり套路の練習をやってみる。

すると、あることに気づく。
気功の重要さだ。
もちろん体に気をめぐらせながら套路を練ることもできるが、やはり違う。

気功は立禅で行った方が断然集中できる。
動いてしまうと動作の方に気が行ってしまうので、気をめぐらせるという意識がどうしても薄れてしまう。

いずれもたまには練習順をシェイクしてみることはとてもいいと思った。
明らかに脳が活性化するし、ひとつひとつの重要さを再認識することもできる。

2013年12月22日日曜日

動作が硬くなったら?

力を抜くことは力を入れること以上に難しい。

今、套路を練りながら、まだまだ抜くことができないかと更に抜いてみた。
すると、しばらくご無沙汰だった「気」が戻ってきた。

手と空間に摩擦を感じ、手に電気のようなものが生じる。
そして手がふわふわと空間を漂う感じになる。

結局、力を抜けていると思っていたのだが、いつの間にか悪い習慣が少しずつ積み重なりまた力みが生じていたということだ。

そもそも今、太極拳をしようと思ったのは、最近套路で気を感じなくなってきていたから。
理由はいくつか考えられるが、大会向けに新しい套路をいろいろ覚えているということが大きいと思う。
型を覚えるまではどうしても力みが生じてしまうから。

因みに手の力を抜こうとしただけでは、そうはならないこともわかった。
というよりそこのことは過去の経験で知っていたのだが忘れてしまっていた。

意識を足裏に持っていくと、自ずと歩型が安定し、腰が据わってくる。
すると、それと連動するかのように肩と肘と手の無駄な力が抜けてくる。

以前、師に「力が必要なのは足の指だけ」と教えられた。
地面を掴むことを意識しながら動けば、確かに意識がそこに行くから、上体が軽くなる。

因みに今パソコンのキーボード操作がとても軽快に行えている。
これでなくては太極拳をやる意味がない。

また悪い癖に戻らないよう、このことを毎日意識しながら明日から練習しよう。

2013年12月18日水曜日

読まれない力

今日、友人のブレイカー(ブレイクダンサー)に1日5分だけ散手の相手になって欲しいと頼んだら、快く引き受けてくれた。
とても優しい人だ。

一応、練習台になってもらう代わりに護身術を教えるという取引で。(笑)

まずは、起勢からやってみる。
さすがブレイカー、筋力が半端じゃない。
なにしろ片腕で体を逆さに持ち上げ、回ったり跳ねたりできるのだから、相当な筋力だ。

両手を力いっぱい握ってもらう。
そして、力を使わず相手を崩す。
何度やっても成功した。

これが勁力というのかどうかはわからない。
だが、力で相手を崩したのではないことは確か。
なぜなら力を使おうとすると相手も力で抑えてくるし、
いずれも力対力では相手に絶対敵わないからだ。

要するに反撃に出ることを相手に読まれてはいけないのだということがわかった。

すると、今度は片手を掴まれたらどうする?ということで片手を強く掴まれた。
とっさに倒輦猴(とうれんこう)を使ったが、相当ビックリしていたようだ。

次に逆の手で片手を掴まれた。
玉女穿梭(ぎょくじょせんさ)という手もあったが、ひとまず野馬分宗(のばぶんそう)で対応。

なるほど。
こうされたらどうする?という具合に攻めてもらうのもとてもいい勉強になると思った。
というより、そうでなくては護身術にはならない。

いずれも太極拳の技ってよくできているなと改めて感心してしまった。

力を使わない力

太極拳ばかりやっていると、どうしてもゆっくりと柔らかく動くことばかりに意識がいってしまう。
それはそれで好きだし、今後も更に腕を磨いていきたいと思う。

それにゆっくりとした動きには神秘的なイメージがある。
魔術師がトリックを使う前に手で気を練るような動作をするが、なにか不思議なことが始まるような雰囲気がある。(笑)

ところで来年、形意拳でも大会出場することを決めてから、形意拳に対し本腰を入れて取り組むようになった。
まあ、本腰と言っても本当に練習している人に比べたらまだまだだと思うが。。
そこで要求されるのがスピード。

太極拳は防御型の拳法だが、形意拳は攻撃型の拳法に見える。(少なくとも私は)
しかし勁力を養うためには出来る限り脱力しなければならないという。
脱力に対しての解釈は様々だが、私は脱力でいいと思っている。(力を脱するという意味だから)
(脱力という代わりに放鬆(ほうしょう)という言葉もあるが、これもピンとこない)

用意不要力(よういふようりき)という太極拳の言葉もあるが、
力で相手を制するのではなく意をもって制するということになると思うが、実際力を抜いたほうが見た目のスピードは速い。

筋力を使った突きは最初から早いが、力を使わない突きは厳密に言うとゆっくりから急加速するような感じだ。
車で言えば、高出力エンジンとターボエンジンの違いだろうか。
高出力エンジンはロケットのように急加速する。
一方、ターボエンジンは立ち上がりが遅いがかかりだすと強烈な加速が得られる。
最初の加速に騙されているといきなりすっ飛ばされる感じだ。
当時のフェアレディZやスカイラインGTRに乗った時にそれを感じた。

ところで、力を使わない力を「勁力」というが、最近、勁力という言葉に対してなぜか拒否反応が起きる。
「勁力を使って」と言われても、その勁力の使い方がわからないから、やりようがない。
だから、私がサークルで教える時は勁力という言葉は使わない。

まずは力を抜く。
そして更に力を抜く。
なおかつ力を抜く。
その時にどんなパワーを発することができるか自問自答してみたり、実際に拳を突き出してみる。
すると、なんとなく「これが勁力かな?」という感覚を得る。

力を使わないで打とうとすると、ふうぅぅぅぅぅぅぅぅわっ!!!という感じで突きが出る。
その時に腕の中の水分が拳側にスコーンと移動するのがわかる。
水と言うより、もっと重たい鉛のようなものだろうか?

だから、私みたいな勁力初心者にとっては、今後も勁力という言葉を使わないという方向で行こうと思う。

力を使わないで打つ。
それこそが意で打ってる状態なんだと思う。

2013年12月16日月曜日

ゆらぎ

太極拳の十要に動中求静(どうちゅうきゅうせい)という言葉がある。
今まで言葉としてなんとなく理解しているつもりだったが、10年経った今なんとなくわかってきたような気がする。(違うかもしれないが)

最近意識的に十分気を静めてから演武を行うようになったが、その時にゆらぎが起こることがわかった。

音楽でも正確なリズムで演奏することは大事だが、それではグルーヴは生まれない。
特にキメの部分では貯めて演奏しなくては単調なコンピューターミュージックのようになってしまう。

 いずれも、ゆらぎはどこから生まれるのだろう?
演武しながら静かに観察してみると腹であることがわかった。

腹の躍動感でもって静かに動くとゆらぎが生じる。
それが良いのか悪いのかはわからない。
 ただ、それがひたすら気持ちいい。

そもそも宇宙も、インフレーションというゆらぎから生まれたのだから、
演武均等(えんぶきんとう)と言えど、多少のゆらぎがあるのは自然な形だと思った。

2013年12月14日土曜日

自信

自信とは?
自分を信じること?

なら、どうすれば自分を信じることができる?

1秒で自信がつけば誰だって苦労はない。
自信とは経験からしか得られないものだと思う。

今の時代、情報はいくらでも得られる。
が、
情報を得ただけでは決して自信は得られない。
お金でも買えない。

いわゆる「練習あるのみ」だと思う。

寒い季節になったが、今日も外に出かけよう。
そうすると、寒いのに頑張ってる仲間にも会える。

2013年12月12日木曜日

受け入れる、許す

最近、内面が変わってきたように思う。
演武している時の自分が今までと違う。

正直今まではきれいに演武しようとしていた。
が、
最近は誰かと戦っている。
戦うことが嫌いだった自分がだ。

前にもブログに書いたと思うが、自分自身に対してだ。

しかし、戦ってばかりでもいけないと思う。
最終的には戦おうとしている自分をありのままに受け入れなければと。

戦おうとしている自分を受け入れる。
ヨガや圧腿をしている時はまさにそういう感じだ。

痛いと思うのは、戦おうとしているからだ。
そうではなく、それを受け入れる。
言い換えれば「許す」ということだろうか。

これは、ヨガや圧腿だけでなく、套路を練る時も、推手をする時も、組手をする時も同じだと思う。
相手の攻撃を許す。

打ち寄せる波もその反動で引いていくように、受け入れて返す。

先日、推手で先制攻撃を掛けようと思ったらまんまと相手の手中に収まりバランスを崩した。
勝とうと思うと負けるんだな。

2013年12月8日日曜日

何も考えないで剣を振ってみる

昨日は久しぶりに充実した日だった。

朝は9時から武術仲間と野外練習。
枯葉が舞い散るこの季節は日向がとても気もちいい。

太極拳、形意拳、推手・・
力の動きやそれによって自分の体がどう反応するかなどを観察する。
たまにゆっくり推手をやってみるというのはいいかもしれない。

そして夕方からは体育館で自主練。
途中から会員さんが練習会にやってきたので、気功や推手、太極拳などを行う。
すぐ隣のコートでソフトバレーをやっていたのでかなり賑やかだったが、そんな中でもこちらは静かに気功。
集中力が要求される。(笑)

普段サークルでは時間に限りがるので、やりたいことをかなり端折ってるが、二人だとたっぷりできるのがいい。

だから本音を言えばサークルは、よほどの事情がない限りは遅れて来て欲しくないと思う。
なぜなら健康、美容、リラクゼーション、太極拳の演武力、武術としての向上、怪我の予防として緻密に組んだプログラムであり、なにひとつ無駄がないから。
映画でも最初の1分を見逃すと内容がわからなくなったりするが、それと同じだ。

ところで、今日の自主練では刀と剣をじっくり行った。
あえて套路の練習を控えめに、剣の動きと動作を一致させる練習。
つま先から剣先にいたるまで意識をめぐらせ、心と動作を一致させる。

何も考えないで剣を振ってみる。
子供に棒を持たせると勝手に振り回して遊ぶが、まさにそんな感じ。

前、後ろ、斜めとあらゆる方向に足を丁寧に運びながら思うがままに剣を振る。
その時、剣の動きにムラがなく、そして途切れることのないよう。
集中力が途切れると、動きも止まる。

今、私が思っていることは、技術的な向上以外に1年前の自分とどう違いを出せるかだ。

2013年12月4日水曜日

歩かなければ退化する?

人間は二本足歩行するようになって進化したと言われる。
逆を言えば歩かなくなると退化するとも言える。

現代ではインターネットの多大なる普及で、人が移動せずに必要なものを手に入れ、或いは収入が得られるようになった。
このことはエコロジーに大変貢献していると言える。

何を隠そう私もIT革命時にIT普及に対し積極的に活動した。
異常なまでに進んでしまった地球汚染にブレーキを掛けたかったからだ。

確かに地球汚染は一頃に比べたら落ち着いたように思える。(新たな汚染を除いては)
しかし、人間はどうなってしまっただろう?

家に居ながら生活が成り立ってしまうため、人と接しなくなり、それが理由で人と会うのが面倒になり、挙句は人と会うのが怖くなってしまう。
これがいわゆる「ひきこもり」だ。

私はIT普及のため不眠不休の勢いで頑張ったが、その後は前述した通り。
毎日100人以上の人と接し、それが生きがいだった私が人と会うのが怖くなってしまうほどに陥ってしまった。
おまけに足腰はどんどん弱り果て、体は老化の一途をたどるばかり。

人間は歩かなくなると退化し老化するのだ。
要するに、身も心も衰えるということ。
身を以て体験したことだ。

これこそが私が太極拳を始めた一番の理由。
というより、これ以外の理由はない。

サークルを始めて、8か月が経ったが、何らかの不調を理由に休まれる方が増えた。
話を聞くたびに暗い気分にさせられる。
この時いつも思うことは、「だからこそ参加して欲しい」

私は不調だからこそ太極拳を始めたからだ。

身も心も衰えてしまっては何も出来なくなる。
何も出来なくなると何もしなくなる。
何かすることが面倒になり怖くなる。

ここで考えたいのは、“自分が何のために生まれてきたのか”だ。

人は植物ではない。
移動できる高等な生き物。
マイクロチップで人間の脳を超える情報を記憶をさせたり、雲つくような高層ビルを建てたり、
宇宙にだって行ける。
犬や猿には絶対真似できないことだ。

IT革命時に言われたこと。
「人は仕事のために使う時間が減り、趣味に使う時間が増える」と。
現に私はそうなった。

その趣味が太極拳だ。

インターネットはとても便利だ。
しかしインターネットには大きな副作用があることを知ってほしい。
人間が人間らしくなくなってしまうという恐ろしい副作用だ。

体を動かそう。
しかしいきなり激しい運動は避けたい。
だから太極拳がピッタリなのだ。

太極拳は亀のように歩き、鶴のように舞う。
鶴は千年、亀は万年生きると言われるが、それは迷信にしても、ゆっくり動くことは長寿健康法として数多くの師がそれを証明してくれている。

私が太極拳を愛する理由だ。

2013年11月29日金曜日

幽体離脱の克服

先日の大会で他の選手といろいろ話していたら、「本番になると気が舞い上がって幽体離脱してしまう」という話で盛り上がってしまった。
何を隠そう私もそうだからだ。(笑)

どうすれば幽体離脱を脱することができるか。(?)

それにしても
先日の大会ではあまりにも凄い選手を目の当たりに、しかもたっぷり見過ぎてしまったためにすっかり自信喪失病にかかってしまっていたが、本日より復活。(笑)

私の性格その一。
落ち込みやすく立ち直りやすい。
まるで子供だ。

今、いくつかの套路を練ってみたが絶好調。
大事なことを忘れていた。
○○から動くこと。

あえて伏せさせていただく。
というより今まで何でもブログに書きすぎた。
今後は自分の中でじっくり温めてそれが立証できてからにしようと思った。

さて、幽体離脱の件だが、前回も書いたように予備勢で、いかにリラックスし集中力を高めることができるか?
これは呼吸しかないと思う。
というより呼吸の効果は絶大だ。

しかし、套路に入ったらどうなる?

私は楊式太極拳の套路を練る時、いつしか呼吸に合わせて動くようになった。
いわゆる気功と同じだ。

引くときに吸い、出す時に吐く。
上げる時に吸い、降ろす時に吐く。
開く時に吸い、閉じる時に吐く。

こんな決まりがあるのかどうかわからないが、いつしかそのように呼吸するようになった。
すると動きそのものが変わってくる。

といいつつ、昨夜ある書籍を開いてみると、全く同じことが書かれていた。
私がやっていたことは合っていたのだ。

太極拳は基本、自然呼吸で動くと言うが、もちろん最初はそれでもいいと思うが、突き詰めようとすればするほど本能的に呼吸と合わせた動きになってくるようだ。
いわゆる深呼吸しながら動くという感じ。

もちろん、吸う、吐くの繰り返し動作では割り切れない技もある。
そういう場合は息継ぎが必要だ。
歌を歌う時や泳ぐときにする息継ぎと同じだ。

さて、呼吸に合わせた動作をするということは常に深呼吸しているわけだから動きながらもリラックス状態を維持できることになる。
いや、リラックスどころか体の全細胞がイキイキとしてくる感覚がある。
この時は幽体離脱どころか、いわゆる内外相合の状態。
意識がしっかり体内に宿った状態で動作とも一致する。

調子がいい時は呼吸に合わせた動きをしているのに、最近不調だと思ったらこの呼吸に合わせた動作をすっかり忘れていた。

次の大会まであと2か月ちょっと。
先日の大会でもそうだが、私が競う相手は自分。
どんな結果であれ、自分で納得の行く演武が出来なければそれは勝利とは言えないと思うから。

2013年11月26日火曜日

大会を終えてみて

先日出場した、伝統武術大会は本当に素晴らしかった。
私はというと完全に観る方に回り、そしてどんどん自信喪失。(苦笑)

出場選手が採点するので、観ないわけにはいかない。
いや、観ずにはいられないほど素晴らしい演武ばかり。
そして私の出順は最後の方。
カラオケでも上手い人に先に歌われると自分が歌えなくなってしまうが、まさにそんな感じだった。

だからといってプレッシャーがあったかといえば、そうでもなかった気がする。
伝統武術といっても様々な流派があるわけで、しかもそこに個性が入る。
だから、自分は自分らしく行こうと。
そう思って挑んだ。

本番の出来は、可もなく不可もなく。
少々ミスしてしまったが、なんとか誤魔化した。
情けない。

序盤30秒程立ち上がりが遅れたが、その後はそこそこ練習通りの演武ができたと思う。
逆にいえば、ミスしたことで気が楽になったのかもしれない。

大事だと思ったのは予備勢。
ここでどれだけリラックスし、精神集中できるか?

一応、それは考えてはいたのだが、十分ではなかった。
暖機運転せずに走り出してしまったような感じだ。
今後は予備勢でどれだけ集中力を高めることができるかが課題になると思った。

あと、本番直前になって変更した技があったが、案の定インスタントな仕上がりになってしまった。
やはり本番直前に変えるのは良くない。

それにしても今回出場された選手には全員に満点を贈りたいと思ったほど素晴らしかった。
そして自分に何が足りないのかを教えてもらった。

その後も溜息続きの毎日だが、いつまでも自分に負けてはいられない。
それに、今回のようにコテンパンに打ちのめされることはとても貴重な経験だと思った。



2013年11月22日金曜日

どうやって覚える?

当サークルでは準備運動から気功の全工程が終わるまで約40行程の動作を行う。
これを一度に覚えるのは無理だろう。

しかし、英単語を40語覚えようと思ったらさほど難しいことではないと思う。

因みに私は今サークルで行っている気功を3日ぐらいで覚えた。
覚えたというよりレッスン後に忘れないようすかさずノートにとっていたからだ。
教室から自宅まで電車で1時間ほどだったから、ノートをとる時間としては十分だった。
覚えている限りイラストや言葉でノートにビッチリ書き込む。

しかし、同じ教室のある先輩は1年かかっても覚えていないという。
要するに時間の問題ではないということだ。

なぜ私がこれほど意欲的に覚えようとしたかは、その日のレッスンで学んだことはいつでも人に教えられるようにと思って取り組んでいたからだ。
だから基本的にその日先生に習ったことは、翌週、先生の前でやることができた。(内容はともかく:汗)

以前習っていた先生は、私の前ではいつも注意ばかりで褒めてくれたことなど一度もなかったが、陰で私のことを、一度教えたことを次にはしっかりやってくると褒めてくださっていたようだ。
仲間からそう聞いたときは嬉しかったけど、私としては直に褒めて欲しかった。。

例えば旅行先でとてもいい景色に出会ったとする。
私ならすかさず記録として残しておきたいと写真を撮る。
私のレッスンの捉え方はまさにそんな感じ。

いい景色もいいレッスンも同じことで、忘れないようきちんと残しておきたいと思う。
よく言えばマメで、悪くいえばケチなんだと思う。(笑)

私はサークルの会員専用ページに、練習の参考になるようにと、動画やイラスト、その他テキストをいつでも利用できるように無料で配布している。
私自身が今まで習ってきて「こんなのあったらいいな」と思ったことをそのままつくりあげた。

が、資料を増やしすぎないようにしている。
理由は簡単。
資料が多すぎると今やっていることに集中できなくなるし、それに、資料があることで安心してしまい余計に練習しなくなってしまうという現象が起きるからだ。
私がそうだからよくわかる。(笑)

それに動画で学習しようと思っても、細かな部分がわからないし、自分が正しくできているかどうかもわからない。
それを指摘してくれる人もいなければ褒めてくれる人もいない。
独習とは寂しいものなのだ。(笑)

サークルに参加する意味ってなんだろう?
私は習いに来るだけの場ではないと思う。
そこには自分を見てくれる人がいるわけだから。

さて、ここにきてようやく本題に戻るとする。(笑)

どうやって覚えるかだが。
車でも運転している者は道を覚えるが助手席に座っている人は覚えない。
理由は簡単。
覚えようという気がないからだ。(笑)

確かに運転席でも助手席でも目的地に到着することはできる。
大事なのはそのプロセスだ。

その気になりさえすれば覚えるのは簡単。
全部を覚えようとせず、今日はまず準備運動を覚えようとか、今日は気功の体操の最初の3つだけ覚えようとか、区切って覚えようとするのが良い。

資料をつくろうかとも何度も考えたが、私としては「サークルに参加して覚えた」という達成感を得て欲しいと。
私自身がそうだったから、喜びは分かち合わないとね。(笑)

2013年11月21日木曜日

なぜ手が震える?

練習の時は手が震えることなんてないのに、本番だとどうして手が震えるんだろう?
「そりゃあ緊張しているからだろう」ということになりそうだが、本当にそうだろうか?

そもそも手が震える時、手に意識が行ってることは間違いないと思う。
足に意識が行けば足が震えるだろう。

因みに私は高所恐怖症だが、高いところから下を見下ろすと足が震え、腰が抜けそうになる。
これは今の話とは関係ないか。(笑)

では、なぜ手を意識するんだろう?
それは見た目を気にしているからだと思う。

本来、武術は中から動くものだ。
中から動けば震えるなんてことはないはず。
実際、一人で練習している時、自分でも最高に気持ちいいと思える時はどんなにゆっくり動いても手が震えることはない。

さっき、いつもの1/5ぐらいの速度で演武してみたら、特に目立っては手も足も震える様子はなかった。
それどころか最高に気持ちよかった。

ゆっくり動けば動くほどバランス感覚が要求されるから、体が軸をしっかり保とうとする。
軸を保つためには気を沈めなければならない。
というより、そんなこと気にしなくとも自動的にそうなる。

だから、気を沈めたり、軸感覚を養おうと思ったら、単にゆっくり動けばいいということになる。
楊式太極拳が強いといわれる理由がなんとなくわかる気がする。
ゆっくりの中では決して勢いでバランスを保とうとすることはできない。

いずれも手が震えるだけならまだしも、剣を持つと必然的に剣先が大きく揺れることになる。
(こういうのを何の法則と言っただろうか?)
私は独自の練習法で剣先が揺れない訓練をするが、その時、意識は剣先にあるが、動力源は手ではなく体の中心部であることがわかる。

話は飛ぶようだが、先日トリモモ肉を包丁で切っていて感じたこと。
力を入れれば入れるほど切れなくなる。
肩の力を抜いてスーッと撫でるように刃をスライドさせると、包丁の重みだけできれいに切ることが出来る。
だから、私はトリモモ肉を切るような感じで剣を振る練習をしている。(笑)

いずれも、まだまだ課題は盛りだくさん。
剣先がぶれないよう剣を操ろうとすると、今度は剣先が下に下がってしまう。
なかなか簡単にはいかないものだ。。

練習していると様々な発見があって、本当に飽きることがない。

2013年11月20日水曜日

技の度に足を寄せる理由

楊式太極拳の套路を通す時、技と技との接続部分で必ず足を寄せなければならない。
一体なぜだろうと。

ここにきてようやく解った。
その答えは套路を套路としてでなく、技として使ってみるとわかる。

そもそも套路とは数ある技を真珠の首輪のように接続させたものだ。
戦術を編み出している間に数多くの技が生まれ、そしてそれを整理しなくてはならなくなった。
数ある技を忘れないようにする良い方法はないだろうかと。
それを套路として整理したのだと私は推測する。

套路を毎日行えば、技を忘れることはない。
それに、覚えるためにはひとつひとつの技をただ並べただけでは覚えずらい。
だから繰り返し動作を入れ、曲のように仕上げたのだと思う。

私は元々作曲をしていたので、套路が曲に思えてならない。
イントロ-Aメロ-Bメロ-サビ-Aメロ-Bメロ-サビ-間奏-Bメロ-サビ-エンディング
という具合に。
リズムが生まれると覚えやすいしグルーヴが生まれる。
そのグルーヴは腹から生まれる。
そう考えると、套路は技を覚えるためだけの暗記帳ではなく、丹田と勁力開発のためのプログラムだと考えられる。

私が制定拳から伝統拳に絞った一番の理由だ。
繰り返さなければ決して気を練ることはできない。
だから伝統套路は決して見世物ではなく、能力開発のための極めて精巧なプログラムだと考える。

すでに話が脱線しているので元に戻すとしよう。

技の度に足を寄せるのは、実際の技はそこから始まるからだ。
実際の戦闘では起勢、攬雀尾、単鞭の順番で技を使うなんてことは100%あり得ない。
私が知る太極拳の基本的な構えは、攬雀尾の始まりの部分だと師に教わった。
確かに、あの構えはどんな状況下でも臨機応変に対応することができる。

足を寄せているというよりは実際は片足立ちなのだ。
王さんの一本足打法と同じだ。
どんな球が飛んでこようが、体をどこにでも持っていくことができる。

套路では足を寄せるだけで実際つま先はつかない。
が、それは演武上での問題であって、実戦とは関係がない。
確かに表演の時、技の度に足をついていたのではあまり恰好いいとは言えない。

いずれも、技から技へ移行する時、足を寄せてから出すのは結構しんどい。
しかも惰性で足を出すわけではなくゆっくりと猫のように足を出す。

しかし、このしんどい作業をすることで普段あまり鍛えられないインナーマッスルを大きく開発することができる。
因みに私は特殊な訓練をしていないのに、座った状態から片足を前に出して片足で立ち上がることが出来る。
これは套路を練っているうちに勝手に身に付いた能力だ。

結論としては、足を寄せることは技を技として使うために絶対必要なことと考える。
だが、足をついて良いかどうかはどちらでもいいと思う。
サークルでも、どちらにするかは個人の判断に任せている。
膝が弱い人はついたほうが良いと言えるし、インナーマッスルを鍛えたい人はつかずに寄せてから足を出すのが良いだろう。

最近、試合のために短い自選套路ばかり通していたが、今日久しぶりに85式を2回通して、改めて伝統套路の凄さを実感した。
大会では時間制限があるので仕方ないが、太極拳を健康法、あるいは武術としてやっていくなら、やはり伝統套路を毎日やるのが良いと思った。

2013年11月19日火曜日

剣をもって誰と戦う?

大会当日まであと4日となった。

緊張しているかといえば、どちらかといえばあまり緊張していないかもしれない。
この時期に入ったら、ジタバタしてもテンションが乱れるだけだし
それよりも体に疲れを残さないようにと。
あとは、弱点克服よりも、得意な部分をもっと見せる方法はないかと考える。

多分、今、弱点克服を必死でやろうとすると、余計にハマってしまうような気がする。
当日、ミスが出ないよう神に願うしかないかなと。

ところで、以前、私は戦っているように演武しないとブログに書いたが、
剣で勝負すると決めてからは、剣で何かを切り裂くように動いている自分がいることを発見した。

斬る、突く、えぐる。
誰かと戦っているようだ。(自分の中ではね)

その誰かが最近わかった。
自分だ。

「もっと集中しろ!」と言わんばかりに自分で自分を斬ってるように感じる。

それと、もうひとつ。
煮え切らない切なさのようなものを剣に込めているような感じもする。
その証拠に突く動作がやたら粗っぽい。(苦笑)

最近仲良くなったブレイクダンサーのCさんとまた話が盛り上がってしまった。
「演武する時は形にこだわるのではなく、腹から湧き出すパッションで動くんだと思う」と言うと、彼は深くうなずいていた。
「動こうとする」というより、「動かされる」という感じだろうか。

これは体の柔軟性とか筋力とかではなく、メンタルの世界だと思う。

先日、サークルのイベントで行った公開練習は第一回目にしてはまずまず成功だったと。
なにしろ始まってまだ1年もたたないサークルだし、最初から最後まで息つく暇もなく自分が出ずっぱり。

演武だけではなく、進行やトーク、トラブル時の対処、雰囲気づくり、ビデオ撮影、お客さんとのコミュニケーションなどなど。
様々なことに気を払わなくてはならなかった。

仲間の助けもあり、結果として良いイベントとして終えることができたが、正直なところ大会出場より気が重かった。
自分は指導する立場だし、多少の間違いはご愛嬌ということでも、枠を超えたヘマは出来ない。
なので、その日の自分の演武は完全に守りに入っていた。
いい演武をしようというより、失敗しないように演武しようと。(苦笑)

今まで出会った何人かの先生が生徒の前で演武したがらない理由がなんとなくわかった気がする。(笑)

とまあ、ここまでの話はあくまでも私の中でのこと。
会員さん達はいろいろ手伝ってくれたりしてとても助かったし、演武に関しても始めた頃に比べてとても上達したなと。
なにより皆と一緒に成し遂げたというのがいい。
終わってから皆とランチをし、私はパスタを食べたがいつもの十倍ぐらいおいしく感じた。(笑)

話は戻るが、サークルのイベントと違って、大会は自分との勝負だ。
リーダーとしての責任も問われないし、失敗しても自分だけが悔めば済む。

だからイベントの時のように内にこもって演武するのはやめよう。
守りの演武は気持ちよくない。
失敗しても思いっきり行きたい。

今は本当にそういう気持ちだ。

2013年11月13日水曜日

太極拳中毒

今のところに越してきた約3年前、
休止していた音楽を再開したくて、フェンダーのギターを買った。
一時は、毎日のように練習し燃えまくっていたわけだが、肩こりがひどくなりあえなく断念。

仕事では半日以上パソコンと向かい合って、ただでさえ肩が凝るのに、ギターを始めたと病院の先生に言ったら、すかさず怒られてしまった。(苦笑)

他にも音楽を楽しもうとタワー型のスピーカーやアンプも買ったが最初の1ヶ月ぐらいだろうか?

DVDを楽しもうと、様々なDVDを買いあさり、サラウンドを楽しもうと重低音が響くウーファーも買ったが、スイッチを入れたのは3回程度。
今や娯楽室は足の爪を切るだけの部屋になっている。(笑)

それよりなにより、体が太極拳をしたがって仕方ない。
仕事の合間、ご飯を食べる前、食べた後、歯を磨いた後、寝る前・・
下手をすれば夢中になって朝を迎えてしまうこともしばしば。
完全に太極拳中毒になっている。

あとは、「一日のご褒美として太極拳」みたいな感覚があって、
最後の最後までとっとくような変な習慣までついてしまう始末。

太極拳をやりたいから、仕事を頑張ろうとか、用事を早く済ませてしまおうとか。

電車や車で移動中の時も太極拳をしたがる体をぐっと抑えつけている。
本当に困ったものだ。(笑)

あの、ゆっくりと呼吸するよう体を伸ばしたり縮めたり、
あるいは空間の粘りを体で感じたり、
それが気持ちよくて仕方ない。

恐らく今度、越す時は、太極拳が出来る広い居間がある部屋を探すと思う。
いや、自宅道場が欲しい。

太極拳のいいところはスペースさえあれば、お金のかかることはなにもない。
カラダひとつあればいつでもどこでも楽しめる。

相変わらず、スーパーで買い物したりしている時に、歩形の練習をしたりする癖があるが、
近所の人に変な人だと思われないうちに、この癖を直さねば。(汗)

2013年11月11日月曜日

立身中正を普及させたい

最近、私のまわりで腰痛や膝の痛みを訴える人が多くなった。
私はどちらも経験しているし、その克服法も太極拳を通じて知ることが出来た。

結論から言えば、腰をまっすぐにすれば腰痛は起きえないと言いたい。

腰椎が引力に逆らうことなく、まっすぐな状態であれば椎間板も安定した状態を維持できる。
しかし、背中を反らせてしまうと背中側の椎間板を圧迫することになる。
若いうちは椎間板もしっかりしているが、高齢になってくると弱ってくるので圧迫することで椎間板がつぶれたり、飛び出したりしてしまう。
これは巷で有名なグルコサミンやコンドロイチンを積極的に摂取することで椎間板を強くすることができる。

ところで、もしスカイツリーが少しでも傾いたらどうだろう?
傾いた側の柱に負担がかかるはずだ。
地球には引力がある。
その引力に従って、傾いている方に倒れようとする。
そして柱が負担に耐え切れなくなったら倒壊することになる。
人間の背骨も同じ。

だから、私はサークルでうるさいほど背筋をまっすぐにしなさいと言う。
それは単に太極拳の演武がきれいに見えるからだけではなく、健康法として大変優れているから。

しかし間違った姿勢で太極拳を続けると健康どころか健康を害してしまう。
そうなると太極拳ではなくなってしまう。

なぜなら、姿勢をまっすぐにすることは単に健康法として優れているだけでなく、
武術的にも勁力を出しやすい状態だからだ。

先日、仲間とミットを使ってある実験をした。
まず、腕力で掌を打ち込んでもらう。
次に、立身中正で打ち込んでもらう。
その衝撃は圧倒的に立身中正のほうが大きかった。
私の体感では5倍以上の衝撃があった。

突っ立ったまま突いているのに、なぜパワーが増すんだろう?
多分、引力を生かしているからだと思う。
引力に逆らわず、沈む力と突く力が合わさると破壊力が増すということらしい。

姿勢を正すことは、健康法として優れ、演舞も美しく見せ、そして武術的にも破壊力を増す。

尻をひっこめるとか、クワを入れるとか、その前にまっすぐになることが大事だと思う。
そのまっすぐの状態で突いたり引いたりしようとすれば自然と尻はひっこむし、クワも入る。
重いものを押したり、重いものを引っ張ったりしようとすれば武術的に正しい姿勢になるのだ。

先日、自宅マンションの前で車が溝にはまってしまっていたので、私ともうひとりの男性でその車を溝から持ち上げた。
その時の姿勢は決して尻が出た状態ではない。
尻が出た状態では力が入らない。
無論、クワが出ている状態でも力は入らない。
「どうすれば重いものが持ち上がるか」と自分の体に問いかければ自ずと答えは出てくるということだ。

姿勢を正すということに関しては、今まで間違って教えてこられた。
背筋を反らすことが良いことだと教え込まれた。
「きをつけ!」と言われると自然と腰を反らした姿勢になる。
これは間違っているのだ。

家事をする時も、椅子に座っている時も、電車に乗ってる時も、車を運転している時も、背筋をまっすぐにして欲しいと思う。
なにを隠そう、私自身が30年近く患った腰痛を克服した方法は、薬でもなく手術でもなく、単に背筋をまっすぐにするだけだったからだ。

苦手分野の克服

大会の日が迫ってくると、苦手分野に対しての焦りが大きくなってくる。
それをToDoリストに起こしひとつひとつ克服していく。

因みに苦手を克服する方法はひたすら練習しかないと思う。

ただ、注意しているのは苦手を克服するために小さな成功例を積み上げていかなくてはいけないと思っている。
例えば、独立歩。
どんなベテラン選手でもいざ本番になるとバランスを崩している選手をみかける。(私も含めて:汗)

確かに本番では練習時の実力は発揮できない。

話が急に飛ぶが、先日、生徒の前で演武し套路の途中で忘却した理由がようやくわかった。
恥ずかしかったからだ。(笑)
なんというか・・入浴シーンを覗かれているような。
イベントや試合では恥ずかしいなんてこと微塵もないのに、どうして生徒の前だと恥ずかしいんだろう?

まあ、それは良いとして、大会等では恥ずかしさはなく、そのかわり緊張感がある。
何しろ審判に四方八方囲まれた状態で演武するわけだから。
演武中は自分の世界に入っているので目が合うことはないが、早くこの苦境から逃れたいという心境になる。

話を戻すとしよう。(笑)

苦手な技がある場合、私はまず、なぜ苦手なのかその原因を探す。
そして答えが見つかったらその対処法を考える。
対処法が見つかったら今度はそれを100回繰り返す。
こうすると苦手が苦手でなくなり、逆に得意になる。

因みに、100回繰り返す時は何が何でも思いついた対処法で正確に動作を行う。
もし、100回のうち何回か失敗してしまったら、意味がなくなる。
なぜなら失敗すると、それがセルフイメージに刻まれ、その技が出てくるたびに「失敗したらどうしよう?」という内なる声が聞こえてくることになってしまうから。

要するに、成功例を積んでセルフイメージに、「得意」と覚えこませることが大事だと思う。

はっきり言って100回繰り返すのはしんどい。
でも、確実に効果があることが自分でやってみてわかった。

因みに潜在意識とかセルフイメージって、どこにあるんだろう?
脳?胸?腹?
私は心臓近辺だと思う。(別名、中丹田という)
不安を感じたりする部分が胸だからだ。

だから、小さな成功例を数多く積んで“肝に銘じる”という感じだろうか?

ところで残された大きな課題。
剣で発勁動作をすると剣穂が手首に絡む。
単に突くのではなく、えぐりならが突くという動作。
伝統剣ではこの技が頻繁に出てくる。
手首に纏絲勁(回転動作)が入るから、どうしても剣穂がそれにつられ手首にくるんと巻き付いてくる。
うっとおしい。。

長めの剣穂の場合は剣の動きばかりに気をとられていると剣穂が好き放題暴れる。
要するに剣の動きに対し剣穂がどのように動くか把握しなくてはいけないわけだ。

これも練習しかないんだろうな。。

2013年11月7日木曜日

伝統楊式剣

今、大会向けに楊式剣を練習中なのだが、中でも好きな技が、霊猫捕鼠と野馬跳澗と左右落花。
読み方はわからない。(汗)

アメリカ人も比喩が得意だが、中国人も比喩が好きとみえ、技を猫や馬など動物に例えることが多い。
因みに私は比喩大好き人間。

最初の技はネコがネズミを追いかけるような動きの技だ。
剣を龍のように縦に振りながら突進するのがいい。

私が楊式剣に憧れたのは、この技があるからといっても過言じゃない。
始めて先生の演武を見て、素直にカッコいいと思った。

楊式ならではの流れるような動きの中に突如として荒々しい技が飛び出す。
肉食動物が獲物を狙う時、ソロリソロリと近づきながら、次の瞬間一気に飛びかかるのあの場面に似ている。

これを覚える時は難儀した。
今まで携わった剣術や総合剣等には出てこない技だからだ。
いや、実際には似たような技があるのだが、ずっと小奇麗にまとめてあり、全く違った技に見える。

因みに野馬跳澗は、馬のように遠くに飛びながら剣で下段を刺す。
魚跳龍門は魚が水面からピョンと飛び跳ねるようにジャンプしてやはり下段を刺す。
正直、これがなかなか決まらない。
引き続き大きな課題になりそうだ。

あとは、左右落花。
これは剣を左右に振りながら後退していく。
相手に隙を与えることなく後退し、左右の相手を切り倒しながら、今度は前方に飛び跳ねて前の相手を刺すという感じだ。

ただ、伝統楊式剣はやりようによってはとても単調に見える。
他の型に見られる、派手な蹴り技とか低い姿勢の仆歩など出てこない。
同じ姿勢を保ったままひたすら斬ったり刺したりという感じだ。

いずれも私は脚が上がらないから踵脚とか分脚は苦手だ。
仆歩にしてもあまり低い姿勢はとれない。(努力はしてるのだが・・)

だから身体能力では勝負できないことは分かっている。
私に出来ることは、姿勢(軸)を崩さずどこまで丁寧に演武できるかしかないと思う。

あとは剣にどこまで意識を運ぶことができるか?
上下相髄(じょうげそうずい)とか、内外相合(ないがいそうごう)という言葉があるが、
武器を持っている場合は、上下や内外だけでなく武器も身体の動きに合わせなくてはいけない。
というより、そうしなければ剣に力が伝わることはないだろうし相手を斬ることもできないだろう。

課題をひとつひとつクリアにしていき、万全の状態で臨みたいところだが、多分間に合わないだろうな。。
が、諦めずギリギリまで自分の可能性に掛けたい。

2013年11月4日月曜日

たくさんコピーすること

試合用の自選套路を組む時、何を入れて、何を省いて、どうやって繋げるか?ということが要求される。
私の場合、これらが頭で浮かぶことはほとんどない。

今の時代、YouTubeなどの動画サイトを見ればいくらでもいろんな中国武術を見ることが出来る。
そして今後は更に爆発的に動画が増えていくだろうと思う。

しかし、私はあまり動画を見ない。
動画を見ている暇があるなら体を動かしていたいというタイプ。

そもそもパソコンから離れたくて始めた太極拳。
太極拳をしているのにパソコンにかじりついていたのでは、またひどい肩こりや頭痛に悩まされることになる。

動画を見るとしたら、飯時にお笑い系見る程度だろうか。
きっと癒しを求めてるんだと思う。(笑)

因みに本もほとんど読まない。
いくらか本は買ってあるのだが、まともに読破した本はないのではないだろうか。
子供の頃から頭に知識を入れることが苦手だ。

知識は多い方がいいと思われがちだが、私はそうは思わない。
必要な知識だけあればいいと思う。
ありすぎる知識は邪魔になるし、頭でっかちになってどんどん自由を奪われてしまう。(と私は思う)

話は戻るが、自選套路を組もうとする時、頭では何も浮かばないから、ひとまず動いてみるということをする。
すると、思ってもいない技がパッと出てくることがある。
その技は何かといえば、今まで携わってきた中国武術のある技だったりする。

今まで習った型でも、やっていないものはどんどん忘れていく。
しかし、套路は忘れても、技としては体に染みついているようだ。
それが、套路を作ろうとした時にフッと出てくる。

私が一番好きな武術は太極拳だし今後も太極拳をメインにやっていきたいと思ってるが、同時にいろんな武術をやってみようと思っている。
それがプラスになるということが自分の中でわかったから。
そもそも、そのものの良さは他のものを知ってこそわかることだと思うから。

いずれも私はやっぱり死ぬまでできる太極拳が一番好きだ。

***

どうやら今回はタイトルから話がそれてしまったようだ。(汗)

2013年11月1日金曜日

自分の中の鏡で見る

先日、仲間がこんなことを言った。
鏡を見ないでも自分の感覚でわからないかと。
いわゆる鏡ばかり気にして動くのではなく、自分で自分を感じながら見るという感じだろうか。

そういえば、かつての私はそうだった。
独習期間が長かったことと、練習場所が近くの公園だったということもあり、当然のごとく鏡がない。
だから、自分で自分を感じながら動いていた。

これが実に気持ちいい。
気が付けば瞑想状態というより陶酔状態に入っていた。(笑)

そもそも太極拳の創始者が敵と戦うために鏡を見ながら技のフォームをチェックしていたとは考えにくい。
というかありえない!(笑)

そんな私が鏡を見るようになったのは、東京から関西に引っ越してきて、教室が変わった時だ。
自分では良いと思っていた型を一から厳しく徹底的に直された。
なぜそのようなフォームになるのか疑問を持ちながらも、先生がとても熱心に指導してくださるから私もそれに応えたいと思うようになっていた。

正直、鏡は好きではなかった。
鏡を見ながら動いている状態というのは、いわゆる形を気にしている状態。
気持ちいいはずがない。
中から動いているのではなく、外から動いているわけだ。

しかし、先生も先輩も鏡を見なさいと仰る。
そして、私は気が向かないなりにも鏡を見るようになり、そして鏡と次第に仲良くなりだした。(笑)

いわゆる、フォームが決まらない時は気持ち悪いのだが、鏡に映った自分のフォームが決まっている時は実に気持ちがいい。
が、気持ちのいいが違う。

鏡が気持ちがいいのは、どちらかというとナルシスト状態。
鏡を見ない気持ちよさは、どちらかというと自己陶酔状態。
体を動かすことの気持ちよさに酔ってるという感じだろうか。
結果、同じか。(笑)

因みに私の部屋には大きな鏡が据えてある。
そして、昨夜、仲間の言葉を思い出し、鏡を見ないで動いてみた。
そして定式の時にチラッと見てみる。
特に問題ないようだ。
いや、むしろ鏡を見ない方が自然なフォームになっているような気がした。

いずれも、練習場所に鏡がある環境とは限らないので、鏡がある時はそれをうまく利用し、なければないなりの練習をすればいいと思った。

が、気を付けたいのは、鏡を一切見ない、ビデオも撮らないでやっていると、何かおかしなところが出てくる。
陶酔状態に入ると、首が揺れるようになり、目はうつろになる。(笑)

少なくとも、私が知っている伝統太極拳の先生は、気功や太極拳の套路に入るとそんな感じだった。
私はこれをヒーリング太極拳と呼んでいる。

しかし、これは試合では通用しない。
首が揺れたり、目がうつろになるのは多分減点されると思う。(笑)

自分の癒し向けの太極拳と試合用太極拳は使い分けないとダメだということだ。
少なくとも試合や表演では“見せる”ことをしなくてはいけないのだから。

まあ、一番いいのは美しく、自分でも気持ちいいことなんだろうが。

2013年10月30日水曜日

なんとなく始める

昨日は仲間と約8時間に及んで練習した。
無論、休憩を入れてだが。
お蔭でかるい筋肉痛。(笑)

昨日は、目瞑り推手をやってみた。
これが結構おもしろかった。
感じたことは、目を開いていても目を閉じていても、あまり変わらないということだろうか。
といいつつ何度か飛ばされてしまったが。(笑)

あと、目瞑り組手というのもやってみた。
これは病み付きになりそうなほどおもしろかった。
もちろん手は触れてないとダメだが、目を瞑りながら相手の攻撃をかわし、そして隙あらばこちらからも攻撃を加える。

いずれも少しでも手を触れていれば相手の動きをある程度読むことが出来るが、蹴りが飛んでくるとさすがにわからない。
いや、空手の蹴りのような大きなスイングがあればわかるだろうが、立身中正のまま蹴りが飛んで来るとまるでわからない。
目を瞑りながらも静かな蹴りを読むことが出来るかどうかは今後の課題になりそうだ。

あと、ミット打ちで思ったことは、考えてから打つとまるでパワーが半減する。
何も考えないで打つとスバーン!!という音とともに相手が吹っ飛ぶ。
やはり打つ時は「無心で打て」ということなんだろう。

ところで、何か始める時にあまり意気込むといい結果にならない。
昔は何でも「気合い気合い」といったもんだが、私の場合は気合いを入れるとその後ボロボロになる。

何も考えないで、なんとなく始める。
朝ベッドから起き歯を磨くような感じで。
そうすると型もうまくいくし、推手や組手もいいコンディションで臨める。

今使っているシェアルームで最近ブレイクダンスのお兄さんと一緒になることが多いのだが、先日この話題で話が弾んでしまった。
ダンスバトルでも、あまり意気込むとうまく行かないらしい。

それに、見てくればかり気にすると柔らかい動きにならず結果いい動きにならないという。
それは太極拳にしても同じ。
見てくれを気にして演武するとロクなことにならない。

中から動く。
自分を信じ、自分の中から沸き起こる力で体が動かされる感覚と言おうか。

といいつつも、練習中も本番中も邪念がよぎることがよくある。
まだまだ修行が足りんようだ。(笑)

2013年10月28日月曜日

内功を経て長拳へ

またソファーで寝てしまった。

昨夜、剣の套路を剣を持たず、気を沈めながらスローモーションのように套路を練ったら、体がポカポカと。
それに心地よい疲労感。
丁度お風呂上がりのような感じになり、そのままソファーにという感じで。

そして、今朝起きて、なんとなく気功の体操をしていたら、妙に体がかろやかに動き、ついでに操手も行い、その流れで快練へと。
こんな風にたまに太極拳の技を早い動作で行ってみるというのを本能的にすることがある。

そこで気づくことは、体を緩めれば緩めるほど手の動きが速くなるということ。
もし、手に筋肉が一切なく、単なる紐だったとしたら、どうやってその手を前に振り出すことができるだろう?
そんな風に考えると自然と腹から動くということに気づかされる。

腹というのは、丹田であり、腰であり、股関節であり、
ようするに腹のあたりという感じ。

思うのだが、こういうことって、頭で理解しようとしてもなかなか体がそれに反応してくれない。
というより、頭で考える時点で?マークが出たら、もうその時点で終わりだ。
「丹田から丹田から」と言っても、例え丹田の位置がどこかわかっていても、その使い方がわからなければ、キーを回さなければエンジンがかからないのと同じだ。

しかも丹田から動くということは、キーを回す以前にキーの穴すらどこにあるかわからない。
暗闇でキーの穴を探そうとする時、手探りで何度かそのあたりつ突くことになると思うが、要するに、突いてみないと解らないって感じなんだと思う。

元々私は頭が良くないから、考える前に行動する癖があるが、お蔭で20代30代の頃は数々の失敗をした。(実際には今もだが)
お蔭で成功する方法より失敗しない方法をたくさん知ることが出来た。(苦笑)

いずれも、「考えてから動く」ではなく、「動くことによって悟る」っていうほうが私はしっくりくる。

話がすでにタイトルから脱線しまくっている。(笑)

そんなこんなで、速い動きの練習をしていたら、以前習った長拳をしてみたくなり、やってみた。
今までで一番良かったんではないだろうか?

子供たちは最初から長拳をしたがるが、太極拳から始めればいいのにと思う。
中を作ってから長拳に入ったほうが、本当の意味でのパワーの出し方がわかるような気がする。
※因みに、内面の鍛錬を内功(ないこう)と言う。

カッコよさだけの長拳ではなく、パンチひとつとっても腕力で突き出すのとは異なりキレのあるパンチが出るし、しかも突き終わる瞬間、腕から拳にかけてズドーンと重いものが走るのがわかる。
鉄球が飛び出す大砲のような感じだろうか。

パンチをパンチとして出そうとすると、明らかに形だけの動作になるということが見ていてもわかる。

今、少林太祖長拳(しょうりんかいそちょうけん)というものを習っているが、今やってみたら、なんだかいい感じだった。
2週に渡って覚えた技は、わずか2秒ぐらいの技。
しかし、中を感じながらひとつひとつの動作を丁寧にやると、やたら味が出てくるし、やっていて気持ちがいい。

老師は套路だけではなく技の使い方も教えて下さるから、余計に興味が湧くし、実際に興味を持ち始めている。(笑)

長くなりそうなので無理やり結論に持っていくが、

10年前に通っていた太極拳教室の先輩が仰った。
「ゆっくりが出来なければ速い動きも出来ない」と。

10年経った今、わかったという感じだ。

まあ、それにしても、子供たちに太極拳を10年やってから長拳をやりなさいと言っても無理かな。(笑)

2013年10月27日日曜日

始めての呉式太極拳

なりゆきで今日から呉式太極拳を始めることになった。
興味をもったきっかけは、双辺太極拳にとても似ているから。

様々な流派を取り入れた太極拳と言えば総合太極拳が有名だが、
更に幅広く取り入れたのが双辺太極拳。
第二次大戦中、生きるか死ぬかの戦いで最強の太極拳を作り出そうとして編成された太極拳らしい。

太極拳だけでなく形意拳、八卦掌の要素も加えられ、実戦性が最重要視されている。
手だけでなく脚も積極的に使うので、確かに実戦的だというのは套路を通しているだけでもわかる。

実はこの双辺太極拳で大会に出たかったのだが、残念ながらどの種目にも属さない。
そこでもっとも似ている呉式太極拳に着目した。

今日、30分で第一段(恐らく14式ぐらい)を老師に教わったが、
無論全部は覚えきれていないが、実際に老師について動いてみたら、妙にしっくりくるし、かなり私好みだということがわかった。

体重移動がハッキリしているし、動きも大きく、しかも楊式太極拳に似ていて動きも滑らか。
屈んだり、立ち上がったり、ひねったり、傾斜したりと変化に富んだ動きも楽しい。

大会まであと3か月しかないが間に合うだろうか?
ちょっとした賭けになるが、少なくとも陳式太極拳よりはずっと仕上がりが早いのではと思った。

ついでに老師に技のかけ方も教わったが、胸を使った関節技はとてもおもしろかった。
あれなら女性でも簡単に敵の肘をへし折ることができると思った。

今日は、前回に引き続き少林太祖長拳も習ったが、こちらもモノになればカッコいいと思ったが
私はやっぱり太極拳が一番肌にあってるようだ。

2013年10月26日土曜日

失敗から学んだこと

先日、サークルで演武し、大きな失敗をした。
人前で演武して失敗したのは生まれて始めてだったので、私の中ではかなりのショック。
その日一日は立ち直れなかった。

今まで先生の前で全套路を演武したことも何度かあるし、
イベントにも多数参加してきた。
大会でもノーミスだったし、
先日初めてピンでイベントに参加したが出来はともかく大きなミスはなかった。

いわゆる、今回の失敗は忘却なのだが、何故そうなったのかがわからない。
去年から、おそらく500回ぐらいは通したと思う、割と自信のある套路だったのに。

やり終わって感じたことは、失敗したことによる恥ずかしさというより、サークルの皆さんへの申し訳なさ。
私は割と責任感の強いタイプだから、自分のことより、期待して見ていてくれた会員さんをがっかりさせたことが、なにより残念でたまらない。

サークルを開始した今年の4月からは、会員さん達により良い指導をと思い、確実に自主練の時間も増えているし、練習内容も濃厚になっている。
自分が恥ずかしい思いをしたくないからではなく、正しい指導をしたいという責任感からだ。

逆に言えば、私はサークルを始めることによってスキルアップできると見込んでいたが、実際そうなっている気もする。
イベント出ない。大会出ない。指導しない。
この状態は私にとってだらけるだけのことにしかならないから。
いわゆる自分で自分の尻を叩いているという具合。

なぜ、自分で自分にやる気を起こさせなくてはならないかと言うと、多分、私に始めて太極拳を教えてくださった師に対し感謝の気持ちがあるからだと思う。

きれいごとにように聞こえるかもしれないけど、私はいつだって、何かをする時にその恩師のことを思い出す。
「お蔭様で私は立派に頑張ってますよ」と心の中で呟いている。
いわゆる心の父なんだと思う。

大会でいい成績をとりたい。
良い指導者になりたい。
それは恩師がどこかで私のことを見ていてくれると思うからこそ。

確かに周りからチヤホヤされたいという気持ちがないといえば嘘になるが、
そういうのは20代の時に散々やってきたから、そのころから比べたら今はあまり興味がない。
ただただ、自分を磨いて、そして恩師に認めてもらいたい。

というより、私はチヤホヤされるとその後ダメになるってこと痛いほど経験してきているから、
私の場合それが目標では絶対ダメなのだ。

先日、恩師から手紙と本が届いた。
今年の7月に会う約束をしていたのに、急用ができて会えなくなったことをずっと気にしてくださっていた。
直筆で書かれた宛名とメッセージには心がこめられており、思わず涙しそうになった。
だから、私は師のことが好きなんだと思う。

ただ、教室に来た時だけ教えてくれるというのではなく、師の元を離れて7年近く経った今でも私のことを気にかけてくださる。
本当に素晴らしい方だ。

話が大幅にそれてしまったが、私はいったい何故忘却してしまったのか?
実は未だに謎。
ブログを書き出せば答えが見つかると思ったが、この答えがみつかるのはまだ先になりそう。

ただ、ひとつ言えることは、その忘却が大会やイベントで起こらないで良かったということ。
大会は自分だけの責任で済むが、イベントで忘却してしまったら観客の皆さんに申し訳がたたない。

あと、先生であっても失敗はあるんだということで、会員の皆さんに安心感を与えることはできたかな。
そうとでも思わないと、やってられない。(笑)

2013年10月23日水曜日

立禅套路

立禅套路(りつぜんとうろ)
そんな名称はありません。(笑)

昨夜は体育館のコート1面を借りたので、普段できない器械の練習をしておこうと、4時間ぶっ通しで剣の練習をしたが、どうやら逆効果だったようだ。
ビデオで撮って、あとで見てみたら、ただただ雑な演武にしか見えなかった。

試合では時間が決められているから、何が何でも時間内に収めないといけない。
時間オーバーは確か大量減点のはず。(よく知らないが・・)

ということで、時間を気にしながら、套路を通す。
要するに本番と同じスピードで套路を通すわけだ。
これが実によくない。

やればやるほどハマるし、演武は雑になり、無駄に体力も消耗する。

ということで、今日はその真逆で、時間を全く気にしないで、器械を持たず出来る限りスローでやってみた。
いわゆる立禅のまま限りなくゆっくり動くという感じで。

これがすごく良かった。
普段車で走ってる道を自分の足でゆっくり歩いてみると、今まで見過ごしていたものをいろいろと目の当たりにすることになるが、まさにそんな感じ。

それにゆっくりやれば、動きながら重要なことを意識しながら動くこともできる。
例えば首筋をまっすぐにするということをテーマとするなら、それを唱えながらという感じで。

又、ゆっくり動くとその分片足立ちの時間が長くなる。
脚力はもちろん、軸感覚も養うことができると感じた。

それに、超スローでやると、案外まだまだ肩に力が入っていることにも気づかされる。
まだまだ抜けるなと思った。

結局、だから太極拳はゆっくり練習するんだなということを実感できるし、
立つこと、軸を保つこと、気を沈めることなどが重要であることがわかる。

今日、シェアルームでブレイクダンスの男性と一緒に練習したが、ブレイクダンスは半年一年でそこそこモノになるという。
一見どうみてもブレイクダンスの方が圧倒的に難しくみえるが、太極拳は10年やっても全くしっくりこないし、風格も出てこない。
わずか手を上げて下すだけの動作でも、初めての人と30年やってる人とではぜんぜん違う。

いわゆるシンプルなものほど難しいのだろう。

とにかく、今は限りなく立禅(站椿功:たんとうこう)に近い套路を練ることが重要だと思った。

2013年10月19日土曜日

笑顔は無敵?

私は暗い雰囲気とか男臭い雰囲気がどうも苦手。

例え組手の練習をするときでも笑いながらやりたい。
でも、相手としてはこちらがへらへら笑っていたらきっと腹立つだろうなと。(笑)

怒ったら負けとは言わないけど、
怒る時の脳波はガンマ波になっているといわれる。
一方、笑っている時の脳波はアルファ波といわれる。
要するに笑っている時のほうがリラックス状態といえる。

ある有名なホームランバッターの話だが、
バッターボックスに入るときの脳波はアルファ波で、ホームランを打つ瞬間はシータ波になっているという。
剛速球を外野席まで打ち返すあのパワーは、驚くべきことに居眠り状態の脳波でつくりだされるということになる。

ウトウトしながら戦ったら、相手はもっと腹立つだろうな。(笑)

私はサークルで一番重要視するのは雰囲気だ。
最近では「空気」と呼ばれるようになったが、私はそう呼ばれる10年以上前からそう言っていた。
空気を読むとか読まないとか。

逆に一番嫌いなことは空気が乱れること。

空気が乱れると、脳波も乱れる。
脳波が乱れると、態度も乱れる。
態度が乱れると、行動が乱れ、周りに悪影響を及ぼし、
後はエンドロピーの法則どおり、どんどんそれが拡散していく。
更に拡散すると世界中が不幸になる。

大げさといわれるかもしれないけど、私は空気が乱れることがそれぐらい好まない。

だから、サークルでは怒鳴ったり怒ったり、そういうオーラは絶対に出さない。
もし、私がそうなる時があるとするならよほどだと思う。

もし気に入らないことがあっても、その場でさっと流してしまうか、自分の中で楽しい空気を作り出すボルテージを上げて、その空気を元に戻そうとする。
かなりパワーを使うが。(笑)

いずれも怒りの空気は脳波に影響し、チャクラに影響し、体内に邪気を溜め込んでしまう。
気功を行うサークルであるがゆえに、邪気を払うのが目的であって、邪気を溜め込んでしまっては本末転倒だ。(笑)

楽しい雰囲気。
ゆるい空気。
こういう環境の中でこそ、気功や太極拳は良いものに仕上がっていくと信じている。

戦う場面になっても、決して怒りのオーラではなく、眠るようなリラックス状態でこそ、自分の持っている能力が最大限に引き出せると思っている。

話は変わるが、笑顔が売りのマ○ド○ルドの店員に最近笑顔がなくなったと感じるのは私だけ?
メニューからもスマイル0円の表示が消えた。
一方、スター○ックスはどの店に行っても店員さんの笑顔が素敵だ。
というより、あの笑顔を見たくてコーヒーを飲みに行ってる気がする。(笑)
客観的に見ても、マ○ド○ルドよりスター○ックスのほうがいつもお客で賑わっている。(と思うのだが)

笑顔は人をひきつけ、リラクゼーション効果を生み出し、そして勝利へと導く。
笑顔こそ無敵。
(と私は思う:笑)

2013年10月18日金曜日

気についての意識と無意識

いつもサークルで言うことなのですが、気は意識しないと集まってきません。
内なる気も外にある気も感じることはないです。
そもそも誰でも感じることができないからこそ価値があるのです。

気を操れるようになるためにはそれなりのトレーニングが必要です。
トレーニングなくしていきなり気を操れる人はいません。
ただ、元々持ってる気が強い人と弱い人はいるようです。

私は、30代ビジネスで寝る間も惜しんで頑張っている時は気が出まくっていると人から良く言われました。
気功をしなくても気は出るのです。
その気を私は「やる気」と呼んでます。

でも、やる気ってなんでしょう?
どこからやってくるのでしょう?
やる気は目に見えるでしょうか?
やる気は頭で感じるのではなく腹で感じます。
腹に気が集まっているのです。

やる気によってパワーが出ます。
いわゆる、「気」とはパワーという風にも例えられます。

なら、パワーとは?
パワーは筋力だけによって発せられるものでしょうか?

もし筋力だけでパワーが出せるのであればバーベルは常に持ち上げられることになります。
しかしコンディションが悪いと持ち上がりません。
持ち上げようという「気力」がなければその筋力を使えないということになります。

因みに中国武術は、気を使わなくたって、物理の法則と筋力だけでも十分戦えます。

一方、気を使える人は技は必要ないと言われています。
触れただけで相手を飛ばしたり、深刻なダメージを与えることができるからです。(内臓破裂で死に至ることもあると言われます)
触れ合うのは皮膚と皮膚ではなく、気は体を貫通するから怖いのです。(勁力と言われています)

私は筋力も勁力もどっちも好きですし、どちらも好んでそれらが使えるよう練習しています。

会員さんの中には、気を感じることができた人、
気を感じようと努力している人、
努力しない人、
はなっから信じない人、
本当に様々でいろんな人間模様が見れて楽しいです。

たとえば、誰でもがスプーン曲げができるでしょうか?
私はできません。
なぜならその能力がないし、トレーニングもしていないからです。
でも、トレーニングすれば曲がるだろうなとは思っています。
やらないのは他にやりたいことが山ほどあるからです。
いずれも、スプーン曲げは誰でもが出来ないからこそできる人を凄いと思えるのです。

私が気を信じるのは、体感してしまったからです。
最初に就いた師に、“プレゼント”と称する気を腹にもらいました。
殴られたのではありません。腹に拳を触れられただけです。
翌日まで腹痛が続きました。

それに私には気の波動が見えます。
そんなのウソに決まってる!と思われる方もおられるでしょう。

冒頭の話に戻りますが、人は意識したことだけに注意を向けることができる生き物です。
花が好きな人は、道端に咲いている花が見えます。
しかし花に興味のない人にはみえません。
同じ道を歩いているのにです。

音楽の好きな人なら、例え小さな音でもきれいな音楽が流れてくるとすぐにわかります。
しかし音楽に興味のない人は、他の雑音しか聴こえないでしょう。

デパートに行って、女性ならファッションばかりに目が行くでしょう。
男は小物関係に目が行きます。

目や耳から入ってくる情報はすべて自分が意識しているからこそです。

だから、「気」も意識しなくては感じることはないです。
「感じません」という方は意識してないからです。
というより気の存在そのものを否定しているのでしょうね。

「気」は別に神秘的なものでも霊的なものでもありません。

というより人間そのものもが気なのです。
肉体は固体ではありますが、そもそもそのタンパク質にしてもスカスカなのです。
ミミズのようなものがひょろひょろと並んだような形をしています。
更に、タンパク質そのものも原子と電子から成り立っており、更にスカスカです。
体中、いや宇宙の万物そのものがスカスカの空間だらけなのです。

量子論で考えてみてもそうだし、そうなると気というものは宇宙そのものだということにたどり着きます。

話が怪しくなってきたのでこの辺で失礼します。(笑)

2013年10月16日水曜日

狭い空間と広い空間

今日は6時間ぐらい練習した。
でも、まだまだ物足りない。
やりたいことが山ほどあって、時間がいくらあっても足りない。

まずは体育館の一部を借り、その広い空間を使ってできることを存分に練習した。

一番困るのは、刀や剣の練習だ。
いつもは近くの公園でやるのだが、先日、公園の管理の人から苦情が入っているということを伝えられた。
公園というより、公園内の通路だったので、刀を振り回していては通行人に恐怖感を与えてしまうとのこと。
確かにそうだ。。

なぜ通路で練習したかは理由がある。
いわゆる野外で演武をするので、同じ環境で練習したかったのだ。
青空の下で、地面がアスファルトやコンクリートなどの固い地面。
しかし、周りに迷惑もかけたくないし、警察沙汰になっても困るので、道路での練習は今後控え、公園内で練習することにした。

因みに野外練習でいいのは気功だ。
気功は野外でやったほうが断然いい。
目の前に樹木があると尚いい。
ビルの2階や3階で「地面から気を吸い上げる・・」といっても、下はコンクリートなわけで。。(苦笑)

あと、部屋の中では、站椿功がいい。
それと、形意拳も良かったりする。
部屋が狭いから、転身のいい練習になる。(笑)

それに狭い方が集中できる。
広い空間ではのびのびと套路の練習ができるが、落ち着かないし、集中もできない。

そんなこんなで、自分の部屋、無料スペース、公民館、公園、体育館と、その空間を生かした練習をするのがいいと思った。

2013年10月15日火曜日

風のよう

自己嫌悪気味のそよかぜです。(笑)

最近、自分の行動や態度、発言・・なにもかもが気に入らなくなってきた。
来月で50を迎えることだし、心機一転リニューアルオープンといったところか。

といいつつ、また自慢話のような感じになってしまうが・・

先日、老師の奥様が私の演武を「風のよう」と例えてくださった。
いろんな方からいろんな言葉を贈って頂いたが、奥様の言葉が一番嬉しかった。

何を隠そう私は風のようになりたいと思っているから。

逆を言えば、迫力がないとも。(笑)

そういえば、過去に「戦っているようにみえない」と言われたことがあるが、確かにそうかもしれない。
私は戦うことを好まないし、相手がいると思って演武していない。
どちらかというと空気と戯れているという感じだろうか。
いわゆる太極拳ではなく気功を太極拳風に行っているような気がする。

演武する時は相手がいると思って行えという教えがあるが、
やはり、そうしないといけないのだろうか。

風といっても、今の私はそよ風レベルだが、
いずれ空気を自在に操ることができるようになれば、もう少しは迫力を出すことができるかな。

因みに、楊式刀の使い方としては、日本刀を振り回すような剣道のような動きは少ない。(あるにはある)
どちらかというと、スライスする感じだ。

いわゆる包丁で鶏肉を切るときの要領。
鶏肉は力を入れれば入れるほど切れない。
逆に力を抜いてスーッとスライドさせると難なく奥深くまで切れる。

圧倒的な厚みと重さのある日本刀とは違う。
日本刀は斧のようにも使えるのだろうが、楊式刀は無理だと思う。
どちらかといえばカッターナイフだと思った方がいいと思う。

そうなると・・
動きはやはり戦っているというより、ふわふわ舞っているようにみえると思う。
だから、今の動きでいいと思うのだが、都合が良過ぎるだろうか?(笑)

2013年10月14日月曜日

三国志祭りを終えてみて・・

出る前は、出ようか出まいか迷ったが、
昨日、終えてみて出て本当に良かったと感じた。

やり終えた後の解放感もいいが、たくさんの人から声をかけてもらえたことがなにより嬉しかった。

自己採点するなら、せいぜい55点ほどの出来栄えだと思ったが、
演武直後、老師、同士、他の選手、観客の方、会う人会う人に良かったと言ってもらえ、確実に励みになり自信にもつながった。
帰りの駅のホームでも、出場された選手の方から声を掛けて頂き、さすがに照れ臭かった。

本番中は手震えてたのだが。。(苦笑)

それにしても、全日本の直後は、解放感だけで、しばらく休みたいと思ったが、
今回は違う。
逆にもっと練習したいという気になっている。

今、新たに目標を追加し、課題も増えた。

周りから言っていただいた言葉をひとつひとつ整理していくと、もっともっと磨きをかけていきたいと。

音楽でライブ活動をしている時もそうだったが、最初の頃はガチガチで指が動かず大変だった。
それが3年、5年、10年ともなってくると、実力はもちろん、ライブ前の精神状態がぜんぜん違う。
ジャンルは違えど、当時のように自信満々で演奏・・ではなく演武ができるようなりたい。
それこそ瞬きもせず見ていてくださいと言えるほど。

今は、「しっかり見させていただきますよ」と言われると、
「あ、あ、絶対見ないでください、、」と必死だ。(笑)

明日からのメニューは、立禅と楊式の套路をじっくり練りながらやることになると思う。
やる気が出れば出るほど、套路がゆっくりになる。

といいつつ、昨日の本番では、つい恰好つけようとして速い動作を入れてしまったが、アレは良くなかった。(苦笑)
緩急のつけ方がデジタルなんだよな。。
糸を切らないよう、アナログな動きになるようにしなくては。


2013年10月13日日曜日

踵脚は手が主、足は副

踵脚(とうきゃく)の時どうしても足ばかりに意識が行く。
意識が行くとそこに重力が集まる。
 
意識したところに血液が集中するというから実際そうなのだろう。
結果、上げた足が重く感じバランスを失いやすくなる。
今度は足をあえて無視し、手に意識を送ってみる。
手は両側に広げるだけだからかえってバランスをとりやすくなる。
綱渡りのバランス棒みたいなもんだ。
そして足は自動的についてくる。

そもそも踵脚や分脚(ぶんきゃく)の攻撃は足がメインでないように感じる。
少なくとも私が教わった分脚は手で攻撃し、ついでに足も使うという程度。
なんなら手だけでも十分じゃないかと思うほど。

しかも蹴る位置も膝や股間、高くても下腹程度。
それ以上上げる必要は全くない。
というより腹より上は手で打ったほうが早い。
足が上がらない負け惜しみといわれればそれまでだが。(笑)

とにかく踵脚の攻撃は手がメインで足はサブと考えてみる。
これを演武でも意識してみる。
するとずっと踵脚がラクになる。
 
足ではなく手で打つ。
分脚ではなく分手と名称を変えたほうがいいのでは?(冗談です)

実は私は今、剣で嵌ってしまっている箇所がある。
踵脚などのように手を両側に広げるのではなく、剣を持った右手は高く上にあげ、左手を前に突き出す。
前後の技からの流れもあるのだが、どうしてもバランスがとりにくい。

どうやら右手がネックのようだ。
重い伝統剣を上に持ち上げるわけだから、その持ち上げることに意識するとどうしてもバランスを失いやすくなる。

そこでこう考えてみることにした。
右手を高くあげるのは(見えない)吊革につかまるためだと。(笑)
それなら手を上げることは安定を得るということになる。

同じところで同じミスを繰り返すのは、ミスのイメージが積み重なっていくからだ。
そうではなく小さな成功例を積み重ねていかねばならない。

なんとかこの作戦でクリアできればいいのだが。。

2013年10月12日土曜日

いいこと尽くめの立身中正

タイトル通り、立身中正(りっしんちゅうせい)は素晴らしいと思う。
立身中正とは文字通り背筋をまっすぐにすること。

ひとまず私が素晴らしいと思う理由を箇条書きにしてみると・・

  • 約30年来の腰痛が病院に行かずして完治した
  • 周りから姿勢がいいといわれる
  • 大会や試合でのポイントになる
  • 気の巡りがよくなるので頭が冴え身体に活力が生まれる
  • 沈むことができるのでバランスがよくなり、勁力も強くなる
  • 気が沈みやすくなるのでリラックス効果も高い

まだまだメリットはあると思うが、今思いつくのは以上だ。

正直、私の太極拳はまだまだ未熟だと思うし人様に見せるレベルではないと思っている。
が、姿勢に関してはよく褒められる。

自主練の時にちょくちょくビデオを撮るが、確かに以前に比べれば上体がぶれなくなった。
(自分の中ではまだまだだが・・)
とにかく以前は尻が出たり顎が出たりで、尻をひっこめると顎が出、顎をひっこめると尻が出るという始末。
当時の先生も呆れていた。(笑)

その、どうしようもない状態が、いきなりシャキッと姿勢が良くなった。
気功を始めてからだ。
それまでは躍起になって姿勢を正そう正そうとしていた。

が、気功をすると自然と背筋が伸びるのだ。
というよりそうしなくては気がスムーズに流れてくれない。
サークルでも姿勢のいい人は割と早い段階で気を感じ、姿勢がなかなか改善されない人は気を感じないと言う。
だから姿勢は大事であることがわかる。

いずれも、私にとって一番大きかったのはひどかった腰痛がピタリと治ってしまったことだ。
私の腰痛は寝ていても起きていても立っていても座っていても常に痛かった。
いわゆるどんな体制でいても常に痛みが続くのだ。
お蔭で仕事も集中できなし、痛みのお蔭でイライラするし、挙句は些細なことでもカッとなりやすく・・
全くもって腰痛なんてロクなもんじゃない。

快適であるはずの車も電車も辛いし、映画だってぜんぜん楽しめない。
座って5分もすれば腰が痛くなり、映画どころではなくなるからだ。
今は最後まで映画を楽しめるようになった。

それにしても気功がなぜ?という感じだ。
はたからみるとただ、突っ立っているだけにしか見えない。
それが腰痛を治すだけではなく、頭が冴えたり、体にエネルギーを感じやすくなったり、
なによりやる気が出てくるし、気分も上向きに。
とにかく様々なメリットを生み出す。

まだまだあるが書き出すと止まらなくなるので、これだけ話して終わりにしたいと思う。

私は今年の県大会の時、基準より低い点だったのが、半年後の全日本で基準より高い点を出すことができた。
半年間で0.28ポイントアップだ。
別に試合用套路をがむしゃらにやったのではない。
とにかく立禅気功に徹した。

30年来の腰痛を完治させた立禅気功はまだまだ奇跡を起こすのではないかという予感めいたものを感じていた。
だから、誰に言われることなく自主的に立禅気功の時間を増やした。
いや、増やしたと言いうより自然と増えていたという感じだ。

套路の動きがぎくしゃくするのは、歩くこと以前に立つことが出来ていないからだ。
子供の成長過程でも、まず立つことから始まる。
立つ前にいきなり歩き出す赤ちゃんはいない。
まず、立つ、そしてヨチヨチ歩く、そして上手に歩くようになる。

進化論を信じるなら、人間は立つことによって知能が発達したと言われるが、
確かに二本足歩行する動物は知能が優れいている。

だから二本足で立つことのメリットは非常に大きいと言えるし、
いや、二本足で立つことによって人間は様々なミラクルを起こすのではないかとも思える。

武術として勁力を使えるようにするためにもまずは気沈丹田(きちんたんでん)
これにしても立身中正は鉄則だ。

まとめます。
立身中正は病気を治し、体調を整え、心身ともに快活にし、太極拳で要求される気沈丹田がスムーズになるので、演舞も良く、武術的にも優れいているということになる。

ちなみに、武術的にも優れいているとは私のことではなく、私が強いと認めた師の姿勢が立身中正であったことによる。
私はまだまだ腰痛が治ったレベルだから、武術を始める準備ができたばかり。
勁力開発で更なる自分の可能性にチャレンジしたい。

2013年10月11日金曜日

軽くなった?重くなった?

昨夜のサークルで会員さんに攬雀尾(らんじゃくび)の擠(せい)の使い方を体得してもらおうと、「ここを押してみてください」と肩を差し出した。
しかし、なんとも全く力が伝わってこない。

私は「腰から力を出そうとすると基本的な攬雀尾の形になりますよ」と説明したかったので、いつでも倒れる準備で肩を差し出した。

しかし、残念ながら倒れるつもりで構えている私自身がビクともしないので説明ができなかった。
確かに、Nさんは細身でかなり華奢なタイプ。

そこで、今度は割と普通体系のKさんに押してもらった。
Nさんより多少は力が伝わってきたが、しかし私の体は全く動かない。

いわゆる、私のやりたかったのは女性の場合は男性に比べ腕力が劣るから、物を押そうとすると自然と腰を使うということを説明したかったのだ。
その形こそが攬雀尾なのだと。
手で押すのではなく、腰から押す。
言い換えれば丹田から押す。

いずれも作戦失敗に終わったのだが、
それにしてもなぜ私の体は動かなかったのだろう?
演武をする時は風のように軽くなることを意識し、そうすることによって体の重さをあまり感じなくなり、手も足も軽やかに動かすことができる。

しかし、いざ対戦となると、軽いのでは困る。
それこそ指先でひょいと押されただけでぶっ倒れてしまう。
いわゆる、体の重さをその状況によってコントロールしないといけないわけだ。

そんなことができるのだろうか?

そういえば、私はあれからもずっと陳式太極拳の基本功を続けている。
教室は事情により退会することになったが、型はともかく基本功は毎日のメニューとして必ず行っている。

そして、一昨日鏡を観て思った。
以前より体が前傾しなくなっていた。
前傾しなければ無理だと思っていたけど、何かが変わってきたのだろうか?

もしかしたら私は結論を急いでしまったのかもしれない。
あと、もう少し努力すれば極端に前傾しなくとも立てたのかもしれない。
いずれも未来のことは解らないから、これからも毎日続けて行こうと思う。

結果的に、私の体は軽くなったのだろうか?
それとも重くなったのだろうか?

2013年10月10日木曜日

ストレッチについて

かつて私は煙草をやめるために、ヨガを毎日行っていたことがあるが、
久しぶりに昨夜、ヨガマットを敷いて4つのアーサナをやってみた。
久しぶりにやると気持ちいいですね。

日常生活では絶対とらないようなポーズでゆっくり呼吸をする。
痛がっている筋肉をなだめるよう自分の肉体と会話する。
眠っていた肉体が覚醒するような感覚。

そして、やり終えた後、滞っていた血がうわーっと流れるよう妙に体がスッキリする。
短時間でこれだけのリフレッシュ感が得られるからこそ、ヨガはこれほど世に広まったんだろうと思った。

一方、太極拳でも教室によってはストレッチを行うが、こちらは正直言うとあまり気持ちよくない。(苦笑)
同じように筋を伸ばしているのだけど、呼吸や対話がない。
取り組み方によってこんなにも違うものかと思う。

因みに私は自主練の時、圧腿(あったい)という股関節の筋を伸ばすストレッチを毎日行っている。
しかし、前ほど効果を感じられなくなった。

そして今理由がわかった。(笑)
呼吸を無視し、ただただ、1、2、3・・と数を数えているだけ。
しかも肉体と対話をしていない。

私がもっとも柔軟性効果を感じた時は、圧腿の時に数を数えてなかった。
というより、痛いと思うと筋肉は伸びることに反発しようとするから筋は余計に硬くなってしまう。
全く意味がないのだ。
どんなに長時間やっても筋が反発しているのでは効果がないと思われる。

私が効果を感じたのは、数を数えず、圧腿しながらゆっくりと呼吸する。
そして痛みを感じながらもじわじわと上体を倒していく。
痛みに反発するのではなく「受け入れる」という感じだろうか。
そして最後は自分の身体を「信じる」ということになると思う。

「自分は硬い」「無理だ」「出来ない」って思うと筋が余計に硬くなってしまう。
何を隠そう、私はいつもそのようにぼやいてしまう癖があるから。(笑)

ということで、今日から圧腿の時に数を数えるのを止め、
痛みが気持ちよさに変わるまで、ゆっくり呼吸しながらという形に戻そうと思う。

たまに自問自答することって大事だなと思った。

2013年10月9日水曜日

刀や剣にも気は集まるか?

体に気が集まることはわかった。

気を意識すると気が集まってくる。
目に見えないものを感じようとするだけのことなんだが。

今朝のサークルで、ひとりの会員さんが2度目でありながら手にすごく気を感じたと。
で、手をかざしてみると確かに熱を帯びていて磁力のような独特の感覚を感じた。
手のひらを見るとほんのり赤くなっていた。

私は師に教わった通り気功を行っているが、こうして実感してもらえることはなにより嬉しい。

いずれも、私の気功の修行はまだまだこれからだ。
いつまで続けるかといえば、体が空気と同じぐらい軽くなるまでと考えている。

今でも気と友達になれると優しく包まれているようで至福感を感じる。
これを勁として武術的に使えるようになればいいのだが、あえて私は今のリラクゼーション効果だけでも十分満足している。

で、ここからが本題。(笑)
そう、ふと今日思ったのだが、武器にも気は集まるのだろうか?

私は集まると思う。
もちろん証明することはできない。

ただ、私が最も愛する楊式刀(日本刀に似ている)を振っていると、それが刀ではなく手から伸びた鞭になったように感じる。
(あくまでも私の感覚です)

そして、前にも何度かブログに書いたと思うが、刀の重さを感じなくなってくる。
この感覚が気持ちよくて仕方ない。
伝統刀だから長拳用剣に比べるとずっと分厚く重いのだが。

が、こと剣に関してはまだそうならない。
刀に比べ剣を持ってる時間が圧倒的に少ないからだ。
先日、老師に「剣をもっと意識して」と何度も言われたが、剣はまだまだ体の一部になってないようだ。
剣を抱いて寝るぐらいしないとダメなんだろうか。(笑)

いずれ剣も同じような感覚を得られるようにしたい。

本題である、刀や剣に気が集まるかどうかは検証しようがないが、私は集まると信じたい。
というより、そう思ったほうが楽しいし、逸早く体の一部になるような気がする。

2013年10月7日月曜日

2023年までの目標

2023年までの目標を立ててみた。

あえて公表しないが、大まかに言えば、試合だけで実績を積むということと、
サークルの環境をより良いものにするために資金を貯めて道場を出すということ。

そして私は私らしく、サークルの人達にも、個々の「らしさ」を引き出してあげたいと思っている。
人の数だけ太極拳の流派があればいいじゃないかと。
前にも話したが、人それぞれ体格も違えば得意分野も違うからだ。
無論、集団演武をする時は揃えないといけないが。

2023年までと言っても、その時私は60歳。
10年後の私は還暦を迎えているなんてとても信じられないが、
いずれも選手として出場するのは55歳ぐらいまでと見込んでいる。
その後は次の世代にバトンタッチだ。(希望者がいればの話だが・・)

大会本番前、選手の背中をポンと押して
「思う存分暴れてこい!」と言ってみたい。(笑)

要するに華のある内に引退したいし、次にその経験を生かしたことをどんどんやっていきたいと思っている。

前にも話したが、大会に出るからと言って、表演系に走ろうというのではない。
大会出場という目標を持つと、普段やらない練習をすすんでやるようになるので自分のためになる。
いわゆる、美しい演武ができる練習をするついでに武術家として強くなる練習もしてしまおうということだ。

理由はハッキリしている。
この平和な世の中で強くなりたいというモチベーションがあまりにもなさ過ぎるからだ。
子供の頃なら散々苛められていたから、いくらでもモチベーションはあったが、今はあいにく苛められていないもので。。(笑)

だから、自分から波を起こさなくては、待っていても波は起きないということだろうか。

いつも一緒に練習している仲間が言った。
最初の頃と全然違うと。
私自身も自覚している。
なぜなら私が本気で太極拳に取り組みだしたのはここ一年ぐらいだから。
大会出場を決めてからだ。

10年の武術歴なんて単なるキャリアに過ぎない。
要はどれだけ内容のある練習を毎日コツコツやるかだと。

5年後、10年後の自分がどうなっているのかが楽しみだ。

***

追記:
ここ最近、あまりにもいろいろなことがあり過ぎて、テンションがぐちゃぐちゃになっていたが、お蔭で自分が何をすべきか明確になった。
そんなわけで少々乱暴な文章になってしまったが、ブログということでどうかお許しください。

間違って覚えたほうが覚える?

会のQ&Aコーナーにも書いてるが、
間違えないで覚えようとするより、間違えて覚えたほうがさらによく覚えるということを私は今までに何度も経験してきた。

間違えて覚えると悪い癖がつくから直すのが大変だとよく言われるが、
本当だろうか?
その気になれば1秒で直すこともできる。

因みに楊式太極拳と陳式太極拳では手の方向が逆になることが多い。
だから、いつもの癖でやるとついつい逆になってしまう。
しかし、何度か反復練習するとすぐに慣れるし間違えなくなる。

楊式太極拳は10年やってきているわけだから、体に染みついている。
いわゆるこれを悪い癖だと見立てたとしても、陳式で手が逆になってもすぐに覚えることができるということだ。
いや、むしろ逆だから緊張感が生じ、間違えないでやることができるともいえる。

車にしてもぶつけないように運転している人ほどビクビクしながら運転し、なかなか上達しない。
しかし、縁石にこすったり、電柱にぶつけてしまったり、そんな経験のある人のほうが同じミスをしなくなるし、体で覚えていく。

実際10年来の癖を1秒で直した経験はいくらでもある。
だから、「心配するな」ということだ。

間違ってもいいからどんどん練習する。
そしてサークルに来てもらえば、間違っているところを指摘する。
そして、「あ!そうだったのか!」となる。
この「あ!」となることが脳に強くインプットされるんだろうと思う。

因みに私は本当に覚えが悪い。
今通ってる大阪の教室でも、一番覚えが悪い。
老師に「すいません・・もう一度ゆっくりお願いできますか。。」と申し訳なさそうにお願いすると
老師は優しく丁寧に教えてくださる。

そして、他の生徒さんは先にすすむことができず待たされることになる。
とんだ迷惑野郎だ。(笑)

しかも、それなのに私は人に教えている。

これだけはハッキリ言えることだが、
私は覚えが悪い人の気持ちが人一倍わかる!(笑)

2013年10月6日日曜日

嬉しいこととそうでないこと

先日2度目の参加のYさんが、姿勢が改善され腰痛がなくなったとのメールをくれた。
私にとって一番嬉しいお知らせだ。

前にも書いたが、私は自分が得た太極拳が人生を変えるほど素晴らしいものだと感じたので
ほかの人とも共有したくてサークルを始めた。
楽しいことは一人でやるより大勢で共有したほうが絶対楽しい。

かといって、押し売りするつもりは毛頭ない。
自然と興味をもってもらった方に、1度の体験でも「楽しかった」と思ってもらいたい。

最初に私に太極拳を教えてくださった先生は私に太極拳の魅力を伝えてくださった。
だから今度は私がそれをしたいと。

だから喜んでもらえることは何より嬉しい。

冒頭でもお話したように、もっと嬉しいのは、健康状態が改善されたというお知らせ。
或いは肌のハリや艶が良くなったなど美容的効果。
そして、日ごろのストレスが発散されたのであればいうことはない。
というより、現時点で私はそれ以上のものはいらないと思っている。

ある会員さんは、サークルに来るのが楽しみで仕事を頑張れると言ってくださる。
これもまた私が目標としていることなので、このようなお知らせは実に嬉しい。
わずか週に1回、サークルに参加することで生活に弾みでたり、活力を感じるようになってもらえるのなら最高だ。

逆に残念なことは、練習中に体に痛みを感じてしまうこと。

そうならたいためにも私は今まで様々な教室で教わった柔軟方法をふんだんに取り入れているし、それを十分に行った上で太極拳を行っている。
準備体操から気功にかけても、13種類の準備運動、8種類の鬆身法、10種類の立禅気功、3種類の太極気功、6種類の操手・・
合計40種類の準備運動を行っていることになる。
準備運動だけでも24式太極拳より数が多い。

とにかく太極拳を始める前に徹底的にコリをほぐし体をゆるめるのだ。
コリや力みは気の通り道である経絡を塞いでしまうし、そのままの状態で套路(型)を行っても形だけのものになってしまう。
体外の気と体内の気を融合させるがごとく、動いていくと自分の体がふわっと軽くなる感覚が得られるはず。

文章の途中になりますが気を信じない方はこの文章を読まないでください。
気を説明してみろと言われても、気は感じるものであり目で見ることもできなければ説明することもできない。

神の存在を信じるかどうかという話にもなり、堂々巡りだ。
これだけ化学が進んでいても未だに神の存在を証明することはできていない。
気も同じだ。

自分自身が気の粘りや浮揚感を感じればそれを自分の中でしまっておけばいい。
私はどんな高価な宝石よりも価値のあるものだと思っている。

*****

話は変わるが、ある人が貴方のような会の長がネガティブなことを言うべきでないと仰った。
ネガティブ=悪いこと と捉える方がおられるようだが、ネガティブがあるからポジティブが起きるわけであり、そもそもネガティブなことがなければポジティブを感じることだってできない。
影は光があるからこそできるのと同じだ。

炎天下の中で練習をする時にしても、日照りの中で練習するより涼しい木陰で練習したほうが捗る。
常に光がいいとは限らないのだ。

私は基本的に自分の心に嘘をつくことをしない。
常に自分に素直でありたいと思う。
それが会社の社長であろうが、サークルの会長であろうが、同じだ。
いや、社長や会長のほうがむしろ人間的だと思う。

強いところばかり見せようとしてもどうせ後でボロが出るし、歪も生じる。
だから、私はつまらんことに見栄を張ったり、会長だからと背伸びしたりしない。
ありのままだ。

人は誰だって強いところもあれば弱いところもある。
そして、そのうちそれを補おうとしてくれる人が周りに現れる。
その結果、私はその方々に感謝することができる。

弱音を吐かず頑張るのは一見かっこいいようにみえるかもしれないけど、言い換えればエゴであるとも言いたい。
人の厄介になりたくない、すべて自分でやる。
昔の私がそうだった。
が、そうしようとすればするほど、人の憐れみを買うことになる。
挙句、当時、私は性格が悪いと言われた。(笑)

自分が人に認めて欲しいというのは誰でも思うこと。
その上に、人を認めるということが大事だと思う。
何もかも自分でやってしまう人は人を認めることができない人だ。
そういう人に限って常に孤独を感じており、その挙句、酒に走ったりする。

というより、そういう人を今までに散々見てきた。

当サークルでは半年もすればリーダー育成を始める。
先生によっては、「おまえなんかまだまだだ」と言うかもしれない。
確かに何十年もの経験のある人からみれば半年そこらじゃまだまだと思うのは当然だだろうが、
「認める」ということをしなければ、その人の持ってる本当の能力は開花されないまま終わってしまうかもしれない。
いや、先生によっては自分を超えられたくないから押さえつけようとするかもしれない。

だが、私はそれはしない。
私は会員さんたちが今何を思って、どこに行きたがっているのかをよく見極め、その方向に導くお手伝いができればと思っている。

要するにいつでもチャンスを与えたいと。

話が支離滅裂になってしまったが・・

とにかく、ありのままが一番だと。
水のように風のように、なんににも逆らうことなく水のように流れ、そして風が吹き抜けるように。
どこそこの長だろうがなんだろうが、私は生身の人間なんだ。

脇に卵を挟むように

前に就いていた先生が口癖のように仰った。
脇に生卵を挟んでいると思って脇にゆとりをつくりなさいと。
脇を閉めると卵は割れてしまい、緩め過ぎると今度は卵は下に落ちてしまい、やはり割れてしまう。

そして、今習っている老師にも同じことを言われた。
やはり脇にゆとりをつくりなさいと。

ひとまず、脇にゆとりをつくることは分かった。
しかし、なぜなんだろう?

それで、鏡の前で、脇をギュッと閉めた状態と、
卵一個分開けるよう脇にゆとりをもって構えてみた。

答えはすぐにわかった。
脇を締め付けると胸が前に突き出て、逆に脇を緩めると胸が引っ込む。

要するに後者は太極拳で重要な含胸抜背(がんきょうばっぱい)の状態になる。

あと、形意拳での崩拳の引手に関しても同じだ。
脇を閉めてはいけない。
その時先生は理由を教えてくださったのだが、意味が分からなかった。
肝臓がどうとか言っていた気がしたが。。

因みに長拳や空手なら引手は比較的脇を閉めた状態で構える。(と思った)
その方が拳を突き出した時にまっすぐ突くことができる。

しかし、崩拳の場合、脇を緩めなくてはいけないのは何故だろう?
仲間に尋ねたら、肩甲骨を圧迫して勁力を出しにくくなるからでは?と言っていた。

言われてみれば脇を閉めると肩が緊張した状態になり、勁力が伝わりにくくなるような気がする。

まあ、頭の中でアレコレ考えても仕方ない。
ひとまず崩拳を突く時の構えは脇を開ける。
これでひたすら練習する。
そして、今度は脇を閉めて突いてみる。
恐らくそれによって答えがみつかるような気がする。

太極拳において脇をゆるめることは気の通りをよくするためと、とっさに柔軟な動きに対応するために脇をゆるめておくのだというような気がする。

楊澄甫の言葉を借りるなら、胸を突き出すとそこで気が詰まってしまい、重心が上がり、下が軽くなるとのこと。

結局、太極拳の姿勢はどこも緊張していないリラックスした状態であることがわかる。

あまりにも意識するところが多くて、何かを意識すると何かを忘れてしまうが、
ひとまずこの一週間は脇を緩め含胸抜背を意識した練習をしてみよう。

2013年10月3日木曜日

お詫びとお願い

ある事情があり、しばらくブログを自粛するつもりでした。
それは私の記事が私にとって尊敬する方の気に触れてしまったからです。

この場を借りてもう一度お詫びをさせてください。
私にその気がなくとも気を害されたことは事実。
深くお詫びします。

そのような訳で1~2週間は一般の方が見れない限定公開とする予定でしたが、思いの外、多くの方からブログが見れなくなったとのご連絡を頂き、本日より再開させて頂くことにしました。

私のブログを評価してくださった、J老師、K先生、
ありがとうございます。とても光栄です。

そして、私のブログを楽しみにしていると言ってくださったNさん、Fさん、Jさんとその周りの方々、
頂いたお言葉とても嬉しかったです。

そして、この件に関して温かい言葉を送って下さった、Tさん、Mさん、Oさん、I先生、Iさん、その他多数の方々、
とても励みになりました。

いずれも、ご心配おかけして申し訳ありませんでした。

まだまだ未熟な私ですが、これからも武術修行の中で感じたことや気づいたことを書き綴っていきたいと思います。

***

以前にもお伝えしましたが、
改めてこのブログに関してお願いがあります。

このブログは私自身が日々の練習の中で気づいた覚書です。
あくまでも発展途上であり、後で間違いだったということに気づくかもしれません。

ただ、今、自分がそう感じていることは事実だし、それを忘れないように書きとめておきたいと。
後で読み返したときに過去の自分がこんなことを考えたり思ったりしていたんだと振り返ることができます。

そもそも日記とは普段人に言えない本音を書くものだと思います。
日記に嘘を書くメリットなんて何もありません。

私は頻繁に感覚的なものの言い方をしますが、音楽活動をしていた頃からの癖ですし、
それゆえに目に見えるものも好きだけど、目に見えないものも大好きです。

いずれも目に見えないものを証明することは難しいし、そのようなことに労力を注ぐことにも興味ありません。
感覚として得たものは自分にとっての宝物だと思っています。

もし私のブログを読んで気分を悪くされる方がおられたら、それは申し訳ないとは思いますが、
これはあくまでも私の日記です。
読んでくださいとお願いしているものではありませんので
失礼ながら即座に退出をお願いします。

このブログは自分のために書いてますが、
私のブログを楽しみにしてくださる方のためにも、今後も自分の感じていることを本音で書いて行きたいです。
周りに気を使いながら書いていたのでは本当のことは書けないし、きっとブログそのものがつまらないものになってしまうでしょう。
というより、そもそもブログではなくなってしまいます。

ということでご理解頂けると嬉しいです。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2013年9月30日月曜日

空気を味方に

昨日今日と中国武術三昧だった。
昨日は朝10時から夜8時半まで。
今日は朝10時から夜8時半まで。
同じか。(笑)

昨日の練習で得たことは・・
攬雀尾の擠(せい)にはかなりの威力があるということ。
形意拳の跟歩(こんぽ)はほとんど意識しなくていいこと。
脇は締め付けず弛めることが大事だということ。

あとは・・自分に動体視力がないということ。(笑)

そういえば、昨夜は老師に通背拳の基本功を褒められてしまった。
しかし、型は首を傾げられてしまった。
まるっきり間違えて覚えていたようだ。(笑)
早めに直しておこう。

今日は今日で、いろいろ収穫があった。

陳式太極拳はひとつの型にも情報量が半端じゃなくあるが、
ようやくそれらが頭の中で徐々に整理されてきた。
先生がとても丁寧に教えてくださるのだが、その時は理解出来ても他にも気をつけなくてはいけないことが多すぎて、なかなか実践できなかったり。
先生に言われたことを思い出し、試行錯誤を繰り返しながら自分で消化していくしかないと思った。

約7ヶ月経ってまだ老架の21式あたりをウロウロしているが、ベストペースだと思うし、21式まででも十分楽しい。

今日の夜は、いつも利用している室内練習場に行って鏡を見ながらいろいろチェックしたいと思ったのだが、ダンスチームに陣取られていて使えなかった。
というより、ヒップホップミュージックの中で気功や太極拳はとても集中できない。。

ということで、外の公園で練習することに。
それが良かった。
夜の空気はさらに心地よく、蚊もいなくなったし、
久しぶりに気功に集中できた。
すると、自分が空気の中に住んでいることを思い出した。

なんというのか・・空気にやさしく包まれているような気分。
この感覚が得られると、動作がとても安定する。
空気(気)が味方になって、自分の体を支えてくれる感じ。

たまに環境を変えて練習することもとても大事だと思った。

2013年9月26日木曜日

胸を含ませ背中を抜く

含胸抜背(がんきょうばっぱい)という言葉がある。
最近あまり気にしていなかったが
どうやら私はこれを再度気にしなくてはならなそうだ。

気功をしている時鏡に映るシルエット見てそう思った。

腰や股関節がどんなに緩んでいても胸や背中が緊張していて意味がない。
きっと動くたびにぎこちない動きになるだろう。

普段の生活では胸や背中を緩めるなんて気にすることなんかない。
だが太極拳(特に楊式太極拳)ではとても重要なことだ。

そもそも胸を含ませ背中抜くってどんな感じだろう?

サークルでも行っている方法だが、1番わかりやすいのが
息を吸いながら胸をグーンと張ってみて、フッと息を吐くと同時に力を抜いてみる。
その形こそが含胸抜背だ。
たぶん胸にも背中にも緊張感がなくリラックスした状態になっているはず。

鬆腰(しょうよう)に関して以前ブログにも書いたが、多分、気が丹田に沈んでいれば
おのずと含胸抜背になってるはず。
逆に言えば丹田に気を沈めるために含胸抜背と鬆腰が必要になってくるのだと思った。

2013年9月24日火曜日

前傾するか否か

F先生はなるべく上体を立てなさいと仰る。
一方、J老師はなるべく尻を突き出し上体を前傾させなさいと仰る。

F先生の教室では前傾を注意され、J老師の教室では前傾しないことを注意される。
私は一体どうすりゃ?(笑)

郷に入ったならば郷に従う。
私はどこの教室に行っても、先生に逆らうことはしない。
先生は正しいことを教えてくださろうとしているわけであり、それに口答えすることは礼儀に反するし、そもそもその先生について習う意味がなくなる。

先日、某教室で指導員をしている武術仲間といろいろ話していたのだが、
ある生徒はこちらの言うことを全く聞こうとせず、今教えようとしていることはいいから先を教えてくれと言うらしい。
これは絶対おかしい。

先生や指導員は今の状態を見て判断し、そのことを教えようとしているわけであり、自分が今どこにいるかも解らない生徒が勝手に判断し決めるのは変だ。

ところでF先生が何故上体を立てるようにと仰るかは、歩形を重視されているからだ。
確かに歩形が出来ていなければどんなに手をきれいに動かしても、全く陳式太極拳にならない。

先日初めて自分の演武をビデオ撮影してみたが、リプレイしてみて愕然とした。
陳式太極拳というより、楊式太極拳に長拳を強引に混ぜ合わせたような感じになっており、糸を紡ぐどころか、ブチブチ切れまくりだ。(笑)
本当はまだ、ビデオを撮りたくなかったが、撮って正解。
自分の未熟さを思い知らされた。

一方、J老師の教える、前傾スタイルもちゃんとした合理的な理由がある。
上体を立てようとすればするほど、安定がとれなくなり、しかも力学的に前方への攻撃力が落ち、更には足が疲れるいうデメリットも生まれる。
長時間戦う上で、足が疲れてしまっては意味がないと言うわけだ。
確かにそうだと思った。(笑)

結果的には、まっすぐも前傾もどちらも出来るようになればいいわけだ。

そして、私がサークルで教える楊式太極拳は基本、上体はまっすぐ状態。
その理由は、気の通りと沈むことを重視した結果だ。
制定拳に近い感じではあるが、それを意識しているのではなく、最終的には突っ立った状態でも勁力を発せられるようになるためのフォーム作りを行っている。

現に以前通っていた教室では棒立ちの先生にかるく指を触れられただけで何度も壁に叩きつけられた。
指先だけで、あんなに吹っ飛ばされるか?!と思うほど。
それは腕力ではなく、間違いなく手(指)から発射された波動だった。(と思う)

筋肉痛が快感に(笑)

また、始まった。
膝の痛みと筋肉痛。

理由はわかってる。
来月のイベントを意識した練習を開始したからだ。

とにかく站椿功と気功を重点的にガンガンやる。

立つことと、練ること。
この二つがしっかりできれば本番いい感じで演武できる。

逆に、立てない、練れない。
これは最悪。(笑)

なので、いくら普段から練習しているといえど、いつもより練習量が増えると筋肉も耐えかねるというものだ。
膝の痛みはグルコサミンやコンドロイチンを摂取し、サーポーターをすることで難なく解消。
(バンテリンコンディショニングサポーターがいい)

筋肉痛には、天然型ビタミンBのサプリとホエイプロテインを多めに摂取し、損傷した筋肉を早期に再生させる。
応急処置としては、ペインリリーフクリーム(アメリカから輸入したもの)を塗る。
これでバッチリ。

何も恐いものはない。
(必要であればお分けしますので私までご連絡ください:笑)

とにかく、膝の痛みと筋肉痛が起こると、また始まったんだなぁ~と思う。

本番では、失敗を恐れてビクビクやるよりも、
「今自分が出せる実力はこれだけだ!文句あるか!」
てな感じで頑張らせていただきます。(笑)

2013年9月23日月曜日

初めての青空太極拳

10年前からの夢だったサークルを4月に立ち上げ、
これまた10年前からの夢だった青空太極拳を9月23日の今日始めて行った。

私が一番最初に通った教室でも、青空太極拳の企画があったのだが、何らかの事情で流れてしまい、それからずっと無念でならず、そのまま月日が経ち今に至るという感じで。

そんなこんなで、昨夜、青空太極拳の夢を見たのだが、意外な顔ぶれが次々と私の元へと現れ、夢の中で喜んでいる自分が。(笑)

しかし、蓋を開けてみれば初回と言うこともあり、人数は私を含め3人。
それでもめちゃめちゃ楽しかったです。

どんなに少なくとも自分が行けばゼロということはないし、誰か一人でもくればそれでもう倍。
もう一人くれば3倍ということになります。

だから3倍楽しかった。(笑)

それに朝早く起きて現地に来られるという方はそれなりに意欲ある方。
同じ温度の人と一緒に行う太極拳は実に気持ちいいです。

晴天にも恵まれ、周りの環境と、二胡の音楽が妙にマッチし、しかも気功を行っている時は、あまりにも心地よいそよ風が。
ずっとでもやっていたい気分でした。

入会当初、少々スタートが出遅れたFさんは最近とても熱心で、なんと今日で十字手までクリア。
一人でも熱心に練習している姿がとても印象的でした。

そんなこんなで1時間半で終えるはずが、2時間に。
帰りはFさんとスイーツとソーダ水を楽しみました。

3連休の最後にふさわしいとても楽しい休日でした。

 

2013年9月19日木曜日

陳式の壁は楊式の壁と同じ?

陳式太極拳を始めて約半年。
先日、先生が、最初の頃に比べたらぜんぜん違うと褒めてくださった。
正直嬉しかった。

陳式太極拳を始めた頃は、まだ本試合が残っていたり、大阪の道場に通っていたりして、
なかなか陳式の練習に本格的に打ち込めなかったが、
最近はそれでも基本功だけは毎日やるようになった。

相変わらず、練習種目が多く、全部こなせない日が続いているが、陳式の基本功だけはほぼ欠かさずやっている。
努力すればきちんと評価してくださる先生だからだ。

別に悪口ではないのだが、以前ついていた先生は、練習してくると怒られ、出来ないことが出来るようになっても評価してくれず、常に粗を探しては注意ばかりされた。
どんなに頑張っても褒めてくれることはなかった。

そもそも「練習をするな」というのはちょっと驚きだった。
要するに自分で練習すると変な癖がつくからという意味だったのだが・・それにしても・・
週に1回だけしか太極拳を出来ないなんて、苦しくて死んでしまいそうだ。(笑)

それはともかく、
陳式の基本功を練っていて感じたこと。
楊式を始めた頃に感じたことと似ているなと。

楊式太極拳を始めたばかりの頃は手の動きばかりに気を取られた。
しかし、どう意識しても先生のように柔らかい動きにはならない。
ある時、イスに座りながら型をやってみた。
その時にわかった。
歩形が出来ていないのだということを。

イスに座れば肩も肘も力が抜け、柔らかい動きができる。
ということは・・
脚力を鍛えれば先生と同じような動きが出来るようにと・・

それから、私は架式をうんと低くして練習するようになった。
その効果は2~3か月で表れた。

そして、陳式太極拳も同じ。
陳式の歩形が出来ていないと、背中はそっくり返り、へっぴり腰、肩や肘にも力が入り、動きもギクシャク。
格好悪いったらありゃしない。(笑)

それから歩形のトレーニングを重視するようになった。
まだまだ出来ていないが、上半身の前傾もだいぶんマシになってきたようだし、背中の反りも以前よりマシになってきたようだ。
なにより、肩や肘の力が抜けて来て手が滑らかに動くようになってきた。

それは腰に上半身が乗っかっているような感覚。
いや、股関節の上に上半身が乗っかっているような感覚だろうか。

といっても、型をやりだすとまだまだ歩形が好き放題暴れるが、歩形の練習がどのような効果を生むかと言うのはハッキリした。

最近楊式でも基本功ばかりしている。
たくさんの型を覚えるのもいいけど、ひとつの型もちゃんとできないのに、型ばかり覚えても仕方ないし、やはり私としては量より質で行きたいと思う。

とにかく最近歩形の練習や基本功が楽しくて仕方ない。

2013年9月17日火曜日

2部制にした理由

当会では9月より1部だけで行っていたのを2部制にした。
もちろんちゃんとした理由がある。
しかし、その理由も時間が経てば忘れることも。
「なんでこうなったんだろう?」と。(笑)

だから、忘れないよう書いておこうと思う。
ブログに書いておけば誰か読んでくれた人が覚えていてくれるかもしれないし。(と甘いことを考えています:笑)

本題に入る前に・・
一昨日、3か月半ぶりぐらいにかつて私が通っていた教室の同士と再会した。
その時に仲間が話していたことだが、それを聞いて私も大きく頷いてしまった。
それは何かというと、私が前の教室を休会した一番の理由。
人一倍練習しているのに、それを認めてもらえず、教室に来た時だけ練習している人と同じペースで進められてしまうということ。

そもそも教室とは練習するところではなく学びにいくところだ。(少なくとも私は)
これが比較的通いやすいところで1レッスン数百円ならば、また違っただろうが、他府県まで遠征し、高い受講費を支払って通おうとするのは、練習したいからではなく毎回新しいことを学びたいからである。

その前の教室を辞めた理由も全く同じ。
私は教える立場になりたくて、毎日何時間も練習しているのに、進み方は教室に来た時だけ練習する人と全く同じ。
自分がどんなに出来ていても出来ていない人がいればその人たちに合わせなくてはならない。
もちろん、同じことを毎回練習することは決して無駄にはならない。
しかし、どう頭を切り替えても意欲は落ちる一方だ。

一昨日、再会した仲間は毎日五行拳だけでも毎朝1時間練習しているという。
そういえばかつての私もそれほど練習していた。
要するに、どう考えても、週に一回しか練習しない人よりは7倍速でスキルアップしているはず。

私は今教える立場として、その辺を見極めるのも自分の役目だと思っている。
努力している人、早く進みたい人をきちんと見てあげ、そしてその人のペースに合った内容で進めている。
それに、私は個別レッスンの時に毎回どこまでやりたいか本人に尋ねている。

人ひとりペースは確実に違うのだ。
だから、その人にとって常にプラスになる内容であって欲しいと思う。
もちろんいくら毎日家で練習していると言っても、その練習内容によってはあまり進めていないこともあるだろう。
そんな場合は訪ねてもらえれば、効率の良い練習方法をアドバイスしたいとも思っている。

私がかつて通っていた教室ではそのようなことは教えてもらえなかった。
同じ教室で同じペースで、ゆっくりペースの人と同じだけ時間を使い高いお金を払わなくてはならなかった。
他府県だから交通費だってばかにならない。
通うための時間にしろ往復3時間弱だ。
私は自営業だから家にいて3時間働けばそれだけの収入が得られる。
それを犠牲にして教室に通っていたわけだ。

***

そろそろ本題に持って行きたいと思う。(笑)

2部制にしたのは他でもない、私自身がそのような経験をしてきたからであり、そしてサークルの会員さんの気持ちもわかるからだ。

皆と一緒にのんびりペースでやりたい人。
特に新しいことを覚えるというより週に一回、とにかく体を動かしたいという人。
人とのコミュニケーションを楽しみたい人。
はたまた本格的な太極拳を身に付けたい人。
どんどん新しい技を覚えたい人。

人によって楽しみ方は様々だ。

その解決方法が2部制という流れになった。

1部ではいわゆる、皆と一緒に準備体操、気功、基本功、太極拳基本14勢(入門太極拳)を毎回繰り返し行う。
これは、とにかく体を動かしたい人、自習が苦手な人、基本を繰り返し練習したい人向けという内容になる。

2部では、各自のペースに沿った個別練習。一人一人指導して回るので、当然自習時間も生まれる。
まずはその会員さんが消化しきれるところまでの新しい技を教える。
そして、それを一人で反復練習し、体に覚え込ませていく。
だから自習時間はゼロではなく確実にスキルアップする時間でもある。
仮にマンツーマンでずっと教えたとしても、その内容をすべて覚えるのはかなり難しいと思う。
私も何度か経験したが、折角先生がいろいろ教えてくださっても100%覚えることはやはり無理だ。

以前は今の1部も2部も一色単に行っていたが、2部の時に自習が出来ず、ぼーっとされている会員さんを何人か見受けた。
気持ちはわかる。(笑)
たったひとつの技でもいざ自分でやろうとすると、まったく思い出せない。
今習ったばかりなのに、頭の中が真っ白・・なんて感じなわけだ。(笑)
私も嫌と言うほど経験してきた。

だから、覚えられなければ何度だって同じところを教えるし、覚えられればどんどん進めて行く。
これこそが、本当の平等だと思う。

因みに1部のみならワンコイン。
1-2部通しでも800円。

少なくとも私が通っていた教室の1/4の受講費。
しかも私の場合は交通費を入れると1回あたり5000円弱は掛かっていた。

5000円掛けて収穫なし。
800円でも努力次第でどんどん新しいことを教える。
この差は、私が長年感じていたストレスを発散させた結果といえる。

私としては、会員さんに楽しんでほしい。
不満をもって欲しくない。
そのために会費や内容に気を配るのは私としては当然のこと。

「来て良かった」
「また来たい」
そう思って欲しい。

そうこうしながらも私は自分自身の修行のために今もなお二人の師に就き新しい武術を習っている。
要するに、武術に携わっていることで私は今もなおお金も時間も消費している。
それは自分自身の功夫を高めたいという気持ちと、
将来的に更に新しい型や武術に進んでいきたいという会員さんの要望に応えていくため。

別にエエ格好したいのではない。
それが私にとって一番幸せを感じることだから。

2013年9月16日月曜日

リアクション

昨日、京都武術太極拳フェスティバルに行ってきました。



プログラムを買ってビックリ。
なんと71組出演。
数えてないが、恐らく1000人以上の人がステージに立ったと思う。
客席も超満員で、一周まわってようやく席を確保できたという状態。

まず、京都の太極拳人口の多さに驚かされました。
それに高齢の方が多いですね。

どうみても70代、80代と思える方がしっかり演武されている。
あとは、衣装に工夫を凝らし、良い意味での学園祭のような感じでほのぼのと楽しめました。

それに、京都の人達はリアクションがいいですね。
ちょっとした見せ場も見逃すことなく盛大な拍手。
私は奈良だが、思わず京都で出たいと思ってしまった。(笑)

反応がいいというのはとてもいいことだと思う。
私自身も反応が良い方だと思ってるが、たまに無反応の方もおられますよね。
恐らく自分を表現するのが苦手なんだと思う。

しかし、太極拳でリアクションはとても大事なこと。
そもそも太極拳はアクションではなくリアクションだと私は考える。

相手が動いて初めてこちらも動く。
逆に相手が動かなければこちらも動かない。
要するに太極拳は喧嘩のための武術ではなく護身術であることがわかる。
私はここに惚れ込んだ。

太極拳に聴勁と化勁という言葉があるが、要するに相手のアクションにいち早く気づき、そしてそれに対してリアクションする。
化勁とは相手の力を無力化、或いはこちらのものにしてしまうこと。(私の知る限り)

***

そういえば、先日、仲間と形意拳の攻防を研究していたら、おもしろいことを発見した。
下がりながら相手に崩拳を打ち込むという技だが、これを喰らうと恐ろしいほどの恐怖感を感じる。

打つ側としてはこちらが追い込んで打ったはずなのに、打たれてしまったという状態だ。
下がりながら打つわけだから威力そのものはない。
しかし、相手に与える恐怖感に関しては前進して打つ方の5倍、いやそれ以上だと感じた。

***

話はどんどん反れて行きます。(笑)

そんなこんなで、先日仲間と公園で練習していたら、通りすがりの方から思わぬオファーが。
来月上旬この公園でイベントを行うので是非出て欲しいと。
無論こちらとしても断る理由はなかった。

しかも話は進んで、二胡とのコラボということに。
二胡とのコラボは昔からの夢だったので、願ったり叶ったりだ。

二胡の美しい音色に聞き入りながら、音の世界に入って思う存分空気の中で泳いでみたいと思う。
単なる空気も音が入ると空気に波が起きるわけだから、その波に乗るような感じだろうか。

***

それにしても、今日は何も書くことがないと思って書き出したが、思いのほか長文になってしまった。
長文ついでに一言お詫びを。

京都のフェスティバルには何人かの連れと観覧したのだが、そのうちの一人が何度がブーイングめいた発言を。。
本人悪気はなかったのだろうが、「武術フェスティバル」というタイトルだったから、本物の武術を期待していたのだと思う。

いずれも周りの人達に不快な思いをさせたくないと思い注意しようとも思ったが、立場上どうしても言えなかった。(私より年配であり先輩だから)
だから本人に代わってお詫びさせてください。
申し訳なかったです。

実は私も始めて「武術太極拳」という名称を聞いたとき、戦術としての太極拳をイメージしていたことは確か。
だが、今は「武術」という言葉も人それぞれ捉え方だと思うようになった。

それに、私自身、太極拳をどう楽しむかは皆の自由だと思うし、それをとやかく言うのもおかしいと思う。
平和な時代においての太極拳を芸術的な面で楽しむも、健康のために行うも、護身のために行うも、全部アリだと思う。
というより、これほどいろんな面で楽しめる太極拳が凄いと思う。

だから、私自身サークルでは、健康、芸術、武術として行って行きたいと思っている。

2013年9月13日金曜日

ワカメになってクラゲになる

ワカメには自立して立つための筋肉も骨もありません。
だけど、立ってます。(笑)

海の底で流れにまかせゆらゆら泳いでいるという感じでしょうか。
支えるものは根っこだけです。

私にとって、気功や太極拳のイメージは、ワカメでありクラゲです。(或いはマンタ)

気功の時は、足指で地を掴みますが、使う筋肉はそこだけです。
あとは、空気の中ですぅ~っと立ちます。
海の中ですぅ~っと立ってるワカメと同じです。

ワカメは地から土の中の栄養を吸い上げ、そして葉の部分で光を受け止め、それもまた栄養?としています。

気功も同じ。
足から気のパワーを吸い上げます。
そして上からは光を受け止めそれを体内に取り込みます。(サークルではまだこの説明はしていません)

そして、太極拳はクラゲのように動いていきます。
水に逆らってないです。
体の周りにある水を生かして好きな方向に進んでいきます。

太極拳は空気の中で泳ぎます。
それはとても気持ちがいいです。

だが、その前に形を覚えなくてはいけません。

太極拳を始めた頃の私は型を覚えるのが楽しかったですが、
今は型を覚え終った後の方が楽しいです。

予備勢の時点で、「今日はどんなふうに泳ごうかな?」と考えてから始めています。(笑)

2013年9月8日日曜日

型ギライ、立禅ズキに?

最近、型をするのが嫌いになってきた。
自主練をしている時も、ついつい一番後回しにしてしまう。
以前は立禅や基本功より、型を行うのが大好きだった。

なぜだろう?と考えてみた。
そして答えが出た。

型のクオリティ(功夫)をもっともっとあげようとしているからだ。

やれどもやれどもしっくりこない太極拳。
型ばかり通していても、しっくりこないところは何年やってもしっくりこない。

具体的にいえば単鞭(たんべん)
これは10年経った今でもぜんぜん納得できない。
腹立つから自分で自分をしばきたくなる。(笑)

あとは楼膝拗歩(ろうしつようほ)もそう。

演武に風格のある先生は、起勢からしてぜんぜん違う。
手をすぅ~っと上げた瞬間、うわぁ~~っと丹田が動き出すのが見えるし
同時に、ぶわぁ~~~っと波動が広がる。(笑)

多分、私はここに行きたいんだと思う。

私は基本的に本能や直感に従うところがあるので
やりたくないことを無理やりはしない。

それより基本功をしているのがとても楽しい。
ずっとでもやっていたくなる。
舟にのって波に揺られているようだ。
もしかしたらその様や効能はパワーヨガと似ているのかもしれない。

そして立禅。
これをしっかりやると型を行った時の安定感がまるで違う。
逆にこれを端折ると10年経った今でもフラつく。

だから立禅を飛ばして型を行うことができない体になってしまった。(笑)

陳式太極拳にしても、なかなか歩形が決まらない理由がわかってきた。
陳式の足が出来てないからだ。
土台がしっかりしていないから、尻が突き出て背中が反り返ってしまう。
要するに尻でバランスを取ろうとしてしまっているのだと思った。

尻はやじろべえのおもりではない。(笑)

土台をしっかりつくろう。

そうするとおのずと、体が立禅や基本功を求めだす。
ひとまず従ってみよう。

2013年9月7日土曜日

形意連環拳

気が早いと言われるかもしれないけど・・

土壇場になってガツガツ練習すると体のアチコチが痛くなるので、
まだ1年もあるが来年の伝統武術大会向けに今日から形意連環拳の練習を始めた。

今日はひとまず型の1/3ぐらいを覚えたが・・
そこで思ったこと。

「やっぱりまだまだ三体式と五行拳を練習したい!」
ということ。(笑)

鏡を見ながら型をやってると、それとなく見えるのだが、(と自分で言ってしまっているが・・)
まだまだ定式が甘い!!

丹田から動かないといけないのに、ケツが後から付いて行ってる。
みっともないったらありゃしない。(笑)

形意拳の風格はやっぱり定式の時に三体式がバシッと決まってるかどうかだと思う。(私はね)

どんなに型がきれいに流れていても、定式での三体式が崩れると高級フランス料理が並んでいるテーブルをそのままひっくり返したかのような感じになる。

早い話が“台無し”ということ。(笑)

しかし、こうして型を覚えようとすることはとても良いことだということが解った。
多分、私はこれからもっと真面目に三体式と五行拳を練習することになると思う。

来月のイベント出場、そして11月の伝統大会、来年の2月の県大会、そして8月の伝統大会
どれも全力で行きたい。

というより、大会である程度実績を作ったら早めに引退し、
そして本当にやりたいことをやりたい。

私の夢は太極拳で気化することだから。(笑)

2013年9月6日金曜日

追伸:サークルの楽しみ方

そういえば、一番言いたかったことを言い忘れていた。(笑)

そう、当会はいわゆるサークルなのだから、
輪になっているのが本来の姿。

要するに傘の骨のような関係になりたくないのだ。
先生と生徒だけの繋がり、
横のつながり一切なし、
のような。

現時点でも何か新しいことを始めようとする時は何人かの会員さんに相談しているし、
逆に会員さんからの意見も取り入れている。
いいものはどんどん取り入れていくというのが本来のサークルの姿だと思う。

包拳にしても、以前はやっていなかった。
が、ある会員さんが中国武術の礼の仕方を教えて欲しいとのことだったのですぐさま取り入れた。

個別レッスンではもっとたくさん学びたいという意見もあった。
そのことで、2部制を導入した。

気功でなかなか気を感じることが出来ないという声もあった。
そこで始めたのがアロマキャンドルナイト。

いわば当サークルは刻一刻と変化し、そして進化している。

だが、もし取り入れた方法がマイナス効果を生むようであれば、すぐさま再検討したい。

もっと早く先に進みたいとの意見もあった。
だからマンツーマンレッスンも一応受け付けるようにした。
まあ、私には仕事があるので、その合間ということになるが。

サークルは会員全員でつくりあげていくものだと思う。
私は単にそのまとめ役でありお手伝いをする立場。
いわゆる会員さんにとって太極拳を楽しく効率よく学べる環境をつくっていくという役割。

お山の大将ではなく、私は下から持ち上げる役。
一番疲れる役目だ。(笑)

サークル日は毎回ビデオで練習風景を撮影し、自分自身の指導に問題がないか毎回明け方までビデオチェックしている。
ビデオ撮影しているのは会員さんの粗探しをしているのではない。(笑)
自分自身の指導力を高めたいからだ。

だから、これを読んでくださっている会員さんは、以前と指導法が変わってきていると感じているはず。

明日は、青空太極拳をするための公園をいくつか下見に行く。
そしてより良い指導ができるよう毎日自主練を欠かさず行う。
ひとりで練習する時も、小声でレクチャーしながら行っている。

以前の私のレクチャーはかみかみだったからね。(笑)

恐らく私は本気で世界一楽しいサークルにしようとしているんだと思う。(多分ね:笑)

サークルの楽しみ方

私は自分の最も好きな楊式太極拳を仲間と共有したくて今年の4月にサークルを立ち上げた。
そのサークルには私なりに様々な想いがある。

今までいくつかの教室で学んで良かったこと、逆にやりたくても出来なかったこと。
これらの想いを全部サークルで叶えたいと思った。

まず一番に、元気のいいサークルにしたいと思った。
シーンとした空気では気分が萎縮してしまう。
気分が委縮すると筋肉も委縮する。
すると体が固くなり気の巡りも悪くなる。
だから、楽しい雰囲気になるよう出来る限り努めている。

だからといって、会員さんに「元気を出せ!」というのはおかしい。
元気というのは強制するものではなく与えるものだ。
だから、私が一番元気でなくてはならないし、元気を与える立場でなくてはならない。
そのために目標を立て練習に励んだり、不摂生を避けたり、栄養にもかなり気を使っている。

だが、気分的にどうしても元気の出ない時だってある。
そういう時は極力親身になって話を聞いてあげようと思っている。

それに、私は会員同士、生徒同士のコミュニケーションを推奨している。
個人レッスン時間での私語も大歓迎。(笑)
かといって世間話は控えて欲しい。(笑)

いわゆる、お互いに太極拳の上達に役立つようなコミュニケーションをばんばんやって欲しいと思っている。
道場によっては私語禁止、生徒間で教え合うことを禁止するというところも少なくないようだが、
私は大歓迎だ。

そもそも教えようとすることはリーダーになるための第一歩だ。
仮に気付かず間違ったことを教えてしまっても、後で気づけばOKだと思っている。
一番いけないのは間違っていると解っていながら、強引に押し付けてしまうパターンだ。
これは良くない。
私はもちろん、会員の皆さんも素直な気持ちで、人と接して欲しいと思う。

失敗したら、失敗した。
間違ったら、間違った。
そう言えばいい。
誤魔化すのが一番よくない。

ただ、楽しいだけではいけないと思う。
言うべきことはきちんと言わなくてはいけないと思うし、
礼儀作法やマナーなどで間違ったことをしていれば私は出来る限りその場で指摘するようにしている。

例えば遊園地で乗り物に乗る時も順番を抜かさないできちんと最後列に並ぶ。
こういうマナーをきちんと守ってこそ全員が楽しめるのだと思う。

楽しくやることはとても大事。
楽しくやれば丹田も動く。
丹田が動けば自ずと丹田から動く本来の太極拳になる。

だからは初めと最後の挨拶はとても大事。
「こんにちは!」とか「宜しくお願いします!」と大きな声で言えば、自分自身に気持ちが入る。
蚊の鳴くような声で挨拶して、「よっしゃ!」という気分になるだろうか?

挨拶は相手に対してするだけのものではなく、自分自身へ気を封入するための行いだ。
そして、最後も元気よく。「ありがとうございました!」
大きな声で言えば、「いい練習だった」「また来週も頑張ろう」というふうになるはず。
これも蚊の鳴くような声で言えば、「ああ、疲れた・・」で終わってしまうのではなかろうか?(笑)

ちょっとしたことなんだが、挨拶の威力は絶大だ。
そもそも言葉には魔力があるのだ。(成功哲学では有名なこと)

とにかく楽しむ。
どんどん楽しむ。
楽しくやれば上達だって早いし、何よりどんどん健康になる。

私は武術のレパートリーも少ないし、
難しい組手も出来ない、
はたまた世界チャンピオンのような華麗な演武もできない。

だけど、楽しむことに関しては誰にも負けないし、このサークルを世界一楽しいサークルにしたいと思っている。
是非ご協力願いたいです。

2013年9月5日木曜日

通背拳は太極拳の源流?

相変わらず通背拳の練習に四苦八苦しているが、
どうしても老師のようなスピードが出ない。

そこでわかったこと。
スピードを出そうとしているからではないかと。

スピードを出そうとするとどうしても力んでしまう。
その結果、折角勢いよく手を振りだそうとしてもブレーキがかかってしまうことになる。
いわゆる、手は完全に鞭になったと思ってゆるんで出さないといけないということになる。

が、言うはやすし。
イザやろうとするとどうしても力んでしまう。
まあ、焦らないで取り組んで行こう。

ところで、今日Amazonに注文した本が届いた。
「中国武術大全」という本で、ありとあらゆる中国武術が紹介されている。
中国武術百科事典のような感じだ。

そこで目についたのが今回のタイトル。
通背拳は太極拳の源流かもしれないという説。

以前、見学させて頂いた京都の教室で、ある生徒さんがやっていた武術がやたら気に入ってしまい、老師に尋ねたところ「通背拳」とのこと。
私はやるしかないと思った。(笑)

たまたまなんだろうが、その生徒さんはゆっくり練習していたのでしょう。
なんとなくそれが太極拳のように見え、でも今までにみたことのない動きだったので興味が沸いたのだが、これほどスピードが要求される武術とは夢にも思わなかった。(汗)

ところで、どうして通背拳が太極拳の源流なのでは?という説が浮上したのかというと、
通背拳と陳式太極拳との定式がかなり似ているからだそうだ。

実際は、通背拳側も陳式太極拳側もお互いがウチが先だと主張されているようだが、似ていることには違いない。

となれば、今学んでいる陳式太極拳と通背拳を同時進行させることはおもしろいかもしれない。

外家拳と内家拳を同時にすることはお互いに足を引っ張るのでは?と思っていたが、
それはやり方次第だという意見もあるし、私もそう思う。

若い選手が物凄いスピードでやっていることを、まるまる真似ようとする必要はない。
50代には50代なりのやり方があると思うし、通背拳を内家拳として捉えてやるのもおもしろいかもしれない。

***

なんか、私の中だけで盛り上がっているようで申し訳ないです。。
でも、ブログですから。(笑)

2013年9月4日水曜日

形意拳と試合用套路

今日は4時間程自主練を行った。
最近やることが多すぎて、メニューをこなすのが大変だ。

結局、形意拳も通背拳も太極拳のようにやることにした。
特に形意拳を太極拳のようにやるのは私的にかなりいい感じだ。
じっくり練れば練るほど、跟歩(こんぽ)でやった時に迫力が増す。
逆に最初っから跟歩でやっていると、早々に疲れてしまい、短時間でフォームが崩れてしまう。

それに跟歩そのものを最近見直している。
孫式太極拳のように、そっと付いてくるだけの感じで行っている。
こうすることで推進力だけに専念できるし、より遠くへ突き進むことが出来るということが最近わかった。

ところで、次の県大会までまだ5か月以上あるが、
今日、楊式太極拳の試合用套路をつくってみた。
伝統拳の場合は4分以内という制約があるので、85式を4分以内に収めようとすると、やりたい技をどんどん切り捨てて行かなくてはならない。
欲張って、いろいろ詰め込むと、今度は早回しで行わないといけないので、楊式ならではの絹の糸を紡ぐようなゆったりとした動きができなくなってしまう。

自分としてはやはり、ねっとり、じわ~~~っとした動きをやりたい。
そうなると、結局、出来る技はとても少なくなってしまう。

どうせ、足はぜんぜん上がらないし、下勢にしても足がベターっとつくほどは下げられない。
なので、私の場合、丁寧さと柔らかさで勝負するしかないのだ。

同時に来年の伝統拳大会用の形意拳も準備を始めて行きたいと思う。
通背拳で出ようと思っていたが、やはり若い選手にはどう頑張っても敵わないと。
やはり内家拳で勝負するしかないと思った。

形意拳では剛と柔、そして緩急をつけた動きを、それこそ楊式太極拳のように絹の糸を紡ぐように。
そんな演武が出来たらと思う。

準備は早いにこしたことはない。
やはり大会には余裕をもって挑みたいから。

2013年9月3日火曜日

鬆腰と気沈丹田

最近気づいたこと。

鬆腰と気沈丹田はイコールだということ。
鬆腰(しょうよう)は腰をゆるめることになるが、
気沈丹田(きちんたんでん)は気を丹田に沈めること。

で、なにがイコールかというと、
気を丹田に沈めれば、腰が自動的にゆるむということ。
逆に言えば腰がゆるんでなければ気を沈めることはできない。

確かに腹が据わっている状態の時って、背中は沿っていない。

いずれも、いくら腰をゆるめて背中がまっすぐになっても、
気が落ちてなければ意味がない。
というより安定した型は行えないと思う。

これからは姿勢を気にするのではなく、気が落ちているかどうかを気にして套路を練ってみようと思った。

2013年9月1日日曜日

短縮できない気功タイム

サークルで、これまで何度も試みたのだが、どうしても気功の時間を短縮できない。
なぜ短縮したいかというと、太極拳の歩形や基本功をじっくり練習したいからだ。
だから、時間を短くしようと努力している。

前回も、かなり駆け足で気功の時間を終わらせたつもりなのに、時計を見ると準備運動から始まって50分経過している。
30分以内にしようと思っているのに、むしろ長くなっているではないか?(笑)

私の場合、コンディションがいいと気功のポーズで立った瞬間から気が巡りだすが、気功初心者の場合なかなかそうはいかないと思う。

それに、1つのポーズに最低でも2分はかけたい。
10通りのポーズがあるからそれだけでも20分かかることになる。
その前に柔軟をやって、抜筋骨をやって、それから立禅気功に入る。
その後、太極気功を行い、操手を行い・・ 
やはり40~50分は掛かってしまうのだろうか?

ましてもや、最近ではアロマキャンドルナイトと称する形で気功を行っているから尚のことたっぷりやりたくなる。

ところで、
これまでサークルでは、太極拳を目的として入会される方ばかりだったが、
先日、始めて気功を目的とする体験希望の方が来られた。

私としては気功も太極拳も同じぐらい好きだから、気功を目的として入会されることはとても喜ばしいことだ。

それに、当会では気功と太極拳を切り離して行っていない。
太極拳はあくまでも気功の延長線上にあり、中国武術に気功の要素を取り入れたのが太極拳だと思っている。(少なくとも私は)

だから太極拳は起勢から始まるのではなく予備勢から始まることになる。
予備勢は気功のポーズそのものだ。

いずれも気功で健康と美を手に入れ、太極拳によって武術も身に付ければ言うことないと思う。

逆を言えば、武術は健康と美の上に成り立つものだともいえる。

2013年8月31日土曜日

決めると腹が据わる

迷ってる時って、きっと気が上に上がっているんだと思う。
片足で立ってみるとわかる。
フラフラする。(笑)

が、迷いが消えると腹が据わる。
しかし腹が据わるってそもそもなんだ?

確実に腹にパワーを感じる。
いわば、この状態こそ気が丹田に落ちているのではないだろうか?
精神的にも自信に満ち溢れた状態。(といってもあくまでも私の中で)

気沈丹田(きちんたんでん)という言葉がある。
気を丹田に沈めるということだが、これが意外と難しかったりする。
ヘンに意識すると余計に気が舞い上がったり。。(汗)

でも、「やる」と決めると、勝手に気が丹田に落ちる。
この状態で片足で立ってみると、長時間安定して立っていられる。
しかし、少しでも心が揺らぐと体も揺らぐ。

整理すると・・
気沈丹田とは
迷いのない状態、
腹が据わってる状態、
自信に満ち溢れた状態
心身共に安定した状態
やる気に満ち溢れた状態

私は楊式太極拳と双辺太極拳歴は10年だが、陳式太極拳はまだ7ヶ月。
同じ太極拳なのに、歩形や手の動きがかなり違ったりして、どうしても気が舞い上がってしまう。
先生について同じ形をつくろうとするといつの間にか肩に力が入っているし、股関節を織り込んで立とうとすると後ろに倒れそうになってしまう。

陳式太極拳でも迷いの状態が消えた時こそ、肩の力が抜け、安定して立てるようになれるのだろうか?
いずれもそうなるためには練習しかなさそうだ。

陳式太極拳でも楊式太極拳のように気持ち良くできるようになるのはいつなんだろうか?

2013年8月28日水曜日

目標

目標を持つことは大事だと思う。

なぜなら、目標に向かおうとする時、普段後回しにしている練習を積極的にやるようになり、短期間で実力を上げることができるから。

例えばそれが大会なら、大会前の練習に入る前のビデオと大会直前のビデオを観るとまるで違う。
というより、前のビデオを観るとあまりの自分のひどさに愕然としてしまう。
それでも、その時は自分でも、そこそこいいと思ってるから厄介だ。(笑)

かといって、目標を持たずに太極拳をするのもまたいいと思う。
毎日、無意識に歯を磨くように、無意識に太極拳をやるようになればしめたものだ。
太極拳が生活の中に溶け込んでいくという感じだろうか。
嫌でも健康になっていくし、体が丈夫になる。

だから、私はあえて人に目標を持つようにとはすすめない。
人それぞれ好きなように太極拳を楽しめばいいと思う。

しかし、私の場合は違う。
人に教える立場だし、ただ、歯を磨くように太極拳をしていたのでは単なる怠け者の指導者だ。
少なくとも私が尊敬する先生は、教えることばかりに熱心な先生ではなく、自分の練習にも熱心な先生だ。
本当に見習いたいと思ってしまう。

そんなこんなで、10月のイベント出場と11月の試合出場を決めた。
ギリギリまで悩んだが、決めた後は妙にスッキリした気分。
なぜなら後は死ぬほど頑張るだけだからだ。(笑)

まあ、それは大袈裟にしても、これで私は普段後回しにしている練習を積極的にやりだす機会を作ったことになる。

最近自分で思うのは軸がずれるようになった。
これは明らかに練習不足だ。
だから軸をしっかりさせるための地味な練習を徹底的にやろうと思う。

試合でのテーマは、スピードと力強さが主体の剛拳の選手が大勢出場する中で、私はスロー&柔で勝負ということになる。
だから套路も超スローモーションのようにゆっくりと練習することになると思う。

未来の自分はどんなふうになっているのだろう?
仮に本番失敗しても今より実力が上がっていることは間違いない。

3か月後の自分に会うのが楽しみだ。

2013年8月25日日曜日

インナーマッスルとアウターマッスル

昨夜のカンフーエクササイズでは、通背拳の基本功である胸元から鞭のように素早く手を振りだす練習を30分間行ったが、お蔭で今日はひどい筋肉痛。
腕を曲げるとボッコリと力こぶが。

いわゆる、絶え間なく連続攻撃を続け相手に隙を与えないような動きとでも言おうか。
見た目は非常にカッコイイ。
が、やるのは物凄く大変。。

もし通背拳に対し太極拳で戦うのであれば、最初の一発目の動きを捉えないと、アウトだと思う。
2発目3発目の鞭が物凄いスピードで飛び出してくるので技をかけている暇がない。

考えられる方法は打たれる前にボディアタック系の技で倒すか、
それとも下勢(かせい)で相手の攻撃をかわし、金鶏独立(きんけいどくりつ)で急所を攻撃し相手に圧倒的なダメージを与えるか、
それでなければ雲手(うんしゅ)などで相手の攻撃をうまくかわしながら逃げまくり、相手を疲れさせるかだと思う。
恐らくあの早い動きの連続攻撃では2分、3分ともたないと思う。(あくまでも私の考察)

そんなことはともかく、
今回書きたかったことはこんなことじゃない。(笑)

このまま外家拳の部類に入る通背拳を続けると、この先どうなるかというのがなんとなく見えてきたということだ。
これまで鍛えてきた赤筋といわれるインナーマッスルよりも白筋といわれるアウターマッスルがどんどん養われていくことになる。
いわゆる筋肉が張ってくることが考えられるのだが、そうなると太極拳での柔らかい動きに支障が出てくるのではないかと言う懸念と、
それによって勁の通りが悪くなるのではという心配だ。
現に今、雲手を行ってみたら、いつものように空気の中に溶け込んで行くような感覚が薄れたように感じる。(単に筋肉痛のせいかもしれないが:笑)

まあ、まだ結論を出すのはぜんぜん早いと思うが、
いずれも私のやりたい太極拳から遠ざかってしまうのであれば考えなくてはならない。

大会を見に行くとどうしても派手な動きの剛拳といわれる外家拳に目が行ってしまうし、憧れてしまう。
しかし、私としては同じ時間を使うにしても、死ぬまで続けられることに時間を費やしたいし
老化によって気のパワーが増すことを楽しみたい。

見た目のカッコ良さをとるか、
中身の世界を追及していくか。

ひとつだけ言えることはマッチョにはなりたくない。
マッチョが強いのは当たり前。
ヒョロヒョロなのに強いのがカッコイイ。

やっぱり内家拳かな。(笑)

武術三昧

昨日は朝から晩までずっと武術三昧だった。

朝9時過ぎから午後3時ごろまでは武術仲間と組手の練習。
夕方からは大阪でカンフーエクササイズ。
すっかり疲れ切って帰りの電車はずっと爆睡。

今回、収穫として最も大きかったのは形意拳の崩拳がとても威力があるということだろうか。
パンチングミットを使って打ち合いをしたのだが、
崩拳に関しては腹に大砲を打ち込まれたような衝撃が走る。

これをまともに喰らったら・・
強烈な痛みでかなり長時間うずくまることになるだろうし、下手をすれば内臓破裂かもしれない。

形意拳の威力は突きではなく、推進力+勁力だという。
滑り出すように突進するのでたっぷりと体重が掛かっているし、しかも拳の位置が丹田に近いから重みがぜんぜん違う。

あとは推手のバリエーションも増えた。
左へ右へどちらの攻撃に対しても化勁で相手の力をそらす練習をした。

起勢(きせい)での崩し合いもおもしろかった。
肘を曲げてやってみたり、肘を伸ばしたままやってみたり。

攬雀尾(らんじゃくび)の用法は、より具体的になり確実に威力が増した。
白鶴亮翅(はっかくりょうし)はいきなり関節技に入るから相手の動きを完全に封じることができる。

思ったことは、14勢までの技で十分戦えるんじゃないかと。
いや、もっと言えば起勢と攬雀尾だけでも十分じゃないかと思う。

あとは、マウントポジションからの攻撃方法も発見。
但し、暗勁(相手に手を触れたまま打つ)に関してはほとんど威力を出せなかった。
やはり暗勁は想像以上に難しい。

カンフーエクササイズでは先々週と同じく練功法と五歩拳、それに通背拳の基本功。
今日は型を行わず30分間延々と通背拳の基本功を行う。
お蔭で腕がパンパンだ。

あと、馬歩ではまだまだ胯を入れることが出来ていないことも発見。
というより早い動きをすると胯がついつい前に出てしまうのだ。
これは早急に直さねば。

ということであまりにも収穫が多すぎて、全部消化しきれていないような気もするが頑張って功夫を高めて行こう。

2013年8月22日木曜日

腰から手が生えているような感覚

私の部屋の壁にはこういうものが貼ってある。



ある武術誌の中にあった小さな図なのだが、それを引き延ばして大きくした。
書いてあることはサッパリわからない。
でも、この絵が伝えようとしていることはなんとなくわかる。

この絵では腰から手が生えている。
肩や肘のような関節もなく、手が蛇のようになっていて、なんとなく力強さも感じない。

これなんだよな。

いわゆる、防御したり、攻撃したりするときは、胸の筋肉や肩や腕などを使って攻防するのではなく、すべて腰から湧き出るパワーで手を操るのだと。

まあ言うは易しで、これがなかなかできない。

実はこれは武術としての攻防法としてだけではなく、演武にも行かせる。
実際股関節、腰(丹田)で動いている演武はとても美しい。

逆に手だけで動いている演舞は見た目もぎこちなく、動きも固くて見苦しい。
腰からやわらかく動けば全体的に風格が出るし、それはそのまま実戦にも行かせるということだ。(と思う)

だから、最初に動くのは腰、股関節、いや丹田だ。
丹田が動くといってもピンとこないかもしれないが、私は絶好調の時は丹田が強烈に動き出す。
頭がよく働いている時は頭の回転が速いとか言うが、
やる気とか意欲とか至福感を感じている時って丹田ぐるぐる動いている。

丹田が動くと、股関節が動き、そしてそれにつられ足や手が動く。
だから、長年修行と積んでいる人の動きをみると、腰(丹田)から動いている。

実際、腰から動くのが一番楽だし、一番力を発揮できるからだ。
これは決して武術の経験で言っているのではなく、バイトで引越屋や運送屋をやっていた時に実感したこと。
重たい荷物を持ち上げたり、押したりする時は腰を入れる。
そういうことだ。

この動きをすると自然と美しくなるのだ。

結果、私が理想としている強く美しい太極拳に近づけることになる。(と思う)

PS
本文中で「腰」という風に表現しているが、わかりやすくするためです。
他のスポーツや武道等でも「もっと腰を使って」とか「もっと腰を入れて」等といいますし、
いわゆる丹田から動こうとすれば自ずと股関節が動き、そして丹田のパワーが手に伝わるという感じでしょうか。
無論、私もこれから開発していくところです。

2013年8月20日火曜日

気功太極拳の精神的効果

今回なぜこのようなタイトルにしたかは理由がある。

実は現在、当会の会員さんお二人が心の病で休会中。
そのうちの一人は恐らくこのまま出て来られないのではないかと思っている。
いずれも一度でも長く休んでしまうと今度出てくるのが大変になる。

例えば、自転車で走ってる時はラクだけど、一度止まってから走り出すには結構力を入れて漕ぎ出さないとダメだが、それに似ている。

因みに私のうつ病歴は人生の半分ぐらいと言っていい。
学生時代は対人恐怖症で、人と目を合わせたり言葉を交わしたりすることさえ怖かった。
お蔭で私の学生時代は台無し。

その後、20代は音楽活動、30代は事業活動で元気に頑張ったが、
40歳近くなった時に、またそのうつ病に悩まされることになる。
それは学生時代のそれよりもっとひどい自閉症となった。
人と目を合わせるのが怖い、言葉を交わすのが怖い、電話が掛かってくるのが怖い。
とにかく不安で不安で仕方のない状態が続く。

私のうつ病歴は長いので、うつ病の人の気持ちが嫌という程わかる。
でも、安心して欲しい。
不安ならそのまま不安のままでいればいい。

不安を取り除こうと躍起になってはダメ。
ありのままの自分を受け入れるのが一番いい。
自分を否定しないこと。
意味があって鬱になっているのだから、そのままの状態でいればいい。
だが、引きこもってしまうのは良くない。

実は私が太極拳を始めたのは、肩こりや腰痛や体力減退だけではない。
完全に心の病だったからだ。

ある日ふらふら~っと立ち寄った図書館で、心理学の本をぱらぱらっとめくった。
するとある言葉が私の目に飛び込んだ。
それは
「体力=精神力」という言葉。

体力が落ちると精神力も落ちる。
逆に精神力が落ちると積極的に動かなくなり結果体力が落ちる。
これらは常に連動しているということ。

私に出来ることは?
心の方はどうにもならないから・・・
そうだ、
体を動かそうと。

そして、その足で近くの公民館に行き、
そこで見つけたのが「太極拳サークル」の張り紙。
これだ!と思った。

私はすぐに入会し太極拳を始めることに。
するとなんということだろう?
常用していたマイナートランキライザーも必要なくなり、それどころか、私の体力や意欲は増す一方。
ここであの時図書館で見つけた本の一節を思い出す。
やはり体力と精神力はイコールなのだと。

それから私のビジネスの売り上げは右肩上がり。
売上は一気に5倍になり、しかもそれが安定して続くことになる。
私はそのお金で海外生活をできるようにまでなっていた。

その前の私は?
サラ金に手を出し、もうどこも貸してくれるところもないぐらい精神的にも経済的にもどん底状態。
毎日ひっきりなしにサラ金の取り立て電話が鳴り響く。
30代後半の頃だ。

当時の私は、毎日100人の人と会い、500人の前で講演し、
2万人のグループリーダーでもあった。
とにかく何人だろうが体力が続く限りどれだけでの人でも相手することが出来た。

その私が対人恐怖症、自閉症に。

話が前後してしまったが、
とにかく自閉症になったら、閉じこもってはダメ。
不安は不安のままでいい。
ただ、外に出て新鮮な空気を吸うことはとても必要。
そして、自分のことを深く理解してくれる人に会うのがいい。

私は、太極拳のチャンピオンを育てるためにサークルを始めたのではない。
生活に疲れを感じている人、不安を感じている人、ストレスを感じている人、ノイローゼ気味になっている人。
そんな人たちに来てもらって、そして心を癒やして欲しいと思ってサークルを立ち上げた。

以前もブログで取り上げたが、「ヒーリング太極拳」だ。

元気が出ない人に安らぎを与えたい、
そして人の笑顔を見たいから、このサークルを始めた。

体を動かそう。
そして太極拳で不安を取り除き、
至福感を味わえる太極拳に到達するよう。

そこへ皆を導いて行くのが私の役目だと思っている。

2013年8月19日月曜日

中国伝統武術大会

昨日は、初めて伝統武術大会なるものを観に行った。
会場は、岸和田の先の熊取町というところ。
バイクで高速を使って約1時間。

いやあ、とにかく凄かった。
もう言葉にならないぐらい。
最初から最後まで全く退屈することなく、それどころか物凄いパワーをもらえた。
あえてイスに座わらず、ずっと立って観戦していた。(これも修行のひとつ)

とにかく、完全に火が燃え移ったという感じで、
観ているそばから自分の体が疼きだすのがわかった。

確信した。
やはり自分のしたいのは伝統武術だと。

選手一人一人に個性があるし、
伝統スタイルを守りながらも自分の持ち味をフルに生かし、そして観ているものに感動とパワーを与えてくれる。

特に目を引いたのは、蟷螂拳、通背拳、八極拳だ。
この三つは確実にチャレンジしてみたいと思った。

通背拳は今月から始めたばかりだが、モノになるにはかなり時間が掛かりそうだ。
というか、練習するたびに手の甲と太腿が痛い。。(泣)

話は変わるが、
会場でバッタリ会った、大刀の名手Wさんからいろいろ話を聞いていると、
選手の中のN選手は実戦でも物凄く強いとのこと。
演武もさながら実戦でも強いというのはとてもカッコイイと思うし素直に憧れる。

ひとまず今日は興奮冷めやまぬ内に、いろいろやりたかったが、夏バテなのか昨日の疲れもあり、1時間半だけ練習した。
軽いストレッチ、鬆身、気功、太極基本功、陳式基本功、陳式套路、通背拳。
本当は形意拳もやりかたったし、発勁の練習もしたかったが、それは明日に回そう。

ひとまず来年か再来年には形意拳か通背拳で出場してみたいと思った。
あくまでも“参加する”というレベルだが。(苦笑)


2013年8月16日金曜日

準備運動と鬆身法

当会で行っている鬆身法(しょうしんほう)は体をゆるめたり、姿勢を整えたり、呼吸を整えたり、気血の巡りを良くしたり様々な効果があるが、気功だけならまだしも太極拳を行う上では十分でない部分がある。
だから、当会では鬆身法(抜筋骨)を行う前に、かるい柔軟運動を行っている。

下から、足首、アキレス腱、膝、ハムストリングス筋、股関節、大腰筋、腰椎、肩、三角筋、大胸筋、肘、手首、頸椎、などなど。
これら体全身の関節と筋肉をほぐすことが目的だ。

逆にこれを行わないで太極拳を始めると故障の原因になるし、実際、私もそれで足首や膝を痛めたことがある。
まあ、それは競技用太極拳の練習中のことだが。

当会で行っている伝統太極拳では競技用太極拳のように激しい体の使い方はしない。
アクロバッティングな太極拳をするためではなく、美容、健康、護身、或いは三昧(さんまい)に到達するための太極拳だ。

いずれも練習時間90分の中に、これら柔軟体操、鬆身法、立禅気功、太極気功、操手、太極基本功、歩法練習、型の練習、技の用法などふんだんに内容を詰め込んでいる。
まるで幕の内弁当のようだ。(笑)

私自身もそうだが、会員さんからもいつも時間が経つのが早いと言われる。
なにしろ90分ではぜんぜん足りないことを、濃縮してやっているから。

因みにこれだけのことをやる理由は、何かに特化した太極拳というより、どんな見方でも、どんなアプローチでも対応できる太極拳を目指したいからだ。
美容目的でも、健康目的でも、表演目的でも、護身のためでも、瞑想のためでもなんでも。

私自身が全部好きだから。
どうせやるなら、太極拳を2倍3倍に楽しんでしまえという感じだ。

2013年8月15日木曜日

水のように風のように

私の気功歴は約10年だが、あくまでも始めてからの歴。
実際はほとんどやってない。
本格的に始めたのは、ごくごく最近で去年の2月ぐらいからだ。

始めて気功を行った時の感想は「なんて退屈なんだ・・」でした。(笑)
毎日デスクワークでじっとしているわけで、体を動したくて始めた太極拳。
教室に行ってまで、またじっとするなんて・・

先生の後ろで「早く終ってくれないかなぁ~」と呟いていた。(笑)

が、今の私は気功をやらずにはいられない。
料理の中でも一番まずかったおかずが今では好きでならないという感じだ。
というより気功をしないで太極拳を始めると物足りなさというより罪悪感を感じるほど。

なぜそうなったかというと、気功そのものが楽しいのではない。
気功をすることによって得られることがあまりにも素晴らしいからだ。

3つにまとめると。

  • 空間との一体感を感じることができる。
  • 手足体が軽くなり浮遊感を感じることができる。
  • 水の感触とそよ風を感じる。

本当はまだまだたくさんあるのだが、この3つが特に私を病み付きにさせる理由だ。

同じ太極拳でも場所によってコンディションが変わるが、気功を行てからやるとそれがなくなる。
例えば自分の部屋ですんなりできたことが公園ではできなかったり、体育館ではできなかったり、
ということがなくなる。
何しろ気功さえ行えば空間を自分のものにできるからだ。

次に、手足が柳の枝葉のように軽くなる。
これはかなり快感。
手の重さを感じなくなってしまうのだ。
踵脚の時、通常は足の重さを感じると思うが、その足ですらフワっと軽くなる。

最後に水の感触とは、水中で泳いでいるような心地よさを空気の中で感じることができる。
あの、肌にあたるサラサラとした水の感覚はとても気持ちいいが、自分に気が集まってくると、とたんに空気なのに水のようなサラサラ感を感じることが出来る。
しかも室内なのに、そよ風さえ吹き出す。

もしかしたら、同じようなことを何度も書いてしまったかもしれません。(笑)
でも、何度も話したくなるほど、この感触が好きで、気功がやめられない。

因みに、やる気のしなかった私がやる気になった方法なんだが、
それは、“真面目にやろうとしないこと”だ。

5分だけしようとか、3分だけしようとか、
いや、なんだったら、30秒だけやろうとか、自分がやろうという気になる時間で始めればいい。

私の場合は30秒だけやろうと思っても、結局30分になってしまう。(笑)
あとは、前述したとおり、“気”の素晴らしい世界に入ることが出来る。

当サークルでは、その空間との一体感や、浮遊感、水の感触を得てもらうためにさまざまな工夫をこらしている。
気功を行う前にからだをほぐす柔軟体操をしたり、
或いは気功を行った後、独自の太極基本功をするなど。

浮遊感や空間をものにするには時間が掛かるが、それを少しでも短縮できることを日々研究している。

2013年8月14日水曜日

双辺太極拳

この太極拳の呼び方にはいつも困る。
元々この太極拳には名前がないからだ。

この太極拳の創始者が、孫式・楊式・武式・陳式太極拳に形意拳、八卦掌等を融合させてつくった太極拳だから、人のつくった太極拳に自分が勝手に名前をつけるわけにはいかないということだったらしい。

要するに元々の太極拳の創始者に敬意を表してという意味だ。
とても立派なことだと思う。

しかし名称がないのはやはり困る。
タイトルには双辺太極拳(そうへんたいきょくけん)と書いたが、他にも九十九式太極拳、正宗太極拳、南京中央国術館式太極拳、或いは単に太極拳などと呼ばれている。

私が最初に習ったところでは、九十九式太極拳とか、単に小架と呼んでいた。

当会でもいずれやる予定だが、どの名称にしようか悩んでいる。
ただ、南京中央国術館式太極拳は長すぎるし、九十九式太極拳というと、他の24式や48式、88式などと同様に捉われそうなので、それは避けたい。
なぜならこの太極拳は数字で呼ばれることの多い太極拳のどれにも属さないからだ。
だから、今のところ双辺太極拳と呼ぼうと思っている。

この太極拳の特徴は、とにかく、脱力して行うところだ。
肩や肘だけでなく、手首も力を抜く。
従って、手はだらりと垂れるようなスタイルになる。

手が下に降りる時は、ぶら~んと垂れさがるような感じだ。
とにかく放鬆(ほうしょう)の域を超えた放鬆だ。
まさに丹田だけで動くという感じ。

因みに歩形は形意拳や八卦掌の三体式の形になる。
体重移動はほとんどない。
突っ立って演武しているように見えるが、実はそうではないんだが。

見た目は決して美しいというものではなく、限りなく無駄な力を抜き去り、溶け始めたソフトクリームのように、とろとろ溶けながら動くという感じだ。

私はこの双辺太極拳を今までに散々やってきたから、どうしてもこの癖が出ることがある。
別の流派の武術を習う時にその癖をうっかり出してしまうと、すぐに指摘される。
他の流派では決して溶けるような動きはないからだ。
(あえて言えば酔拳があるが・・)

しかし、これだけ個性的な太極拳もなかなかないのではなかろうか?

サークルでは楊式太極拳でまず足腰を鍛えながら肩や肘の力の抜き方を覚え、
その後この双辺太極拳で究極の放鬆を体験してもらおうと思っている。

トロけるような感覚と掌に感じる気は更に強く、
ゆらゆら動きながら恍惚感(或いはトランス感)を味わえる太極拳だと思う。

2013年8月12日月曜日

内家拳と外家拳

最近、一番避けていた外家拳をすすんでやるようにと考えるようになった。

それは、あらゆる先生方の話に耳を傾けた結果なのだが、ここで私の中でも陰陽説が出てくる。
光があるところには必ず影があるが
いわゆる外を知らずして内を知ることはできないのではないかと。

外家拳を避けていた理由は、白筋といわれる速筋を鍛えたくなかったからだ。
一般的に速筋を鍛えると気の通り道である経絡が押しつぶされ勁力が出にくくなると考えられるから。

だが、楊式太極拳の開祖である楊露禅にしても、元はと言えば少林拳の名手といわれている。
剛を知っていたからこそ、柔へ進み、そしてそれを発展させることができたのではないかと。

元々、陳式太極拳も外家拳の部類だったという説が強いようだし、
ということは一般的に“太極拳”と言われるあの柔らかい動きは楊露禅から始まったといえそうだ。

当会ではその楊露禅の家系から伝わる傅声遠老師の楊式太極拳を伝統のままに改良を加えることなく行っているが、他の教室や会を見る限りでも、最も普及している流派であるように思う。

いずれも、目を瞑りながら手探りで勁力を探そうとするより、
そのルーツに立ち戻った方が早く知ることが出来、会得することができるのではないかと思うようになった。(あくまでも私の中でだが)

だから、今後は外家拳も積極的に行っていくことにした。
まあ、あくまでも経験としてやってみるということだが。

今習っているのが通背拳をメインに、あとは八極拳と五歩拳。
あとは、詠春拳もやってみたいと思っている。

その中から楊式太極拳を見つめれば、今まで見えなかったものが見えてくるのではないかと。

早い話が、私はもっと柔らかく、空気の中に溶け込んでいくような太極拳がやりたいのだ。

2013年8月8日木曜日

Shall We ダンス?  Shall We タイチ?

しばらく自粛するといいましたが、
やっぱり書きたいことが山のようにあるので再開します。(笑)

実はどうしても書きたくなってしまった題材がありまして。

それはShall We Dance?という映画。

実はリメイクの方を先に観て、その後、オリジナルを観ました。
リメイクの方はシカゴが舞台なのでとてもゴージャスな気分を味わえるし、
オリジナルの方は日本が舞台で、とても親しみを感じるし、とにかくラストが良かった。
今思い出しても鳥肌が。

(この先少々ネタバレ有:笑)

この映画の好きなところは、下心で始めた主人公がどんどんダンスそのものにハマっていくというストーリーはもちろん、
職場や駅のホーム、自宅近くの公園等でついつい夢中になってダンスの練習を始めてしまうというシーンです。
このシーンを見るとおもわずにんまりしてしまうし、私が太極拳を始めたばかりの頃を思い出してしまう。(今でもだが)

ホントところ構わずやってました。
近くの公園はあたりまえ。
コンビニ、スーパー、パーキングエリア、ファミレス・・
もはや体が勝手に動きだし制御不能という感じで。(笑)

仕事中、デスクに向かいながら手だけ動かしたり、
或いはトイレの中でも。

汚い話で申し訳ないが、
便秘気味の時でも便器に座りながら雲手(うんしゅ)をするとお腹が動きだし、その後スムーズなお通じが。(笑)

最近発見したのは、パソコン操作をしている最中に、ちょっと手を休め、手だけでも気を練れば、その後とたんにキータッチが軽くなる。

キーを強く叩くと肩こりの原因になるが、無駄な力が抜けるので、指先で触れるようにキーを打てるようになる。
マウスも同様。
手の中で転がすように軽やかに操れるように。

太極拳は自分の身を守るために編み出された武術だが、
まさか便秘やキー操作にまで役立つとは創始者も想像しなかったのでは?(笑)

2013年8月6日火曜日

都合により・・

しばらくブログの投稿を自粛します。

日々努力していますが、
練習や研究の中での気づいたことや発見したことなどは自分の手元のメモに記録していきたいと思います。

気づきは私にとってかけがえのない宝物です。

いつも読んで下さりありがとうございます。
また、再開する時は宜しくお願いします。

soyokaze

2013年8月2日金曜日

師弟関係

話は前回の続きになるが、
そんなこんなで、私は自宅近くの公園で来る日も来る日も五行拳の3本を繰り返し練習した。
真夏だろうが真冬だろうが関係ない。
お蔭で靴も2足ほどダメにしてしまった。

とにかく、まずはその3本をものにしたかったし、なにより先生に認めてもらいたかった。
日頃練習をしているかどうかをきちんと見てくださる先生だったからだ。
ある日、動画を撮って先生に見せたら、とても褒めてくださり、「これならネットに配信してもいいよ」とまで言ってくださった。
とても嬉しかった。

そんなある日、いつものように公園で3本の練習をしていたら、ある人が私に声をかけてくださった。
「それは形意拳ですか?」と。
これが私と陳式太極拳の先生との出会いだ。

このことは「陳式太極拳との出会い」で書いた通りだが、
この後、私にとって幸運と不幸が同時に起こる。

幸運は、今話した通り、ずっと憧れていた陳式太極拳を教えてくださる師と出会えたこと。
それに地元奈良に越してきて間もない私には地元に武術仲間が一人もいなかった。
だから私にとって地元で師に出会えたことはとても大きかった。

それにもうひとつ。
ずっと太極拳の大会に出ることに憧れていたが、勢いで申し込んだはいいが、
見たことも出たこともない大会・・ まったく要領がわからない。

どんな会場で行われるんだろう?
どんな風に審査されるんだろう?
何が良くて何が良くないのか・・
右も左もさっぱり解らず、とにかく不安で不安でいてもたってもいられなかった。

しかし、その陳式太極拳の先生は大会の審判でもあられた。
しかも、まだ入会もしていない私の演武を見てくださるという。
私はこの時、この先生に深い深い恩を感じた。

お蔭で県大会も無事終え、陳式太極拳の先生に正式に入会を申し込むことになるのだが、
このことが、これまで就いてきた伝統の先生に知られることになり、今までの関係が一気に崩れることになる。

同じ会の中でも私と先生の仲の良さは有名だったし、先生はサプライズで私の誕生日まで祝ってくださる人だった。
正直言えば練習内容や会の方針について自分の中で煮え切らない点はあったが、それでもここまでしてくださる先生の期待に応えたいと本気で思った。

だが、私が陳式太極拳の教室に通い始めてからというもの、関係は気まずくなるばかり。
今までは認め合う仲だったのが、いつの間にか非難し合う仲になっていた。

私は伝統の先生に頼み込むように申し伝えた。
陳式の先生には恩があるから、どうか今教えてもらっている型を覚えるまでは出稽古を認めてくださいと。
しかしその返事はなかった。

先生は私を正式な弟子にと考えてくださっていたようだが、いつしか私のことは友達という位置づけに。
しかし、先生の立場で考えれば確かにそうかもしれない。
自分の信じていた生徒がよその教室に通い始めたとなればおもしろくないのは当然だ。

私は無念ながらも伝統の教室を休会することにした。

その後、私は地元で新しい仲間との出会いを求めるようになっていた。
陳式太極拳の先生との繋がりで、いい関係を築き上げていきたいと。

しかし現実はそう甘くはなかった。

陳式の先生は仰られた。
よそから来たものが地元で友好関係を築き上げて行くには、それなりに時間がかかると。
確かに逆の立場で考えればそうかもしれない。
私にしても、よそから来たものに出しゃばられたらいい思いをしないだろうし、退けようとするだろう。

いずれも、楽しい仲間を求めて今まで一人で頑張ってきたが、また一からやり直しということだ。

仕事の関係で引っ越しが続いたから、常に常に一からやり直し。
10年の太極拳歴の中で師について習ったのは5年ほど。
その間はずっと自宅前の道路や近くの公園で練習を積んできた。

とにかく仲間が欲しい・・

そういう強い想いから、この春からサークルを立ち上げることに。
まだ初めてわずか4か月足らずだが、最高に楽しい仲間が私の周りに集まってきた。
太極拳の「た」の字も知らない人達が、一人、また一人と集まってきて、そしてどんどん練習に意欲を燃やしていく。
それは、かつての自分を見ているようで、とても幸せを感じる瞬間だ。

新しい出会いがあると、必ず別れがある。

これは避けては通れないことだし、結局自分が本当にしたいことを信じ貫くしかないのだと・・
そう思った。

2013年8月1日木曜日

形意拳=五行拳

今は都合により休会しているが、それまで通っていた大阪の道場では日本で初めて台湾から伝わったといわれる気功と太極拳、それに形意拳と八卦掌を教えている。

この道場では、気功から始めることが鉄則で、逆に気功をしないものには技を教えないという伝統のスタイルを徹底的に貫いている。
気功歴10年の私もそれはとても頷けるものである。

最初の40~50分は気功を行い、
その後に台湾から伝わった太極拳を個別練習する。

1~2年を経て太極拳を終えた者は形意拳へと進むのだが、この道場ではすぐには型(套路)を教えてくれない。
まずは五行拳のうちの3本だけを1年以上かけて練習する。

三体式をたっぷり時間をかけて行い、それから跟歩(こんぽ)なしで劈拳(へきけん)を行う。
まずは正確に技を覚えるのだ。
この時点では劈拳のみで転身はまだ教えてもらえない。

ひたすら、劈拳を太極拳の足運びのように跟歩なしの進歩(しんぽ)で行う。
正直飽きる。
だが、これをクリアしなければ決して先には進めてもらえない。

何を目指しているかと言うと、ここでは本物の強さを身に付けることを教えようとしているのだ。
形だけの形意拳ではなく、内家拳最強と言われる形意拳の本物の強さだ。

だから、師匠は弟子に言う。
「決して技を使うな」と。
何故なら、その気なくとも相手を殺してしまうことになるからだ。

毎日、辛い三体式を泣くような思いで続け、
そして来る日も来る日も同じ劈拳(へきけん)、鑚拳(さんけん)、崩拳(ほうけん)だけをやらされる。

生徒の中には不満の声を漏らすものもいるが、その間に辞めていく者もいれば、
辛抱して続ける熱心な生徒もいる。
私はその脱落者の一人だ。
まあ、その理由はお恥ずかしながら道場に通うための交通費と受講費によって生活を圧迫し始めたからだが。。

いずれも丸々1年間、劈拳、鑚拳、崩拳の3本だけしかやらせてもらえなかった。
しかし、ようやくその意味が解ってきた気がする。
やはり先生は、生徒に本当に強くなって欲しいと思っていたのだと。

決して使うことのない技を何年もかけて練習する。
もし使うことがあるとすれば、それは刃物や拳銃等の凶器を向けられた時だろう。
その時こそ何年もの間辛抱して積み上げてきた技を炸裂させる瞬間になると思う。

実際、先生に拳を向けられた時は、恐ろしいほどの恐怖感を感じた。
単なるパンチではないのだ。
何年も何十年も空を突いてきた磨きの掛かった拳だ。
目の前に来るだけで、身動きがとれなくなってしまう。
丹念に丹念に磨き上げられた切れ味抜群の日本刀を目の前まで切りつけられたような感じだ。

形意拳の型もカッコイイと思うし、正直憧れたけど、
形意拳の本来の意味から考えたら、五行拳だけで十分だと思うし、
いや、その五行拳の中の3本だけでも完全に使えるようになれば向かうところ敵なしだと思う。

多分、これは実際に形意拳熟練者の拳や掌の寸止めを経験しないと解らないと思う。
現に師匠も普段は型を行わず3本だけしか練習しないと言っていた。

だから、私の中では形意拳=五行拳なのだ。

***

人それぞれ様々な捉え方や考え方があると思うが、
あくまでも私が経験した形意拳で感じたことです。

2013年7月30日火曜日

太極拳を通じて・・

私がサークルを始めた理由。
私の答えはいつだって変わらない。

共感できる仲間が欲しいから。
一人より二人、二人より三人。

最近、何人かの会員さんが頻繁に私にメールをくれる。
そして太極拳の話に花が咲く。

これこそが私が10年前から望んでいたこと。
とても幸せを感じる瞬間だ。

「楽しかった」「頑張りたい」「上達したい」「早く覚えたい」「表演服を着たい」「気を感じるようになりたい」
そんな言葉をもらうと、「よっしゃ!」って思うし、俄然やる気も増す。

私は正真正銘の生身の人間。
人間らしく感じて、そして人間らしく生きて行きたいだけだ。

そして、太極拳という世界共通語で日本だけでなく世界中の人と手をとりあい、そして笑顔で接したいと思う。

2013年7月27日土曜日

通背拳の威力は遠心力

今日は、ブログを通じて知り合った北京大学の老師を訪れ、始めて通背拳というものを教わった。
なんでもお父様がジェット・リーの師匠で、あらゆる中国武術に精通しておられる。
とにかく、とても元気な先生で一緒に居るだけでもいっぱいパワーをもらえた。

通背拳の手を大きく振り回す動作はとても豪快で、今まで携わってきた中国武術にはない動きだけにとても新鮮だった。

私は手が長すぎるのが悩みだったが、逆にいえば通背拳にはうってつけだ。
手長猿の動きを真似た拳法だが、そういえば、子供の頃友達に手長猿とからかわれたような気も。。

ひとまず老師に手本を見せてもらうのだが、あまりにも動きが早く手がどう動いているのか全く見えない。
近づいたらえらいことだ。

実際にハンドミットを使って、老師に打ってもらったら、物凄い音と共にとてつもない衝撃が走った。
こんなもん当たったらとてもじゃないがタタじゃすまない。

とにかく、手が伸びきるところまで伸ばして大きく豪快に振り回す。
その遠心力が威力になるわけだ。

もしこれを受けようとしたら、受ける手が大変なことになると思う。
最初は、自分の腿や腕、肩にパンパン当てて練習するのだが、お蔭でアチコチ真っ赤っかに。

それにパンチと違って、手の甲全体を使うので、拳よりはるかにヒットする面積が広い。
その上遠心力が働いているから威力が大きいとのこと。

因みに、腕を大きく振り回すので肩こり解消にとても良さそうだ。
実際、繰り返し練習していると肩がどんどん軽くなった。
準備運動としてもいいのでは?と思ったほどだ。

今年中に型を習得し、来年の伝統拳大会ではこの通背拳で出場してみようと思った。

考えるな、感じろ

これはブルース・リーの名台詞だが、
本当にそうだと思う。

これは中国武術に限ったことではなく、なんにでも通じる。

ビジネスで絶好調だった時も、頭では一切考えずに行動した。
考えると行き詰まり、頭を空にすると営業でバンバン契約がとれた。
お蔭で会社での営業成績はNo.1

あとは、仕事の関係上人前でスピーチする機会が多かったが、
考えるとロクなことにならない。
この時も頭を空っぽにし、自分に任せるという感じだ。

どこから得た言葉なのか、自分でもびっくりするような言葉が口からポンポン出てくる。
もちろん、なにもしないでそうはならない。
そうなるまで涙を堪えるような下積み期間が何年もあった。

これを武術に置き換えると、
役に立つのか立たないのか解らない武術を毎日懸命に練習して、
それが本当に必要になった時、
何も考えないことで日頃の練習の成果が炸裂すると考えられる。
だから、どれだけ頭の中を空っぽにできるかが勝負。

頭を空っぽにすると、“何か”が体内に入ってくる。
“それ”を感じ、“それ”に身を任せる。
しかし頭でイロイロ考えていると“それ”が入ってこない。

いわゆる無我無想の状態になる。
言い換えれば瞑想状態になるということが大事だということがわかる。

全国大会での本番前もそうだった。
あの時の私はコンニャクのようにリラックスしており、気分はまさにハイだった。
まるで遊園地で初めての乗り物に乗る前みたいに、わくわくした気分だった。

ガチガチに緊張していた私がそういう状態になれたのは、まさに“気”の力だった。
気の力が奇跡を起こした。

そして本番演武中は、楊式ならではのゆっくりとした動きなのに、風を感じていた。

風はやっぱり気持ちいい。