2017年5月31日水曜日

バイク事故

いつかやるだろうとは思っていたが遂にやってしまった。
バイク事故。

稽古帰りに食事して帰ろうと行きつけのラーメン屋に寄ろうとしていたのだが、ちょっと考え事をしていて、通り過ぎそうに。
スピードは恐らく50~60㎞ぐらいは出てたと思う。

そこで急ブレーキ&急ハンドル。
単車では絶対やってはいけないことをやってしまった。

その瞬間バイクは横転し、まるで氷の上を滑るようにくるくるスピン。
同時に私はバイクから放り出され、全身を強打。

しかし不思議と本人冷静で、
自分のことよりバイクが横転して暴れているのを見て、それを起こしに行く。
その時、体に痛みはほとんどなかった。

中学時代からずっと憧れ40代後半になってようやく夢の二輪免許を取得。
そしてずっと欲しかったビッグスクーターをキャッシュで購入した。
人生で初めての二輪免許と人生で初めての新車。

楽しくて楽しくて毎日ツーリングに出かけた。
そして7年間ずっと大切に乗ってきた。
それが一瞬でキズモノに。
ショックだったがやってしまったことは仕方ない。

そんなことを考えながらお店に入りラーメンとチャーハンを注文した。
その時、私は上下白の道着を着ていたのだが、左肘と左膝あたりが血で赤く染まってきた。
その時始めて自分が怪我していたことに気付いた。

その場では止血しようもなく、徐々に血で染まっていく道着を着たままラーメンとチャーハンを平らげ店を後にした。

帰宅し、裸になると、左肘、左膝、左腿、左股関節から出血。
そして左手小指、胸骨打撲。

左肘と左膝は出血が酷かったので傷パワーパッドを貼り付けた。
あとは絆創膏で処置。

私は3日で治そうと決めた。
武術家を目指す者として。

結局、全てきれいに治ったのは6日目の朝。
私の中では3日遅れだった。

しかし、会員さんたちにその話をすると6日でも早い!と言われた。

ここで気になるのが、
もし、気功も太極拳もやっていなければ治るのにどれだけかかっただろうということ。

先日は歩けない程の捻挫を気功治療により1時間半で歩けるように。
車のドアに指をつめ出血したが、それが数分でピタリと止まり、
内出血して紫色だった親指がわずか2時間でピンク色に。
そして翌日には何事もなかったかのようにきれいに治ってしまった。

怪我も病気もしたくないが、
気功によって驚異的な治癒力が身につくことは十分実感できた。

今度はこれを自分ではなく他人に与えて行きたいと思う。

2017年5月30日火曜日

太極拳が飽きる?!

タイトルに書いたが、
太極拳が飽きるということがあるだろうか?

もし飽きるとしたら、それは太極拳を知る前だと思う。
太極拳が本当におもしろくなるのは、太極拳を覚えてから。

遠ざかってしまう人のほとんどが太極拳の型を覚えきらないうちか、
それとも覚えただけか。

本当にもったいないと思う。

コースメニューでいえば前菜だけを食べたようなもの。
満足できるわけがない。

伝統太極拳にイベントなんていらない。
発表会も大会も交流会もなにもいらない。

そもそも伝統太極拳は人様に見せるために鍛錬するのではない。

自分の可能性をどこまで引き出せるか?
これが楽しいし、どんどん深みにはまる。
そしてはまればはまるほど、体に悪いことをしなくなり、
健康なことばかりを選ぶようになり、
そして体が鍛えられる。

ゆるみの境地。

ゆるまなければわからないゆるみの世界の楽しさ。
他のどのスポーツや健康法でも得られない世界。

からだをゆるめ、頭もゆるめる。
身も心もとろけるような感覚は伝統太極拳ならでは。

更に病気しないカラダになり、元気が得られ、しかも強くなれる。
伝統太極拳は本当においしい。

その場で言えない理由

私は稽古中に説教したり叱り飛ばしたりすることはありません。
その理由は空気を大切にしたいからです。

「何故その時に言ってくれなかったのですか?」
と言われたこと、今までに何度かありました。

逆にお尋ねしたいです。
「なぜその時に言えると思うのですか?」と。

私にとって稽古はライブなのです。
本番なのです。

教室に入ったらスイッチを入れ、
自宅に帰ったらスイッチを切り
そして充電します。

私にとって教室は教える場ではなく、パワーを与える場だと思っています。

ライブは元気を与えてくれます。
癒しを与えてくれます。

それを私は太極拳というジャンルの中で行っています。

ライブの最中に叱ったり、説教したりしません。
それは結婚式の最中、お葬式の最中、生放送出演中
私にとってはこれらと状況は変わらないのです。

良くなかった点や反省すべき点は終わってからするものです。

恋愛ならばその場で思っていることを伝えてその場で解決すべきでしょう。
しかしそれとは状況が違うのです。

私の会には現在80人ぐらいの会員が在籍しています。
自由参加制だけあり、皆さんお勤めしている方がほとんどで
一度に全員集まれることはありません。
会社ではないので定刻に全員揃うことはないのです。

だから、改善すべき点や反省すべき点はメールでしかお伝えすることができないのです。
それに対し何か思うことがあれば返信メールで受け付けているし
その意見が良い未来につながると思う事であればすぐさま反映させます。

その点どうか理解して欲しいと思います。

「教室の雰囲気を大切に」

これが私が最も重視することです。

2017年5月27日土曜日

なぜ練習する?

答えはただひとつ。

自分の可能性を知りたいから。

人に評価されるために練習するのではない。

自分を磨きたいから。
自分を知りたいから。
自分で認められる自分になりたいから。
自分自身に驚きたいから。
自分に起きる奇跡を見たいから。

正直言えば気がすすまないのだが、今年の夏2つの大会出場を控えている。
そしてそのための練習を今年の2月から始めている。
毎日ではないが、常に意識しているし、
時期が迫ってくるごとに怠けたい自分に鞭を打って練習をしている。

先程も言ったように人に評価されたいからではない。
自分で納得のいく演武をしたいから。

それなら大会に出る必要はないのでは?
と思われるかもしれないが、
試験や大会に挑戦することは、すべきことが明確になるし、
期限も決まっている。
先送りできないのだ。

人間と言うのは怠けられるのなら怠けたい生き物。
面倒くさいことは先送りにしたい。
しかし期限が決まっていればせざるを得ない。
だからこのような機会を作って頂いた主催者には感謝を述べたい。

今年のテーマは「自分らしく」
自分に嘘をつかず、自分のやりたい武術を行う。
自分が生涯かけて向かおうとしている方向から反れることのない演武を行いたいと思っている。

時代は追うものではなく作り出すもの。
誰かが始めなければ時代を変えることなどできない。

私にそれだけの力があるとは到底思わないが、
少なくとも私は時代を変える側でありたい。

武術は体を鍛え健康をもたらすもの。
決してその逆であってはならない。
非力ながらもこれからもそれを証明していきたいと思う。

2017年5月25日木曜日

どう立つか?どう回るか?

もし太極拳の練習時間が10分しかないとする。
時間の都合上、あらゆる練習法を省いていき、
最後の最後に残る練習法はなんだろうと。

私なら間違いなくこのふたつを選ぶ。

立禅とスワイショウ

このふたつは絶対欠かせないし、
逆に言えば太極拳の上達はこのふたつに掛かっていると言っても過言ではないと思う。

それならば立つ練習と回る練習をすれば良いかということだが、
全く違う。

どう立つか?
どう回るか?
が重要。

いい加減に立ち、いい加減に回っているだけでは全く身にならないし、
それどころか悪い姿勢で立ったり回ったりしていると体を痛めてしまうことになりかねない。

質が大事ということ。

この二つを正しく実践すれば、套路も推手も散手も確実に上達する。
(私が、ということではなく、優れた武術家を見てきてのこと)

だから、この二つに関してはいい加減に行って欲しくないし
毎回丁寧に指導し、
場合によっては厳しくも言う。

中にはそのことでおもむろにふて腐れる者もいるが、
なぜ私が厳しく指導しているか意味が解っていないからだと思う。

出来ていないことに苛立ち叱っているのではない。
本気で健康になって欲しいし
本気で上達して欲しいという気持ちがあってのこと。

意地悪な先生だと思うならそれでもいい。
叱ってばかりもどうかと思うが、生徒の機嫌をとる先生が良い先生とは思わないから。

套路で上手く動けるようになりたい。
推手が強くなりたい。
鮮やかに技をかけられるようになりたい。

いろんな願望があると思うが、
このふたつがこの願いを叶えてくれる夢の特効薬といいたい。

2017年5月20日土曜日

知ってるつもり

このような諺がある。

〝聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥”

私が思ったことは何故こんな諺があるか?ということ。
私はわからないことがあればその場で聞くし、
これこそが人間同士の一番楽しい部分であると思っているから。

今は講師という立場だが、それでも私の姿勢は変わらない。
解らないことは解らないと言うし、生徒に尋ねることすらある。

知らないのに知っているふりをしていて損をするのは
知らずに恥をかくことだけではない。
人との楽しいコミュニケーションが出来ないことを損する。
そして人間関係に溝をつくる。

推手に置き換えると、聴勁という。
聴こうとしなければ聴こえない。
知っているつもりで推手していると相手に崩されると言うこと。

推手はこの諺を具体的に証明する実験のようにも思える。

2017年5月16日火曜日

単純なもの程奥が深い

先程、早朝練習してきた。
ガラ空きの駐車場で、五行棍を練る。
生きてるなぁ!と感じる。

何十回、何百回と同じ動作を繰り返す。
これがたまらなく楽しい。

そういう私は元ベーシスト。
ファンクベースが好きだった。

ファンクとは、いわゆるダンスミュージックだが、
踊りやすくするためにずっと同じリフを弾き続ける。
ずっと同じリフを繰り返しているのに全く飽きない。
むしろどんどん楽しくなる。

同じフレーズを弾き続けるので頭を使うことはない。
頭は空っぽ。
どこを使って弾くか?

丹田。

ベースってもんは頭で弾くんではなく
心で弾くんでもなく
腹で弾く。

そうするとどんなベースよりも、ものすごいパワーを生み出す。

私の武術に共通している。
緻密な套路を覚えるのは苦手だし、好きでもない。
頭を使うことが好きではない。

だから套路を練るよりも五行を練るほうが楽しいし、生きてる感じがする。

それに言えることは
展開激しく複雑なものは誤魔化しがきくが、単純なものは誤魔化しがきかない。

しかも単純なものほど奥が深い。
毎回新たな発見がある。

私が伝統太極拳や伝統形意拳をこよなく愛する理由。

2017年5月15日月曜日

推手あれこれ

数えてはいないが今まで300人以上の相手と推手を行ってきたと思う。
初心者から達人級の方まで。

初心者と達人が明らかに違うのは、自己の制御だろうか。

初心者はまず自分から動こうとする。
そして力で対抗しようとする。

達人は自分から動くことはしない。
相手の動きにぴったり合わせる。
そして気づけばいつのまにか崩されている。

推手では専門用語で聴勁というが、まずこれを鍛えることが重要。
いわゆる相手を知るということ。

しかし相手を知るだけで聴勁が成り立つだろうか。

もっと大事なことは己を知ることだと思う。

推手を行うとよくわかるのは自分の癖で動こうとしてしまうということ。
これを相手に知られてしまうと相手の手中に収まることになる。

なら癖とはなんだろう?

癖とは無意識であり性格であり日頃の習慣。
それならその癖を出さないことはできるだろうか?

日頃の習慣を意識して変えていけば癖を変えることはできる。
しかしもっと手っとり早い方法がある。

無になること。
無は頭も体も完全脱力の状態からなる。
いくら体が脱力していても脳に力が入っていては無になることはできない。

無論、経験未熟な者が無になっても力を出すことはできない。
結局日ごろの鍛錬が必要ということ。
たくさん練習し、たくさん失敗し、たくさん落ち込むこと。

因みに落ち込むことが良くないことと思う方がおられるかもしれないが、
成長過程で落ち込むことは絶対必要。
〝上達したい”という気持ちが強いからこそ落ち込むのであって、
落ち込まないというのは現状に満足しているということだから伸びるわけがない。

話は変わるが、
今まで推手をしてきて一番おもしろいと思った相手は陳式太極拳。

楊式が静なら陳式は動だろうか?
解釈の違いがあると思うので具体的なことは割愛するが、
私の勝手なイメージで言えば、陳式が龍なら楊式は虎。

流派によって勁の使い方が違うのが実におもしろい。

2017年5月13日土曜日

静から動へ 動から静へ

私の太極拳人生は立禅から始まった。

始めてこの世界に足を踏み入れた時、
立禅がなんとも神秘的でどんな効果があるのだろうと、わくわくしたものだ。
あれから15年、今もなお立禅を続けている。

まず姿勢を整える。
太極拳のみならず武術の基本だ。

そして脱力。
そして瞑想。

ただ立っているだけなのに体の中に気が巡りだし、中からじわじわ熱くなってくる。
芯から温まるとは本当はこういうことなのではないかと思う。
そして体が妙にスッキリする。

風邪をひいて熱があがり、汗をびっしょりかいた後というのは体が妙に軽くなりすっきりする。
それを健康な状態で行うわけである。

立禅で得られる汗はスポーツなどでかく汗とは質が違う。
まず、汗をかいているのに全く呼吸が乱れない。
息切れしたり心拍数が上がることもない。
もちろん疲労感もない。
むしろ体がすっきりし軽くなる。

すべてはここから始まる。

私は10年目にして形意拳を本格的に始め、
そして15年目である今、八卦掌の修行を開始した。
八卦掌と言えど、今のところ型をやるつもりは全くない。
ただ、歩くだけ。
型を覚えるのはいつでも良いと思っている。

ここでの気づき。

正しく歩こうとすればするほど立禅の重要性に気付く。
やはり立禅は全ての基本なのだ。

太極拳でゆっくり動きながら気を練り上げ
形意拳で勁の流れを知る。
そして八卦掌で更にエネルギーを蓄える。

私の解釈は八卦掌は歩く立禅。
すなわち動禅。

歩きながら得られる風が心地よく、無心になれるのがいい。

2017年5月10日水曜日

逆らわない

先日から弟子の推手が変わった。
いきなりだ。

本人はずっと推手スランプなどと言って落ち込んでいたが
ようやく感覚を掴んだよう。

しかし、それは私がいつもいつも言ってきたこと。

結局ある程度やり込んでいかないと、
耳からは入っていても理解はできていないのだと思う。
私も今までそういう経験を何度もしてきた。
先生の言ってること理解しようとするが理解できない。

結局どうすればいいか?

いわゆる武術修行に近道などないということ。
基本からしっかり積み上げ、
うまくいかないことや失敗もたくさん経験しなければいけない。
失敗を恐れ、或いは負けることを恐れていては
いつまでもそこから前に進むことはできない。

落ち込んだり悩んだりすることも絶対必要。
私等数えきれないほどある。

私が推手を行う時何を思っているか?

それは、
な~~~にも考えないこと。

弟子は私が教えたことを見事に自分のものにしてくれた。
これがたまらなく嬉しい。
本人ずっと苦悩していただけに。

それにしても私が10年以上かかったことをわずか3年足らずで習得してしまうとは。

弟子といい、会員さんといい、皆素直なのだと思う。
推手も、学びも、決して逆らわない。

素直は無敵なり。