2018年9月27日木曜日

ぶっ壊す!

昨夜の武術班稽古は、弟子達もそろそろ慣れてきたと思ったので、
気功はほとんど黙って、ほぼ無の状態で行った。

これが実に良かった。
この時点で疲れていた身体がすっと軽くなった。

その後、伝統楊式太極拳の新架式(仮称)をゆっくりと時間をかけて行った。

特に意識したこと。

套路の正しい形や太極十要である姿勢や動作、
これらをすべてぶっ壊し、呼吸と気の流れだけを意識。

次第に体の中から燃え上がるようなエネルギーが噴き出し、
同時にじわ~っとほとばしる汗も噴き出した。

9月に入ってからもずっと猛暑だった今年の夏の疲れがとれず、
ずっと重い体を引きずっていたが、
この套路でその疲れが一気に吹っ飛んだ。

どういうしくみでそうなったかはわからないが、
気血の巡りがよくなり疲労物質が素早く回収され、
更には免疫力が上がり、
疲れた筋肉に潜んでいたウイルスも一気に全滅したのだろう。

目には見えない世界だがそういう感覚があった。

実は套路を始める前、弟子達にひとこと言った。
「今日はあまり調子が優れないからいつも通りにできないかもしれない」と。

多分これを言ったことも良かったのだと思う。
手本となるような良い演武をする必要がなくなり、
内面だけに没頭することができたから。

基本は大事。
絶対に大事。
しかし基本ばかりでは進化はしない。

基本がしっかり出来るようになったら、
それを破壊する。

破壊しようとしてもしっかり基本をやってきたから、結果的には基本が揺らぐことはない。
しかしその破壊しようという意識が、猛烈なパワーを生み出す。

ますます太極拳が面白くなってきた。

無題

ある生徒に「覚えるのが早いね」と言ったところ
本人は「言われるのが嫌なんで」と答えた。
とても正直だ。

結果オーライで考えるなら、
そのことが早く覚える意欲につながっているのだから決して悪くないと思う。
実際、私は楊式太極拳を覚えるのに十年かかったのに、一年も掛からず覚えたのだから。

しかし、私の場合はちょっと違う。

私は子供の頃から覚えることが苦手。
あまりの記憶力の悪さに自分が憎いと感じたこともあるほど。
だから記憶力を要求される国語と社会は大の苦手で、この教科で5段階の2以上をとったことは一度もない。
クラスメートは「こんなん丸暗記すればいいだけ」と言うが、その丸暗記が苦手なんだ。
覚えられたら苦労はない。

そもそも丸暗記ってなんなんだろう?
それってただ暗記するだけで、それが一体何の役にたつのだろう?

それで言えば九九は確かに丸暗記するだけでも役に立つ場面は多い。
といっても、私はその九九ですら6の段までしか覚えられず、クラスメートは全員覚えたのに私だけ覚えられず結局最後は先生に見放された。

ではこれを太極拳に当てはめてみよう。
太極拳の套路(型)を仮に丸暗記したとする。
しかしそれが何になるだろう?

それはあくまでも太極拳の型を覚えただけであって、その使い方は何も覚えていない。

なぜゆっくり動くか?
なぜ途切れないように動くのか?
なぜ足を静かに運ぶのか?

その意味すらわからない。

これで本当に太極拳を覚えたことになるのだろうか?

私は子供の頃からその意味が分からなければ全く覚える気にならない性格。
だから覚えようとさせられると必ずその意味を知りたがる。
そして先生を困らせる。

その先生を困らせていた生徒が今では先生になっている。
しかし性格は今でも変わらない。
意味が解らないことを覚えようとは思わないし、
限りある人生、そんな無駄なことに時間を掛けたいとも思わない。

だからすべての意味を解き明かすことに今まで時間を費やしてきた。
そして多くの先生や先輩方から様々なことを学び、そして自分なりにも研究してきた。
だから新しい会の名称も「研究会」とした。


私が先生から太極拳を学ぶ時、早く覚えられるかどうかといえば、覚えは悪い方だと思う。
あまりの覚えの悪さにもしかしたら先生をイライラさせてしまっているのではないかとも思ってしまう。
しかしそんな自分に苛立っても仕方ない。

私は心の中でこうつぶやいてる。

「何度も同じことを言わせてしまい本当に申し訳ないです」
「それでも見捨てず教えて頂き感謝します」と。

実際口に出して言ったこともある。

そして
「なるべく早く覚えられるよう努力します」
と自分の中で誓う。

私は決して優等生タイプではない。
だから優等生にあるプライドも全くない。
持ちようがない。

その代わり感謝する気持ちは人一倍ある。
その気持ちが私の意欲を掻き立て
そして今に至るまで未熟ながらも自分をここまで押し上げてくれた。

学生時代、劣等生だった私は先生に見捨てられてきた。
しかし太極拳の先生は私を決して見捨てない。
辛抱強く何度でも同じことを教えてくださる。

幼い頃にこういう経験をしたからこそ、この有難みがわかるし感謝する気持ちも強くなるのだろうと思う。

***

教える立場になってわかったことだが、
辛抱強くなるのではなく、太極拳を長くやることによって心にゆとりができる。
イライラしなくなる。
「覚えられない・・」と焦っている生徒がいても、心の底から笑顔で何度でも教えることができる。
太極拳が単なる運動ではなく禅であることが本当によくわかる。

2018年9月22日土曜日

仙人を目指して

私は苦行により約20年前に悟りを得たが、
慢心してしまい世俗に戻ってしまった。
しかしそのプロセスや悟りで得られるものがどういうものか
今でもはっきり覚えている。

それは・・
全く恐怖や不安がない世界、
すべてを許すことでき、
世界中で起きていることすべてを理解できる。
そしてただただ幸福感だけに満ちた世界。
先に起こることすべて予知でき、
なにが起きても「知っていた」と。

そうなるまでは、毎日泣くほど辛い想いをしてきたし、
大きな交通事故で死にかけたこともある。(新聞にも取り上げられた)
いわば悟りを得るための代償であったということ。

5人を動かし、
50人を動かし、
500人を動かし、
そして20000人を動かすまでになった。



そして20年経過してこの本に出合えた。
あのマザーテレサも推奨したという本。

愛の力がどれほど強いかというのも経験した。
私は過去に婚約者がいたが彼女のためなら何でもできた。
彼女を助けるためなら危険から身を守ることはもちろん、
必要であれば海外にも飛んだし、
普通なら出来るはずのないことがどんどん出来てしまったということも経験した。

この本はこれらの精神状態がどれほどのパワーを出すことが出来るか科学的に証明したもの。
悟りが最高レベルであることはもちろん、愛の力も強い。

意外なのがプライド。
ある程度のプライドは必要だが、プライドだけでは決して大きな力は得られない。
復讐心や嫌悪のパワーレベルが低いのは誰でもわかることだろう。

今度は武術で悟りを得たいと思っている。
それは決して格闘家として強くなりたいのではなく、
自分の可能性をどこまで引き出せるかに挑戦したい。

因みに悟りを得るのは決して簡単ではないことはわかっている。
どんなに辛い出来事が起きても絶対挫折してはいけない。

その階段が仮に1000段だとしたらほとんどの人が2~3段で挫折してしまう。
そう言う人をごまんと見てきた。

人って意外と簡単に諦めるのだな。
だから悟りを得る者は少ないのだと思った。

人生最後の挑戦は武術で悟りを得ること。
そして仙人のようなパワーを得ること。

2018年9月21日金曜日

人間は1本足で歩いてる

人間は二足歩行しているが、実際歩いている時は1本足で歩いてる。
もし二本足で歩くとすればそれはうさぎ跳びになる。

つまり、人間は立って歩けるようになってからずっと1本足で立てるということ。
そのようなバランス機能が備わっている。

ところが太極拳で分脚(ぶんきゃく)や踵脚(とうきゃく)になるとぐらぐらしてしまう。
何故だろう?

その答えは・・

意識しているから
更に正確に言うならば意識し過ぎているから

ぐらぐらする人のほとんどが、足を上げよう上げようとしている。
その上げようとしている意識が軸感覚の邪魔をしているということになかなか気づけない。

では、なぜ教室までぐらつくことなく歩いてこれたか?
意識しながら一歩一歩踏み出して歩いてきただろうか?
多分そんな人はいないはず。

足を上げる度にぐらぐらするのは、意識するということのスパイラル(悪循環)から抜けられなくなっているケースがほとんど。

ここでひとつアドバイス。

上達するということは上達の妨げになることを切り捨てて行くことでもあるということ。

うまくいかない方法を何度繰り返しても、決してうまくいかない。
寧ろそのことを学習しなさいというメッセージ。

もしぐらつくことで悩んでいるのであれば、
今日からでも「変わろう」と考えて欲しい。

うまくいかない方法に固執するのではなく、
うまくいかない方法はバッサリ切り捨てる。
ゴミ箱に捨てる。

そしてその固執している時間をうまく行く方法を探すことにあてる。

いつも言うことだが、
上達するには素直になること。
素直こそ最強であり無敵であるということを知って欲しい。

もう一度思い起こして欲しい。
人間はいつも1本足で歩いている。
つまり1本足で歩くことのできることに長けている。

それにもうひとつ。
私が指導する際にいつも言う事だが、
足を上げようとしないこと。
上げるのではなく放つ。

分脚の時は爪先から、
踵脚の時は足裏から、
氣を発射する。

足を上げようと力を入れてはいけない。
バランスを失うばかりか氣の通りを阻害する。

実際に蹴ってみるとわかる。
力んで蹴ろうとするのと脱力して蹴るのとでは脱力して蹴る方が圧倒的にパワーがある。
脱力することで氣が流れるからだ。

「できない」
という気持ちをゴミ箱に捨てる。
そして、
「できる」と信じる。

これだけで、自分の太極拳がぐんと変わるはず。

2018年9月16日日曜日

覚えられないことを喜ぼう

太極拳をなかなか覚えられないことを落ち込む人がいる。
気持はわからないでもないが、
私は覚えられないことで落ち込んだことは今まで一度もない。

そもそもなぜ落ち込むんだろう?
それはきっと他人と比較しているからではないだろうか?

ならば、仮に伝統楊式太極拳の套路(型)を全て覚えたとする。
では、その型の一番最初に出て来る起勢という技の勁を使うことができるだろうか?

誰かにしっかり両手を握ってもらう。
その手を力を使わず解くことができるだろうか?
これが出来なければ起勢を習得したことにはならない。

ほとんどの人が力一杯握られると力を入れて手を解こうとするだろう。
しかしこれではうまくいかない。
そもそも手を解こうと思うこと自体失敗する。

なにも思わない。
手をスッと前に出すだけ。

自分流に言うならば解こうとする前に解く。
考えてから動くのではなく動いてからゆっくり考える。

私は過去に飛び込みの営業をしていたことがあるが、一日100件以上まわる。
そしてことごとく断られる。
断られるだけならまだいい。
怒鳴られたり罵声を浴びたりすることもある。
最初は落ち込んだ。
泣きたくなるほど落ち込んだ。

しかしその後落ち込む必要がないことがわかった。
理由はかんたん。
契約がとれるまでまわってないだけということに気付いたのだ。

仮に100件に断られて挫折するとする。
しかしもしかしたら101件目に契約がとれたかもしれない。
ほとんどの人があと一息というところで挫折する。
その理由は「あなたはそれでも成し遂げたいか?」ということを試されているから。

それが解ってからは、奇跡が起きた。
100件回ってなんと10件の契約を取ってしまったのだ。
飛び込み営業で10%の確率で契約がとれるなんて、恐らくないのではないだろうか?
さすがの社長もぶったまげていた。

私は落ち込むことをやめ、何軒目に契約がとれるだろう?とワクワクしながら一軒一軒回った。
中には私が妙にニコニコしているから不思議がられたこともあった。
その笑顔につられて契約したと話してくれたお客さんもいた。

話はこれで終わらない。
私はこの落ち込む必要がないことがわかってから
更に奇跡を起こした。
アポイントの営業で100発100中契約をとれるようになった。
全く断られることがなくなったのだ。
もうその時は自分でも魔法の世界にでも入ったかのような気分だった。

こんなふうになれたのは、私は考えてから行動するのをやめてからだ。
断られたらどうしよう?
怒られたらどうしよう?
罵声を浴びたらどうしよう?
そんなことより、契約がとれた瞬間の嬉しいことだけを考えて無心で行動した。

これは武術にも通じる。

「考えない」
「勝ち負けを意識しない」
ということ。

話を戻す。

太極拳を覚えられないことを落ち込むのをやめてみよう。
というか落ち込む必要がない。
他人と比較するのをやめよう。
「誰それがどんどん先に進んでいるのに自分はなかなか覚えられない」
そんなことを思って一体なんのメリットがあるだろう?

自分の中で頑張ったと思えるならそれでいいではないか。

覚えられないということは、覚える楽しみがいつまでも残るということ。
目の前のおいしいケーキを一気に食べるのもいいが、
チビチビ食べるのもいい。
食べてしまったら楽しみがなくなってしまう。

少なくとも私はなかなか覚えられない時にこう考える。
「なかなか覚えられないけど、この楽しみは明日にとっておこう」
こう思うだけ。

もし次の日も覚えられなかったら、
「楽しみがまだ続く。嬉しい」
こう思うだけ。

「落ち込むな」と言っているのではない。
落ち込む必要がないということ。

だから、「覚えられないことを喜ぼう」なんだ。

実は私はこれから覚える套路があるのだが、楽しみにとってある。
「いつかこの套路を覚えることができるよう、そのためにも今すべきことを頑張ろう」
そう思ってわくわくしながら毎日を過ごしている。



2018年9月14日金曜日

切らない割らない

冬の検定に向け個別に指導を始めているが、
その度に伝えているのが
「切らない」「割らない」

太極拳をまだよく理解できていない初心者は
定式が終わりだと思ってしまう。

それならば套路として繋ぐ必要がなくなる。
なぜ繋がっているのだろう?
私はこのことをずっと考え、研究してきた。

ここで頭を切り替えてみる。
定式は過渡式であり、過渡式が定式と。

因みに「定式」とは型の練習でよく指導される、技が終わった部分とされているところ。
「過渡式」は定式と定式の間の部分。
制定拳では過渡式のことを「通過動作」などと表現される。

しかし太極拳の技に終わりはない。
それに通過動作もない。
実は通過動作と思っているところに太極拳ならではの秘技が隠されている。

逆を言えば過渡式がなければ太極拳にはならない。

この辺のことを言葉にするのは難しいので、
当会の稽古で学んで頂きたいと思う。

いずれも太極拳で套路を練る時は決して切ってはならない。
切ること、即ち相手に隙を与えることになる。
常に動いているから隙がなくなる。

川の流れのように連綿と動く。


次に割らないということ。
これは足運びをする時に、ドスンと足を落とさないということ。
太極拳の歩法はドスンドスン歩くのではなく、
肩の位置を変えず音も立てず静かに歩く。

これには二つの理由がある。

ひとつは相手に動きを読まれないようにすること。
もうひとつは静かに足を置くことで普段鍛えにくい筋肉を鍛えることができるということ。

普段歩いている時に、物音を立てずに歩こうなどとするだろうか?
赤ちゃんが寝ているそばを歩くときとか、
試験に遅刻して静かに教室に入る時とか、
そんなもんではなかろうか?

いずれもこの歩法によって、強靭な足腰をつくることができる。
だから、薄氷の上を歩くように、
そして割らないように歩く。

当会の検定では姿勢と歩型、そしてこの2つをみていく。

切らないことを相連不断(そうれんふだん)といい、
割らないことを出歩如猫(しゅっぽじょびょう)という。

切らない
割らない

これを意識して動くと太極拳の功夫(実力)は格段に上がる。