2018年12月16日日曜日

ノーモーション楊式太極拳

楊式太極拳では打ったり受けたりする動作がない。
正しく言えばあるが、それがわからないのが楊式太極拳の特徴だと思う。

他の武術や格闘技を見ていると、
打ったり受けたりする時に何かしらの動きが必ずある。
それは、
腕であったり、肩であったり、腰であったり、脚であったり、目であったり・・

しかし楊式にはそれがない。
ノーモーションなのである。

師の拳を今まで何度も受けたことがあるが、
打ってくるタイミングがわからない。
だから、壁に激突しそうになるほど吹っ飛ぶ。

その特徴となる打ち方が暗勁と言われる。
この場合の暗とは勁(力)を隠すという意味だと思われる。

例えば同じ太極拳でも陳式太極拳があるが、こちらは明勁。
明らかに打つ動作(モーション)がある。
しかし、その威力があまりにも凄まじいので
来るのが解っていてもなかなか避けきれない。

かなり動体視力が優れているのであれば、かわせるだろうが
いずれもこの陳式独自の明勁に楊式の化勁を使うのはなかなか難しい。

では、楊式の暗勁はどんな感じだろう?

私のイメージでは、風。
風は目に見えない。
そよ風から入り、その風がいきなり突風に変わる。
師に拳を突き出すと、風のようにいなされ、風の如く打たれる。

昔のアニメに赤胴鈴之助というのがあったが、
もっとも凄まじい技が真空斬りといい、自ら風を起こし風で相手を吹っ飛ばす。
子供の頃あの技にすごく憧れた。
こんな技が使えたら、悪い奴をガンガンやっつけることができると(笑)

あれはあくまでもアニメだが、
かなり共通するものはあると思う。

私が楊式太極拳の魅力にとりつかれどんどん嵌っていくのは、
子供の頃、風を扱うあの技に憧れたからだと思うし、
なにより私は風がすごく好きだから。

2018年12月15日土曜日

使えない技

氣を用いて闘う武術を内家拳と呼んでいるが、
その中でも私がウエイト置いているのが楊式太極拳。

まるでゆっくりと舞っているかのような太極拳だが、
その技の威力を知れば知る程恐ろしく、
決して使えない、
使ってはならない技であることがわかってくる。

タイトルを「使えない技」としたが、
その威力が大き過ぎるだけに使ってはならないということ。

始めばかりの頃はその技を知りたくていろいろ研究したが、
研究するためには相手がいなくてはできない。

最初は力の出し方がわからないから、
それはまるで子供のプロレスごっこのようなものだった。

しかし、ある時から徐々に力(勁)の出し方がわかってきて、
何度か相手になってもらった人を思いっきり吹っ飛ばしてしまい
危うく大怪我させてしまうところだった。

その時は小さな怪我で済んでよかったが、
下手をすれば命の危険につながる可能性も少なからずあったということ。
その頃から私は本気で楊式太極拳の技をかけることを完全封印した。

最近ではDVDや動画サイトでも太極拳の技の用法が紹介されているが、
双方で十分な打ち合わせをした上に、安全性を配慮し行っているはずだし
危険な技はそのまま出来ないから相手役に演技をしてもらわないといけないこともあるだろう。

そもそも何の技をかけられるか解っていれば相手役もそれに備えることができるし、
受け身を使うこともできる。

だから、
本当の楊式太極拳の恐ろしさは決して見せることはできないということ。

その力は相手の攻撃の威力が大きければ大きいほど相手へのダメージも大きくなる。
全速力で走って壁に頭をぶつけたらどうなるだろう?
打ち所が悪ければ即死だろう。

それほど恐ろしい技を身につけて一体何になるのか?
今まで何度も思ったことがある。

しかしその使わない技を使えるようになるための鍛錬は非常に奥が深く、
普通のトレーニングでは決して身につけない、筋力や不思議な力を身につけることができる。
そしてそれは健康や治療に役立てることができる。

それに、アメリカでは護身のために銃を所持することが許されているが
日本では猟銃以外は所持することは許されていない。
仮に銃が持てなくともナイフはいくらでも手に入る。

そんなものを突き付けられたり、
銃口を向けられたらどうすればいいだろう?
警察を呼んでも間に合わないし、逃げることもできなかったら?

そんな場面に出くわす確率は極めて低いだろうが、
私は今まで危険な目に遭ったことが何度もある。

ある時は半狂乱の男にいきなりビール瓶で殴られその場で気絶。
救急車で運ばれ何針か縫うことに。

他にも暴力団に絡まれたり、
複数の若い男たちに囲まれ袋叩きにされたり。
酔っ払いに絡まれ喧嘩を売られたり・・

最近では夜の繁華街に出ることはほとんどないのでそのような目に遭うこともなくなったが、
少なからずともそういう可能性はゼロではないということ。

刃物を持って刺されそうになったら?
無差別殺人のように、その場でその殺人犯を抑えなければ、
罪もない人たちが次々に殺されることだって考えられる。

だから、
使えない技(使っていはいけない技)を使えるようにしておく必要はあると思う。
警察が拳銃を携帯するように、
一般人も自分で自分の身を守る手段が必要だということ。

そして一生その技を使うことがないことを祈るばかり。

2018年12月14日金曜日

脚を上げるのではなく下ろす?

踵脚(太極拳の蹴り動作)の時、
上げている方の脚が実なのか虚なのか考えてことがあるだろうか?

踵脚の時、上げている方の脚が虚であり、
片足で支えている方の脚が実である。

虚実でいうならば、意識しなければならないのはどちらかといえば実の方。
もっと正確に言えば、実を意識してから虚に行く。
しかし脚を上げる時9割がた以上の人が虚の方に意識が向いてしまう。

※実とは意識が向いている状態や重い状態のことであり、虚とは空とか無の状態で、重さでいえば軽い状態。

エレベーターが上がる時は実は下がっている。
一番上に滑車がついていて、エレベーターが上がる時、錘が下に降りているのである。

エスカレーターも同じ。
昇りのエスカレーターは降りている。
見えていないだけで、昇っているステップの下で降りている。

ロケットは上に上がるが、上に引っ張っているのではない。
ロケットエンジンを下方向に噴射して、それによってロケットが上がる。
つまりロケットは下方向へ力が働くことによって宇宙まで飛び立つことができるのである。

観覧車は上からの景色を眺めたいから乗るものだが、
観覧車は昇ると同時に降りている。

当り前といえば当たり前のことなんだが、
なぜか踵脚になると、ほとんどの人が上げる脚の方ばかりに気がいってしまう。

例えばバスケットボールを床に打ちつけると跳ねかえって上がる。
シュートする時ジャンプするが、ジャンプするためには下方向へ力を加えねば上がることはできない。

何が言いたいか?

つまり踵脚などで脚を上げるということは、
脚を下ろすということ。

そう、実の脚(片足で支えている方の脚)に。

脚を上げようとするのは間違い。
脚を上げるのではなく実の脚に全体重を落とす。
それによる気の跳ね返りで脚が上がる。

上げようと思ったらダメってこと。

数々の例を出したが、上がるためには下への力(沈む力)が絶対必要。

これからは上げる方の脚ではなく、
十分脱力して支えている側の足裏に意識を向けてみよう。
そうすると全身の重さが足裏に落ち、それが地面から跳ね返ってくる。
その結果脚が上がる。

上げるのではなく
ゆるめて沈む。

今日から意識して套路を練ってみよう。

2018年12月7日金曜日

技の名称どう読む?

当会では技の名称を日本語読みしている。
理由はわかりやすいから。

例えば楊式太極拳に攬雀尾という技があるが
それを「らんじゃくび」と呼んでいる。
中国語では「ランチュエウェイ」
英語の場合は「Grasp The Bird's Tail」
発音をカタカナにすると「グラスプ・ザ・バーズ・テール」となる。

外国語をそれなりにかじったことのある方なら解ると思うが
中国に行ってまんま「ランチュエウェイ」と言って通じるだろうか?

日本語なら棒読みしても通じるが、
中国語も英語もイントネーションで聞き取っている部分が多いので通じない場合が多い。

例えば踵脚(とうきゃく)
これを中国語読みすると「ドンジャオ」になる。
しかし私が台湾の先生から習った発音は「トゥンチャオ」だった。
発音する時はトゥにアクセントを持ってくる。

そもそも外国語をカタカナにすること自体無理があるわけで、
先程の攬雀尾を英語読みで「グラスプ・ザ・バーズ・テール」と発音してもまず通じないと思う。
発音的には「ぐぁーっぷだぶぉーずてお」と言えば通じそうだ。

私は貿易の仕事をしていた関係で、
日本でまだ売られていないアメリカ製品に名称をつけていた。
日本にないものは辞書にもないわけで
それをわかりやすくするためカタカナ読みにする必要があったからだ。

例えば、Rhodiolaというハーブ(植物)があるが、当時は呼び方がなかった。
だからロディオラとカタカナ読みにした。
今ではネットでロディオラとネット検索すれば14万近くヒットするが、当時はひとつも出てこなかった。
それもそのはず、まだ日本にはなかったのだから。

いずれも、
今、日本で一般的に使われている和製英語(カタカナ英語)は最初に誰かが発音しやすく直したものであって、決して英語圏で通じるように直したものではない。
しかもその意味がわかるまで、その言葉の意味すらわからない。

これと同じように先程の攬雀尾をランチュエウェイと棒読みするより
らんじゃくびと呼んだ方が、漢字がぱっと浮かぶし、
感覚的に鳥の尻尾ということがわかる。

意味としては鳥の尻尾を掴んで撫でるような動き、
或いは鳥を抱いて背中から尻尾を撫でるような動き、
どちらにしても、日本語読みの方が直感的に解りやすい。

このように太極拳を始めとする中国武術の名称はとてもユニークだと思う。
日本では動作そのものの意味を名称とする場合が多いが、中国では比喩が使われる。

実は私は比喩が大好き。
感覚的に意味がわかりやすいし、なにより楽しい。

だから、当会ではあえて中国語読みをせず日本語読みにしている。
私が勝手にそうしているわけではなく
当流派ではそのように伝わっているからである。

2018年12月6日木曜日

よろめく脱力

套路を練る時、特に意識していることは「脱力」

毎回どこまで脱力できるか?
自己ベスト記録を作ろうと試みている。

そして昨日、楊式太極拳の全套路(型)を練っている時に最高記録が出た。

それは決して良いものではなく
脱力し過ぎで大きくグラッとよろめいてしまうというものだった。
しかもなんでもないところで。

しかし、よろめいたからと言って、武術的にダメとは全く思わない。
そのよろめきを力に変えることが出来ればそれはそれでアリだと。

いずれもここまで脱力できるようになったことは自分の中では嬉しい。
あとは、よろけることなく脱力するにはどうすれば良いかというのが今後のテーマになりそう。

いわゆる沈むことだけを意識するのではなく、
上へ引っ張られる力も意識する必要があるということ。

「上虚下実」という状態。
沈む感覚と浮遊する感覚。
この状態になると、いきなり体の中にパワー(光)がドワッと入ってくる。

自分の身体が光体になり、
その光が体内で膨張し体外へと溢れ出しそうになり、
何かと一体化したような感覚。

もうその時は自分の中に意識はなく、
ただただ、自分の身体が無意識に勝手に動いてくれる。

そのような境地に至れるよう、
更に鍛錬を積もう。

2018年12月1日土曜日

始めは処女の如く後は脱兎の如し

読み方は、
はじめはしょじょのごとくのちはだっとのごとし

この意味は、
始めは弱々しく見せかけて敵を油断させ、あとで一気に素早く攻撃すること。

楊式太極拳の戦術を一言で言うとするなら、この言葉がぴったり当てはまる。

私が始めて師の楊式太極拳を見た時は、
まるで舞っているようでとても闘っているようには見えなかった。
「これで本当に戦えるのか??」
そこに強い興味を抱いた。

ある時、師が突いてこい言うので
私は師の顔面目掛け拳を突き出した。
ところが突いたはず場所に師はすでにおらず、
気がつけば私の体は宙を舞い、床に崩れ落ちた。

まさに「処女の如く脱兎の如し」だった。

そして次に思ったことは、
師には敵わないということ。
こんな不思議な技を使われてしまったら手の出しようがない。
なぜなら打っても打っても空を打つことになり、一瞬で崩されてしまうからだ。

もし仮に誰かが私の突きを手で受け次に反撃してきたのなら、
私はまた同じようにその突きを受け反撃しただろう。
いわゆる反撃の繰り返し。

しかし楊式太極拳では突いた瞬間に崩されるから、反撃の余地がない。
一瞬で戦意喪失。
とても平和な武術だと思った。

私は男だから処女の気持ちは解らないが、
元々、体つきが華奢で弱弱しく見えるらしく、それ故によく喧嘩を売られる。
相手にしてみれば「コイツなら勝てそうだ」と思うんだろう。
(最近はほとんどないが)

しかし喧嘩はしたくない。

私が多少怪我する程度なら構わないが、相手に傷を負わせるのは避けたい。
相手がどんな人間であろうと人を傷つけたり怪我させたりするのは本当に辛い。
今でもそういう人たちのことを想うと心が痛む。
(仮に本人が忘れていても)

いずれも楊式太極拳は平和求める武術であることがわかる。
勝てば恨みを買うだけだが、
打った相手が転んでしまう程度であればそうはならないし、
その相手に「是非弟子にしてください!」なんて言われれば
映画のワンシーンみたいでカッコいい。

あくまでも妄想だが(笑)

2018年11月30日金曜日

散手から始める

当会ではまず最初に気功を行い、その後、伝統套路を練り、
次に推手、散手という順番で稽古を行っている。

なぜこの順で行うかは、単純に私がそう教えられたからであり
この順はやはり理にかなっていると思う。

では、太極拳が作られた時もこのような順番で作られたのだろうか?

そもそも太極拳は自分の身を守るための護身武術であり、
健康体操として生まれたものではない。

自分の身を守るためにはまず健康でなくてはならない。
氣を練り体を鍛える。
それによって強さが得られる武術となる。

敵が攻めてきた時にどうやって身を守るか?
まずそこから考える。
二人で手を合わせながら、いろいろやってみる。
いわゆる散手。
力に対し力で対抗しようとするなら筋力を鍛えねばならないが、
女性や老人には限界がある。
だから力を使わない武術が必要になる。

では力を使わないためにどのような練習法が必要か?
そこで編み出されたのが推手という方法。
手を合わせなければ決して力の加減を知ることはできない。
力を使わないでどのようにして相手の力を制することができるか?
ここで柔らかさが必要になってくる。
「柔よく剛を制す」ということ。

柔らかい力が大きな力を操ることが出来ることはわかった。
では、その技や柔らかい力をどのようにして練り上げることができるか?
ここで套路(型)を組むことが考えられる。
套路の良いところは一人で練習できるということ。

しかし、それは柔らかい力を使えるようにするための鍛錬法であることを忘れてはいけない。
一人で套路ばかり練っていても本当の柔らかさを得ることはできない。

だから、套路と推手と散手をバランスよくやることが大事だと私はいつも言う。

太極拳の健康効果は世界中の医学界でもかなり知られるようになってきた。
頭痛、肩こり、腰痛等に留まることなく
癌やパーキソン病、認知症、線維筋痛症などの難病を克服した例は多い。

その太極拳が他の健康法と大きく異なる点は、
二人で行う鍛錬法があるということ。

無駄な力が入っているかどうかを知るためには推手をやるのが一番手っ取り早い。
だから推手をしっかり行えば太極拳の上達は速い。

無駄な力が抜けると
ゆるみが生まれ、
それにより
邪気を洗い流し、
元気の源である氣を多く取り込むことができる。

これこそが絶大な健康効果を生み出す太極拳だと私は信じる。

自分の太極拳に無駄な力が入っていないかどうか?

それを確認するためにも太極拳の一面だけを行うのではなく
総合的に行うことを強くすすめる。

2018年11月27日火曜日

体が教えてくれたこと

先日、十数年ぶりに体調を崩してしまった。
楽しみにしていた武者修行も残念ながら延期。

気功と太極拳を始めて、今まで一度も体調を崩さなかったわけではない。

喉を傷めたり
頭痛がしたり
寒気がしたり

そんな症状が起きたら、
必ず無理をせずにすぐに栄養をとり、しっかり体を休めることにしている。
そうすれば一晩で回復する。

人間は毎日ウイルスと闘っている。

前にも話したかもしれないが、
もしタイムマシンが発明されたとして未来に行ったら、すぐに死んでしまうと思う。
それは、今の自分はこれから次々と生まれる新ウイルスに対する抗体を持っていないから。
もし未来に行けるとしたら、宇宙に行くのと同じように宇宙服を着なければいけないだろう。

いわゆる「今」元気でいられるのは、
常にさらされているウイルスとの闘いに勝っているからであり
それこそが人間の生命力だと思っている。

なぜ私は体調を崩してしまったんだろう?
その後何度も考えた。
皆の健康を願って気功と太極拳を行っているのに私が倒れてしまったら意味がない。

その答えは、自分自身の気功と太極拳が出来ていなかったから。

毎日指導に追われ、
起きている間はずっと会の運営のための仕事を行い、
事務仕事だけではなく、
人と接する仕事だけに、良いこともあればそうでないことも頻繁に起きる。

そういう時私はその場をやり過ごすということを好まない。
無論、自分とは関係ないことはスルーするが、
そうでないことは正面から解決しようと努力する。
そういう性格らしい。

だから問題を問題としてそのまま放置することはしたくない。
今解決できるのならすぐに行動し、
すぐに解決できないことは長期的な計画を立てて一つ一つ解決していく。
そういうことを頭で考えるのではなくすべてノートにつけている。
ノートをつける理由は、常に頭をすっきりさせておきたいから。

いわゆる、人のため・自分のため・メンテナンスノートだ。

しかし問題は常にひとつではない。
重なることもしばしば。

そうなると私は自分のための鍛錬ができなくなる。
いわゆる完全な仕事人間になってしまい、修行者ではなくなってしまう。
そんな日々が重なり体調を崩してしまった。

今回のことで学んだことは、
仕事に懸命になることは大事だが、
「自分の時間をつくる」ということは絶対必要だということ。

それから私は毎日自分の時間をつくるようにした。
調子がいい。

結局、
教える太極拳と学ぶ太極拳は違う。
教えることは自分のための健康法にはなっていないということ。

気功を行っている時間は全てを忘れることが出来
自分としっかり向き合うことができる。
自分の内面と対話することができる。
邪気(ストレスや疲労)が溜まっていればそれらをしっかり払い、
体の中にエネルギーをしっかり取り込む。

これからはどんなに忙しくとも
自分の時間を作ると決めた。

2018年11月23日金曜日

套路を減らそう

かつて何千円、何万円、いや何十万もしたものが
今では百均やコンビニで安価に買える時代になった。
電池や電球、腕時計、電卓・・

電池も高級品で、当時は単三電池2個買っただけでも裕福な気分になったものだ。
アルカリ電池などは高価で手が出なかった。
腕時計はデジタル時計なら当時1万円以上は当り前。
今ではそのデジタル時計が100円で買える。
電卓も同じ。
電卓のテレビCMを見てはいつか欲しいなと夢見ていた。

それどころかティッシュペーパーですら貴重品だった。
ティッシュ1枚使うのにも罪悪感を感じたものだ。
鼻をかむのも躊躇した程なのに、
こぼしたものをふき取るのにティッシュを使う時など親の目を盗んで使ったものだ。

とにかく今は何でも安く手に入る時代。
お陰で家の中は物だらけ。
買っても幸福感すら感じず、どこに何があるかも、何を買ったかすらもどんどん忘れていく。

これほど物が溢れてくると、今度は減らしたくなってくる。
人間ってとことんわがままだ。
物に囲まれるのが幸せだと思っていたのに、シンプルな生活を求めることに幸せを求める時代になってきている。


太極拳も同じ。
最初はたくさん套路を覚えたくなる。
次々とレパートリーを増やしたくなる。
しかし増えてくると今度はストレスを感じるようになる。
増えすぎて練習しきれなくなるからだ。
「練習しないと忘れてしまうのではないか?」という強迫観念にかられ、
罪悪感を感じるようになる。

ストレスを解消したくて始めた太極拳なのにこれでは本末転倒。

私は太極拳だけでも今までに簡単なものも含め8つの套路を覚えた。
楊式、陳式、孫式、呉式、双辺、24式、42式、入門などなど。
その内6つは断捨離した。
理由はかんたん。
たくさん覚えるよりひとつを極めたかったから。

私が師を選ぶ基準はなんでもできるマルチプレーヤーの先生より、
ひとつのことに卓越している先生に付きたいと思う。
そして私もそのような先生になりたいと思う。

形意拳にしても、たくさんの套路を覚えたが、
今は五行拳と十二形拳しか練習してない。

その五行拳にしても漫然とやるのではなく、1回の動作にじっくり時間をかける。
私が家で行う形意拳は音もせずまるで太極拳のようにゆっくり。

速い動きもやれば出来るのだが、あえてしない。
呼吸が乱れるような練習をしても身に付くのは功夫ではなく多少の筋肉だけ。

速い練習をしなくては速く動けないのでは?と思うかもしれないけど
そんなことはない。
普段ゆっくりしか動かない私も絶対乗り遅れてはいけない電車に乗り遅れそうになると、
走っている若い学生たちをゆうに追い抜くほどのスピードで走れるし、
階段も2段跳びで駆け上がることができる。
そんな私は50過ぎのいわゆる中年男。

人間イザとなれば普段以上の力を出せるということ。
だから練習はゆっくりでいいし、ゆっくりの方が早く確実に身につく。

八卦掌も8つの基本以外はやるつもりはない。
8つあれば十分。
あとは自然と応用技が使えるようになってくる。
(まだ研究段階だが・・)

そんなわけで、ごちゃごちゃになっていた私の武術レパートリーも、かなりスッキリした。

今では「やろう」とするより「やらない」と思うようにしている。

練習をしないのではない。
すべきことを決めて、それに集中するということ。
「あれもこれもやらないと」などと考えていては集中どころかストレスが増えるだけ。

例えば今日、私は閃電手と五行拳と十二形拳だけをかるく行った。
あと走圏だけをやろうと思ってる。

八極拳の名手李書文の有名な言葉に
「千招有るを怖れず、一招熟するを怖れよ」というのがあるが、
多くの技を覚えるより一つを極めよという意味になる。
確かに李書文は圧倒的な強さだった。

「半歩崩拳あまねく天下を打つ」と言われた、
崩拳の達人、郭雲深や尚雲祥は崩拳だけで敵全員を倒したと言われるが
その姿勢や生き様にも憧れる。

さて、ストレスを感じる套路コレクターになるか?
それとも一つを極める達人を目指すか?



2018年11月6日火曜日

スローインスローアウト

なんとなく聞いたことのあるような言葉だと思うが、
それは多分、スローインファストアウトではないだろうか?

クルマや二輪でカーブに入る時は十分速度を落として、
カーブから出る時は再度速度を戻すという意味だが、
誰もが知ってる通りカーブでは遠心力が働くから、十分速度を落とさないと曲がり切れず車道から飛び出してしまい危険だということ。

これがトラックやバスなら横転しかねないし、列車でも同様。
台湾での脱線事故にしても、カーブ前で十分速度を落とさなかったため起きた事故であり、乗客をたくさん乗せていると今回のように大惨事になってしまう。

さて、ではスローインスローアウトとは?

これは太極拳を套路を練る時、定式に入る時はスローで入って、スローで出なさいという意味。
これが出来ない人があまりにも多いので、わかりやすくするためにこのように呼んでるが、
略して「スロースロー」と呼んでいる。

そもそも定式とは?

定式とは大方、技が決まった瞬間の形をこう呼んでるが、
太極拳愛好家の方々の中では定式で技を決めると思っている方が意外と多いよう。

ここで考えてみたい。
定式で技を決めるならそれは、空手や少林拳などの剛拳となんらかわらない。
太極拳では受けたり打ったりしない。
特に楊式太極拳では。

受けずにいなし、
打たずに発する。

太極拳の技は一般的に技と思われている定式と定式の間にあり、
定式とは技をかけ終わった後の形となる。

ちょっとややこしい表現になってしまったが、
いわゆる太極拳の技は常に繋がっているということ。

定式前はゆっくり、定式後もゆっくりというのは美しく見せるためではない。
まるでゆったりと舞っているかのような太極拳の動きは精巧な技の連続であり
無駄な動きは何一つない。

技が掛かった瞬間から相手は戦闘不能状態へと導かれる。

定式までゆっくり動くのは、特に楊式太極拳では前述した通り打たない。
ゆっくり動く中で氣を溜め氣を流す。
ゆっくりが目的ではなく、気を溜めたり流したりする内面の動きに時間がかかるから結果ゆっくりになるだけ。

では、定式後もゆっくり動くのはなぜか?

ひとつは、早い動きは相手に動きを察知されやすく不利な状態になりやすいということと、
もうひとつは、技によっては定式が定式ではないからだ。

定式のようで、実は過渡式で、更に技が続く。

だから、定式で技が決まったと思わない方が良い。

検定向け太極拳である簡化太極拳に関しては定式でしっかり見せることを指導される。
それは動作と形を正しく覚えているかどうかを見るためであり、武術とは無関係。

話は反れるが、
簡化太極拳を武術化しようという動きがあるが、簡化太極拳とは本来、中国政府が武術の要素を省き健康のために作った太極拳であるのに、それに武術の要素を付加するのはどうだろう?

「簡化太極拳だって闘えるんだ!」と言っても、それを目的としている人が簡化太極拳を始めるとはとても思えない。

まあ、太極拳をどのように楽しむかは自由なのだが・・

話を戻す。

定式は技が決まった瞬間だけではなく、
技の始まりであり、技の途中でもあるということ。

だから、
スローインスローアウト。
もっといえば途切れることなく連綿と動かねばならない。

これを「相連不断」という。

こんなふうに強さを求めた結果がゆっくりと連綿とした動きになり、
その結果美しい演武となる。

強さを目指すと美しくなるということ。

2018年10月29日月曜日

自然に逆らわない力 『ええかっこすると勁力落ちる?!』

最近、普段の鍛錬に表演用の練習を加えて練習をしているが、
前からも思っていたが、やはり確実に勁力が落ちる。

表演は見た目を重視する。
それは見ている人を感動させるためだが、
それはそれで素晴らしいこと。

しかし、見た目を重視すると必ず装飾的な動作や
派手な演武をしようとするためにアウターマッスルと使って演武することになる。

アウターマッスルを使うことが悪いことではない。
驚くようなアクション、美しい演武は見ていて楽しい。

しかし勁力とは別物。

ではここで考えてみよう。
どうして勁力が落ちるのか?

そもそも勁力とはとことんまで脱力してはじめて出せる力。
いわゆる脱力することで地球と一体化するということ。

人間完全に力を抜くと、起きていることすら出来なくなる。
寝ている状態とは、いわば生きながらして死んでいる状態(?)

氣の力を最大限にしようと思ったら、
生死の境に入ることでその力を出せると私は考えている。

「人間死ぬ気になればなんでもできる」と言うではないか。

いずれも勁力が最大限に発揮できるのは極限まで脱力している時。
その状態は表演武術とは全く別の世界だし、
意識も使う力も違う。

演武力を高めようと勁力を意識される方がおられるようだが、
私の経験上、勁力を意識すると演武力が落ちる。

実際に実験してみた。
人生が掛かっている大会だというのに、
引退試合でもある最後の大会は勁力を意識した演武をした。
実験というか、最後ぐらい「自分らしく」やりたかったのだ。
そして過去最低の点数がつけられた。

悔しかったが、想定もしていた。
なぜなら、全く派手さがないのだから、審判にしてみれば良い点数のつけようがない。

タイトルを「ええかっこすると勁力が落ちる」としたが、
派手に見せよう、美しく見せようとすると、自ずと勁力とは関係のない筋肉を使い、
柔らかく見えても、自分の中では硬い動きになる。

もしこんな力で推手をし、打たれたら
恐らく木の葉の如く吹っ飛ばされてしまうだろう。

このことは最近、表演を意識して八卦掌の練習をし始めたことで改めて確信した。
かっこつけようとすると脱力でなくなる。
よって、私が目指す八卦掌ではなくなる。

だから、見る人には申し訳ないが、華麗な演武は捨てることにした。
やってやれないことはないのだが、自分を偽りたくない。

素直に生きたいと思って武術をはじめたのに、
嘘をつきたくない。

誰が認めてくれなくとも、私は脱力した演武を自分自身でとても気に入っている。

伝統武術=無骨 と思われがちだが、
私は全くそんなこと思わないし、
それよりも、
川のせせらぎや風になびく木の枝葉や草花、舞い落ちる雨や雪。

そんな自然界にある動きを目指したい。


2018年10月26日金曜日

ピントをぼかす

太極拳がなかなか覚えられず伸び悩んでる人は、
一点にピントを合わせ過ぎているためだと思う。

私が師の動きを見て覚えようとする時、
どこかにピントを合わせることはしない。

なぜならピントを合わすと他の部分がぼけてしまい
結果見なかったことになってしまう。

最近、加齢によって老眼が進み、物を見る力が弱ってきた。
本を読む時や標識などを見る時は苦労するが、いいこともいっぱいある。
ぼけて見えるからこそ発見できることもたくさんある。

最近のデジタルテクノロジーは物凄いスピードで進化しているが
例えば動画の画質がどんどんよくなってきている。
本物よりリアルなのでは?と思うほど。

しかし私はあまり画質に拘らない。
今の画質でも十分だと思うし、
あまりにもリアルに見えてしまうと、見たくないものまで見えてきそうで怖い。

話が脱線しないうちに戻そうと思う。

太極拳を最初に覚える時は、まずはざっくりと覚える。
木彫りと同じで、まずはざっくり削って、その後じっくり彫刻刀で彫って行く。
細かなことはあとでやればいい。

だから、見て覚えようとする時は、
あまり先生の近くに寄らず、少し離れてぼんやりと見る。
こうして見ると、姿勢や全体的な動きが際立って見えてくる。
最初にしっかり学ばないといけない部分だ。

最初はどうしても手ばかり見てしまう。
そうすると手だけしか覚えられず、姿勢や歩型がめちゃくちゃになる。
これはよくない。

手品師はこれを逆手にとって、相手の目を手に惹きつけ、タネが見えないようにする。

太極拳の場合は、そのタネ(基本原理)である姿勢と動きが大事。
これを見るにはピントをぼかすこと。

ぼんやりみて、とにかく真似てみる。
これが一番の上達法だと思う。

2018年10月25日木曜日

5000回崩されろ

推手をやっている時、
何度説明しても、頑張ってしまう人がいる。

推手では決して頑張ってはいけない。

頑張るというのは「頑な」に「張る」と書く。
張るのではなく緩む。
それも「頑な」にではなく「柔軟に」

推手の感覚を掴むのが早い人は性格が素直。
私が言った通りにやろうとするし、
私がやってる通りに真似ようとする。

あえてこれ以上の上達方法はないと言い切りたい。

推手で上達したかったらどれだけ崩されたか?
崩した数を自慢するのではなく、
崩された数を自慢する。

なぜなら「推手上手は崩され上手」だから。

私はざっと計算しても今まで5000回以上は崩されたと思う。
そしてまだまだ記録更新して行こうと思っている。

崩されるということは、相手を受け入れているということ。
この受け入れる心があれば、おのずといなす力が見えてくる。

逆に相手の突きを拒んで腕ずくで払い除けてもそれは推手ではないし、
太極拳でもない。
それでうまく行ったとしても、それは単なる力自慢に過ぎない。
その力、
自分より力ある人に敵うだろうか?

もう、ここで答えが出てくる。

力では力あるものには絶対勝てないということ。
それなら、力を使わない方法を探す方が懸命ではないだろうか?

柳の枝に雪がどれだけ積もっても折れることはない。
柳の枝はひょろひょろでごくごく細い。
なのに折れない。
それは雪の重さに対抗しようとしていないから。
その重さをそのまま受け入れ、重力に任せそのまま受け流している。

私にとっての負けは、推手で崩されることではない。
力に頼ってしまうことが自分の中では負けなんだ。

だから1万回崩されても私にとっての負け数にはならない。
そうではなく
1万回、相手の力を知ることが出来、
そしてこの方法ではいなせないという発見をしたということになる。

少なくとも私にとっての修行は
学ぶことであり勝つことではない。

2018年10月16日火曜日

横への重力

「押さないでください」
推手をしている時にある会員さんからこう言われた。

私は押してもなければ引いてもいない。
なにもしていない。

なにもしないことは地球と同調している状態。

では逆に押しているように感じさせないためには何をしなければいけないだろう?

それは力を使うこと。
力を使って重力に逆らわなければならない。

それはいわば朝目が覚めて体を起き上がらせるような感じ。

私が一日で一番嫌いな瞬間。
寝ている状態はいわば最もリラックスしている状態。
その体を重力に逆らって起こさなければならない。

人間の体の60%以上は水分。
いわば水の入った皮袋のようなもの。
その体を起こすためには筋肉を使わなければならない。
そうしないと体を起こしたり立たせたりすることはできない。

逆に力をどんどん抜いていくと、固体であった体が液体になる。
包み込まれた液体は下へと流れようとする。
その流れ落ちようとする力が足裏に到達すると、
今度は行き場を失い横へ流れようとする。

ビニール袋に水を入れて床に置くと横へ横へと流れていこうとするのと同じ。

だから脱力した状態で手を合わせるとその力が相手に伝わる。
重力によって生み出される力である。

力を抜くというのはなかなか難しい。
何故なら生まれてこのかたずっと力を使って生きてきたのだから。

力を抜くことを最も邪魔しているのは心。
心がゆるまなければ体は決してゆるむことはない。
なぜなら体は心が支配しているのだから。

力を抜こう抜こうと躍起になっては余計に体を硬くしてしまう。

まず頭を空っぽにする。
意識を腹に落とす。
重さを足裏に沈める。

私がいつも立禅の時に説明することだが、
頭を空っぽにすることは、それに慣れていない人にとってはもしかしたら勇気のいることかもしれない。
特に優れた頭脳を持っている人ほどそう思うのではないかと。
考えることで今までうまくやってきたのであれば、尚のことだろう。

しかしこれしか方法はない。

頭を空っぽにする。
思考回路の電源を切る。

すると心がゆるみ体がゆるむ。
とても気持ちがいい。

2018年10月10日水曜日

肩の力を抜けば丹田を感じる

なかなか力が抜けないという人は結構多い。
力を出すことは簡単だが、力を抜くことはなかなか難しい。

しかし寝ている時は自然と力が抜けている。
そうしないと寝ている間に損傷した細胞を修復することができない。
人は起きている間に老化し、寝ている間に若返っている。

しかし気功と太極拳に関しては違う。
その寝ている時の脱力を起きている状態で行う。
いわゆる"起きているのに寝ている"状態。

このように脱力することで体の中に"スキマ"ができる。
氣が通るスキマだ。

中国では古くから人間の体は血と水と氣で出来ていると言われてきた。
血は骨であり肉であり、水はいわゆる体液、
そして氣はエネルギーであるとされている。

人間の体は骨と肉で出来ている。
しかし人間は他の動物にはみられない不可能を可能にする特殊な能力を持っている。
その力を生み出すのが氣である。

折角人間に生まれてきたのだから、この能力を引き出したい。
そうしなければ勿体ない。

そのためにまず目指すこと。
それが脱力。

「脱力出来るようになりました!」

それは嘘です。
脱力に意識はありません。

本当に脱力できたのなら脱力できたという感覚すらないでしょう。
脱力とは目指そうとするための言葉であり、
そうなっている状態のことではないと私は解釈する。

仮に脱力できたと感じたなら、もう一度脱力しようと心掛ける。
その繰り返し。
私が本当に脱力できたのは16年間太極拳やってきてたった一度だけ。

その時の感覚は脱力しているという意識すらない。
何度も書いてきたが、
体中が氣で満ち溢れ、膨らみ、そして自分の身体が光体になる。
この時に脱力という言葉は出てこない。

まず肩の力を抜いてみる。
とろ~と肩が溶けるように。

すると自然と意識は丹田に向かう。

意識が丹田に沈むと、
体がふわ~っと軽くなる感覚と、
とろ~っと沈む感覚の両方が得られる。

非常に気持ちいい。

この感覚は他では得られないし、しかも持続性がある。
マッサージチェアに座っている時は気持ちよくとも
そこから立ってしまうと気持ち良さが消えてしまう。
それはあくまでも外から与えらえた力だから。

自分で生み出した気持ち良さは簡単には消えない。

とにかく肩の力を抜こう。
そして丹田を感じよう。

2018年10月9日火曜日

大きく練って無心で動く

今、伝統楊式太極拳をじっくり練った。
体全身からぶわっと汗が噴き出る。

普段生活している時よりも
ずっとゆっくり動いているのに体が燃え上がるように熱くなる。

体をゆっくり大きく動かすことによって
心を揺さぶられる。
心を揺さぶられることによって意識が丹田に沈む。

その意識が氣を生み出し体中をめぐり出す。
そこから力(勁)が生まれる。

今はほとんどないが、昔のバイクはキックスターターでエンジンをかけた。
昔の飛行機は手動でプロペラを回しエンジンをかけた。
それと同じように、丹田というエンジンをかけるために、まず大きく動く。

すると丹田に火が入り、徐々に火力が増してくる。
その火力は体全体を温め、
体中に粘りのある氣が絡みつき
まるで氣の海の中をゆったりと泳いでいるような感覚になる。

この時決して"カタチ"を意識してはならない。
(正しい姿勢や動作をしっかり修練した後の話だが)
意識は無意識に丹田に向き、丹田が体を動かし始める。

先程言ったように、
まずエンジンを手動で回し、そしてエンジンをかける。
そしてそのエンジンがタイヤを回しプロペラを回す。

燃え上がるような感覚と共に体が浄化されていくのがわかる。
邪気が燃えていく。
不安やストレスが消えていく。
活力が湧いてくる。

この時、体の治癒力はマックス状態になり、
体を自動修復してくれる。

人間というのは本当に便利な生き物だ。
バイクや車をぶつけても自動修復はしてくれない。

こんなふうにして、太極拳ならではの体の動かし方を覚える。

そして実際に技をかける時は、
風のようにいなし
風のように打つ。

ただただ無心で動く。

相手を意識するのではなく、意識するのは結果であり、
これから迎え撃とうとする敵ではない。

ややこしい表現になってしまったが、
技をかける前に技というのは決まっている。
その結果(未来)に戻る感じだろうか。

さらにややこしくなってしまった(汗)

しかし、鍛錬を積んでいくと、こんな感覚が自然と備わってくる。
これが太極拳の楽しさだろうか。

太極拳は心も体も同時に鍛えてくれる。

2018年9月27日木曜日

ぶっ壊す!

昨夜の武術班稽古は、弟子達もそろそろ慣れてきたと思ったので、
気功はほとんど黙って、ほぼ無の状態で行った。

これが実に良かった。
この時点で疲れていた身体がすっと軽くなった。

その後、伝統楊式太極拳の新架式(仮称)をゆっくりと時間をかけて行った。

特に意識したこと。

套路の正しい形や太極十要である姿勢や動作、
これらをすべてぶっ壊し、呼吸と気の流れだけを意識。

次第に体の中から燃え上がるようなエネルギーが噴き出し、
同時にじわ~っとほとばしる汗も噴き出した。

9月に入ってからもずっと猛暑だった今年の夏の疲れがとれず、
ずっと重い体を引きずっていたが、
この套路でその疲れが一気に吹っ飛んだ。

どういうしくみでそうなったかはわからないが、
気血の巡りがよくなり疲労物質が素早く回収され、
更には免疫力が上がり、
疲れた筋肉に潜んでいたウイルスも一気に全滅したのだろう。

目には見えない世界だがそういう感覚があった。

実は套路を始める前、弟子達にひとこと言った。
「今日はあまり調子が優れないからいつも通りにできないかもしれない」と。

多分これを言ったことも良かったのだと思う。
手本となるような良い演武をする必要がなくなり、
内面だけに没頭することができたから。

基本は大事。
絶対に大事。
しかし基本ばかりでは進化はしない。

基本がしっかり出来るようになったら、
それを破壊する。

破壊しようとしてもしっかり基本をやってきたから、結果的には基本が揺らぐことはない。
しかしその破壊しようという意識が、猛烈なパワーを生み出す。

ますます太極拳が面白くなってきた。

無題

ある生徒に「覚えるのが早いね」と言ったところ
本人は「言われるのが嫌なんで」と答えた。
とても正直だ。

結果オーライで考えるなら、
そのことが早く覚える意欲につながっているのだから決して悪くないと思う。
実際、私は楊式太極拳を覚えるのに十年かかったのに、一年も掛からず覚えたのだから。

しかし、私の場合はちょっと違う。

私は子供の頃から覚えることが苦手。
あまりの記憶力の悪さに自分が憎いと感じたこともあるほど。
だから記憶力を要求される国語と社会は大の苦手で、この教科で5段階の2以上をとったことは一度もない。
クラスメートは「こんなん丸暗記すればいいだけ」と言うが、その丸暗記が苦手なんだ。
覚えられたら苦労はない。

そもそも丸暗記ってなんなんだろう?
それってただ暗記するだけで、それが一体何の役にたつのだろう?

それで言えば九九は確かに丸暗記するだけでも役に立つ場面は多い。
といっても、私はその九九ですら6の段までしか覚えられず、クラスメートは全員覚えたのに私だけ覚えられず結局最後は先生に見放された。

ではこれを太極拳に当てはめてみよう。
太極拳の套路(型)を仮に丸暗記したとする。
しかしそれが何になるだろう?

それはあくまでも太極拳の型を覚えただけであって、その使い方は何も覚えていない。

なぜゆっくり動くか?
なぜ途切れないように動くのか?
なぜ足を静かに運ぶのか?

その意味すらわからない。

これで本当に太極拳を覚えたことになるのだろうか?

私は子供の頃からその意味が分からなければ全く覚える気にならない性格。
だから覚えようとさせられると必ずその意味を知りたがる。
そして先生を困らせる。

その先生を困らせていた生徒が今では先生になっている。
しかし性格は今でも変わらない。
意味が解らないことを覚えようとは思わないし、
限りある人生、そんな無駄なことに時間を掛けたいとも思わない。

だからすべての意味を解き明かすことに今まで時間を費やしてきた。
そして多くの先生や先輩方から様々なことを学び、そして自分なりにも研究してきた。
だから新しい会の名称も「研究会」とした。


私が先生から太極拳を学ぶ時、早く覚えられるかどうかといえば、覚えは悪い方だと思う。
あまりの覚えの悪さにもしかしたら先生をイライラさせてしまっているのではないかとも思ってしまう。
しかしそんな自分に苛立っても仕方ない。

私は心の中でこうつぶやいてる。

「何度も同じことを言わせてしまい本当に申し訳ないです」
「それでも見捨てず教えて頂き感謝します」と。

実際口に出して言ったこともある。

そして
「なるべく早く覚えられるよう努力します」
と自分の中で誓う。

私は決して優等生タイプではない。
だから優等生にあるプライドも全くない。
持ちようがない。

その代わり感謝する気持ちは人一倍ある。
その気持ちが私の意欲を掻き立て
そして今に至るまで未熟ながらも自分をここまで押し上げてくれた。

学生時代、劣等生だった私は先生に見捨てられてきた。
しかし太極拳の先生は私を決して見捨てない。
辛抱強く何度でも同じことを教えてくださる。

幼い頃にこういう経験をしたからこそ、この有難みがわかるし感謝する気持ちも強くなるのだろうと思う。

***

教える立場になってわかったことだが、
辛抱強くなるのではなく、太極拳を長くやることによって心にゆとりができる。
イライラしなくなる。
「覚えられない・・」と焦っている生徒がいても、心の底から笑顔で何度でも教えることができる。
太極拳が単なる運動ではなく禅であることが本当によくわかる。

2018年9月22日土曜日

仙人を目指して

私は苦行により約20年前に悟りを得たが、
慢心してしまい世俗に戻ってしまった。
しかしそのプロセスや悟りで得られるものがどういうものか
今でもはっきり覚えている。

それは・・
全く恐怖や不安がない世界、
すべてを許すことでき、
世界中で起きていることすべてを理解できる。
そしてただただ幸福感だけに満ちた世界。
先に起こることすべて予知でき、
なにが起きても「知っていた」と。

そうなるまでは、毎日泣くほど辛い想いをしてきたし、
大きな交通事故で死にかけたこともある。(新聞にも取り上げられた)
いわば悟りを得るための代償であったということ。

5人を動かし、
50人を動かし、
500人を動かし、
そして20000人を動かすまでになった。



そして20年経過してこの本に出合えた。
あのマザーテレサも推奨したという本。

愛の力がどれほど強いかというのも経験した。
私は過去に婚約者がいたが彼女のためなら何でもできた。
彼女を助けるためなら危険から身を守ることはもちろん、
必要であれば海外にも飛んだし、
普通なら出来るはずのないことがどんどん出来てしまったということも経験した。

この本はこれらの精神状態がどれほどのパワーを出すことが出来るか科学的に証明したもの。
悟りが最高レベルであることはもちろん、愛の力も強い。

意外なのがプライド。
ある程度のプライドは必要だが、プライドだけでは決して大きな力は得られない。
復讐心や嫌悪のパワーレベルが低いのは誰でもわかることだろう。

今度は武術で悟りを得たいと思っている。
それは決して格闘家として強くなりたいのではなく、
自分の可能性をどこまで引き出せるかに挑戦したい。

因みに悟りを得るのは決して簡単ではないことはわかっている。
どんなに辛い出来事が起きても絶対挫折してはいけない。

その階段が仮に1000段だとしたらほとんどの人が2~3段で挫折してしまう。
そう言う人をごまんと見てきた。

人って意外と簡単に諦めるのだな。
だから悟りを得る者は少ないのだと思った。

人生最後の挑戦は武術で悟りを得ること。
そして仙人のようなパワーを得ること。

2018年9月21日金曜日

人間は1本足で歩いてる

人間は二足歩行しているが、実際歩いている時は1本足で歩いてる。
もし二本足で歩くとすればそれはうさぎ跳びになる。

つまり、人間は立って歩けるようになってからずっと1本足で立てるということ。
そのようなバランス機能が備わっている。

ところが太極拳で分脚(ぶんきゃく)や踵脚(とうきゃく)になるとぐらぐらしてしまう。
何故だろう?

その答えは・・

意識しているから
更に正確に言うならば意識し過ぎているから

ぐらぐらする人のほとんどが、足を上げよう上げようとしている。
その上げようとしている意識が軸感覚の邪魔をしているということになかなか気づけない。

では、なぜ教室までぐらつくことなく歩いてこれたか?
意識しながら一歩一歩踏み出して歩いてきただろうか?
多分そんな人はいないはず。

足を上げる度にぐらぐらするのは、意識するということのスパイラル(悪循環)から抜けられなくなっているケースがほとんど。

ここでひとつアドバイス。

上達するということは上達の妨げになることを切り捨てて行くことでもあるということ。

うまくいかない方法を何度繰り返しても、決してうまくいかない。
寧ろそのことを学習しなさいというメッセージ。

もしぐらつくことで悩んでいるのであれば、
今日からでも「変わろう」と考えて欲しい。

うまくいかない方法に固執するのではなく、
うまくいかない方法はバッサリ切り捨てる。
ゴミ箱に捨てる。

そしてその固執している時間をうまく行く方法を探すことにあてる。

いつも言うことだが、
上達するには素直になること。
素直こそ最強であり無敵であるということを知って欲しい。

もう一度思い起こして欲しい。
人間はいつも1本足で歩いている。
つまり1本足で歩くことのできることに長けている。

それにもうひとつ。
私が指導する際にいつも言う事だが、
足を上げようとしないこと。
上げるのではなく放つ。

分脚の時は爪先から、
踵脚の時は足裏から、
氣を発射する。

足を上げようと力を入れてはいけない。
バランスを失うばかりか氣の通りを阻害する。

実際に蹴ってみるとわかる。
力んで蹴ろうとするのと脱力して蹴るのとでは脱力して蹴る方が圧倒的にパワーがある。
脱力することで氣が流れるからだ。

「できない」
という気持ちをゴミ箱に捨てる。
そして、
「できる」と信じる。

これだけで、自分の太極拳がぐんと変わるはず。

2018年9月16日日曜日

覚えられないことを喜ぼう

太極拳をなかなか覚えられないことを落ち込む人がいる。
気持はわからないでもないが、
私は覚えられないことで落ち込んだことは今まで一度もない。

そもそもなぜ落ち込むんだろう?
それはきっと他人と比較しているからではないだろうか?

ならば、仮に伝統楊式太極拳の套路(型)を全て覚えたとする。
では、その型の一番最初に出て来る起勢という技の勁を使うことができるだろうか?

誰かにしっかり両手を握ってもらう。
その手を力を使わず解くことができるだろうか?
これが出来なければ起勢を習得したことにはならない。

ほとんどの人が力一杯握られると力を入れて手を解こうとするだろう。
しかしこれではうまくいかない。
そもそも手を解こうと思うこと自体失敗する。

なにも思わない。
手をスッと前に出すだけ。

自分流に言うならば解こうとする前に解く。
考えてから動くのではなく動いてからゆっくり考える。

私は過去に飛び込みの営業をしていたことがあるが、一日100件以上まわる。
そしてことごとく断られる。
断られるだけならまだいい。
怒鳴られたり罵声を浴びたりすることもある。
最初は落ち込んだ。
泣きたくなるほど落ち込んだ。

しかしその後落ち込む必要がないことがわかった。
理由はかんたん。
契約がとれるまでまわってないだけということに気付いたのだ。

仮に100件に断られて挫折するとする。
しかしもしかしたら101件目に契約がとれたかもしれない。
ほとんどの人があと一息というところで挫折する。
その理由は「あなたはそれでも成し遂げたいか?」ということを試されているから。

それが解ってからは、奇跡が起きた。
100件回ってなんと10件の契約を取ってしまったのだ。
飛び込み営業で10%の確率で契約がとれるなんて、恐らくないのではないだろうか?
さすがの社長もぶったまげていた。

私は落ち込むことをやめ、何軒目に契約がとれるだろう?とワクワクしながら一軒一軒回った。
中には私が妙にニコニコしているから不思議がられたこともあった。
その笑顔につられて契約したと話してくれたお客さんもいた。

話はこれで終わらない。
私はこの落ち込む必要がないことがわかってから
更に奇跡を起こした。
アポイントの営業で100発100中契約をとれるようになった。
全く断られることがなくなったのだ。
もうその時は自分でも魔法の世界にでも入ったかのような気分だった。

こんなふうになれたのは、私は考えてから行動するのをやめてからだ。
断られたらどうしよう?
怒られたらどうしよう?
罵声を浴びたらどうしよう?
そんなことより、契約がとれた瞬間の嬉しいことだけを考えて無心で行動した。

これは武術にも通じる。

「考えない」
「勝ち負けを意識しない」
ということ。

話を戻す。

太極拳を覚えられないことを落ち込むのをやめてみよう。
というか落ち込む必要がない。
他人と比較するのをやめよう。
「誰それがどんどん先に進んでいるのに自分はなかなか覚えられない」
そんなことを思って一体なんのメリットがあるだろう?

自分の中で頑張ったと思えるならそれでいいではないか。

覚えられないということは、覚える楽しみがいつまでも残るということ。
目の前のおいしいケーキを一気に食べるのもいいが、
チビチビ食べるのもいい。
食べてしまったら楽しみがなくなってしまう。

少なくとも私はなかなか覚えられない時にこう考える。
「なかなか覚えられないけど、この楽しみは明日にとっておこう」
こう思うだけ。

もし次の日も覚えられなかったら、
「楽しみがまだ続く。嬉しい」
こう思うだけ。

「落ち込むな」と言っているのではない。
落ち込む必要がないということ。

だから、「覚えられないことを喜ぼう」なんだ。

実は私はこれから覚える套路があるのだが、楽しみにとってある。
「いつかこの套路を覚えることができるよう、そのためにも今すべきことを頑張ろう」
そう思ってわくわくしながら毎日を過ごしている。



2018年9月14日金曜日

切らない割らない

冬の検定に向け個別に指導を始めているが、
その度に伝えているのが
「切らない」「割らない」

太極拳をまだよく理解できていない初心者は
定式が終わりだと思ってしまう。

それならば套路として繋ぐ必要がなくなる。
なぜ繋がっているのだろう?
私はこのことをずっと考え、研究してきた。

ここで頭を切り替えてみる。
定式は過渡式であり、過渡式が定式と。

因みに「定式」とは型の練習でよく指導される、技が終わった部分とされているところ。
「過渡式」は定式と定式の間の部分。
制定拳では過渡式のことを「通過動作」などと表現される。

しかし太極拳の技に終わりはない。
それに通過動作もない。
実は通過動作と思っているところに太極拳ならではの秘技が隠されている。

逆を言えば過渡式がなければ太極拳にはならない。

この辺のことを言葉にするのは難しいので、
当会の稽古で学んで頂きたいと思う。

いずれも太極拳で套路を練る時は決して切ってはならない。
切ること、即ち相手に隙を与えることになる。
常に動いているから隙がなくなる。

川の流れのように連綿と動く。


次に割らないということ。
これは足運びをする時に、ドスンと足を落とさないということ。
太極拳の歩法はドスンドスン歩くのではなく、
肩の位置を変えず音も立てず静かに歩く。

これには二つの理由がある。

ひとつは相手に動きを読まれないようにすること。
もうひとつは静かに足を置くことで普段鍛えにくい筋肉を鍛えることができるということ。

普段歩いている時に、物音を立てずに歩こうなどとするだろうか?
赤ちゃんが寝ているそばを歩くときとか、
試験に遅刻して静かに教室に入る時とか、
そんなもんではなかろうか?

いずれもこの歩法によって、強靭な足腰をつくることができる。
だから、薄氷の上を歩くように、
そして割らないように歩く。

当会の検定では姿勢と歩型、そしてこの2つをみていく。

切らないことを相連不断(そうれんふだん)といい、
割らないことを出歩如猫(しゅっぽじょびょう)という。

切らない
割らない

これを意識して動くと太極拳の功夫(実力)は格段に上がる。

2018年8月8日水曜日

丹田はアホ

いきなりアホだなんて失礼。

しかし本当のこと。
丹田はおだてに弱く、騙されやすく、馬鹿正直で嘘も見抜けないほどアホなのである。

私はこんなアホな丹田と55年近く付き合ってきて、
小さいながらも様々な願望を叶えてきた。
そう、このアホな丹田をうまく騙して(笑)

人を騙すのはサプライズ以外は罪なことだが、自分を騙すことは罪にはならない。
と言っても、自分に嘘をつくわけではない。

自分に嘘をつくというのは、自分の思ってる気持ちややりたいことを抑えたり、その反対のことをしようとすることであって、丹田を騙すのとは意味が全然違う。

だから一番いいのは、自分に嘘をつかず丹田をうまく騙す。

子供の頃は根拠もなくなにか漠然と無限の可能性を感じるものだが、
それもそう。
子供はまだ経験が少ないからマイナスなことを考えない。
観たテレビや映画、読んだ本、音楽などから刺激を受け、それらから受けた影響で自己実現を目指そうとする。
ただただワクワクした気持ちで自分の可能性だけを考える。

このワクワクしている状態こそが丹田が最も活発に働いている時。

そもそもおかしくないだろうか?
腹の中には腸や内臓しかないはずなのに、一体どこでワクワクを発生させているのだろう?
それは腹を解剖しても出てくるものではない。
肺の中を切り開いても、中身は空気であって、それと同じようなもの。

東洋医学では、人間の体は、氣と血と水で出来ていると言われている。
血は血や肉や骨であり、水は体液。
どれも目に見える。

しかし氣は目に見えない。
しかし人間の体にはその見えないソレが確実に存在するということ。

その氣こそが人間の生体レベルを上げ、自己実現のパワーを発揮する。
なぜなら氣はエネルギーであり宇宙そのものだからだ。

自分には太極拳を覚えられないんじゃないだろうか?
他の人のようにうまく出来ないんじゃないだろうか?
などとマイナスなことを考えると丹田はそれを信じてしまう。
丹田は騙されやすく馬鹿正直だからだ。
そしてそれが実現してしまう。

そう、
真面目になり過ぎないこと!

人生をハッピーに過ごしたいならアホになるのが一番。

「覚えられるに決まってる!」
「あの人が出来るんだから私にもできる!」

根拠なんかいらない。
そう思えばいいだけ。
そうすると願望実現のために必要な人、情報、物がどんどん集まってくる。

願望は叶えるものではなく、引き戻されるものなんだ。

太極拳で推手を行う時、崩されるかどうかわからないというのは結果を決めていないから。
先に結果を決めてしまう。
こうすることで、自分の丹田と相手の丹田、そして天地の丹田が繋がり、
自在に自分の思い通りに動くことができるようになる。

恐がる。
心配する。

これらふたつの要素は常に願望実現の邪魔をする。

ごちゃごちゃ考えない。
何度も言うがアホなろう!

私が演武する時は、何も考えていない。
ただただ、気持いい自分になれることだけを考えて動いている。
心が丹田というパワーを使って体を動かしている。
自分はその操縦士。

頭で考えない。
心で良いことを思う。
それだけ。

仮に失敗したところで、地球が滅亡するわけでもない。
何の心配もいらない。

とにかく楽しむ。
これに尽きると思う。

覚えられないのでは?
うまくできないのでは?
失敗したらどうしよう。

こんなしょーもないことはその場でゴミ箱に捨てること。

こんな風に丹田とうまく付き合って、自分がなりたい自分になって欲しいと思う。

乱筆乱文失礼しました。

***

誤字がみつかりましたので訂正しました。
2018/8/31

2018年8月7日火曜日

得意技

「あなたの得意技はなんですか?」
と、聞かれたらなんと答えるだろう?

正直まだ太極拳修行始まったばかり。
まだ満足に得意と言えるものなんかない。

でも、好きな技はある。

楊式太極拳なら、提手上勢(ていしゅじょうせい)

好きな理由はシンプルな割に効果絶大だから。
護身術としても真っ先におすすめしたい技だ。

双辺太極拳なら単鞭(たんべん)だろうか?
これはシンプルというより、僅かな力で大きな効果が得られるから。

形意拳なら、崩拳(ほうけん)
これもまた実にシンプルで、尚且つ破壊力が大きい。

八卦掌に関してはまだ研究段階なのでわからないが
あえてあげるなら黄竜反身(こうりゅうはんしん)だろうか?
これまたシンプルかつ相手に与えるダメージが大きい(と思われる)

こう考えてみると、私は派手な大技より、
地味な技の方が好きなようだ。

好きな理由は体をほとんど動かすことなく大きな効果が得られるからだが、
一番の理由は疲れないのがいい(笑)

本来、闘うということは非常にパワーを使うもの。
口喧嘩でも疲れるのに、殴り合い(スパーリング)などもっと疲れる。
風邪をひいて、寝込んでる時も体がウイルスと闘っている時は物凄く体力を消耗する。

出来れば、手を触れずに自分の身を守ることができたらどんなにいいだろうと思う。
そんな馬鹿げた夢を本気で叶えようと思っている。

私は映画観賞も好きだが、もっぱら洋画を好む。
武術やってるのだから、カンフーアクションが好きだと思われるかもしれないけど、
実は言うほど観てない。
ブルースリーの映画もほとんど観たことないし、
ジャッキーチェンにしても全部観たわけではない。

洋画を好む理由はいろいろあるが、
簡潔に言えばシンプルでハッピーエンドだからだろうか。

早い話がシンプルが大好きなのである。

最近観た映画ではカウボーイ&エイリアンズというちょっとふざけた感じのタイトルだが、
まあ、中身もそこそこという感じで、
それよりも主役であるダニエル・クレイグが町を仕切っている大佐のドラ息子が町の住民に銃を乱射しながら悪ふざけしているところを、たった金蹴り一発でのしてしまうというシーンが実に爽快でよかった。
特に、表情ひとつ変えずよそ見しながら倒したことが気に入ってしまった。

確かに以前は延々と繰り広げられるバトルシーンを観るのも好きだったが、
今は観ているだけで疲れてしまう。

そんなこんなで、今武術修行しながら、
いかにラクに技を使えるかということを研究している。
箸をとって置くぐらいの力で倒すことが出来ないだろうかと。

こんなふうに考えると力ではなく勁力を鍛えようと思う。
勁力というのは筋力を鍛えるのとは訳が違う。
心を鍛え、丹田を鍛えなくてはならない。

この行いは禅そのもので、
こんなふうに自分の目標が、健康や長寿に繋がり、
これを広めていくことでその人々が病を避け幸せに過ごせることになればと思う。

2018年7月24日火曜日

1/400の太極拳

中国武術は400種の流派があると言われる。

私が知っているのは、
少林拳、査拳、蟷螂拳、翻子拳、通背拳、劈掛拳、詠春拳、洪家拳、八極拳、八卦掌、形意拳、意拳、心意拳、太極拳・・
せいぜい20~30程度だろうか?

いずれも数ある中国武術の中から太極拳を選んだ。

その一番の理由は一生できるから。

今日、ある太極拳講座で自己紹介を兼ね、太極拳に出会った経緯や今まで続けたきた理由などを皆の前で話した。

確かに私は太極拳を始めたことによって、数々の病気を克服し、健康な体を得た。
そして落ち目だった仕事も順調に回り出した。

ここで私は初めてハッと気がつく。

私が主宰する会で、あれほど頑張っていた人たちがなぜ辞めて行ったのだろうかという謎を。

元気になったからだ。
当会にきて、体調が悪くなって辞めていった人はいない。
無論、様々な理由があるが、
辞めて行く人のほとんどが太極拳によって元気を得た人だ。

それまで、病気がちで心も病み、仕事も出来ない状態になっていた人たちが、どんどん元気を得て、今や仕事で自分の能力を最大限に活かし頑張っている。
辞めていってしまったことに関しては正直残念だし辛いことだが、
何人もの人を元気にすることができたのだから喜ぶべきことだと今になって気付いた。

なぜ今まで気づかなかったのかと言えば、
元気になった本人が太極拳によるものだと気がついていないことがほとんどだからだ。
私もそうだった。
毎日激しい頭痛、肩こり、腰痛に悩まされいた私が元気になったとたん仕事が順調になり、稽古にほとんど出れなくなってしまった。

ただ、私は太極拳を辞めようと思ったことは一度もない。
ブランクもあったが、それでも太極拳は私の中でずっと生き続け、再開する機会を待っていたように思う。
その機会が転居だった。

そして、その後さまざまなことに挑戦し、
今では太極拳が私の生業になった。

さて、私は400ある中国武術の中から太極拳を選んだ。
先程も言ったように一生続けられるからだ。

太極拳は激しい運動を行わない。
だから死ぬまでできる。

太極拳はスポーツでもなく格闘技でもなく禅だからだ。

太極拳、またの名を動禅という。
禅なら一生続けられるし、常に体を浄化し、活力を得、
自分が何者でどこへ向かおうとしているのかという悟りを得ることもできる。
健康効果も美容効果も高く、護身術を身につけることもできる。

これほど一つで数多くの利点があるものもなかなかないのではないだろうか?

約15年前、私に形意拳を教えてくださった、今は亡きS先生は
「太極拳は歳をとっても強く、棺桶に入るまで続けられる」と熱弁してくださった言葉が今も深く心に刻まれている。

実際太極拳をされている高齢者の方々は他界される前日まで太極拳を続けられるという話を聞く。
だから、私も400分の1の太極拳を選んだ。

禅もじっくりやりたいと思っていたし、武術もやりたいと思っていた。
病気にならない体をつくり、不老長寿も手に入れたかった。

これらすべてを叶えてくれる太極拳に出会えて本当に良かった。

2018年6月16日土曜日

過去への依存

最近よく言われること。

「知ってます」
「わかってます」
「今までこうだった」
「自分はこうだから」

とても個性的な発言だし、
師弟関係でなければそれもいいだろう。
今の自分が好きなんだろうし、自信もあるのだろう。
とても素晴らしいことだと思う。

しかし、これに返す言葉はない。
なぜなら本人に変わるつもりはないのだから。

いずれもこれらの言葉の意味は、
こちらが本人のためにしようとしていることを拒絶する言葉。
先程の言葉のあとに入る言葉は
「だから教えて頂く必要はありません」になる。

過去の自分を主張するのは自由だが、
過去は過去。
その枠の中に新しいものは入らない。

新しいことを学びたいなら枠を広げなければ決してはいることはない。
一升にはどうやっても一升分しか入らないのだ。

先程の言葉の2つ目までは論外として、
3つ目と4つ目は「だけど、これからは変えて行きたい」
こうなってくると話は違う。
きっと私は意欲的に指導に力を注ぐだろう。


因みに自分にとっての人生の目標は?

それは、
好きな自分になりたい
自分の可能性を知りたい

今の自分が好きなのではなく好きになれる自分になりたい。
まだまだ全く満足していないということ。

自分の可能性も知りたい。
だから、新しいことにどんどん挑戦したい。

過去は過去。
私にとって過去はいわば燃えカス。
当時は燃えていたが今は燃えていない。
だから灰なのだ。
灰に拘って人生を終えたくない。

思い出に浸るのもたまにはいいが、
思い出ばかりに浸っていては何も変わらない。

自分がどこまで上りつめることが出来るか?
それが自分にとっての人生の目的であり、それが後世に続く道となると信じる。

今の自分に依存して立ち止まることだけはしたくない。
(あくまでも私の考えです)

2018年6月14日木曜日

氣の海で泳ぐ

ここ最近ずっと問題続きで、
頭を悩め、
心を痛め、
そんな日々が続いていたが、
これも自分に与えられた試練。

そもそも解決できない問題は起きない。

それに問題には意味があり、自分が目指すところへ行くためには必ず乗り越えなければならない。

先日、検定試験の採点が終わり合否発表を行ったが、
採点をしながら、一人一人のことを想う。

泣くほど辛い出来事がありながらも頑張った人。
入院中の親の病院に通いながらも頑張った人。
毎日仕事と育児に追われながらも頑張った人。
毎日仕事と家事と親の介護をしながらも頑張った人。
辛い持病と闘いながらも頑張った人。

今回合格した人のほとんどが、そんな辛い状況の中、
それを一切理由にすることなく、寧ろそれをバネに毎日努力されてきた方だった。

もし、私が同じ立場だったらどうだろう?
親が倒れて入院中、ここまで頑張れるだろうか?
仕事と育児と親の介護をしながら、ここまで頑張れただろうか?

本当に凄いことだと思うし、私自身も勉強させられた。
辛さを自分にパワーに変え、努力されたその情熱がその場で伝わってきた。
「つい半年前までは全然出来なかったことが、出来るようになってる!」
感動させられたし、私もまた教えてきて良かったと思えた。

そんな中、今回残念だった方もおられる。
皆、積極的に稽古に参加され、心優しい良い人ばかり。
そんな人を不合格にしなければならないことほど辛いことはない。
正直、4日経った今でも胸が痛む。

太極拳は学科試験のようにはいかない。
なぜなら、学力というのは他人から見えないから。
(テストの答案を見なければ)

しかし太極拳は、予備勢で立った瞬間からその人の功夫(実力)がわかる。
この世界の人からはもちろん、誰から見てもすぐに実力がわかってしまうのだ。

だから極めて厳正かつ公正な採点をしなければならない。
もし甘い採点をしたならば、本人自身が本当の実力とのギャップに苦しむことになってしまうかもしれないし、もしかしたら陰口を叩かれたり、冷たい視線を送られることだってあり得なくもない。
そんなことになっては絶対にいけない。

そのような訳で、
本人の立場や将来的なことまでよく考えた上で、極めて冷静な採点をさせてもらった。

***

そんな中、昨日の午前稽古では、套路中だけでも全てを忘れ、
太極拳の世界に没頭したいと思い、完全にその世界に入り込んだ。

極限まで雑念を払い、
瞑想状態に入り、
ただただ体の中や外の氣の流れだけを感じる。
体は中はどんどん熱くなり、
そして体の外はやさしい氣に包み込まれ、
まるでそれは氣の海で泳いでいるかのよう。

本当に心地よかった。

とろけるような感覚。
煙のように空気と同化するような感覚。
氣の粘りや、風さえも感じる。

ストレスピークの状態から完全に開放された。

ここで悟りを得た。
今後、口で説明するのを最小限にしようと。
口ではなく、氣で伝えようと。

だから、耳から学ぶのではなく、体全身で私の氣を感じて欲しいと思う。

私はこの5年間教えることにかなりパワーを注いできた。
昨夜はその疲れが出たのか、体が熱っぽくなり風邪の初期症状が始まった。
しかし、ここで倒れるわけにはいかない。
ありとあらゆる方法でその晩のうちに完全に治した。

今後の稽古は、
「聞こえてくる」ではなく、
「聞こうとする」「感じようとする」ように。

ここ最近の出来事は私に大切なことは教えてくれた。
ようやく本当にやりたかった方法で教えることが出来る時期に来たのだと。


2018年6月8日金曜日

忘れるために書く

私は師に稽古をつけて頂いた後、
まず真っ先にすることはノートをつけること。
情報はただではない。

情報はお金であり、時間であり、力だ。
情報には努力がたくさん詰まっている。

それに、師が貴重な時間を割いて教えてくださったことを簡単に忘れるわけにはいかない。
教えとは自分にとって宝物。

その宝を放置するわけにはいかない。
その方法がノートをつけるということ。

ところで、ノートをつけるという行為。
皆さんはどう捉えておられるだろう?
私にとってノートをつけるという行為は忘れるため。

なぜ忘れたいか?

それは、次の新しい情報や知恵を入れたいから。
一旦頭を空にしないと入らないということ。

覚えておくという行為は、新しい情報が入り辛いということでもある。
なぜならそれを入れてしまうと、さっきまで覚えていたことを忘れてしまうから。

だから、常に頭を空にすることはとても大事。

情報だけではない。
空にすることで天から教えを授かることもできる。
いわゆるインスピレーションや閃きと言われるもの。
更には悟りを得ることも。

ノートをつけることにこれほど深い意味があると、どれだけの人が認識しているだろう?

忘れるために書く。
そして頭を空にする。
無になる。

そして、宝物である師の教えは世界でたった一つの自分だけの教科書として残る。

2018年6月2日土曜日

気沈丹田 ~丹田は腸?~

気沈丹田とは、気を丹田に沈めること。

気とは意(意識)であり、
丹田とはパワーの源、或いはエネルギー貯蔵庫でもある。
その部分はお臍から約5㎝下、その奥5㎝ぐらいの部分。
無論体型によって若干ことなるが、
医学的に見ればいわゆる仙骨の前、腸の部分であり、女性であれば子宮も含まれる。

丹田には人を豊かな心へと導くパワーがあり、
夢や願いを叶える自己実現の力も持っている。

丹田に疼くような力を感じる時、それは自分がパワフルな状態であり
物事を良い方向へと引き寄せる力を発する。

太極拳ではこの丹田を開発することを重要視する。
太極拳での戦いは丹田からパワーを発し、そのパワーによって相手の力を吸収しそれを返す力を身につけていく。

自分から攻撃しかけることはない。

いずれもこの丹田を鍛えることは、
心と身体を強くし、健康を増進させ、豊かな心を手にいれることができる。

さて、太極拳の練習をする時、何を意識するだろう?

手の位置?
動作?
歩型?
姿勢?
もちろん全部重要。

中でも一番大事なことは姿勢(軸)と丹田。

まず起勢の時、何を意識するだろうか?
手を前に上げようと意識するのではないだろうか?
もちろん動作を始めて覚える時はまずそれをできるようにする。

そして練習を積んでいくと、無意識でも手は正しい間隔、正しい位置、正しい動きで動こうとする。
無論そうなるまでは徹底的に意識することが大事。
いきなり無の境地になど至れるはずはなく、最初は意識から始まる。

更に鍛錬を積んでいくと、起勢の時、手は無意識に勝手に動くはずだ。
それは起勢限らず、
攬雀尾、単鞭、楼膝拗歩、搬欄捶、十字手、倒輦猴、雲手、踵脚、下勢、どれも全て。

いわゆる無意識でも正しい姿勢で正しい動きが出来るようになることが太極拳で学ぶ最初のステップ。

そして次は、丹田を意識すること。
単鞭は自分に勝手にやらせる。
というより勝手に体が動いてくれる。
その時意識することは丹田と動きを一致させること。
これを内外相合(ないがいそうごう)という。

最もわかりやすい例で言えば、踵脚。
ほとんどの人が足を上げようと思うだろう。
しかし、足を上げようと思わなくとも、足は勝手に上がってくれる。
それよりも意識することは丹田。

足は足に勝手にやらせておいて、意識は丹田に集める。
そして足を蹴り出した時に丹田から気を放射させる。

踵脚は足をあげる運動ではない。
蹴り技。
もっと言えば、丹田から気を炸裂させるところ。

先輩は踵脚の動作を教えてくれる時、足の上手な上げ方ではなく
「こんなふうに波動を飛ばす」と教えてくれた。
先生は「宇宙に気を飛ばす」教えてくださる。

いずれも脚の上げ方など一度も教わったことがない。

いずれも、丹田から気の流れは常に上下左右前後に発せられており、
その力を使って自分自身の体を操っていく。

先程、丹田は腸がある場所と言ったが、それは下丹田の位置。
上丹田は脳の位置、中丹田は心臓の位置、そして下丹田は腸の位置。
脳は常に無意識でも働いており、心臓も同じく無意識に動き続け、そして腸も。

腸に対し脳から指令など送らなくとも、食べたものを自動的に栄養として取り込み、不要なものを排出してくれる。

あと、忘れてはならないのが腸内菌。
腸に住む腸内菌は100兆個以上と言われその数、世界人口より多い。
しかもその重さはなんと1キロ以上あるという。
腸は100兆もの生命が宿っているということ。

うち1割が悪玉菌、善玉菌は2割、
そして善玉でも悪玉でもないどっちつかずの菌である日和見菌(ひよりみきん)が7割。
この日和見菌は善玉が優勢であれば善玉菌につき、悪玉が優勢になると悪玉になるという意志薄弱な菌。
人間社会でもありそうな・・

とかく悪者扱いされる悪玉菌は絶対必要。
なぜなら、悪玉がなければ善玉の力が衰え、それこそ悪玉菌に支配されてしまうから。
人間は常に腹の中で闘っているということ。

まとめると、腸は指令を送らなくとも自ら腸を動かす意識を持っている。
そして、100兆以上もの生命を持っている。
これが腹にエネルギーを感じる理由。

腹を鍛えれば体まるごと健康になる。
腹を鍛えれば太極拳が上達し、強くなる。

とにかく気沈丹田なのだ。
意識を丹田に集中させれば氣がどんどん集まる。
氣は力。
つまり丹田が自分の太極拳の質を上げ、幸運をもたらしてくれる。

私は今でこそ武術を専門としているが、
元はといえば栄養学や予防医学が専門。
分野は違えど、どちらも人の健康を願っていることには変わりない。

丹田を鍛えよう!

2018年5月27日日曜日

嫌いこそ物の上手なれ ~最初の2年をどう使うか?~

先日、稽古中にこんな話が出た。
「早く套路を覚えるより、長く基本を積んだほうが結局早い」と。

太極拳を始めるとまず套路を早く覚えたくなる。
そして套路を覚えると新しい套路を覚えたくなる。
特に師から基本を積めと指示されない限り、ほとんどの人がそうだと思う。

実は私の中で妙なことが起きている。

私は太極拳が好きで太極拳を頑張ってきた。
そして太極拳で実績を得たいと思って頑張ってきた。

しかしどういうわけだろう?
苦手な形意拳ばかりが評価される。
実際、私の手元にある賞状やメダルは形意拳ばかり。

太極拳の評価にしても決して悪くはない。
楊式太極拳では県大会2位、全国10位。
しかし入賞した種目は形意拳だけ。

苦手意識を持っているだけに、入賞した時はいつも嬉しさよりも先に驚きがあった。
なぜ苦手な形意拳が?と。

その後になってようやくその謎が解けた。

基本を積んだ期間が最も長いのが形意拳だったからだ。
最初の2年は三体式站椿功(立つ鍛錬)と
劈拳、鑚拳、崩拳の3本だけを毎日打ち続けた。
炮拳と横拳をやり始めたのはその後。

三体式站椿功は片足15分、両足30分を毎日行った。
五行拳に関しては広さ100メートルの広場で往復200メートル。
これを毎日5~10往復ぐらいしたから距離にして1000~2000メートルは打ったことになる。
因みに最高記録は1日5000メートル。
とにかく毎日、立ちまくり、そして打ちまくった。

確かに歴で言えば太極拳の方が圧倒的に長い。
太極拳歴15年に対し、形意拳歴6年。

しかし太極拳の基本功をやり始めたのは大分経ってから。
実は最初の太極拳はあまりにもぐちゃぐちゃで、
先生やそのまた先生からもダメ出しをもらったほど。
それぐらい私の太極拳は酷かった。
太極拳に関しては15年経った今ようやく腰を落ち着けて基本に取り組むことが出来ているように思う。

結局、基本を飛ばして套路ばかり覚えても結局基本に戻らなくてはならないということ。
それに後からやる基本は最初にやる基本よりずっと時間がかかる。
なぜなら長年染みついた悪い癖を直す作業から入るから。

私が地味な形意拳の基本功を頑張れたのは、先生の適切なご指導のお陰であることはもちろん、
それより大きな理由は形意拳が嫌いだったから。
なぜその嫌いな形意拳を頑張れたかと言うと、
それをやらないと一番やりたい八卦掌に行きつけなかったから。
いわば八卦掌というニンジンに喰いつきたいがために形意拳を我武者羅に頑張った。

結果的にはその先生の元で八卦掌に行きつくことは出来なかったが、
2年間基本功をしっかりやらせてもらえたお陰で、自信をつけることができたし、
何よりその後、武器も含め23種もの套路(型)をサクサク覚えることができた。
基本が出来てるから、形を覚えるだけ。
そして覚えればすぐに完成されてしまう。
(あくまでもそのレベルでのことだが)

もし私が基本をないがしろにし套路ばかりを追っていたら今の自分はなかっただろう。
ぺらぺらの形意拳になっていただろうし、
相手を圧倒させるような突きも満足に打てなかっただろう。

ところで、嫌いだった形意拳。
今では?

大好きになってしまった(笑)

八卦掌がやりたくて頑張ってきたのに、八卦掌より形意拳の方が楽しく、
練習もついつい形意拳にウエイトを置いてしまう。

ということで、
嫌いなものに打ち込むというのも悪くない。

基本は絶対大事だし、どうせ後でやることになるのだから
最初にやっといた方が絶対にイイ!と声を大にして言いたい。
最低でも最初の2年は基本だけに費やすべき。


2018年5月26日土曜日

上達のために心掛けたこと

結論から言うと、
上達したかったら師を見ること。

そんなの当り前と思われるかもしれないが、
意外とこれが盲点だったりする。

当会の会員さんに陰口を言う人は一人もいない。

お互い尊重し合い、励まし合い、協力し合うとても素敵な人ばかり。
それが唯一の私の自慢だろうか。

「あの人の〇〇が出来てない」
「あの人の〇〇が良くない」
「あの人がなぜ認められてるのか?」
「あの人より私の方が上」

こんなことを考えて上達できるだろうか?

そもそも人の粗探しをするのは自分が努力したくないことの現れ。
上達する人は人の粗探しなどする暇もなく時間さえあれば練習する。

人は誰でも人より優位に立ちたいと思う。
しかし、人の粗探しをして仮に自分の方が優れてると思えたとして
それが一体何のメリットになるだろう?
そんなことをしていたら、いずれ自分が取り残される羽目になりかねない。

どの世界でもそうだが、この世界でも慢心したらおしまい。
人より自分が優れていると思った時点で負けていることになる。
なぜならそう思うことはブレーキを踏むのと同じことだから。

前を向いて歩こう。
仲間のことを自分の比較対象にするのではなく、
お互いに同じ目標をもって頑張れる仲間として思えばもっともっと楽しくなる。
困っていたら助けてあげよう。
それが本来の人間のあるべき姿だと思う。

上達したかったら、人の粗探しをやめること。
こんなこと当り前過ぎて書いている自分ですら恥ずかしいが、
とにかく言いたかったことは、
上達したかったら見るべきものだけを見るということ。

人は見たものに影響される生き物。
良い手本を見れば良くなるし、
悪い手本ばかり見ていると知らず知らずと自分の腕を落とすことになる。

私が駆け出しの頃、
最初から最後まで先生の動きばかりを見ていた。
だから他の人が出来ているかどうかというのは今でもほとんど覚えていない。
何故なら見ていなかったから。

といっても、先輩や仲間は本当に有難い存在。
先輩や仲間がいるからこそ頑張ってこれた。

いずれも上手くなりたかったら上手い人だけを見る。
腕を上げたかったら腕のある人だけを見る。
強くなりたかったら強い人だけを見る。

自分より劣る人を見て安心することは
ブレーキをかけているのと同じことだということを忘れないように。

2018年4月28日土曜日

バイナリ

この世は全て原子の最小単位、
アップクオークとダウンクオークだけで成り立っている。
木も火も土も金も水もなにもかも全て。

これを陰陽に置き換えると陰陽説に。
二進法(バイナリ)に置き換えるとデジタルに。

つまり現実も仮想現実も最小単位は同じということ。

バイナリは1と0だけの世界。
つまりコンピューターの世界。
有か無か。

これを太極拳に置き換えると、有が実で、無が虚。

太極拳をバイナリで考えてみる。
上を虚とし下を実とする。
つまり頭は無、丹田は有。
気沈丹田。
こうすることで軸が安定し、
動いていても静を得ることができ感覚が鋭くなる。

下がることを虚、出ることを実。
太極拳で技をかける時は虚でいなし、実で発勁する。
逆をいえば、発勁する前は虚でなければ氣を発射することはできない。

打とうと思ったらダメということ。
なにも考えない。
ただ意識を相手の方向に向けるだけ。

因みに虚の状態の時に、パワーを充填して、発射口を開くために抜く。
抜くというのは詰まりを取り除いておくこと。
銃口に物が詰まっていると暴発してしまうが、
そうならないためにも腕の中を空洞にしておく。

ということで、
すべて虚と実、
無と有、
陰と陽、
0と1で考えられる。

コンピューターを操作する時、操作する側は1と0で計算していない。
それを行っているのはコンピューター。
今こうして文字を打ってる時もコンピューターの中では1と0で計算している。

太極拳でも虚実を無意識にできるようになれば達人になれるのだろう。

それにしてもすべてバイナリで処理できるのだとすれば現実と仮想現実の区別を一体どうやって見分ければいいのだろう?

仮にこの世が仮想現実だとすれば、すべて自分が思っていることは思い込みであるということになる。
出来るか否かも思い込み。
病気か否かも思い込み。

出来ると思えば出来、
健康だと思えば瞬時に健康になれるということになる。

2018年4月27日金曜日

太極拳の源流

様々な説があるが、私は楊式太極拳が太極拳の始まりだと思っている。

そもそも太極拳の定義とはなんだろう?
ぱっと浮かぶのはゆっくり奇妙な動きをする武術??
少なくとも私のイメージはそうだった。

あの動きから連想するのは
手品師、霊媒師、占い師、魔法使い、超能力・・

あの神秘的な手の動きからそういうものをイメージしてしまう。
だから最初から太極拳は力任せの技ではなく不思議な技を使うのだろうと思っていた。

では、実戦の時もゆっくり動くのだろうか?
いいえ、実際、技を使う時の太極拳は速い。
他の流派の武術と変わらぬぐらい速い。
あくまでも見た目は。

というのも、技を掛ける側は速いとは思っていない。
なぜなら速く動こうとしていないから。

太極拳の考えかたに捨己従人(しゃきじゅうじん)というのがある。
己を捨て相手に従うという意味。
いわゆる、太極拳の使い手側から速く動くということはない。
もし速い動きになったとしたらそれは相手がそうさせているだけのこと。

相手が動かなければこちらも動かない。
相手がゆっくり動けばこちらもゆっくり動く。
相手が速く動けがこちらも速く動く。
相手が力を使ってくればこちらは勁を使う。
違うのはここだけ。

太極拳が他の流派と圧倒的に違うのは化勁。
決して相手の力とぶつかり合うことはない。

その化勁も幾種類もあり、特に楊式太極拳の化勁は独特。

今まで、陳式、呉式、楊式、武当派の方と手合わせをしたことがあるが、
中でも一番不思議な力を使うのが楊式だった。
そしてやはり楊式に一番興味を抱いてしまう。

因みに演武のカッコよさで言えば陳式が一番だと思う。
剛と柔、緩急をつけた動きが独特でその躍動感ある動きは見る者を惹きつける。

しかし私は楊式に一番魅せられる。
その理由はやはり神秘性だろうか。
演武はあくまでも連綿と動くので陳式のような躍動感はない。
下手をすれば見ていて眠くなってしまうこともしばしば。

しかしそれこそが楊式の狙いでもある。
陳式が見せる太極拳なら楊式は見せない太極拳。
楊式は決して手の内を見せない。

だから演武だけ見ていても決して楊式の凄さは解らない。
というか、解ってしまったらダメなのだ。

今回タイトルを太極拳の源流としたが、
私が勝手に太極拳を定義づけるとしたら「技が見えない、力を使わない拳法」
これに一番当てはまるのが楊式太極拳。

太極拳の五大流派である陳式、楊式、孫式、呉式、武式の中の陳式以外は
すべて楊式から派生した流派。
しかも陳式は本来太極拳とは呼ばず砲捶と呼んでいた。
実際、陳式太極拳の一路は太極拳らしい動きだが
二路に太極拳らしい動きはなく、長拳や南拳、査拳等の動きよりも力強く激しい。
少し真似事をしたことがあるが、とても私の心臓ではついていけない。

結果、私が思う太極拳の源流とは流派ではなく、形のないものだと思っている。

太極拳の源流と言えば、陳式太極拳や伝説の仙人である張三豊と言われることがほとんどだが、仙人が山の中で野獣などから身を守るために陰陽説を元に編み出された技がやがて様々な人に伝わり太極拳へと発展していったと考える。
その中でも最も太極拳を世に広めた人物が楊式太極拳の開祖である楊露禅。

いつから太極拳が太極拳と呼ばれるようになったかは歴史を紐解いても明らかになっていないが、今のところ楊露禅が編み出した拳法が太極拳の始まりだとする説が最も有力とされている。

なにが言いたかったか?

いわゆる、太極拳の源流は形ではないということ。
仮に陳式や楊式の套路だけを覚えたところで、それは源流を覚えたことにはならない。

源流は陰陽思想であり、
それが理解できなければ太極拳を知ったことにはならないし、
私もまだ知ることのできない一人であるということ。

その答えを知る方法は修行あるのみだと思っている。

2018年4月16日月曜日

套路にすべてが詰まっている

套路を漫然と通してる人をみかける。
順番を覚えたら嬉しいし、通すことが楽しいと感じる。

しかし、熟練者の套路を練る姿を見ていると、明らかに何かが違う。
一目でわかるのは目。

その目には目的意識と、内面を見て感じようとする意識を感じる。

套路を通すことが出来るようになったら、そこが大事だと思う。
少なくとも私はそうしている。

今、套路を通している時、「なんのため?」と聞かれてすぐに答えられるだろうか?
おそらく大半の人が「上手くなりたいから」と答えるだろう。
「ではなぜ上手くなりたいのか?」
ここで答えが二つに分かれると思う。

ひとつは人に評価されたいから。
もうひとつは自分の可能性を知りたいから、
と。

私はどちらかと言えば、
どちらも(笑)

しかし、普段鍛錬するのは自分の可能性を知りたいからであり、人に評価されたいからではない。
別に格好つけて言ってるわけではなく、
実際に他人に自分の練習を見られたくない。
だから最近人目のつくようなところで練習しなくなった。

さっきどちらもと答えたが、
自分の可能性に挑戦し、その過程で人から評価されるのは素直に嬉しい。
しかしそれは目的ではなく自分にとって副産物的なもの。

話を戻す。

套路にはすべてが詰まっている。

套路は準備運動であり、
気功体操であり、
立禅であり、
站椿功であり、
気を練る練功であり、
技を練る鍛錬でもある。

私が普段行っている体をほぐすための抜筋骨にしろ、そのまま足も動かせば套路になる。
立禅も同じ。
套路を途中で止めればどこでも立禅になり站椿功になる。
意識することで動きながら気を流すことも出来るし、技のイメージトレーニングにもなる。

もちろん初心者は準備運動からしっかりやったほうがよい。
体が出来てくるまでは十分曲げ伸ばしやほぐしを行う。
冷えた体のままやると筋を痛めたり、関節を痛めたりしてしまう。

しかし10年、15年経ってくるとさすがに体ができてくる。
それに立ち上がりが早くなる。

パソコンに置き換えると、安いパソコンは起動に時間が掛かるがハイスペックモデルならあっという間に起動が完了する。
そんなふうになる。

それに脱力して套路を練れるようになれば套路中に体をほぐしていくこともできる。
もちろん体に過度な負荷をかけないことが鉄則。

ここで大事なことは、
ただ漫然と套路を通すのは順番を忘れないための作業だと思った方がいいということ。
死んだ目のまま套路を通しても套路で得られる恩恵の数パーセントも得られないだろう。

なんのために套路を練るのか?
まず考えよう。

姿勢が崩れないようにするため?
正しい動作ができるようになるため?
力みのない動きができるようになるため?
氣を練るため?
技を練るため?

それによって套路の内容が変わってくる。
それは本人にしかわからない。

目的と対策。
結果を決めてから原因作りをする。

特に最近伸び悩んでいる方は、ここが大事だと言いたい。

2018年4月10日火曜日

筋力禁止

型を練る時、
推手を行う時、
散手を行う時、
自分の中で筋力を使うことを禁止にしている。

力まないよう、
脱力しよう、
ゆるめよう、
そんな甘っちょろいものではダメ。

例えば、煙草を本数を減らす節煙とか、
ダイエット中、なるべく食べる量を減らそうとか、
明らかに症状が出てるのに禁酒でなく減酒とか、
そんな生ぬるいものではなく

筋力絶対禁止!
「禁筋」なのである。

なぜなら筋力に頼っている間は決して太極拳ならではの技法である
聴勁も化勁も発勁も鍛えることができないからである。

「鍛える」と言えば、体の負荷をかけて筋肉を鍛えるイメージが強いかもしれないけど、
私の場合の「鍛える」は脱力と意の力(イメージ力)

イメージする力が、
良い企画を生み出し、
名曲を生み出し、
名作映画となったり、
名画となったり、
美味しい料理となったり、

更には、
天を突くような高層ビルを建てたり、
人工島をつくったり、
音の数倍の速度で飛ぶジェット機、
巨大な空母、
宇宙ロケットまで作り出してしまう。

とにかく
太極拳で無限の力を得ようと思ったら何が何でも絶対
筋力禁止なのである。

だから、私は筋トレを一切しない。
というより、站椿功と套路が太極拳のためのいわば筋トレ。
筋トレと言っても、太極拳で得られる筋力は目には見えてこない。
ムキムキにもならないし、筋張ったりもしない。

私はこれを便宜上、インナーマッスル(内禁、赤筋、遅筋とも呼ぶ)と言ってるが、
実際は物質的なものを超えた、目に見えない筋肉だと考える。

毎日、腹筋と腕畳伏せをし、
何百回と突きの練習をし、
サンドバッグを突きまくるといったトレーニングを一切せず、
ただ、腕をぶらぶらさせて歩いているだけなのに、
拳をひょいと前に突き出しただけで相手の体を貫通するようなパンチが打てるのは一体どういうことだろう?

その突きを行う時にはっきりしてることは「打とう」としていないこと。

これ以上話すと長くなるので今回はこの辺にするが、
とにかく筋力を使うことを禁止にすると、無限のエネルギーを導き出せるように感じるようになる。

今はまだ感じるというだけなので、
これから更に筋力を使わない鍛錬を積んでいこうと思う。

2018年4月6日金曜日

簡化太極拳は難しい

以前、2年程ついて習っていた中国のJ老師が仰るには、
簡化太極拳(24式太極拳)は難しいと仰った。
過去2年ほど簡化太極拳を習っていた私もその通りだと思った。

どこが難しいか?

そもそも套路の組み方が極端過ぎること。

踵脚のすぐ後に下勢が2回も続く。
伝統で育った私から見ると、膝を痛めないだろうか?と心配になってしまう。
この組み方はどう考えても高齢者にはきつい。

それに太極拳は攬雀尾(らんじゃくび)が基本なのに、最初に出てくるのはなぜか野馬分宗(のばぶんそう)。

攬雀尾には太極拳の基本技である8つの勁がすべて含まれ、しかも応用技が豊富。
しかし野馬分宗の技はその逆で、野馬分宗で使う勁そのものが攬雀尾に入っている。
なぜ野馬分宗から始まるのか不可解でならない。
まあ、動きが一番シンプルだからだと思うが。

それに簡化太極拳は細かな要求が多い。
わずか24式で組まれた太極拳なのにそのテキストは大きくずっしり分厚い。
それを正確に出来るようになって何が得られるのだろうか?

武術として少しでも護身に役立つのならいいが、
そもそも簡化太極拳は護身のためにつくられた太極拳ではなく、中国政府がつくった健康体操。

あくまでも私の推測だが、簡化太極拳の初期の頃はもっともっとシンプルだったはず。
動作の説明も簡単で、専門用語も少なく、それこそ誰もがすぐに始められそうな内容だったはず。

それがなぜ今これほどまでに複雑になったか?

人間心理学から見るなら「物足りなかったから」と推測する。

自慢ではないが私は24式太極拳を5日で覚えた。
順番も覚え、一人でできるし、それを先生に見てもらったがダメ出しひとつもらわなかった。
もしかしたら酷過ぎたからかもしれないが・・(苦笑)

いずれも伝統楊式太極拳を練ってきた私にとってはあまりにも簡単過ぎて物足りなかった。
やり終わっても充実感も得られず、体がすっきりするといった効果もなかった。

しかし簡化太極拳を教えている教室はそれを何年も何十年もやるわけだから、
教えることがなくなる。
そこで始まるのが粗さがし。
今までなかった用語や、指導項目がどんどん増え、今やテキストの文字数は爆発寸前。

たまに簡化太極拳を指導されている風景を見ることがあるが、
わずか一言で済むことを、4つも5つも数多くの言葉を並べて指導されている。
そして教えられる側はパニックになる。
現に私がそうだった。

日米を跨いでビジネスしてきた私の経験で言わせてもらうなら、
日本人は簡単なことを複雑にするのが得意な人種。
またその複雑なことをこなせるのも日本人。
日本人は頭がいい。

逆にアメリカ人の頭の構造は日本人のそれとは違う。
常にいかにシンプルに出来るかを考える。
計算をするにしても引き算は使わず足し算だけで計算しようとする。

アメリカ人の頭はシンプルだから行動が早い。
日本人は複雑に考えるから行動が遅い。
アメリカ人は物事をシンプルにとらえるから物を覚えるスピードが異様に早い。
日本人は時間がかかる。
シンプルなことを難しく考えてしまうからだ。

それに、日本語は文字や言葉が膨大にある。
ひらがな50音、カタカナ、無数にある漢字・・
しかし英語はアルファベット26文字だけ。

英語版のパソコンは26文字のアルファベットだけで処理するからワンランク下のスペックのマシンでも驚くほどサクサク軽快に動く。
しかし日本語をぶち込んだマシンはハイスペックマシンでも重く、時間の経過と共に頻繁にフリーズし動かなくなる。

マシンに置き換えても解る通り、
日本人は簡単なものを難しくする天才なんだ。
それが日本の技術力に繋がっているのだろう。

しかし簡単な簡化太極拳まで難しくしてはいけないと思う。
習う側としても常に新しい要求をされ、いつまでたっても気持ちの良い太極拳になっていかない。

伝統太極拳にテキストはない。
ただただ師の動きを見て盗めというスタイル。
人間の動きやその場の雰囲気や温度、空気、言葉に出来ないことは山ほどある。

ライブに行けばぶっとぶほど興奮するのに、
同じ曲をCDで聞いてもライブほどは興奮しない。

太極拳は文字で学ぶものではないと思う。
大切なのは感覚。

難しくするのは自由だが、ここで考えてみて欲しい。
本来の太極拳の目的意識から遠ざかってないかと。

気持ちいいと感じなければ心はゆるまない。
心がゆるまなければ体もゆるまない。
体が硬くなれば、気血のめぐりが悪くなり病気を引き起こす。

簡化太極拳が難化太極拳になってきている。
正しさを求めるあまり人間の心を置き去りにしていないだろうか?

太極拳は精巧なマシンをつくるのとは違う。
気持ちいいと感じる太極拳にするためには本来のシンプルな姿に戻すことが大事だと思う。

2018年4月2日月曜日

可視光線と不可視光線

可視光線とは目に見える光。
不可視光線とは目に見えない光。
すなわち赤外線や紫外線。

光は電磁波でもあるわけだが、
電磁波は目に見えない。

人間で言うと、肉体が可視部分。
その周りを取り囲むのが氣(エーテル体)が不可視部分。
目に見えない。

裸の王様ではないが、あると思えば氣が集まり、
ないと思えば氣は集まらない。
裸の王様は実は裸ではなかったということ。

又、氣の体の部分が1メートル以上ある人もいれば
まったく氣がない人もいると言う。
病気の人であったり、精神的に病んでいる人もそれに入る。
当然、氣の存在を否定すれば氣は集まらない。

つまり人間は光と同じで、可視部分(肉体)と不可視部分(氣の体)から成ると言うこと。
また、氣は電磁波とも考えられている。

今は、特殊な装置を使って氣を測定することができる。
そして、オーラの部分と氣の体の部分も一致しているということも解っている。

私の師はその氣の部分で化勁を使われる。
手を触れていないのに操られてしまう。
氣でいなし、氣で打つ。

こんな魔法のような技が使えたらどんなにいいだろうと、
魔法世代の私らにとってはとてもおいしい話。

今は暇さえあれば氣の力を増大させる鍛錬を行っているが
どこまでパワーを引き出せるか楽しみだ。

2018年3月27日火曜日

1/4歩崩拳

形意拳は五行説からなる五行拳と、
12の動物の形を真似た十二形拳があるが、
一番好きなのは崩拳。

崩拳には防御がなく、ただ拳で打つのみというシンプルさに魅力を感じる。
防御がないということは打たれる前に打たなければならない。
一瞬でも判断が遅れると命取りになる。

最初はそのことに不安に感じたが、
今ではそのことが男心をくすぐられる。

私が崩拳を指導する時、
三つのことを特に重視するよう伝える。

一つは拳の形。
二つ目に脱力。
そして三つ目にタイミング。

崩拳は力一杯打とうとすればするほど、パワーが衰える。
それも当然。
熟練した空手家やボクサーのように徹底的に鍛えぬいた腕から突きだされる拳と異なり、
こちらは突きの練習なんか一切していない。
力を使って打とうとしたら、へなちょこパンチになるのは目に見えてる。

だから力を使わない。
その逆。
脱力する。
打たずに、スっと拳を前に進めるだけ。

子供の頃、殴る時はコインを握って打つとパワーが増すと友達から教わったが、
恐らく何かを握ることによって握る力が強くなるのだろう。

ところがこれまた形意拳では逆。
しっかり握らない。

拳の形を指導する時は、少しでも違ったらすぐさま直す。
崩拳の拳は絶対重要。
恐らく、何も考えないで握った拳より数倍から十倍以上は威力が増すと思う。

タイミングも大事。
拳に自分の体重とパワーのすべてを注ぎ込む。
体重が60㎏なら質量60㎏の拳になり、
エネルギーを注ぎ込めば、そのパワーは体の表面を貫き背中を貫通する。

なんだか恐ろしい話だが、
崩拳の達人である郭雲深は、敵の正面を打てば背中の骨が折れ、更には壁をぶち抜いたこともあるとか。
他にも崩拳の達人である尚雲祥に関しては寝ているところ窓から侵入した敵に腹を踏まれ、その弾みで跳ね返され窓の外に放り出されたという。
達人ともなれば寝ていても強いんだと(笑)

それはともかく、
昨夜も弟子相手にミット打ちを行ったが、
私が打つ、崩拳や鑚拳は半歩も進まない。
半歩の更に半歩。
10㎝ぐらいだろうか?
つまり1/4歩で、ミット越しと言えど、背中まで貫通する崩拳となるらしい。
弟子曰くその日はずっと背中が痛かったらしい。

いずれもどんなにパワーが上がってきても、
結局相手が打つ前にそれを察知し、素早く打ち込まねばならない。
これに関しては太極拳で聴勁を鍛えたほうが良さそうだ。

これからも様々な実験を繰り返しながら鍛錬を積んで行きたいと思う。

2018年3月23日金曜日

カタチからの脱却

先日弟子に尋ねた。
「最近、私の演武、下手になってないか?」と。
その答えは、全くそんなことはないとのことだった。

なぜこんな質問をしたか?
理由は二つ。

一つは、最近、全くカタチを気にしなくなったから。
もう一つは、指導する上である程度の演武力は必要だと思ってるから。

私は14年目にしてようやくカタチの世界から抜け出すことが出来た。
最初はなんでもカッコから入り、先生の真似から始める。

「先生のように柔らかくカッコよく演武できるようになりたい」
そう思って、先生の後姿を追いかけてきた。

演武力を身につけるため、積極的に演武会や大会、試合など片っ端から出た。
演武力をつけるには人前で演武するのが一番だと思ったから。
確かにそれでそこそこの演武力はついた。
人から良い評価をもらうことも増えた。

しかし、私は太極拳の演武力を身につけるために始めたのではない。
それはあくまでも手段であり、目的ではなかった。

とはいうものの多くの人から注目を浴び、良い評価を頂き、
それによって全く気持ちが浮ついていなかったかと言うと嘘になる。

その浮つきかけていた自分を真正面からぶった斬ってくれたのが我が恩師。
久しぶりに拝見した師が套路を練る姿は、大会等で見るソレとは全くことなる異次元の世界だった。

己を意のままに操り、
空間を操り、
その力を使って見えない敵と闘っているように見えた。
もう、本当に例えようのないほどの衝撃だった。

それは感動ではなくショックだった。
その日の帰りの新幹線で私はとめどもなく落ち込んだ。

目的を見失うことはなかっただろうが、
師は遠回りしそうな自分を本来の目的へと引き戻してくださった。

確かにのんびりはしてられない。
40から始めた太極拳。
人前で行う太極拳にばかり力を入れていたら、内功に専念する時間はどんどん減って行く。

そして今、ようやく腰を据えて内功重視の鍛錬ができるようになった。
站椿功を行っている時、
套路を練っている時、
見ているのは鏡ではなく内面。

どこから入れて、
どこから出すか。
入力と出力。
浄化と増幅。

推手をしている時も、相手ではなく相手の内面を見るようになって、自分の推手が変わった。
かつての自分はテクニックで相手を崩そうとしていた。
しかし今は違う。

「どう崩すか?」ではなく、
「崩した」という未来に戻るという感じだろうか。
現在から未来ではなく、
未来に戻るための現在。

とはいうものの、熟練者相手にはそんなことを思う余裕はない。
ただただ学ばせて頂きたいと思うだけ。
私の今の力は単に過去の自分よりも少し腕が上がったというだけで、
今の自分とは比べ物にならないほど大きな力を持っている先輩や師は大勢おられる。

話は戻って、
いずれも鏡を見なくなったことで、
見た目を捨てた自分は今無様な演武になっているのではないかという、
ちょっとした不安が過ったということ。

そんなわけで昨日の稽古風景を動画に撮ったので先程それを観たが
私の演武はなにもかわってなかった。
いわゆる演武力が落ちたということではなくという意味で。

実際はかなり変わった。
それを自分で言うのもおこがましいので割愛するが、
ようやく「内外相合」と「動中求静」の意味が少し解ってきたかな?ということ。

このどちらも文字としては理解できるが、
本当にこの意味が理解できるのには長い長い時間がかかるのだろう。

解ったとは言い切れないが、
解りかけたような気がするまでに15年かかった。

これからまたどんな発見が出来るのか楽しみだ。

2018年3月20日火曜日

双辺太極拳の未来

双辺太極拳は99式からならなる太極拳。

歩型は最初から最後まで形意拳や八卦掌の歩型である中定歩(前4後6の比率)なので
架式は高く、その分どうしても地味に見えてしまう。

しかし、この太極拳には形意拳の凄まじい破壊力と、八卦掌の禽拿法や俊敏性、それに太極拳の化勁をうまく融合させ、とことん戦闘能力を追求したまさに闘うために生まれた太極拳。

見た目そう見えないのが面白い。

双辺太極拳は台湾ではかなり盛んで、短くまとめた競技用套路もあり、それで競技も行われいている。
競技用套路は確かに美しい。
荒々しい双辺太極拳を美化するとここまで美しくなるのかというほど。

しかしその動きを見ると戦うための要素がほとんど消されてしまっている。
それはまるで戦車から砲台や機銃を全て取り外し、高級車のごとく美しい光沢塗装に塗り替えたようなイメージだろうか。
美しいが実に弱弱しい。

双辺太極拳は踊るためにつくられた太極拳ではない。
大切な家族を武装した敵から守るためにつくられた内家拳を総動員した太極拳。

太極拳から套路だけを抜粋しそれを美化し舞踊にするのは、それはそれでアリなんだろうが、
少しばかりでも技を知っている私から見るとなんともったいないことをしているのかと思ってしまう。

それにその技を使えるようにするため、たっぷり站椿功を行い、じっくり套路を練り、推手、散手で実践的に使えるように鍛錬して行く。
技に磨きをかけるための鍛錬こそが武術で最も大事な部分であり、だからこそ優れた技は舞踊を遥かに凌ぐほど美しい。(と私は感じている)

しかし美しく見せようとする練習法の実際はストレッチと筋トレ主体。
これは内家拳の鍛錬法ではなく、踊りのためのいわば準備運動。

今後太極拳は武術として発展していくのだろうか?
それとも舞踊として広まり親しまれていくのだろうか?

創始者の気持ちを考えると、複雑な気持ちになるし、
少なくとも私は武術として伝えていきたいと思っている。

なぜなら強くなることは美しくなることだから。

2018年3月19日月曜日

太極拳と太極舞

これらが比較されることがあるらしいが
ここでハッキリと述べておく。
これらは全く別物。

太極舞は中国拳法を真似てつくった、いわゆるフィットネスダンス。

身法や歩法、氣の巡らせ方など
太極拳に要求される厳しい技術的な要素は全くなく、
太極拳の名を借りた、いわゆる誰もが気軽にできる体操である。

その動きに武術として緻密に計算された動作はなく、
武術的健康効果も知られていない。

又、太極舞はまだ数年しか歴史がなく、
太極拳は中国が元の時代、即ち約700年前に創始されたとされている。
何十世代にも渡って多くの名士によって磨かれ練り上げられてきた高級武術なのである。

誤解しないで欲しい。
太極舞を否定しているのではない。
フィットネスとして体を動かすことを楽しみたい人にはいいだろうし、
全身を動かすことによる健康効果も得られるだろう。

私が伝えたいことは比較してはいけないということ。

太極拳は人間を超越した仙人が作り出した氣功を取り入れた極めて精巧な中国武術。
それによって得られる恩恵は健康効果だけに留まらず、禅としての悟りを得たり、超人的な力を身につけることも可能な行なのである。

そもそも「太極」とは陰陽思想による宇宙の根源を意味する言葉。
その意味は非常に奥深く、安易に使用すべきでないと私は考える。

体は動かすことは良いこと。
だが、太極拳はスポーツでもなければ体操でもダンスでもない。
数多くの恩恵が得られる禅であり、
誰もが手に入れたいもののすべてが太極拳の中にあると私は考える。

*****

追記:
なぜ今回このような記事を書いたかと言うと、
実は私自身も太極舞が創始される以前(2006年頃)に太極拳を普及させるための一つの方法として、誰もが気軽に楽しめるよう太極拳にファッション性を取り入れたフィットネスダンスにしたら流行るのではないかと考えたからである。
その時に私が考えたネーミングが「タイチーダンス」
いわゆる太極舞。
良いアイデアだと思ったが、今では太極拳だけに専念してきて良かったと思っている。

2018年3月14日水曜日

刀と包丁

刀と剣の指導で苦戦している。

手本を見せても、
ゆっくり見せても、
わかりやすく説明しても
なかなか伝わらない。

無論その場ですぐに出来ることではない。
しかし、毎日欠かさず練習すればできるようになる。
少なくとも私は毎日欠かさず武器の基本功を行ってきた。

棍も同じ。
必ず基本功をたっぷり行ってから套路の練習をしてきた。

はじめて刀を持つと、刀に振り回される。
ただただ刀を振り回すだけになる。
それは刀を持つことに意識が行ってしまっているから。

私も最初は腕力で刀や剣を振っていた。
そうでなくなるようになるには、やはり毎日の練習だった。

刀は包丁と同じ。
切るもの。

包丁で食材を切る時、どこに意識が行ってるだろう?
恐らく切る部分だと思う。
よそ見なんかしながら切ったら指を切る羽目になる。

しかし、刀になると、平気でよそ見しながら振り回してしまう。

刀や剣は刃物であるということをまず念頭に入れる。
そして空気を斬っていく。

或いは箸ならどうか?

箸の持つ部分を意識してご飯を食べる人はいないだろう。
箸でものをつまむ時は必ず箸の先端を見ているはず。
それに箸を持っているという感覚すらないのでは?
箸が体の一部になっているはず。

なぜか?

毎日箸を使うからだ。

刀や剣も同じ。
毎日箸でごはんを食べるように、
毎日刀や剣を持って空気を斬ったり突いたりして練習する。

刀や剣がごはんと同じぐらい好きになれば嫌でも上達するということ。

クオークと陰陽

太極拳を量子力学で考えると様々な発見がある。

特に最近気がついたのは万物の最小単位であるクオークそのものが太極拳で言われる陰陽そのものであるということ。

人間はなにでできているだろう?
ほとんどの人がタンパク質と答えるのではないだろうか?

しかしそれより多いのが水。
人間の体の約30%がタンパク質で約60%が水でできている。
つまりタンパク質に水を入れてこねれば人間ができるということ。

私はこのことをいつも栄養学で語ってきた。
だから、食べ物を選ぶ時は、お水とタンパク質に拘りなさいと。
汚水と質の悪いタンパク質ばかり食べていると、質の悪い人間ができることは容易にわかる。
なぜなら人間は代謝によっておよそ200日で生まれ変わっているのだから。

今なんらかの病気や症状を抱えている人は水とタンパク質を変えればすべて治るということ。

さて、量子論で考える太極拳。
その人間のほとんどが水でできている。
その水は水素と酸素でできている。
更にその酸素は原子核と電子から成り立っている。
太陽の周りを回る地球のように、原子核の周りを電子が回っている。
その原子核と電子の距離は、おおよそにして原子核が1㎜としたら電子までの距離は50mと言われる。
つまりスカスカだということ。

更にその原子核。
これは陽子と中性子からなる。
これが最小単位かと思えばそうではない。
まだある。
その陽子も中性子もいくつかのクオークからなりたっている。
つまり今解明されている最小単位はクオークだということ。

このクオークにもアップクオークとダウンクオークがある。

ここで思い出してみよう。
万物は全て陰陽からなるという東洋思想。
それがそのままこのクオークに当てはまってしまうのだ。

タンパク質と水からなる人間だけでなく、木も火も土も金もすべての最小単位はアップクオークとダウンクオーク。
つまり陰陽で成り立っているということ。

なんとすごいことだろう。
古くから伝わる東洋思想である陰陽説は最新科学である量子論によって解かれたということ。

今目に見えている物質は形あるものだと誰もが思っているだろう。
しかし、それは宇宙の始まりといわれるビッグバン以前(インフレーションの前)の小さな小さな目に見えない程の陰と楊のクオークから始まった。
そして地球にあるものすべても宇宙もすべてクオークで成り立っている。

実は物質を象っているのはクオークでありエネルギーであるということ。
言いかえると仮想現実となにも変わらない世界であるということ。

太極拳で極限まで体をゆるめるとなにが起こるか?

体がまるで煙のように空間の中に溶けていく感覚を得る。
そして氣のパワーが集まると光になる感覚。
恐怖のない幸福感だけの感覚。

これらすべて量子論と陰陽説で辻褄が合ってくる。

「できる」とか「できない」とか言うのは自分の思い込みでしかない。
なぜなら人間皆だれもが宇宙と同じクオークで成り立っている。

なのになぜ実力の差がでるのか?

それはエネルギーレベル。
私の経験では、回ってる感覚。
体の中で何かがぐるぐる回っている。
その正体が今でこそ電子であるということが解る。

つまり、その回る力でその差が出るのではないかと考える。

太極拳の功夫(実力)を上げることは、自分の存在も宇宙も全て知るということにつながる。
気功や太極拳、ヨガが今もてはやされるのは、今まさにこういう時期に来ているからなんだ。

どうだろう?
今執筆している自分もこのことに気付いた今、興奮と感動とともに人間の可能性が無限大であると感じざるを得ない。


2018年3月13日火曜日

内家三拳

私が頻繁に使っている施設では利用する前に利用者名簿に名前と種目を書くのだが、
その種目でいつも困る。

その日によって練習内容が変わるからだ。
太極拳だけの時は太極拳とだけ書けばいいが、形意拳や八卦掌をやることもある。
だからまとめて内家拳と書いている。

私が形意拳をやり始めてから数年経った頃、八卦掌はやらなくてもいいかなと思っていた。
太極拳と形意拳だけでも一杯一杯なのに、八卦掌まで入る余地がないと思っていたし、
くるくると舞って踊っているかのようにみえる八卦掌にあまり魅力を感じなかった。(感じた時期もあるが)

そんな私が八卦掌をやり始めたのはやはり師の影響が強い。
師がされることは全てカッコいい。
だからやりたくなる。
実に単純な理由(笑)

そして今、この内家三拳をやっていて良かったと思える場面がある。
それは自由推手や組手などの時。

太極拳は相手の力を無効化するのに有効。
相手にとっては、打てでも打てども空を打つことになり、それを返されてしまう。
しかし、ノーモーションで発勁されると聴勁や化勁が間に合わない。
(単に私のレベルがまだまだ未熟なだけだが)

その時に八卦掌の歩法が役立つ。
八卦掌は相手をかく乱させ、隙をなくすことに役立つ。
相手に打つ機会を失わせ、歩きながら突いたり倒したり・・
しかし、大きな破壊力に欠けるように思う。
(これもまた私が未熟だからだが)

形意拳は圧倒的な破壊力がある。
相手が打って来ると同時に飛び込むようにして打ち込む。
カウンターになるわけだが、そこに跟歩が入るから、相手が受ける衝撃は相当なものだと思う。
しかし形意拳もまた護身武術。
静止した状態で相手の出方を待つ。
いわゆる聴勁が遅れると自分がやられてしまう。

結局、内家三拳をやっておくことはとても便利だということに気付いた。

双辺太極拳はこの内家三拳すべての技をまとめてあるが、改めてこの太極拳が実に実戦的であるかがわかる。

とまあ、こんなことを考えていても一生使う場面はないのだが、
戦術を練ることは練習のひとつだと私は思っている。
それをモチベーションに稽古に励むことが出来るし、身の詰まった練習をすることができる。

それにより体も心も鍛えられ、病気しない丈夫な体をつくることができる。

またもや前回と同じ締めになってしまうが、
内家拳は健康法として最高だと思う。

2018年3月12日月曜日

定式ではない

最近私は演武をしなくなった。
音楽に合わせて太極拳を演武するのが楽しかった時代が終わったという感じだろうか。

今の自分の套路には規則的なリズムがない。
だから曲に合わない。

今のリズムは「採-引-渡-戻-増-圧-発」という流れで套路を練っている。
原理的にはターボジェットエンジンと似ているように思う。

そもそも太極拳は護身武術。
相手が打ってこなければ技を使うことはないし、
そもそも技が使えない。
だから推手で相手が打ってくることに対して慣れる必要がある。
恐れていてはいつまでたっても太極拳の技を身につけることはできない。

太極拳は相手の力を効率よく取り込みそしてそれを相手に返す。
その時に増幅することをする。
その増幅の方法こそ「地球の力を使う」ということになる。

相手からみれば、戦っているのは人間ではなく、
人間に見える地球ということになる。

なんだかややこしい話になってしまったが・・

今回話したかったことは、太極拳は定式ではないということ。
定式の部分だけをとれば、それは太極拳でなくとも、どんな武術や格闘技でも同じ。
いわゆる発する部分だから。
力いっぱい打てばいい。

そうではなく、その発するための方法が他の武術と違う。
その力をどうやって生み出すか?

私がこれまで師から学びながら研究しみつけた現段階の答えが、
相手の力をもらって、天地の力で増幅し、それを相手に返す。
その際に筋力は必要としない。

普段、私は自分の持ってる力を出すことは絶対しないが、
その力を生み出すための行いそのものが健康レベルを異常な程まで上げることができる。

全速で走っている学生達と並んで走ることが出来、
駅の階段も一段跳びでポンポン駆け上がり、駆け降りる。

普段ウォーキングやランニングもしないし、そもそも根っからの運動音痴。
学生時代、かけっこはのろまでいつもびりっけつだった。
そんな私が50代半ばにきて、確実にパワーが上がってきている。
風邪をひいて寝込むこともない。

太極拳の套路練習で大事なことは定式ではないんだ。
定式で発するために体の中で何を起こすかが大事。
私の場合、定式に行くまでの体の中は大忙しの状態になっている。

宇宙戦艦ヤマトが波動砲を打つ前、
機関室が大忙しとなるがアレと似ている。

その動きは明らかに演武ではなく、
発射するための準備をしているという感じ。

繰り返すようだが、これによって健康レベルが格段上がる。
そもそもパワーがなければ発射することはできない。
発勁の威力を高めようとする行いは体にイイということになる。

私が今、太極拳を通して一番伝えたいことである。

2018年3月9日金曜日

太極拳依存症

太極拳をやっているからと言って、他のことが疎かになっていないだろうか?

私は前職で美容健康関係の食品等を扱っていた。
ダイエットも私の専門分野だった。

そして、私の指示通りに実践して驚くほどスリムになった人もいれば
私の指示を完全無視して全く効果が得られなかったり逆効果になった人もいる。
そして、そういう人に限って私に文句をつけてくる。

それにしても、何故成功する人と失敗する人がいるのだろう?
理由は簡単。

例えばダイエットサプリ。
そのサプリがどんなに良いものでも、それに依存してしまったらおしまい。
いわゆるサプリ飲んでるから大丈夫と安心しきって、暴飲暴食をしてしまう。
そして逆太り。
これでは本末転倒。

太極拳もしかり。

太極拳やってるから多少お酒を飲み過ぎてもいいだろう。
太極拳やってるから多少の喫煙はいいだろう。
太極拳やってるから普段歩かなくてもいいだろう。
太極拳やってるから食べ過ぎてもいいだろう。
太極拳やってるから夜更かししてもいいだろう。

これ太極拳依存症なり。

よく考えてみて欲しい。
そもそも健康になりたくて始めた太極拳ではなかったのか?

依存してしまったら終わりということは、
誰もが今まで散々経験してきていると思う。
だから依存しそうな自分がいたら、自分に対して注意すべき。

誰かが言ってくれるだろう。
いいえ。
誰も言いません。
今は昔みたいに注意する人も減っている。
家族にしても。
誰も最初から相手が嫌がることなんか言いたくない。

こう考えて欲しい。

太極拳やってるからお酒を減らそう。
太極拳やってるから禁煙しよう。
太極拳やってるから引きこもってないで出歩こう。
太極拳やってるから食べ過ぎに注意しよう。
太極拳やってるから生活を正そう。

そう思って欲しい。
そうでなければ意味がない。

私はかつて喫煙者だった。
しかしある日からキッパリやめることができた。
そもそもやめようと思うからやめられない。

というか煙草というのはやめられないように作ってある。
中毒するようにニコチンの他に薬品をたっぷり仕込んである。
その薬品は厄介なことに発がん物質がほとんど。

おまけに最近の煙草は放射性物質まで含んでるから始末が悪い。
(知らない人はネットで調べてみるといい)
吸えば吸うほど内部被ばくする。
そして災難なことに周りにいる非喫煙者も被ばくする。
その場で吸っていなくてもだ。

吸い終わるとまた吸いたくなる。
すると誰からすすめられることなく煙草を買いに行きまた吸う。
だから煙草は儲かる。
中毒患者にすることでそれを売ってる人が大儲けできるのはアヘン戦争で十分学んでいるはず。

喫煙者は自分が騙されているということに気付いて欲しい。

ところで私は煙草をどうやってやめたか?
それは煙草を吸う代わりのことをみつけた。
それがヨガだった。

なぜヨガか?
私は子供の頃から体が硬かった。
だからヨガは私にとって苦痛。
煙草の禁断症状が出てきた時に、苦痛なヨガをやるとその痛みで吸いたい気持ちを忘れてしまうというわけ。

それに呼吸法も取り入れた。
煙草を吸うのはあのくらくらする感覚が欲しいから吸うのであって、
それは別に煙草でなくとも同じような感覚は得られる。
これもヨガの呼吸法。

空気を思いっきり吸う。
止める。
更に吸う。
止める。
更に吸う。
止める。
しばらくそのまま。

どうだろう?
くらくらしないだろうか?

煙草はずっと吸い続けるとくらくらしなくなる。
しかしこの呼吸法は何度でもくらくらを得ることができる。

習慣を変えるにはちょっとした勇気と工夫が必要。
太極拳をはじめたことで、今までの悪い習慣を変えようと努力して欲しいと思う。

なぜ見る?

定式(技が決まった瞬間)で手を見るのはなんとなくわかる。
しかし、過渡式(技に至るまでの動作)で手を見るのは何故だろう?と思ったことはないだろうか。

私は幼いころから丸暗記が苦手だった。
理由が解らなければ覚える気になれないし、
逆に理由が解れば覚えようとしなくとも覚える。

だから「手を見なさい」と言われても「なぜ?」という疑問が起きる。

しかし具体的に手を見る意味を教えてもらったこともなければ、
そのようなことが書かれた文献にも出会ったことがない。
(探せばあるのだろうが)

巷に溢れいてる太極拳本は動作のことしか書かれていない。
無敵!と書かれたタイトルに惹かれ買ってみたら、
無敵になる方法なんてどこにも書かれておらず動作の説明ばかりで面食らったこともある。

まあ、そんなことはどうでもよく
私は指導の際、何故見るかは「氣を集めるため」だと説明している。

氣というのは意識したところに集まる。
更に早く集めようと思えば見ればいい。
その部分を見れば嫌でもその部分を意識せずを得なくなる。

いわゆる見ることによって氣を集めているのではなく
見ることによって意識せざるを得なくなり、それによって氣が集まるということになる。

「意あるところに氣あり」だ。

実際に見れば氣が集まり、
私の場合はその部分がすぐにピリピリし、磁力のようなものを感じる。

氣のないところに勁(筋力ではない力)は出ない。

手眼相合(しゅがんそうごう)
は氣を集めるための手段であるということ。

2018年2月28日水曜日

脱力通氣

最近、脱力を最も心掛けている。

脱力脱力また脱力。

「力を抜いてしまうと何もできないじゃないか?」と思われる方もおられるだろうが、
そうではない。

力を抜ききった時に始めて氣の通り道が開く。
これを経絡が開くと言う。

その脱力レベルに応じて、流れる氣の量も変わる。
つまり力を抜けば抜くほど、
氣の通り道がたくさん出来るので大量に氣を流すことができるということ。

今、套路を練っている時、脱力を心がけながら
体の中を流れる氣の量を感じながら動いている。
確かに力を抜けば抜くほど、取入口から発射口まで大量に氣が流れ、
発射口が熱くなる。

脱力は力を失うことではない。
筋力以上の力を得ることなんだ。

2018年2月27日火曜日

鬆身法は太極拳

当会で稽古を始める前に必ず行う鬆身法「抜筋骨」
体をゆるめるための気功体操だ。

始めて間もない方々はおそらくこれを準備運動だと思っておられるだろう。
実は私もずっとそう思っていた。

しかし今は違う。
鬆身法はすでに太極拳なんだ。

全身を曲げたり、伸ばしたり
手を広げたり、閉じたり、回したり、振ったり・・

私は指導する時にいつも言う。
「カタチではなく気持ちいいと感じることが大事」だと。

準備運動というとなんだか義務のように感じる。
やっとかないと後で支障が起きる・・
それは一般的なスポーツをする前のことであり、太極拳は違う。

先程、鬆身法は太極拳と言ったが、逆も同じ。
太極拳は鬆身法なんだ。

太極拳の套路を練った後、いわゆる収勢の時、体がどうなってるか?
もし肩が凝っていたり、
手足が震えていたり、
脚に力が入っていたとしたら
正しい太極拳が出来ていなかったということになる。
それは力んでいたという証拠だから。

話は戻るが、
はじめて太極拳を経験する人は太極拳をする時、体がガチガチに硬直している。
それは無理もない。
形を真似ようとして力が入ってしまうから。

しかし、それは抜筋骨の時も同じで、
カタチを必死で真似ようとするあまりガチガチになってしまっている人をしばしば見かける。

私が抜筋骨を指導する時、
手の位置がどことか、どう動かすとかあまり細かなことは言わない。
そもそもそんなことはどうでもいい。

それよりも「ふわ~っ」とか「とろ~っ」とか擬音を多様している。
関西人ならではかもしれないが・・

先程も言ったように「気持ちいい~」と感じることが大事。
心がゆるめば体がゆるむ。
体がゆるめば心がゆるむ。

抜筋骨を義務にしない。
太極拳を義務にしない。

とっても気持ちいいことなんだ。

2018年2月20日火曜日

雨の中の神秘体験

今までにも何度かとりあげたが、
私は太極拳で神秘体験を経験している。

しかし、それをやろうとしてもできないし、
いまだにそれを再現できないでいる。

あの時は、仲間と延々とある公園で推手をしていた。
すると雨が降って来て「今日はもうやめにしようか?」と話していた。

しかし、気持ちは帰る気になれない。
まだまだやり足りなかった。

あちこち歩きまわり雨を凌ぎながら練習できる場所を探した。
散々歩き回ってみつけたところは屋根のある小さな休憩所。

そこを見つけたとたん、雨の降りが更に激しくなる。
しかし辞める気にはならない。

また仲間と推手を再開。
すると、しばらくして不思議な現象が起きた。

豪雨の中での推手で、何かが起きた。

体の中がスーッと光が入ってきて、自分の身体がまるで光の塊のようになった。
そして、体は氣(のようなもの)で満たされ体中が張り詰めた状態。
小さな針穴でもあければ、そこから勢いよく氣が飛び出すような感じだった。

頭の中は空だった。
まったく雑念のない状態。
寝ているようで起きてるような。
これが無の境地なんだろうかと思った。

そして私はどう変わったか?

相手の動きが見える。
いや、正確に言えば目で見えるのではなく、
相手の心がすべて読めてしまう。
いつ、来るか正確にわかり、そして体が勝手にそれを右へ左へといなしてくれる。

とにかくなんとも言えない程気持ちが良かった。
それは推手で相手の攻撃をいなせたことではなく、
その時の心の状態に。

恐れも、不安もなにもない幸福感だけの世界。

私の目標はそこへ辿り着こうとすることではない。
そこへ戻ること。

なぜ、あのような体験が出来たのか?

もし、あのまま雨が降ってきたという理由で帰っていれば経験できなかったこと。
恐らく、その後経験できないのは、
あともう少しのところでやめてしまうからだと思った。

神が力を与えて下さるのは努力に対するご褒美。
YouTubeや本ばかり読んでいても神は力を与えてくださらないだろう。
テクニックばかり追いかけ、仮に技術だけ身についても、
神技と言われる領域に行きつくことはないだろう。

なぜなら私が神秘体験をしたのは
豪雨の中一心に稽古に身を投じている時。

修行なくして道を極めることはできないと思った。

2018年2月17日土曜日

上げない、飛ばす

私は2年だけ制定拳を習っていた経験がある。

その時は、低い姿勢や脚を高くあげるためのストレッチや筋トレなどのトレーニングを強いられた。
伝統で育った私にとっては最初かなりの違和感を覚えたが、郷に入ったならば従うしかない。
正直辛かった。

いずれも、なぜそこまで低い姿勢をとる必要があるのか?
相手の上段突きや蹴りをかわすのであれば少しだけかがんだり頭を下げれば済んでしまう。

また、若くて俊敏な動きができるのならいいが、
中年になってから始めた太極拳。
とても若者のようにキビキビなんて動けない。
その分、低い姿勢から今度は立ち上がる時に時間を要するのでその間に相手に隙を与えることにもなる。
武術的には致命的だと私は考える。

また、足を高く上げることに関しても意味がわからない。
舞踊や体操競技として太極拳をするのなら高く脚を上げた方が見栄えが良いし、見ている者を楽しませることもできるだろう。
それはそれでいいと思う。

しかし、分脚や踵脚、更には端脚、採脚、膝打、擺蓮脚・・
どれも脚だけで攻撃するのではない。
太極拳の蹴り技というのは空手のような蹴り一本の技ではないのだ。

手と脚の両方を使い、
手は捌く、掴む、打つ、突く、絞める
脚は膝で打つ、脚で蹴る、脚をひっかける、膝裏を蹴り下ろす・・
これらの技を複合的に組み合わせ一つの技となる。

蹴り技は脚を上げるのではない。
飛ばすのだ。

蹴り技といえば、
空手、キックボクシング、ムエタイ、テコンドーなどいろいろあるが、
脚を上げるとは言わない。

師匠も、蹴り技の時に脚を上げるとは仰らない。
飛ばすと仰る。

私も飛ばせる蹴りができるようになりたい。

2018年2月15日木曜日

鍛えなければ鍛えられる?

太極拳を始めとする内家拳の鍛錬を行っていると体が丈夫になってくる。

風邪をひきにくくなる。
メンタルが強くなる。
怪我しにくくなる。
怪我しても治りが驚くほど早くなる。
多少の衝撃では倒れなくなる。
打たれても痛みを感じにくくなる。
逆に打った方が痛みを感じるようになる。

などなど。

内家拳の不思議なところは、鍛えるのであっても決して筋肉を鍛えるのではない。
いや、正確に言えば目に見える筋肉ではなく内筋・深層筋(インナーマッスル、コアマッスル)を鍛える。
だから見た目はムキムキにならない。

鍛錬法は?

姿勢を正し、
呼吸を整え、
気を沈める。

これだけ。

いわゆる物理的な筋肉を鍛えるのではなく気の筋肉を鍛える。
そのためには力を入れてはいけない。
脱力に脱力を重ね、無駄な力を極限まで抜く。

すると、体の中に気がすーっと通い始める。
それにイメージを加えると気の量を増加させることができる。
そして気によって体が満たされた状態になる。

筋力という物理的エネルギーではなく、
原子のパワーが上がるという感じだろうか?

頭や体のコンディションが最高レベルになると、なぜか体の中で何かが回転していることを感じる。

ぐるぐるぐるぐる高速回転する。

頭が冴えてる状態を頭の回転が速くなるというが、
それが体にも起こる。

難しい話はあえて省くが、
とにかく眠っていた細胞が起き、活発に動き出すという感覚。

太極拳をやればやるほど、
姿勢を正し脱力して立つということが重要だということが感覚的わかってくる。

いわば、
姿勢を正しリラックスするだけで人はいくらでも強くなれるということ。
人間は本来強いんだ。

2018年2月13日火曜日

予測しない

昨夜、弟子と散手稽古をしていた時に流れで自由推手になった。
自由に動き回っていいので、これがまたなかなかむずかしい。

近づけば逃げられてしまい
軸をとって崩そうとしてもやはり
いなしながら手と足で逃げられてしまう。
ほんの一瞬の隙を狙うしかない。

散手の場合は相手が打ってきたり掴んできたりした場合の技が決まっていて
それを繰り返し練習するが、
推手の場合は手を触れておくというルールはあるものの、散手より自由度が高い。

隙あらば打ったり崩したりしてよく、
散手では得られない感覚を磨くことができる。
いわば、やらせ一切なしの真剣勝負だ。

そのようなことで今回も特に意識したことは、
相手の動きを予測しようとしないこと。

予測しなければ崩されてしまうのでは?!
と、思うかもしれないが、
それならそれでいい。

崩されたからと言って死ぬわけでもなく、地球が滅びるわけでもない。
逆に言えば、崩されなければ聴勁や化勁を鍛えることは決してできない。
崩されまいと力で抑えようとしたり踏ん張ったりしても、それは太極拳ではない。

太極拳の心得をひとつにしぼるなら、
「用意不力」
つまり力を使っては絶対ダメということにする。
自分の中で使用禁止にする。

力を使わないのは筋力だけではない。
頭も同じ。
脳力を使おうとしない。

もしかしたら次あたり相手が打ってくるんじゃないか?
これ雑念であり妄想なり。
こんなものは燃えるゴミとして収集日に捨ててしまおう。

私が得た感覚は
予測しようとしないことこそが自然と予知力を生み出す。
恐れない。
自分を信じる。

仮に崩されても多くのことを学べる。
崩すことができても学べる。
どっちに転んでも自分にとってプラスのことしか起きないんだ。

すべてを受け入れる。

そんなことをいつも念頭において推手してるが、
まだまだ雑念が湧いてしまうことがある。

更に修行を積もう。

太極拳に実体なし

師が楊式を練り出すと空気が動き出す。

何度真似ようとしても真似られない
その理由がわかった。

それは実体がないから。

風や火に形がないよう
師の楊式には形がない。

風のようにいなされ
炎の如く打たれる。
それはまるで龍のよう。

師の動きには演じる意識がまったくない。
演じるというより念じるという感じにみえる。

何を念ずるのか?

私はまだ入り口に立ったばかりだが、
その意識の動かし方や自分の動きの変化を感じようとすると
今までにない太極拳が見え隠れする。

2018年2月2日金曜日

弱いは強い 2/2

(前回の続き)

最近、脱力だけでなく弱い力に拘っている。

手を上げたり出したりするのは最小限に。
相手との接点は最小限に。
相手を崩す時の力も最小限に。

微弱な力ほど、相手はそれをすぐに察知することができない。
そして弱い力ほど相手の中にすんなり入ることができる。
そして自由自在に氣を送ることができるようになる。

逆に強い力はすぐに見破られてしまい、簡単にいなされてしまう。
しかし弱い力は?

実は弱い力に関して言えば、これは医療にも役立つ。
私は20代の頃酷いぎっくり腰を患ってしまい、片足で立てなくなってしまった。
そして行ったのが職場の人に紹介された磁器と気功の治療を行う治療院。

行った施術は、私の仙骨に極々微弱な磁気を送るというものだった。
私の体には一切触れず、小さな器具から微弱な磁気を送られる。
次第に私の身体に変化が起きだした。

1時間2時間経過するごとに、体がどんどんだるくなりだしたのだ。
これは体の治癒力が働き出したということ。
体が腰を治すことにパワーを使っているので、その他の力が出なくなってきたということになる。

そして翌日、私の身体に異変が起きた。
なんと、あの酷かったぎっくり腰が完全に治っていたのだ。
まるで魔法にもでもかけられたような気分だった。

約30年も前の話だ。

今でこそ、整体院では、ボキボキしない整体が流行っているようだが、
私はそれを30年も前に経験している。
しかもその施術が行えるのは日本に5人しかいないと言われていた。

曲った背骨を真っすぐにする力は自分自身が持っている。
しかし普段の悪い姿勢を続けていると戻る力がそれに負けてしまう。
どうすればよいか?

腰痛は自分で治せるのだ。

仙骨と丹田は繋がっている。
腰をゆるめ、丹田に十分氣を溜める。
そして痛む腰の部分に意識を送る。
すると患部である腰に氣が集まる。
氣が集まると、今まで滞っていた血がどわーっと流れるような感覚が得られる。

我慢できない腰痛なら整体院や病院に行けばいい。
しかし、実際に体を治すのは自分であるということを忘れてはいけない。
依存してしまったら、治癒力が下がり、ますます症状は悪化するだろう。

折角太極拳を始めたのだから、
単に、人前で演武するだけではなく、
自分の身を自分で守り、自分で治すチカラを身につけて欲しいと
私は思う。

もう一度まとめておく。

相手を倒したり、自分の病気を治したりするのは
強い力ではなく弱い力であるということ。
強い力を加えても自分も相手も拒絶するだけ。
自分も相手も受け入れる小さな力を使うこと。

弱いは強い 1/2

最近、皆の前で套路を通す時、形は一切気にしない。

ひたすら脱力。

まだまだゆるめる、
まだまだゆるめる、
もっともっと。。

体の中を流れる氣を感じながら・・

すると体内が氣で膨張してくるかのように張り詰めてくる。

この5年程、伝統と表演を平行して行ってきたが
去年の7月に試合を引退し、今は100%伝統にスイッチした。

人の目を気にしない世界はこんなにも気持ちいい。
宇宙をさまようように、体の中の小宇宙をさまよう感じ。

套路を練っていると、
体が水になり、
風になり、
電気になり、
プラズマを発する。

掌がピリピリするのは、
体内の氣と体外の氣の摩擦によりスパークを起こしているから。

手が熱くなるのは、
手を意識することで氣が集まり、
氣が集まるとそこに大量の酸素と栄養が送られる。
すると細胞内のミトコンドリアで酸素と糖が結合しATPが発生。
その結果熱を発する。

だから手が熱くなるということは、
正しく手に意識を送ることが出来ているということ。
熱そのものは氣ではない。
氣が熱を作り出している。

気功治療は、手をかざすことで、そこに氣を送ることができる。
先程も説明したように氣が集まると、その部分に酸素と栄養が集まる。
結果その部位に必要な物資(栄養)とそれを働かせるための酸素がたっぷる送り届けられ治癒力が上がるというしくみ。

壊れたものを修復しようとしたら、必要なものは人手と修理に必要な物資。
人手は血であり、物資は栄養と酸素ということになる。

氣の不思議な力はそれだけではない。
実体験を元に言うならば、氣で人をコントロールすることもできる。
言いかえれば、相手は自分であり、自分は相手ということ。

とはいうものの、いきなりそんなふうにイメージしても、最初はなかなかうまくいかない。
その理由はまだ自分の中で十分氣を巡らせることができないから。

(次回に続く)

2018年1月24日水曜日

ふわとろ

最近套路を練る時に呪文のように唱えているのが
「ふわとろ」

先日、下実上虚(上虚下実)について書いたが、
それをわかりやすく言うと「ふわとろ」になる。

ふわ~っと空気に溶けるような感覚と、
とろ~っと蕩けるような感覚。

どちらもとても気持ちいい。

套路を始める時の予備勢の段階で体を十分ゆるめておく。
どれぐらいゆるめるかというと、
立っているのがやっとという程度に。
ふらふらしたっていい。

地震大国ニッポン。
どのビルやタワーも柔構造でできている。
やわらかい=強い である。

ビルだけではない。
飛行機の翼も柔構造。
あれがもし硬くビクともしないように作られていたら、
乱気流にでも出くわしたら翼はカンタンに折れてしまうだろう。
飛んでる時の飛行機の翼をみているとゆらゆらゆらめいてる。

そんなわけで、
強くなるために、やわらかくなろう。

脱力すると体がとろ~っと蕩けて重心が下に落ちてくる。
普段、地球の引力を意識して生活している人はいないと思うが、
太極拳をしている時は引力をたっぷり感じながら動く。

そして地球には引力とは反対の力(斥力)もある。
上に引っ張り上げられる力。
地球自転による遠心力だ。

地球は時速約1700㎞で自転している。
猛スピードで回っているのだ。
そうすると当然遠心力が働く。
それでも地球上のものが吹っ飛ばされないのは引力のお陰。

この引力と遠心力を感じながら動く。
感じるためには使う筋力を最小限にしなければならない。
小さな音を聴くためには耳を澄ませないといけないのと同じで、
普段感じることのない地球の力を感じるためには
耳を澄ます代わりに極限まで力を抜くのである。

体の中に取り込んだ氣は脱力することで液化し下へ下へと沈んで行く。
そして残った氣が気化し空気の中に溶け込もうとする。

これがふわとろの原理。

この感覚が嫌いな人はまずいないと思う。
誰もが好きだと思う。

もし、この感覚を味わうことが出来たら、
太極拳が病みつきになるのは間違いないだろうし、
そうなると健康街道まっしぐらということになる。

2018年1月20日土曜日

重さは力なり

アインシュタインの相対性理論の方程式を武術的に捉えると?

E=mc2

この式は以下のことを意味する。

エネルギー=質量×光速度の2乗

容易く言うと重力のあるもの程エネルギーが強いというものだ。
これは質量の高いものほどエネルギーが強いとも言える。

なんだか余計ややこしくなってしまったが、
今回のタイトル通り"重さは力なり"ということ。

以前書いたことのあることだが、
勁というのはまず心から始まり、それが意識を生み出し、気を通し、それが勁となって力となる。

いわゆる、心>意>氣>勁という順になる。

私の勝手な解釈では心とは頭脳ではなく魄であると。
勁力というのは脳の指令によって作り出されるものではなく、魂のパワーそのものだと私は思っている。

そのひとつの理由として、考えてから打った力はあくまでも筋力であり、
その筋力には表面的な衝撃を与えることができても貫通力がない。
これは直接師に勁を打ってもらったり、ミット打ちなどで何度も経験してきたこと。

ところで、意識とはなんだろうか?
これを医学的、物理的に解釈するなら一種の電気信号。
電気はほぼ光の速度で伝わる。

これを気功的に解釈すると?

氣というのは意識したところに集まる性質がある。
これを意気相連という。

体を極限までゆるめると体に氣が充満してくる。
この時の感覚は体がずっしりと重くなったような感じるが、
だからといって体重計に乗って実際に体重が増えるわけではない。
ここが氣の不思議なところ。

いずれも意は光の速度で伝わり、それが氣を生み出す。
無論体を硬直させていては氣をたっぷり体の中にめぐらせることはできない。
ふわっとしたスポンジはたっぷり水や空気を含むことができるのと同じで、
体をゆるめなければ体の中に気を充満させることはできないということ。

いずれも、氣をたっぷり集めることが出来れば、
後は意識の速度でそれを勁というパワーとして出力することが出来る。

先程もお話したが、意=氣 なのだから、
言いかえれば氣は光の速度で進むことになる。

因みに氣は目に見えない。
しかし空気(空間)を歪めることはできる。
氣そのものは見えなくとも空間の歪みとして見ることはできるし、少なくとも私は何度も見てきた。
水面に石を落とすと波紋が出来るが、それが空間で起きる。

太極拳は力で戦う武術ではない。
はっきり言ってしまえば宇宙の力を使うのが太極拳。
宇宙と同化するには極限までゆるめること。

邪念も力みもなにもかもすべて放出し
体の中に氣を充満させるためのスペースをつくる。

信じる信じないの話ではなく、
それを科学が証明しようとしている。

2018年1月18日木曜日

考えるのをやめよう

練習をしている時に考えるのはやめよう。

考えたってなにも答えは出ない。

習ってもいない漢字をどんなに考えても読み書き出来ないのと同じで、
套路を練る時も推手や散手をしている時もすべきことは考えるのではなく
"見る"
"感じる"
だ。

考えながら動くと動作がギクシャクする。
それもそのはず、
手足、体すべてを脳でコントロールしようとしても、とても間に合わない。
車の運転を、イチイチ考えながら操作していたらとても危険なことになる。

習うより慣れろ。
考えるより真似ろだ。

赤ちゃんが言葉を覚えたり、立って歩けるようになるのは、
考えて喋ったり立とうとしているのではなく、
親がしていることを真似ようとしているだけ。

子供の頃は大人のしていることが羨ましく、自分も早く大人になりたいと思った。
そして懸命に親の真似をしようとする。

先程言ったように、
真似る、
そして、それを何度も繰り返す。
それだけ。

私が太極拳を始めたばかりの頃は、とにかく先生の動きを真似た。
始めたばかりのころ、先生と自分が演武している動画が残っていて
久しぶりにそれを見ていたら、自分の動きがまるで先生と同じだった。

カメラの位置から時折重なって見えるのだが、
それでもその重なった部分からほとんどはみ出すことなく動いているというのを見て改めて驚いてしまった。
確かに当時の私は先生に憧れ、とにかく先生の真似をしようとした。

先生が動きを変えれば自分も変えた。
そのことを先生に尋ねると「常に進化しているから」とのことだった。
覚えても覚えても先生は進化していき、ついていくのがやっとだったが
当然のことながら、そのことに対し不満を漏らしたり文句を言ったことなど一度もない。

先生が変われば自分も変わる。
先生が進化すれば自分も同じく変わることで進化できるということ。

自分で言うのもなんだが
私はこういう自分の素直なところが好きだ。

考えながら動こうとするのをやめよう。
先生というのは教える人ではなく手本を見せてくれる人なんだ。

2018年1月16日火曜日

下実上虚

なんとなく昔の資料をひっくり返していたら
太極拳で重要な十六の言葉が記されたコピーが出てきた。

何度もコピーしたものらしく、文字ははっきりしないが
その中でぱっと目に入った言葉が、下実上虚(かじつじょうきょ)

なぜこの言葉が目にとまったかは自分でよくわかっている。
最近套路を練る時、特に意識していることだからだ。

この下実上虚がしっかり出来るようになると、動作がとても安定してくる。
やわらかい動きなのにずっしりとした重量感を出てくる。
そして、気の通りが良くなる。

この言葉の意味は特に記されていないが、
一言でいえば「重心を落とせ」ということになるかと思う。

足腰はずっしり。
腰から上はふわっと。

最初のうちはどうしても逆になる。
なぜなら、最初はどうしても手で動こうとしてしまうから。

手が動こうとすると腕や肩に力が入り、
その一方、足腰がまだ出来ていないからふらふらする。
ふらふらするから、尚のこと上半身に力が入り、重心が上がってしまう。
そのことでまた更にふらふらする。
全くもって悪循環であるということ。

だから下実上虚なのだが、
そうそうすぐにできるものではない。

どうすればいいか?

当然のことだが、練習しかない。

ちなみにこの下実上虚、下半身に力を入れるのではない。
気を沈めるということ。
力はどこにも入っていてはいけない。
自分がまるで水の入った皮袋になったかのごとく、
体まるごとゆるめなければならない。

そうすることで自然と下実上虚になる。

ひとりよがりになるかもしれないが、この感覚が実に気持ちいい。

本当においしいものは香り、味、舌触り、歯触り、そして後味までおいしい。
套路ひとつでこれほどまでに楽しめるのかと思うほど。

これこそが伝統太極拳の醍醐味と言えよう。

2018年1月12日金曜日

生涯学び続ける

昨夜の稽古の時、会員さん達の前で「私は生涯学び続けます」と発言した。

何故こんな発言をしたか自分でもよくわからないが、
私の目標は良い先生になることではなく、良い修行者になることだから。

死ぬまで学び続け
死ぬまで研究し続け
死ぬまで修行を続ける

逆に、教えるだけの人になったらそれは自分にとって「死」を意味すると思っている。
進化が止まってしまう。

私をそう奮い立たせてくださる先輩の先生方は大勢おられる。
そして私はまだ見ぬ未知の世界に挑戦し続けたいと思っている。

私にとって生きることとは老化と闘うことではなく進化すること。
非常識と思われるだろうが、太極拳を行っていると自然とこういう考え方になる。
死を迎える直前が一番進化した自分であり、一番美しいと思っている。

太極拳を始め15年経った今でも「これからが始まり」と思っている。
いや、正確には、まだ始めるための準備も出来ていない。

邪念に囚われることなく自分の進むべき道を歩んでいくためには
いらないものを整理しなければならない。

特に今はそのことを意識し、身の回りと心の断捨離を行っている。

今まで学んできた内家以外の武術は全て捨て、
制定された套路や競技用套路もすべて捨てた。

捨てるというのは今後やらないということ。
やらないのはすべきことを全うするためであり、絶対必要なことだと思っている。

かといって今まで学んできたことが無駄だったわけではなく、それも必要なこと。
これまで学んだことは自分の中で血となり、氣となり、水となって生き続ける。

人間はなにもしないでいると、老化が進むだけ。
しかし太極拳の修行を続けていくと進化することができる。
それは死後魂となっても生き続ける。

こんなふうに考えると太極拳に出会えて本当に良かったと思える。

2018年1月6日土曜日

信念岩をも通す

先日、飛んでる矢は止まっているという話をしたが
今回はその逆。
信念岩をも通す、
信念山をも動かすという諺。

この言葉をそのまま受け取ると「そんなことあるわけない」と思うが
これはあくまでも信念にはそれだけの力があるという例えであり、
念によって岩や山を動かすことは実際できない。

しかし、
私はこの諺を知った頃からほのかに「実際にできたらどんなに素晴らしいだろう」とずっと考えてきた。
そしていろいろ勉強するうちにこのことが可能だとうことに気付いた。

まず岩を通すことはとても簡単。
何故なら、意はそれが岩であろうが鋼鉄であろうがそれを突き通すことができる。
岩の後ろに意識を送ればすでに意は岩を通したことになる。

人間は思考することで様々なものを生み出してきた。
高層ビル、宇宙ロケット、MRI、コンピューター、インターネット、GPS・・
どれもつい100年前にはなかったもの。

現在というのは過去の未来であるということ。
要するに、「今」は過去の人々が思い描いた夢の結晶なのである。

それだけ意や思考にはパワーがあるということ。
山を動かすどころか山を破壊するミサイルだって今はある。

量子力学的に見れば、人も岩も山もすべて原子でなりたっており、その原子も、原子核と電子の運動によって成り立っている。
つまり、人間というのは原子核の周りを電子が回る原子の集合体であり、
固体だと思っている人間は実際はスカスカの宇宙空間でありエネルギー体であるということ。

目でモノを見ようとするとどうしても表面しか見えないが、
意で見ればどんなものも貫通して見ることが出来る。

なぜなら人間も岩も山もすべて原子で成り立っており、
量子力学的に最小単位でみると、実際は「存在しない」ということになってくるからだ。

映画マトリックスで、ある超能力を持った少年がスプーンを曲げながらこんなことを言う。
「曲げようと思ったら曲らないよ」
「そうじゃなく、真実を見ようとしなきゃ」
「スプーンはないんだ」
というシーン。

この映画が公開されてから今に至る約19年もの間、ずっとこの子の言ったことが気になっていた。
あまりにも意味深な言葉で単なる台詞とは思えなかったからだ。

そう、スプーンは実際にはない。
マトリックスのように仮想現実だからではなく、原子レベルで見れば、空間の中にスプーンを構成する材質の原子が集まっているだけで、実際、空間であることには変わりない。
こう考えると実際スプーンはないことになる。
それどころか、ある説によると、そのスプーンですら自分自身が勝手に作り出しているとも考えられている。

私はこれまで、気功や套路を練る時に、空間に溶け込む感覚や、
推手で相手を感じたり、相手に意を通して崩したり・・
この辺のことは素粒子(物質の最小単位)レベルで考えるとすべて辻褄があってくる。

感覚は嘘をつかない。
そして自分の感覚は正しかったということがなにより嬉しい。

私は今までどちらかといえばスピリチュアル派で、
人間を大量虐殺してしまうような化学力は地球から消えて欲しいと願ってきたが
今ではその科学の進歩にとても感謝している。

人間が支配欲や金銭欲から解放され
自分がなぜ誕生し、どこに行こうとしているのか?
ということをテーマに生きて行ける時代が来ることを強く願う。