2014年11月8日土曜日

青空と表演

同じ太極拳を行うにしてもその場所によって内容は大きく変わる。

始めて習った太極拳をまず自宅でやってみた。
というより体が勝手に動き出したと言うのが正しいだろうか。

仕事中デスクに向かいながらも手は雲手(うんしゅ)、
リビングでは玉女穿梭(ぎょくじょせんさ)、
廊下では野馬分宗(のまぶんそう)、玄関にぶち当たるまで繰り返す。
トイレでも便器に座りながら雲手。

そうこうしながら部屋の中でやるだけでは物足りなくなり
近くの小さな児童公園でやってみた。
場所を次々と変え、近所の遊歩道や、少し大きな公園、そして河原・・

いわゆる太極拳はどこでもできるのだ。

2年程前に習っていた先生は、梅田から天満橋まで形意拳を打ちながら帰ったらしい。
新快速の中でも先頭車両から最後尾車両まで跟歩(こんぽ)で歩いたとか。

そんな話を思い出し、
いつか終電でうっかり別の路線に乗ってしまい家に帰れなくなってしまった時のこと。
已む無く下された駅の近くのファミレスで少し時間をつぶし、そこから駅までの1.5㎞ぐらいの距離を形意拳を打ちながら歩いてみた。
真夜中にだ。(笑)

するとなんだか更に体がソレを欲しがるので、
駅近くの大きな駐車場で思う存分形意拳を打つ。
真っ暗闇でだ。(汗)

タイトルと話がそれてしまったので話を戻す。

青空と表演は違う。
青空は演武を人に見せるのではなく、自然との融合がテーマだ。
誰も見ている人はいない。
だから内面の世界に集中することができる。

一方表演は人様に見て頂く。
なので内面探求している暇などない。
といっても美しさとは内面から湧き上がるエネルギーによって作り出されるものだと信じる。
決して形作ろうとして生まれるものではないと。

自分の中の自分を思いっきり放出させる感じと言おうか。

これは裸の自分を見せるよりも恥ずかしい。
何しろ自分の中の自分なのだから。
しかしその羞恥心を超えた時に素晴らしい演武が生まれるのだと思う。

私は教室では自分の中の自分は出さない。
というか出せない。
スイッチが入らないのだ。

このスイッチは大勢の人前に立った時の緊張した空気の中で初めて入る。
この時の心の声は・・
「もう逃げられない。やるしかない。」だ。