2016年3月25日金曜日

運動神経ゼロでもできます

私は今、太極拳を教えているが
元々は運動神経ゼロ。

身体を動かすことにこれほど打ち込んだのは太極拳が始めて。

かけっこはいつもビリ。
ボール受けられない。
ボール投げても10メートルも飛ばない。
バッティングセンターで一球も打てない。
ドリブルできない。
レシーブすると明後日の方向へ。
トスできない。
フリスビー投げても明後日の方向へ。
スキー滑れない。
ドッジボール受けられない。
水泳で飛び込みできない。

嫌になるほど運動神経が鈍い。
お蔭で学生時代、団体競技はいつも大顰蹙。

そんな私でも太極拳ならできます。
そして太極拳は老後元気に過ごすことに役立ちます。

ボールを遠くに投げられても老後元気でいられるかどうかわかりません。
かけっこが早くてもいつまで若々しくいられるかどうかわかりません。

太極拳の基本は立つことから始まります。
生まれてから立つ練習をしたことがありますか?
赤ちゃんの頃、立ったり歩いたりする練習をしますが、
正しく立つ練習はしません。

次に歩く練習をします。
ゆっくりゆっくり歩きます。
ゆっくり歩くことは最初難しいが、出来るようになるとそれが逆に気持ち良くなります。

そして、今度は手を動かしてみます。

こうして考えると
なんだか太極拳の練習はリハビリのようです。

だから誰にでもできます。

なのに、どんどん元気になり、
どんどんスリムになり、
肌のハリ艶がよくなり、
そして体が丈夫になります。
おまけに護身術も身についてしまいます。

いいことづくめの太極拳だが、
私のように運動神経ゼロでもできるのです。

2016年3月24日木曜日

スマホ病、ケータイ病からの脱却

スマホ病といのが流行っているらしい。
いつも下を向いてスマホを長時間操作しているので首が曲がってしまうのだ。

私はスマホいじりはあまりしないが、それ以前にパソコン病になった。
在宅ビジネスを始めた17年前から首が前倒しはじめた。
一日15時間パソコンと向き合っているなんてざら。
いわゆる朝起きてから寝るまでずっとパソコンと向き合っているわけだ。
首が曲がってもおかしくない。

以前、整形外科でレントゲンを撮ってもらったら首が曲がっていると先生に言われた。
明らかに職業病だ。

首を前倒させると何が起きるか?

頭の重さは成人で約5㎏と言われるが、その重い頭を細い首の筋肉で支えなくてはならない。
一瞬ならまだしも何時間もの間重たい頭を首の筋肉で支えなくてはならない。
すると筋肉は次第に固まってくる。
筋肉が固まると血行不良が起きる。
それがコリの原因だ。

それだけではない、血行不良が起こることで頭に十分な酸素と栄養が行き届かなくなる。
するとそれが頭痛の原因になったり、目を酷使することで目の奥が痛くなったり
はたまた顎が痛くなったり。。

首で支えきれなくなったら肩、背中の筋肉でも支えようとするからどんどん連鎖的に首だけでなく肩も、背中も痛くなる。
とにかく悪循環なのだ。

スマホを置いて、気功を行おう!
パソコンから離れて太極拳を行おう!

顎を後ろに引き首をまっすぐにして、その姿勢で行う。
これを虚霊頂勁(きょれいちょうけい)という。

気功、太極拳では最も大事なこと。

首を前倒させることによるデメリットは書いた。
次に首をまっすぐにするメリットだ。

まず上記のあらゆる症状が緩和される。
肩の力を抜き首をまっすぐにするだけでもすーっと首や肩がラクになる。
頸椎をまっすぐにしてその上に頭が載るようにすれば、首の周りに付随する筋肉がゆるむ。
すると、気の通り道である経絡が開き、血管が開き、気血のめぐりがよくなる。

人間体のつくりは、食べた栄養や、酸素はまず脳に運ばれる。
その後に体全身に送られる。
しかしその脳に行く前に首の筋肉が硬直しているとそこで気と血の渋滞が起きる。
結果、体全身にも十分な酸素と栄養が行き届かなくなる。
逆に言えば、首を伸ばせば体全身の健康を取り戻すことが言える。

それだけではない。
頸椎を伸ばして気功を行うと天と繋がり体全身にパワーが送り込まれる。
身体にエネルギーが満たされるような感覚だ。
その時の状態には不安や怖れはない。
ただただ無限の自信が漲ってくる。

ここでわかることは、頸椎は天からのパワーを受信するためのアンテナだということ。
ラジオのアンテナでも正しい方向に向けないと受信できない。
それは気功も同じ。

頸椎をまっすぐにし、天に向ける。
それによって天とつながり絶大なパワーが体内に宿る。

パソコンの仕事をしている人を見ていると首が前に曲がっている。
だからこそ気功を行って欲しいと思う。
ちょっとした合間でもいいのだ。

スマホ病、ケータイ病、パソコン病から脱却するためにも気功を行うことを強くおすすめします。

2016年3月15日火曜日

時間を忘れる

立禅を行っていると時折時間を忘れる。
あまりの気持良さに瞑想状態に入ってしまうのだ。

はっと気がつくと、私は皆の前に立っていたことを思い出す。

しまった・・
何分ぐらい経ったろう・・
皆キツくなかったかな・・

そんなことを思いながらまた立禅を続ける。

最初の頃は、始またばかりの会員さんが辛くならないよう心の中で数を数えたりしていた。
しかし今ではそれをしなくなった。
時間を計る行為に意味がないと感じたからだ。

立禅で一番大事なのは姿勢。
悪い姿勢で立禅を行っても全く意味がないどころか逆効果になる。
正しい姿勢になるとそれだけでも心の乱れが消え、とても安らかな気持ちになり
そしてやがて“つながる”感覚が得られる。

だからまず私は姿勢を正すことを徹底的に指導する。

正しい姿勢が自分で出来るようになったら、
心を鎮め自分が自然と同化していくイメージをしてみる。
そこから時間から解放された世界に入る。

現代人は常に時間で動いている。
一般生活を送っている限り時間の柵から抜けることはできない。
そしてそれは死ぬまで続く。

だからこそ時間を忘れることが大事だと私は思う。

立禅に入ったら時間を忘れてみよう。
忙しい最中に行っているならやむを得ないが、その瞬間だけでも時間を忘れてみよう。
時間から解放された時こそ、深い瞑想状態に入り、やがて自分の存在の意味が見えてくる。

私の場合、時間を短くしようと思えば長くなり、長くしようとすると短くなってしまう。
言い換えれば、“やらねば”から“やりたい”に変わるということ。
やればやるほど気持ちのよい立禅。

気持ちいいのに、心が安らぎ体が丈夫になります。

2016年3月10日木曜日

まずは真似る。そして次に

私が太極拳を始めたばかりの時、
師匠の動きに憧れとにかく真似てみた。
子供が大人の真似をしたがるアレと同じ。

真似て真似て真似まくっていたら、師匠の癖や仕草まで移ってしまった(笑)

でもそれさえも嬉しかったのを覚えている。
とにかく師匠に近づきたかった。

とにかく最初は真似ることから始まると思う。
そして師匠からも認められるように動けるようになったら、今度は自分で動いてみる。

真似ている時はその情報を脳に溜めているのだが、そこで終わってはいけない。
脳で動いているうちは本物の太極拳にならない。
その時点では手と足が師匠の動きに似ているだけ。

でも何か違う。
真似てるつもりなのだがどうしても師匠と同じ動きにならない。
太極拳を始めて何年か経ったときにそれを感じた。

ではどうすれば?

「気沈丹田」と言う言葉があるが、脳に蓄積した情報を丹田に沈める。
そうなると今度は「真似る」ではなく本当の太極拳の動きになってくる。

頭で考え動くのではなく腹で考え動くようにする。
もっと言えば丹田に任せる。

動こうとするのではなく、動かされるという感覚。
最高に気持ちいい。

こうなるまでにはやはり時間がかかる。
修行あるのみ。
でも、それによって得るものは本当に素晴らしいし、
もっともっと修行したくなるのが太極拳だと思う。

2016年3月3日木曜日

本を読むと強くなる?

私自身、中国武術が好きなので何冊か専門書を読みましたが、
かといって、それで上達するわけでも、強くなるわけでもありません。

本を読んだ知識で上達したり強くなった気分になってる方をたまにお見かけしますが、
ハッキリ申し上げてそんなことはあり得ません。
本を読んで強くなれるのなら苦労はないし誰でも強くなれます。

もし本に書かれていない想定外の攻撃を受けたらどうでしょう?

予備知識として入れておくのはいいでしょう。
しかしそれらがすぐに役立つわけではないです。

私が本を読む時は必要な部分しか読みません。
読破したからと言ってすべてがプラスになるわけではないと思うからです。

私にとって本は道しるべだと思ってます。

来る日も来る日もひたすら無心で鍛錬し、
それが何か月後か、何年後かになって始めて本の知識が役にたってきたり、
解らなかった意味が解ってきます。

本が先ではなく、鍛錬が先で本は後なのです。
考えてから動くのではなく、動いてから気づくのです。

私は学生時代決して成績がよくありませんでした。
そのため成績優秀な人に対し強いコンプレックスを持ったこともあります。
そしてそれはいまだに根付いています。

武術とは鍛錬の中で気づきを得て行くものであり、
逆に言えば気づきを得るために鍛錬する。
座って本ばかり読んでないで、
外に出てどんどん体を動かすことが大事だと思います。

まあこんなことを言いながら本を読むのが苦手だから悪あがきでこんなことを言ってるのかもしれません。
読書の好きな方どうか気を悪くされないでください。
私は考えることが苦手なだけです。