2018年2月28日水曜日

脱力通氣

最近、脱力を最も心掛けている。

脱力脱力また脱力。

「力を抜いてしまうと何もできないじゃないか?」と思われる方もおられるだろうが、
そうではない。

力を抜ききった時に始めて氣の通り道が開く。
これを経絡が開くと言う。

その脱力レベルに応じて、流れる氣の量も変わる。
つまり力を抜けば抜くほど、
氣の通り道がたくさん出来るので大量に氣を流すことができるということ。

今、套路を練っている時、脱力を心がけながら
体の中を流れる氣の量を感じながら動いている。
確かに力を抜けば抜くほど、取入口から発射口まで大量に氣が流れ、
発射口が熱くなる。

脱力は力を失うことではない。
筋力以上の力を得ることなんだ。

2018年2月27日火曜日

鬆身法は太極拳

当会で稽古を始める前に必ず行う鬆身法「抜筋骨」
体をゆるめるための気功体操だ。

始めて間もない方々はおそらくこれを準備運動だと思っておられるだろう。
実は私もずっとそう思っていた。

しかし今は違う。
鬆身法はすでに太極拳なんだ。

全身を曲げたり、伸ばしたり
手を広げたり、閉じたり、回したり、振ったり・・

私は指導する時にいつも言う。
「カタチではなく気持ちいいと感じることが大事」だと。

準備運動というとなんだか義務のように感じる。
やっとかないと後で支障が起きる・・
それは一般的なスポーツをする前のことであり、太極拳は違う。

先程、鬆身法は太極拳と言ったが、逆も同じ。
太極拳は鬆身法なんだ。

太極拳の套路を練った後、いわゆる収勢の時、体がどうなってるか?
もし肩が凝っていたり、
手足が震えていたり、
脚に力が入っていたとしたら
正しい太極拳が出来ていなかったということになる。
それは力んでいたという証拠だから。

話は戻るが、
はじめて太極拳を経験する人は太極拳をする時、体がガチガチに硬直している。
それは無理もない。
形を真似ようとして力が入ってしまうから。

しかし、それは抜筋骨の時も同じで、
カタチを必死で真似ようとするあまりガチガチになってしまっている人をしばしば見かける。

私が抜筋骨を指導する時、
手の位置がどことか、どう動かすとかあまり細かなことは言わない。
そもそもそんなことはどうでもいい。

それよりも「ふわ~っ」とか「とろ~っ」とか擬音を多様している。
関西人ならではかもしれないが・・

先程も言ったように「気持ちいい~」と感じることが大事。
心がゆるめば体がゆるむ。
体がゆるめば心がゆるむ。

抜筋骨を義務にしない。
太極拳を義務にしない。

とっても気持ちいいことなんだ。

2018年2月20日火曜日

雨の中の神秘体験

今までにも何度かとりあげたが、
私は太極拳で神秘体験を経験している。

しかし、それをやろうとしてもできないし、
いまだにそれを再現できないでいる。

あの時は、仲間と延々とある公園で推手をしていた。
すると雨が降って来て「今日はもうやめにしようか?」と話していた。

しかし、気持ちは帰る気になれない。
まだまだやり足りなかった。

あちこち歩きまわり雨を凌ぎながら練習できる場所を探した。
散々歩き回ってみつけたところは屋根のある小さな休憩所。

そこを見つけたとたん、雨の降りが更に激しくなる。
しかし辞める気にはならない。

また仲間と推手を再開。
すると、しばらくして不思議な現象が起きた。

豪雨の中での推手で、何かが起きた。

体の中がスーッと光が入ってきて、自分の身体がまるで光の塊のようになった。
そして、体は氣(のようなもの)で満たされ体中が張り詰めた状態。
小さな針穴でもあければ、そこから勢いよく氣が飛び出すような感じだった。

頭の中は空だった。
まったく雑念のない状態。
寝ているようで起きてるような。
これが無の境地なんだろうかと思った。

そして私はどう変わったか?

相手の動きが見える。
いや、正確に言えば目で見えるのではなく、
相手の心がすべて読めてしまう。
いつ、来るか正確にわかり、そして体が勝手にそれを右へ左へといなしてくれる。

とにかくなんとも言えない程気持ちが良かった。
それは推手で相手の攻撃をいなせたことではなく、
その時の心の状態に。

恐れも、不安もなにもない幸福感だけの世界。

私の目標はそこへ辿り着こうとすることではない。
そこへ戻ること。

なぜ、あのような体験が出来たのか?

もし、あのまま雨が降ってきたという理由で帰っていれば経験できなかったこと。
恐らく、その後経験できないのは、
あともう少しのところでやめてしまうからだと思った。

神が力を与えて下さるのは努力に対するご褒美。
YouTubeや本ばかり読んでいても神は力を与えてくださらないだろう。
テクニックばかり追いかけ、仮に技術だけ身についても、
神技と言われる領域に行きつくことはないだろう。

なぜなら私が神秘体験をしたのは
豪雨の中一心に稽古に身を投じている時。

修行なくして道を極めることはできないと思った。

2018年2月17日土曜日

上げない、飛ばす

私は2年だけ制定拳を習っていた経験がある。

その時は、低い姿勢や脚を高くあげるためのストレッチや筋トレなどのトレーニングを強いられた。
伝統で育った私にとっては最初かなりの違和感を覚えたが、郷に入ったならば従うしかない。
正直辛かった。

いずれも、なぜそこまで低い姿勢をとる必要があるのか?
相手の上段突きや蹴りをかわすのであれば少しだけかがんだり頭を下げれば済んでしまう。

また、若くて俊敏な動きができるのならいいが、
中年になってから始めた太極拳。
とても若者のようにキビキビなんて動けない。
その分、低い姿勢から今度は立ち上がる時に時間を要するのでその間に相手に隙を与えることにもなる。
武術的には致命的だと私は考える。

また、足を高く上げることに関しても意味がわからない。
舞踊や体操競技として太極拳をするのなら高く脚を上げた方が見栄えが良いし、見ている者を楽しませることもできるだろう。
それはそれでいいと思う。

しかし、分脚や踵脚、更には端脚、採脚、膝打、擺蓮脚・・
どれも脚だけで攻撃するのではない。
太極拳の蹴り技というのは空手のような蹴り一本の技ではないのだ。

手と脚の両方を使い、
手は捌く、掴む、打つ、突く、絞める
脚は膝で打つ、脚で蹴る、脚をひっかける、膝裏を蹴り下ろす・・
これらの技を複合的に組み合わせ一つの技となる。

蹴り技は脚を上げるのではない。
飛ばすのだ。

蹴り技といえば、
空手、キックボクシング、ムエタイ、テコンドーなどいろいろあるが、
脚を上げるとは言わない。

師匠も、蹴り技の時に脚を上げるとは仰らない。
飛ばすと仰る。

私も飛ばせる蹴りができるようになりたい。

2018年2月15日木曜日

鍛えなければ鍛えられる?

太極拳を始めとする内家拳の鍛錬を行っていると体が丈夫になってくる。

風邪をひきにくくなる。
メンタルが強くなる。
怪我しにくくなる。
怪我しても治りが驚くほど早くなる。
多少の衝撃では倒れなくなる。
打たれても痛みを感じにくくなる。
逆に打った方が痛みを感じるようになる。

などなど。

内家拳の不思議なところは、鍛えるのであっても決して筋肉を鍛えるのではない。
いや、正確に言えば目に見える筋肉ではなく内筋・深層筋(インナーマッスル、コアマッスル)を鍛える。
だから見た目はムキムキにならない。

鍛錬法は?

姿勢を正し、
呼吸を整え、
気を沈める。

これだけ。

いわゆる物理的な筋肉を鍛えるのではなく気の筋肉を鍛える。
そのためには力を入れてはいけない。
脱力に脱力を重ね、無駄な力を極限まで抜く。

すると、体の中に気がすーっと通い始める。
それにイメージを加えると気の量を増加させることができる。
そして気によって体が満たされた状態になる。

筋力という物理的エネルギーではなく、
原子のパワーが上がるという感じだろうか?

頭や体のコンディションが最高レベルになると、なぜか体の中で何かが回転していることを感じる。

ぐるぐるぐるぐる高速回転する。

頭が冴えてる状態を頭の回転が速くなるというが、
それが体にも起こる。

難しい話はあえて省くが、
とにかく眠っていた細胞が起き、活発に動き出すという感覚。

太極拳をやればやるほど、
姿勢を正し脱力して立つということが重要だということが感覚的わかってくる。

いわば、
姿勢を正しリラックスするだけで人はいくらでも強くなれるということ。
人間は本来強いんだ。

2018年2月13日火曜日

予測しない

昨夜、弟子と散手稽古をしていた時に流れで自由推手になった。
自由に動き回っていいので、これがまたなかなかむずかしい。

近づけば逃げられてしまい
軸をとって崩そうとしてもやはり
いなしながら手と足で逃げられてしまう。
ほんの一瞬の隙を狙うしかない。

散手の場合は相手が打ってきたり掴んできたりした場合の技が決まっていて
それを繰り返し練習するが、
推手の場合は手を触れておくというルールはあるものの、散手より自由度が高い。

隙あらば打ったり崩したりしてよく、
散手では得られない感覚を磨くことができる。
いわば、やらせ一切なしの真剣勝負だ。

そのようなことで今回も特に意識したことは、
相手の動きを予測しようとしないこと。

予測しなければ崩されてしまうのでは?!
と、思うかもしれないが、
それならそれでいい。

崩されたからと言って死ぬわけでもなく、地球が滅びるわけでもない。
逆に言えば、崩されなければ聴勁や化勁を鍛えることは決してできない。
崩されまいと力で抑えようとしたり踏ん張ったりしても、それは太極拳ではない。

太極拳の心得をひとつにしぼるなら、
「用意不力」
つまり力を使っては絶対ダメということにする。
自分の中で使用禁止にする。

力を使わないのは筋力だけではない。
頭も同じ。
脳力を使おうとしない。

もしかしたら次あたり相手が打ってくるんじゃないか?
これ雑念であり妄想なり。
こんなものは燃えるゴミとして収集日に捨ててしまおう。

私が得た感覚は
予測しようとしないことこそが自然と予知力を生み出す。
恐れない。
自分を信じる。

仮に崩されても多くのことを学べる。
崩すことができても学べる。
どっちに転んでも自分にとってプラスのことしか起きないんだ。

すべてを受け入れる。

そんなことをいつも念頭において推手してるが、
まだまだ雑念が湧いてしまうことがある。

更に修行を積もう。

太極拳に実体なし

師が楊式を練り出すと空気が動き出す。

何度真似ようとしても真似られない
その理由がわかった。

それは実体がないから。

風や火に形がないよう
師の楊式には形がない。

風のようにいなされ
炎の如く打たれる。
それはまるで龍のよう。

師の動きには演じる意識がまったくない。
演じるというより念じるという感じにみえる。

何を念ずるのか?

私はまだ入り口に立ったばかりだが、
その意識の動かし方や自分の動きの変化を感じようとすると
今までにない太極拳が見え隠れする。

2018年2月2日金曜日

弱いは強い 2/2

(前回の続き)

最近、脱力だけでなく弱い力に拘っている。

手を上げたり出したりするのは最小限に。
相手との接点は最小限に。
相手を崩す時の力も最小限に。

微弱な力ほど、相手はそれをすぐに察知することができない。
そして弱い力ほど相手の中にすんなり入ることができる。
そして自由自在に氣を送ることができるようになる。

逆に強い力はすぐに見破られてしまい、簡単にいなされてしまう。
しかし弱い力は?

実は弱い力に関して言えば、これは医療にも役立つ。
私は20代の頃酷いぎっくり腰を患ってしまい、片足で立てなくなってしまった。
そして行ったのが職場の人に紹介された磁器と気功の治療を行う治療院。

行った施術は、私の仙骨に極々微弱な磁気を送るというものだった。
私の体には一切触れず、小さな器具から微弱な磁気を送られる。
次第に私の身体に変化が起きだした。

1時間2時間経過するごとに、体がどんどんだるくなりだしたのだ。
これは体の治癒力が働き出したということ。
体が腰を治すことにパワーを使っているので、その他の力が出なくなってきたということになる。

そして翌日、私の身体に異変が起きた。
なんと、あの酷かったぎっくり腰が完全に治っていたのだ。
まるで魔法にもでもかけられたような気分だった。

約30年も前の話だ。

今でこそ、整体院では、ボキボキしない整体が流行っているようだが、
私はそれを30年も前に経験している。
しかもその施術が行えるのは日本に5人しかいないと言われていた。

曲った背骨を真っすぐにする力は自分自身が持っている。
しかし普段の悪い姿勢を続けていると戻る力がそれに負けてしまう。
どうすればよいか?

腰痛は自分で治せるのだ。

仙骨と丹田は繋がっている。
腰をゆるめ、丹田に十分氣を溜める。
そして痛む腰の部分に意識を送る。
すると患部である腰に氣が集まる。
氣が集まると、今まで滞っていた血がどわーっと流れるような感覚が得られる。

我慢できない腰痛なら整体院や病院に行けばいい。
しかし、実際に体を治すのは自分であるということを忘れてはいけない。
依存してしまったら、治癒力が下がり、ますます症状は悪化するだろう。

折角太極拳を始めたのだから、
単に、人前で演武するだけではなく、
自分の身を自分で守り、自分で治すチカラを身につけて欲しいと
私は思う。

もう一度まとめておく。

相手を倒したり、自分の病気を治したりするのは
強い力ではなく弱い力であるということ。
強い力を加えても自分も相手も拒絶するだけ。
自分も相手も受け入れる小さな力を使うこと。

弱いは強い 1/2

最近、皆の前で套路を通す時、形は一切気にしない。

ひたすら脱力。

まだまだゆるめる、
まだまだゆるめる、
もっともっと。。

体の中を流れる氣を感じながら・・

すると体内が氣で膨張してくるかのように張り詰めてくる。

この5年程、伝統と表演を平行して行ってきたが
去年の7月に試合を引退し、今は100%伝統にスイッチした。

人の目を気にしない世界はこんなにも気持ちいい。
宇宙をさまようように、体の中の小宇宙をさまよう感じ。

套路を練っていると、
体が水になり、
風になり、
電気になり、
プラズマを発する。

掌がピリピリするのは、
体内の氣と体外の氣の摩擦によりスパークを起こしているから。

手が熱くなるのは、
手を意識することで氣が集まり、
氣が集まるとそこに大量の酸素と栄養が送られる。
すると細胞内のミトコンドリアで酸素と糖が結合しATPが発生。
その結果熱を発する。

だから手が熱くなるということは、
正しく手に意識を送ることが出来ているということ。
熱そのものは氣ではない。
氣が熱を作り出している。

気功治療は、手をかざすことで、そこに氣を送ることができる。
先程も説明したように氣が集まると、その部分に酸素と栄養が集まる。
結果その部位に必要な物資(栄養)とそれを働かせるための酸素がたっぷる送り届けられ治癒力が上がるというしくみ。

壊れたものを修復しようとしたら、必要なものは人手と修理に必要な物資。
人手は血であり、物資は栄養と酸素ということになる。

氣の不思議な力はそれだけではない。
実体験を元に言うならば、氣で人をコントロールすることもできる。
言いかえれば、相手は自分であり、自分は相手ということ。

とはいうものの、いきなりそんなふうにイメージしても、最初はなかなかうまくいかない。
その理由はまだ自分の中で十分氣を巡らせることができないから。

(次回に続く)