2017年10月19日木曜日

推手は目から学べない

昨日、弟子と推手をしていた感じたこと。

自分と動きが似てきた。
いつからか弟子の動きが、こちらの動きに逆らわず受け入れるようになってから
変わってきたとは感じていたが、
まるで自分自身と推手をしているようだ。

そうこうしながらこんな会話をした。

こればかりは決して本や動画では学べないことだとは思わないか?と。
彼女は頷いた。

もっと言えば、手を合わせなければ決して学べないこと。

15年前と違って、最近では武術に関する書籍やDVDなどがたくさん出版されている。
推手に関してもいくつかの書籍が出ている。

私も数冊か買って読んでみたが
どれもパラパラっとめくっただけで、あとはずっと本棚に眠っている。
専門用語だらけでさっぱりわからないし、
推手のあの緻密な動きや感覚を文字に表すのには限界がある。

中でもひどいのは推手の手の動かし方だけが書かれてる本もあった。
この教科書通りに動きを覚えたからといって推手が強くなるとは到底思えない。
というか100%無理だ。

推手は理屈ではない。
インスピレーションなんだ。

それに推手は決して独習できない。

確かに推手のテクニックはあるが、テクニックは所詮テクニック。
そのテクニックを上回るテクニックだってある。
結局どんなに勉強してもキリがないということ。

実際昨日弟子とやってみた。
掤で責めてきたら掤で返す。
挤には挤。
按には按だ。

要するに頭で動こうとしていたら、
技をかけたつもりが逆にかけられてしまうことになる。

それに対応するには?
フィーリングとインスピレーション。

要するに即興が出来なくてはダメだということ。

前にもブログに書いたが、
私の推手は楊式太極拳の創始者である楊露禅から伝わったもの。
楊露禅から楊健候、楊澄甫、そこから傅鍾文先生へ、
更にその弟子から弟子へと受け伝えられ、そして私に伝わってきた。

当時既に中国では健康体操化していた太極拳の中で
傅鍾文先生は最後の武術家と称されるほどの達人だったとのことだが、
私はそこから数えると曾孫弟子ということになる。(正式弟子入りはしていないが)

何が言いたいかというと、
先程、私は弟子と推手をしていた自分自身としているように感じたと話したが、
いわゆるこういうリレーを楊露禅からずっと受け伝えられてきたということ。
それは理屈ではなく感覚として。

私は推手をする時にちょっとしたアドバイスもするが
弟子と推手する時はほとんど喋らない。

テクニックではなく、何故崩れたか?ということを自分で学んで欲しいと思うから。

私は学生時代勉強も運動も全然ダメだったが、
唯一のとりえは美術と音楽だった。
美術も音楽もフィーリングが大切でインスピレーションで行う。

結局、自分の感覚に素直な人が武術に向いてると思う。