自分が素晴らしいと思った太極拳を地元と人々と共感したくて去年の4月にサークルを立ち上げた。
その太極拳は強く美しい。
今までの常識からすれば美しいものは弱く、強いものは無骨だと思っていた。
その常識を覆してくれたのが楊式太極拳。
楊式太極拳では最初から最後まで同じリズムでゆっくりと動くから体の内面に耳を傾けやすく瞑想状態に入りやすい。
とにかくとても心地良い。
この気持ち良さを一人でも多くの人と共感し合いたいと思った。
それから私の人生は学ぶだけの太極拳から教える太極拳へと変わっていった。
全くの初心者に太極拳を教える時、自分が最初どうだったかということを振り返る。
正直な感想は「思っていたより難しい」だった。
今先生に教わったばかりなのに、それができない。
思い出そうと必死にもがいていると、先生がそれでいいんだと笑顔で仰った。
てっきり自分だけが出来ないと弱り果てていたのだが、先生の笑顔をみて、ちょっと安心した。
後でわかったことだが、
思い出せないことより思い出そうと努力することこそが修行なのだと思った。
確かに普段使わない頭を使う感覚があった。
ところで、何故このタイトルでブログを書き始めたか?
それは、私が教えている会員さんたちの上達があまりにも凄いからだ。
他の教室のことはわからないが、少なくとも私の上達より明らかに早い。
一日も早く太極拳の本当の気持ち良さを知ってもらいたいという気持ちがあるから、ついつい指導に熱が入る。
ここで不安がよぎる。
超えられるのではないか?と。
私はそれでもいいと思っている。
よりいっそう修行に励めばいいだけのことだから。
これこそが自分が理想とする師弟関係だと思っている。
先日も個人レッスンである会員さんの演武を見ていて、あまりの上達ぶりに惚れ惚れとしてしまった。
しかし私は立場上、修正すべき点を指摘しなければならない。
私は少しでも上達したらまずそれを評価する。
それは意識的なものではなく、私自身人を認めることが好きだし、努力する人が好きだから。
指摘するのはその後。
講師としての心得。
教えることばかりに徹するのではなく上達したことをその場で評価すること。
少しでも早く上達してもらうため心を込めて指導すること。
超えられることを恐れず更に自分自身努力すること。
それはつまり「教えること=学ぶこと」である。