最近套路を練る時に呪文のように唱えているのが
「ふわとろ」
先日、下実上虚(上虚下実)について書いたが、
それをわかりやすく言うと「ふわとろ」になる。
ふわ~っと空気に溶けるような感覚と、
とろ~っと蕩けるような感覚。
どちらもとても気持ちいい。
套路を始める時の予備勢の段階で体を十分ゆるめておく。
どれぐらいゆるめるかというと、
立っているのがやっとという程度に。
ふらふらしたっていい。
地震大国ニッポン。
どのビルやタワーも柔構造でできている。
やわらかい=強い である。
ビルだけではない。
飛行機の翼も柔構造。
あれがもし硬くビクともしないように作られていたら、
乱気流にでも出くわしたら翼はカンタンに折れてしまうだろう。
飛んでる時の飛行機の翼をみているとゆらゆらゆらめいてる。
そんなわけで、
強くなるために、やわらかくなろう。
脱力すると体がとろ~っと蕩けて重心が下に落ちてくる。
普段、地球の引力を意識して生活している人はいないと思うが、
太極拳をしている時は引力をたっぷり感じながら動く。
そして地球には引力とは反対の力(斥力)もある。
上に引っ張り上げられる力。
地球自転による遠心力だ。
地球は時速約1700㎞で自転している。
猛スピードで回っているのだ。
そうすると当然遠心力が働く。
それでも地球上のものが吹っ飛ばされないのは引力のお陰。
この引力と遠心力を感じながら動く。
感じるためには使う筋力を最小限にしなければならない。
小さな音を聴くためには耳を澄ませないといけないのと同じで、
普段感じることのない地球の力を感じるためには
耳を澄ます代わりに極限まで力を抜くのである。
体の中に取り込んだ氣は脱力することで液化し下へ下へと沈んで行く。
そして残った氣が気化し空気の中に溶け込もうとする。
これがふわとろの原理。
この感覚が嫌いな人はまずいないと思う。
誰もが好きだと思う。
もし、この感覚を味わうことが出来たら、
太極拳が病みつきになるのは間違いないだろうし、
そうなると健康街道まっしぐらということになる。
2018年1月24日水曜日
2018年1月20日土曜日
重さは力なり
アインシュタインの相対性理論の方程式を武術的に捉えると?
E=mc2
この式は以下のことを意味する。
エネルギー=質量×光速度の2乗
容易く言うと重力のあるもの程エネルギーが強いというものだ。
これは質量の高いものほどエネルギーが強いとも言える。
なんだか余計ややこしくなってしまったが、
今回のタイトル通り"重さは力なり"ということ。
以前書いたことのあることだが、
勁というのはまず心から始まり、それが意識を生み出し、気を通し、それが勁となって力となる。
いわゆる、心>意>氣>勁という順になる。
私の勝手な解釈では心とは頭脳ではなく魄であると。
勁力というのは脳の指令によって作り出されるものではなく、魂のパワーそのものだと私は思っている。
そのひとつの理由として、考えてから打った力はあくまでも筋力であり、
その筋力には表面的な衝撃を与えることができても貫通力がない。
これは直接師に勁を打ってもらったり、ミット打ちなどで何度も経験してきたこと。
ところで、意識とはなんだろうか?
これを医学的、物理的に解釈するなら一種の電気信号。
電気はほぼ光の速度で伝わる。
これを気功的に解釈すると?
氣というのは意識したところに集まる性質がある。
これを意気相連という。
体を極限までゆるめると体に氣が充満してくる。
この時の感覚は体がずっしりと重くなったような感じるが、
だからといって体重計に乗って実際に体重が増えるわけではない。
ここが氣の不思議なところ。
いずれも意は光の速度で伝わり、それが氣を生み出す。
無論体を硬直させていては氣をたっぷり体の中にめぐらせることはできない。
ふわっとしたスポンジはたっぷり水や空気を含むことができるのと同じで、
体をゆるめなければ体の中に気を充満させることはできないということ。
いずれも、氣をたっぷり集めることが出来れば、
後は意識の速度でそれを勁というパワーとして出力することが出来る。
先程もお話したが、意=氣 なのだから、
言いかえれば氣は光の速度で進むことになる。
因みに氣は目に見えない。
しかし空気(空間)を歪めることはできる。
氣そのものは見えなくとも空間の歪みとして見ることはできるし、少なくとも私は何度も見てきた。
水面に石を落とすと波紋が出来るが、それが空間で起きる。
太極拳は力で戦う武術ではない。
はっきり言ってしまえば宇宙の力を使うのが太極拳。
宇宙と同化するには極限までゆるめること。
邪念も力みもなにもかもすべて放出し
体の中に氣を充満させるためのスペースをつくる。
信じる信じないの話ではなく、
それを科学が証明しようとしている。
E=mc2
この式は以下のことを意味する。
エネルギー=質量×光速度の2乗
容易く言うと重力のあるもの程エネルギーが強いというものだ。
これは質量の高いものほどエネルギーが強いとも言える。
なんだか余計ややこしくなってしまったが、
今回のタイトル通り"重さは力なり"ということ。
以前書いたことのあることだが、
勁というのはまず心から始まり、それが意識を生み出し、気を通し、それが勁となって力となる。
いわゆる、心>意>氣>勁という順になる。
私の勝手な解釈では心とは頭脳ではなく魄であると。
勁力というのは脳の指令によって作り出されるものではなく、魂のパワーそのものだと私は思っている。
そのひとつの理由として、考えてから打った力はあくまでも筋力であり、
その筋力には表面的な衝撃を与えることができても貫通力がない。
これは直接師に勁を打ってもらったり、ミット打ちなどで何度も経験してきたこと。
ところで、意識とはなんだろうか?
これを医学的、物理的に解釈するなら一種の電気信号。
電気はほぼ光の速度で伝わる。
これを気功的に解釈すると?
氣というのは意識したところに集まる性質がある。
これを意気相連という。
体を極限までゆるめると体に氣が充満してくる。
この時の感覚は体がずっしりと重くなったような感じるが、
だからといって体重計に乗って実際に体重が増えるわけではない。
ここが氣の不思議なところ。
いずれも意は光の速度で伝わり、それが氣を生み出す。
無論体を硬直させていては氣をたっぷり体の中にめぐらせることはできない。
ふわっとしたスポンジはたっぷり水や空気を含むことができるのと同じで、
体をゆるめなければ体の中に気を充満させることはできないということ。
いずれも、氣をたっぷり集めることが出来れば、
後は意識の速度でそれを勁というパワーとして出力することが出来る。
先程もお話したが、意=氣 なのだから、
言いかえれば氣は光の速度で進むことになる。
因みに氣は目に見えない。
しかし空気(空間)を歪めることはできる。
氣そのものは見えなくとも空間の歪みとして見ることはできるし、少なくとも私は何度も見てきた。
水面に石を落とすと波紋が出来るが、それが空間で起きる。
太極拳は力で戦う武術ではない。
はっきり言ってしまえば宇宙の力を使うのが太極拳。
宇宙と同化するには極限までゆるめること。
邪念も力みもなにもかもすべて放出し
体の中に氣を充満させるためのスペースをつくる。
信じる信じないの話ではなく、
それを科学が証明しようとしている。
昭和38年大阪生まれ。学生時代、剣道、空手(剛柔流、極真)、旧日本陸軍の団体訓練を受ける。2002年に太極拳始めその後武術の研究を続ける。専門種目:気功、楊式太極拳、双辺太極拳、形意拳。2013年より指導を始め2020年に橿原神宮前に本部道場開設。一条伝統太極拳・綿拳内功研究会主宰
2018年1月18日木曜日
考えるのをやめよう
練習をしている時に考えるのはやめよう。
考えたってなにも答えは出ない。
習ってもいない漢字をどんなに考えても読み書き出来ないのと同じで、
套路を練る時も推手や散手をしている時もすべきことは考えるのではなく
"見る"
"感じる"
だ。
考えながら動くと動作がギクシャクする。
それもそのはず、
手足、体すべてを脳でコントロールしようとしても、とても間に合わない。
車の運転を、イチイチ考えながら操作していたらとても危険なことになる。
習うより慣れろ。
考えるより真似ろだ。
赤ちゃんが言葉を覚えたり、立って歩けるようになるのは、
考えて喋ったり立とうとしているのではなく、
親がしていることを真似ようとしているだけ。
子供の頃は大人のしていることが羨ましく、自分も早く大人になりたいと思った。
そして懸命に親の真似をしようとする。
先程言ったように、
真似る、
そして、それを何度も繰り返す。
それだけ。
私が太極拳を始めたばかりの頃は、とにかく先生の動きを真似た。
始めたばかりのころ、先生と自分が演武している動画が残っていて
久しぶりにそれを見ていたら、自分の動きがまるで先生と同じだった。
カメラの位置から時折重なって見えるのだが、
それでもその重なった部分からほとんどはみ出すことなく動いているというのを見て改めて驚いてしまった。
確かに当時の私は先生に憧れ、とにかく先生の真似をしようとした。
先生が動きを変えれば自分も変えた。
そのことを先生に尋ねると「常に進化しているから」とのことだった。
覚えても覚えても先生は進化していき、ついていくのがやっとだったが
当然のことながら、そのことに対し不満を漏らしたり文句を言ったことなど一度もない。
先生が変われば自分も変わる。
先生が進化すれば自分も同じく変わることで進化できるということ。
自分で言うのもなんだが
私はこういう自分の素直なところが好きだ。
考えながら動こうとするのをやめよう。
先生というのは教える人ではなく手本を見せてくれる人なんだ。
考えたってなにも答えは出ない。
習ってもいない漢字をどんなに考えても読み書き出来ないのと同じで、
套路を練る時も推手や散手をしている時もすべきことは考えるのではなく
"見る"
"感じる"
だ。
考えながら動くと動作がギクシャクする。
それもそのはず、
手足、体すべてを脳でコントロールしようとしても、とても間に合わない。
車の運転を、イチイチ考えながら操作していたらとても危険なことになる。
習うより慣れろ。
考えるより真似ろだ。
赤ちゃんが言葉を覚えたり、立って歩けるようになるのは、
考えて喋ったり立とうとしているのではなく、
親がしていることを真似ようとしているだけ。
子供の頃は大人のしていることが羨ましく、自分も早く大人になりたいと思った。
そして懸命に親の真似をしようとする。
先程言ったように、
真似る、
そして、それを何度も繰り返す。
それだけ。
私が太極拳を始めたばかりの頃は、とにかく先生の動きを真似た。
始めたばかりのころ、先生と自分が演武している動画が残っていて
久しぶりにそれを見ていたら、自分の動きがまるで先生と同じだった。
カメラの位置から時折重なって見えるのだが、
それでもその重なった部分からほとんどはみ出すことなく動いているというのを見て改めて驚いてしまった。
確かに当時の私は先生に憧れ、とにかく先生の真似をしようとした。
先生が動きを変えれば自分も変えた。
そのことを先生に尋ねると「常に進化しているから」とのことだった。
覚えても覚えても先生は進化していき、ついていくのがやっとだったが
当然のことながら、そのことに対し不満を漏らしたり文句を言ったことなど一度もない。
先生が変われば自分も変わる。
先生が進化すれば自分も同じく変わることで進化できるということ。
自分で言うのもなんだが
私はこういう自分の素直なところが好きだ。
考えながら動こうとするのをやめよう。
先生というのは教える人ではなく手本を見せてくれる人なんだ。
昭和38年大阪生まれ。学生時代、剣道、空手(剛柔流、極真)、旧日本陸軍の団体訓練を受ける。2002年に太極拳始めその後武術の研究を続ける。専門種目:気功、楊式太極拳、双辺太極拳、形意拳。2013年より指導を始め2020年に橿原神宮前に本部道場開設。一条伝統太極拳・綿拳内功研究会主宰
2018年1月16日火曜日
下実上虚
なんとなく昔の資料をひっくり返していたら
太極拳で重要な十六の言葉が記されたコピーが出てきた。
何度もコピーしたものらしく、文字ははっきりしないが
その中でぱっと目に入った言葉が、下実上虚(かじつじょうきょ)
なぜこの言葉が目にとまったかは自分でよくわかっている。
最近套路を練る時、特に意識していることだからだ。
この下実上虚がしっかり出来るようになると、動作がとても安定してくる。
やわらかい動きなのにずっしりとした重量感を出てくる。
そして、気の通りが良くなる。
この言葉の意味は特に記されていないが、
一言でいえば「重心を落とせ」ということになるかと思う。
足腰はずっしり。
腰から上はふわっと。
最初のうちはどうしても逆になる。
なぜなら、最初はどうしても手で動こうとしてしまうから。
手が動こうとすると腕や肩に力が入り、
その一方、足腰がまだ出来ていないからふらふらする。
ふらふらするから、尚のこと上半身に力が入り、重心が上がってしまう。
そのことでまた更にふらふらする。
全くもって悪循環であるということ。
だから下実上虚なのだが、
そうそうすぐにできるものではない。
どうすればいいか?
当然のことだが、練習しかない。
ちなみにこの下実上虚、下半身に力を入れるのではない。
気を沈めるということ。
力はどこにも入っていてはいけない。
自分がまるで水の入った皮袋になったかのごとく、
体まるごとゆるめなければならない。
そうすることで自然と下実上虚になる。
ひとりよがりになるかもしれないが、この感覚が実に気持ちいい。
本当においしいものは香り、味、舌触り、歯触り、そして後味までおいしい。
套路ひとつでこれほどまでに楽しめるのかと思うほど。
これこそが伝統太極拳の醍醐味と言えよう。
太極拳で重要な十六の言葉が記されたコピーが出てきた。
何度もコピーしたものらしく、文字ははっきりしないが
その中でぱっと目に入った言葉が、下実上虚(かじつじょうきょ)
なぜこの言葉が目にとまったかは自分でよくわかっている。
最近套路を練る時、特に意識していることだからだ。
この下実上虚がしっかり出来るようになると、動作がとても安定してくる。
やわらかい動きなのにずっしりとした重量感を出てくる。
そして、気の通りが良くなる。
この言葉の意味は特に記されていないが、
一言でいえば「重心を落とせ」ということになるかと思う。
足腰はずっしり。
腰から上はふわっと。
最初のうちはどうしても逆になる。
なぜなら、最初はどうしても手で動こうとしてしまうから。
手が動こうとすると腕や肩に力が入り、
その一方、足腰がまだ出来ていないからふらふらする。
ふらふらするから、尚のこと上半身に力が入り、重心が上がってしまう。
そのことでまた更にふらふらする。
全くもって悪循環であるということ。
だから下実上虚なのだが、
そうそうすぐにできるものではない。
どうすればいいか?
当然のことだが、練習しかない。
ちなみにこの下実上虚、下半身に力を入れるのではない。
気を沈めるということ。
力はどこにも入っていてはいけない。
自分がまるで水の入った皮袋になったかのごとく、
体まるごとゆるめなければならない。
そうすることで自然と下実上虚になる。
ひとりよがりになるかもしれないが、この感覚が実に気持ちいい。
本当においしいものは香り、味、舌触り、歯触り、そして後味までおいしい。
套路ひとつでこれほどまでに楽しめるのかと思うほど。
これこそが伝統太極拳の醍醐味と言えよう。
カテゴリ:
楊式太極拳
昭和38年大阪生まれ。学生時代、剣道、空手(剛柔流、極真)、旧日本陸軍の団体訓練を受ける。2002年に太極拳始めその後武術の研究を続ける。専門種目:気功、楊式太極拳、双辺太極拳、形意拳。2013年より指導を始め2020年に橿原神宮前に本部道場開設。一条伝統太極拳・綿拳内功研究会主宰
2018年1月12日金曜日
生涯学び続ける
昨夜の稽古の時、会員さん達の前で「私は生涯学び続けます」と発言した。
何故こんな発言をしたか自分でもよくわからないが、
私の目標は良い先生になることではなく、良い修行者になることだから。
死ぬまで学び続け
死ぬまで研究し続け
死ぬまで修行を続ける
逆に、教えるだけの人になったらそれは自分にとって「死」を意味すると思っている。
進化が止まってしまう。
私をそう奮い立たせてくださる先輩の先生方は大勢おられる。
そして私はまだ見ぬ未知の世界に挑戦し続けたいと思っている。
私にとって生きることとは老化と闘うことではなく進化すること。
非常識と思われるだろうが、太極拳を行っていると自然とこういう考え方になる。
死を迎える直前が一番進化した自分であり、一番美しいと思っている。
太極拳を始め15年経った今でも「これからが始まり」と思っている。
いや、正確には、まだ始めるための準備も出来ていない。
邪念に囚われることなく自分の進むべき道を歩んでいくためには
いらないものを整理しなければならない。
特に今はそのことを意識し、身の回りと心の断捨離を行っている。
今まで学んできた内家以外の武術は全て捨て、
制定された套路や競技用套路もすべて捨てた。
捨てるというのは今後やらないということ。
やらないのはすべきことを全うするためであり、絶対必要なことだと思っている。
かといって今まで学んできたことが無駄だったわけではなく、それも必要なこと。
これまで学んだことは自分の中で血となり、氣となり、水となって生き続ける。
人間はなにもしないでいると、老化が進むだけ。
しかし太極拳の修行を続けていくと進化することができる。
それは死後魂となっても生き続ける。
こんなふうに考えると太極拳に出会えて本当に良かったと思える。
何故こんな発言をしたか自分でもよくわからないが、
私の目標は良い先生になることではなく、良い修行者になることだから。
死ぬまで学び続け
死ぬまで研究し続け
死ぬまで修行を続ける
逆に、教えるだけの人になったらそれは自分にとって「死」を意味すると思っている。
進化が止まってしまう。
私をそう奮い立たせてくださる先輩の先生方は大勢おられる。
そして私はまだ見ぬ未知の世界に挑戦し続けたいと思っている。
私にとって生きることとは老化と闘うことではなく進化すること。
非常識と思われるだろうが、太極拳を行っていると自然とこういう考え方になる。
死を迎える直前が一番進化した自分であり、一番美しいと思っている。
太極拳を始め15年経った今でも「これからが始まり」と思っている。
いや、正確には、まだ始めるための準備も出来ていない。
邪念に囚われることなく自分の進むべき道を歩んでいくためには
いらないものを整理しなければならない。
特に今はそのことを意識し、身の回りと心の断捨離を行っている。
今まで学んできた内家以外の武術は全て捨て、
制定された套路や競技用套路もすべて捨てた。
捨てるというのは今後やらないということ。
やらないのはすべきことを全うするためであり、絶対必要なことだと思っている。
かといって今まで学んできたことが無駄だったわけではなく、それも必要なこと。
これまで学んだことは自分の中で血となり、氣となり、水となって生き続ける。
人間はなにもしないでいると、老化が進むだけ。
しかし太極拳の修行を続けていくと進化することができる。
それは死後魂となっても生き続ける。
こんなふうに考えると太極拳に出会えて本当に良かったと思える。
カテゴリ:
雑記
昭和38年大阪生まれ。学生時代、剣道、空手(剛柔流、極真)、旧日本陸軍の団体訓練を受ける。2002年に太極拳始めその後武術の研究を続ける。専門種目:気功、楊式太極拳、双辺太極拳、形意拳。2013年より指導を始め2020年に橿原神宮前に本部道場開設。一条伝統太極拳・綿拳内功研究会主宰
2018年1月6日土曜日
信念岩をも通す
先日、飛んでる矢は止まっているという話をしたが
今回はその逆。
信念岩をも通す、
信念山をも動かすという諺。
この言葉をそのまま受け取ると「そんなことあるわけない」と思うが
これはあくまでも信念にはそれだけの力があるという例えであり、
念によって岩や山を動かすことは実際できない。
しかし、
私はこの諺を知った頃からほのかに「実際にできたらどんなに素晴らしいだろう」とずっと考えてきた。
そしていろいろ勉強するうちにこのことが可能だとうことに気付いた。
まず岩を通すことはとても簡単。
何故なら、意はそれが岩であろうが鋼鉄であろうがそれを突き通すことができる。
岩の後ろに意識を送ればすでに意は岩を通したことになる。
人間は思考することで様々なものを生み出してきた。
高層ビル、宇宙ロケット、MRI、コンピューター、インターネット、GPS・・
どれもつい100年前にはなかったもの。
現在というのは過去の未来であるということ。
要するに、「今」は過去の人々が思い描いた夢の結晶なのである。
それだけ意や思考にはパワーがあるということ。
山を動かすどころか山を破壊するミサイルだって今はある。
量子力学的に見れば、人も岩も山もすべて原子でなりたっており、その原子も、原子核と電子の運動によって成り立っている。
つまり、人間というのは原子核の周りを電子が回る原子の集合体であり、
固体だと思っている人間は実際はスカスカの宇宙空間でありエネルギー体であるということ。
目でモノを見ようとするとどうしても表面しか見えないが、
意で見ればどんなものも貫通して見ることが出来る。
なぜなら人間も岩も山もすべて原子で成り立っており、
量子力学的に最小単位でみると、実際は「存在しない」ということになってくるからだ。
映画マトリックスで、ある超能力を持った少年がスプーンを曲げながらこんなことを言う。
「曲げようと思ったら曲らないよ」
「そうじゃなく、真実を見ようとしなきゃ」
「スプーンはないんだ」
というシーン。
この映画が公開されてから今に至る約19年もの間、ずっとこの子の言ったことが気になっていた。
あまりにも意味深な言葉で単なる台詞とは思えなかったからだ。
そう、スプーンは実際にはない。
マトリックスのように仮想現実だからではなく、原子レベルで見れば、空間の中にスプーンを構成する材質の原子が集まっているだけで、実際、空間であることには変わりない。
こう考えると実際スプーンはないことになる。
それどころか、ある説によると、そのスプーンですら自分自身が勝手に作り出しているとも考えられている。
私はこれまで、気功や套路を練る時に、空間に溶け込む感覚や、
推手で相手を感じたり、相手に意を通して崩したり・・
この辺のことは素粒子(物質の最小単位)レベルで考えるとすべて辻褄があってくる。
感覚は嘘をつかない。
そして自分の感覚は正しかったということがなにより嬉しい。
私は今までどちらかといえばスピリチュアル派で、
人間を大量虐殺してしまうような化学力は地球から消えて欲しいと願ってきたが
今ではその科学の進歩にとても感謝している。
人間が支配欲や金銭欲から解放され
自分がなぜ誕生し、どこに行こうとしているのか?
ということをテーマに生きて行ける時代が来ることを強く願う。
今回はその逆。
信念岩をも通す、
信念山をも動かすという諺。
この言葉をそのまま受け取ると「そんなことあるわけない」と思うが
これはあくまでも信念にはそれだけの力があるという例えであり、
念によって岩や山を動かすことは実際できない。
しかし、
私はこの諺を知った頃からほのかに「実際にできたらどんなに素晴らしいだろう」とずっと考えてきた。
そしていろいろ勉強するうちにこのことが可能だとうことに気付いた。
まず岩を通すことはとても簡単。
何故なら、意はそれが岩であろうが鋼鉄であろうがそれを突き通すことができる。
岩の後ろに意識を送ればすでに意は岩を通したことになる。
人間は思考することで様々なものを生み出してきた。
高層ビル、宇宙ロケット、MRI、コンピューター、インターネット、GPS・・
どれもつい100年前にはなかったもの。
現在というのは過去の未来であるということ。
要するに、「今」は過去の人々が思い描いた夢の結晶なのである。
それだけ意や思考にはパワーがあるということ。
山を動かすどころか山を破壊するミサイルだって今はある。
量子力学的に見れば、人も岩も山もすべて原子でなりたっており、その原子も、原子核と電子の運動によって成り立っている。
つまり、人間というのは原子核の周りを電子が回る原子の集合体であり、
固体だと思っている人間は実際はスカスカの宇宙空間でありエネルギー体であるということ。
目でモノを見ようとするとどうしても表面しか見えないが、
意で見ればどんなものも貫通して見ることが出来る。
なぜなら人間も岩も山もすべて原子で成り立っており、
量子力学的に最小単位でみると、実際は「存在しない」ということになってくるからだ。
映画マトリックスで、ある超能力を持った少年がスプーンを曲げながらこんなことを言う。
「曲げようと思ったら曲らないよ」
「そうじゃなく、真実を見ようとしなきゃ」
「スプーンはないんだ」
というシーン。
この映画が公開されてから今に至る約19年もの間、ずっとこの子の言ったことが気になっていた。
あまりにも意味深な言葉で単なる台詞とは思えなかったからだ。
そう、スプーンは実際にはない。
マトリックスのように仮想現実だからではなく、原子レベルで見れば、空間の中にスプーンを構成する材質の原子が集まっているだけで、実際、空間であることには変わりない。
こう考えると実際スプーンはないことになる。
それどころか、ある説によると、そのスプーンですら自分自身が勝手に作り出しているとも考えられている。
私はこれまで、気功や套路を練る時に、空間に溶け込む感覚や、
推手で相手を感じたり、相手に意を通して崩したり・・
この辺のことは素粒子(物質の最小単位)レベルで考えるとすべて辻褄があってくる。
感覚は嘘をつかない。
そして自分の感覚は正しかったということがなにより嬉しい。
私は今までどちらかといえばスピリチュアル派で、
人間を大量虐殺してしまうような化学力は地球から消えて欲しいと願ってきたが
今ではその科学の進歩にとても感謝している。
人間が支配欲や金銭欲から解放され
自分がなぜ誕生し、どこに行こうとしているのか?
ということをテーマに生きて行ける時代が来ることを強く願う。
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