套路を漫然と通してる人をみかける。
順番を覚えたら嬉しいし、通すことが楽しいと感じる。
しかし、熟練者の套路を練る姿を見ていると、明らかに何かが違う。
一目でわかるのは目。
その目には目的意識と、内面を見て感じようとする意識を感じる。
套路を通すことが出来るようになったら、そこが大事だと思う。
少なくとも私はそうしている。
今、套路を通している時、「なんのため?」と聞かれてすぐに答えられるだろうか?
おそらく大半の人が「上手くなりたいから」と答えるだろう。
「ではなぜ上手くなりたいのか?」
ここで答えが二つに分かれると思う。
ひとつは人に評価されたいから。
もうひとつは自分の可能性を知りたいから、
と。
私はどちらかと言えば、
どちらも(笑)
しかし、普段鍛錬するのは自分の可能性を知りたいからであり、人に評価されたいからではない。
別に格好つけて言ってるわけではなく、
実際に他人に自分の練習を見られたくない。
だから最近人目のつくようなところで練習しなくなった。
さっきどちらもと答えたが、
自分の可能性に挑戦し、その過程で人から評価されるのは素直に嬉しい。
しかしそれは目的ではなく自分にとって副産物的なもの。
話を戻す。
套路にはすべてが詰まっている。
套路は準備運動であり、
気功体操であり、
立禅であり、
站椿功であり、
気を練る練功であり、
技を練る鍛錬でもある。
私が普段行っている体をほぐすための抜筋骨にしろ、そのまま足も動かせば套路になる。
立禅も同じ。
套路を途中で止めればどこでも立禅になり站椿功になる。
意識することで動きながら気を流すことも出来るし、技のイメージトレーニングにもなる。
もちろん初心者は準備運動からしっかりやったほうがよい。
体が出来てくるまでは十分曲げ伸ばしやほぐしを行う。
冷えた体のままやると筋を痛めたり、関節を痛めたりしてしまう。
しかし10年、15年経ってくるとさすがに体ができてくる。
それに立ち上がりが早くなる。
パソコンに置き換えると、安いパソコンは起動に時間が掛かるがハイスペックモデルならあっという間に起動が完了する。
そんなふうになる。
それに脱力して套路を練れるようになれば套路中に体をほぐしていくこともできる。
もちろん体に過度な負荷をかけないことが鉄則。
ここで大事なことは、
ただ漫然と套路を通すのは順番を忘れないための作業だと思った方がいいということ。
死んだ目のまま套路を通しても套路で得られる恩恵の数パーセントも得られないだろう。
なんのために套路を練るのか?
まず考えよう。
姿勢が崩れないようにするため?
正しい動作ができるようになるため?
力みのない動きができるようになるため?
氣を練るため?
技を練るため?
それによって套路の内容が変わってくる。
それは本人にしかわからない。
目的と対策。
結果を決めてから原因作りをする。
特に最近伸び悩んでいる方は、ここが大事だと言いたい。