2017年4月11日火曜日

揺れる立禅

当会では立禅を重視している。

理由を一言で言うなら、
太極拳を太極拳として完成させるため。

套路で壁にぶつかる。
動きが安定せず、柔らかい動きができない。
その時に立禅に重要性に気付く。

推手で壁にぶつかる。
打てない、いなせない。
その理由もまた正しく立てていないからということに気付く。

散手で壁にぶつかる。
技がかからない。
その理由もまた沈んで立てていないからということに気付く。

逆に考えれば立てなければ動けるわけがないし
動けないものが崩したりいなしたり技をかけたりなんてできるわけない。

脚が開くようストレッチをするのもいいだろう。
高く飛べるよう筋トレするのもいいだろう。
しかし私は立禅をする。

站椿功という言い方もあるが、当会では立禅と呼んでいる。
站椿功は杭のように立つという意味だが、立禅は禅だからだ。

立つだけの練習なら、テレビを見ながらでもできる。
しかしそれで本当に効果が上がるだろうか?

気の存在を信じる信じないは別として、
体に気を自在に通すことが出来るようになると
腕の重さや硬さを自在に変えられるようになる。
気功で鍛えた腕に触れてみればそれはすぐにわかる。

気を通すためには邪念があっては駄目。
頭を空にし、気を静めることで始めて体の中を流れる気を感じることができるようになる。

木の幹に耳をあてて水が流れる音が聞こえると言う人がいる。
そのためには邪念があっては駄目だろう。
耳を澄ませ木の中に意識を送り集中しなければいけないだろう。

そんな風に自分の体の中を流れる気を感じる。
立禅はただ立つだけの鍛錬ではない。

因みに立禅で大事なことは、姿勢を整え、息を整え、意識を整える。
傍から見るとじっとしているようにみえるがじっとしようとしてはいけない。
それは立禅ではない。

じっとしようとすること自体力んでいるわけで、気の流れを妨げる。

その逆。

二輪車で倒れず静止しようとする時ハンドルを小刻みに動かしバランスをとろうとするように、立禅でもそれは同じ。
静止しているかのように見える独楽も実際は回っているのだ。
止まってはいけない。

姿勢を正しながら立っていられる極限まで体をゆるめていくと、自然とゆらぎを感じる。
そのゆらぎに対抗しようとせずにそのまま受け入れる。

これによって〝何か”が変わってくる。

その何かとは、套路であり、推手であり、散手だ。

当会では、気功、套路、推手、散手は四輪車のタイヤだと思っている。
ひとつが欠けてもその車はうまく走れないように
太極拳も太極拳として完成することはない。

このようにして、禅を行うことが強くて健康になれるということ。
少なくとも私はそう信じ修行を続けているし
そのおかげで長年健康を維持している。