ある生徒に「覚えるのが早いね」と言ったところ
本人は「言われるのが嫌なんで」と答えた。
とても正直だ。
結果オーライで考えるなら、
そのことが早く覚える意欲につながっているのだから決して悪くないと思う。
実際、私は楊式太極拳を覚えるのに十年かかったのに、一年も掛からず覚えたのだから。
しかし、私の場合はちょっと違う。
私は子供の頃から覚えることが苦手。
あまりの記憶力の悪さに自分が憎いと感じたこともあるほど。
だから記憶力を要求される国語と社会は大の苦手で、この教科で5段階の2以上をとったことは一度もない。
クラスメートは「こんなん丸暗記すればいいだけ」と言うが、その丸暗記が苦手なんだ。
覚えられたら苦労はない。
そもそも丸暗記ってなんなんだろう?
それってただ暗記するだけで、それが一体何の役にたつのだろう?
それで言えば九九は確かに丸暗記するだけでも役に立つ場面は多い。
といっても、私はその九九ですら6の段までしか覚えられず、クラスメートは全員覚えたのに私だけ覚えられず結局最後は先生に見放された。
ではこれを太極拳に当てはめてみよう。
太極拳の套路(型)を仮に丸暗記したとする。
しかしそれが何になるだろう?
それはあくまでも太極拳の型を覚えただけであって、その使い方は何も覚えていない。
なぜゆっくり動くか?
なぜ途切れないように動くのか?
なぜ足を静かに運ぶのか?
その意味すらわからない。
これで本当に太極拳を覚えたことになるのだろうか?
私は子供の頃からその意味が分からなければ全く覚える気にならない性格。
だから覚えようとさせられると必ずその意味を知りたがる。
そして先生を困らせる。
その先生を困らせていた生徒が今では先生になっている。
しかし性格は今でも変わらない。
意味が解らないことを覚えようとは思わないし、
限りある人生、そんな無駄なことに時間を掛けたいとも思わない。
だからすべての意味を解き明かすことに今まで時間を費やしてきた。
そして多くの先生や先輩方から様々なことを学び、そして自分なりにも研究してきた。
だから新しい会の名称も「研究会」とした。
私が先生から太極拳を学ぶ時、早く覚えられるかどうかといえば、覚えは悪い方だと思う。
あまりの覚えの悪さにもしかしたら先生をイライラさせてしまっているのではないかとも思ってしまう。
しかしそんな自分に苛立っても仕方ない。
私は心の中でこうつぶやいてる。
「何度も同じことを言わせてしまい本当に申し訳ないです」
「それでも見捨てず教えて頂き感謝します」と。
実際口に出して言ったこともある。
そして
「なるべく早く覚えられるよう努力します」
と自分の中で誓う。
私は決して優等生タイプではない。
だから優等生にあるプライドも全くない。
持ちようがない。
その代わり感謝する気持ちは人一倍ある。
その気持ちが私の意欲を掻き立て
そして今に至るまで未熟ながらも自分をここまで押し上げてくれた。
学生時代、劣等生だった私は先生に見捨てられてきた。
しかし太極拳の先生は私を決して見捨てない。
辛抱強く何度でも同じことを教えてくださる。
幼い頃にこういう経験をしたからこそ、この有難みがわかるし感謝する気持ちも強くなるのだろうと思う。
***
教える立場になってわかったことだが、
辛抱強くなるのではなく、太極拳を長くやることによって心にゆとりができる。
イライラしなくなる。
「覚えられない・・」と焦っている生徒がいても、心の底から笑顔で何度でも教えることができる。
太極拳が単なる運動ではなく禅であることが本当によくわかる。