2018年11月30日金曜日

散手から始める

当会ではまず最初に気功を行い、その後、伝統套路を練り、
次に推手、散手という順番で稽古を行っている。

なぜこの順で行うかは、単純に私がそう教えられたからであり
この順はやはり理にかなっていると思う。

では、太極拳が作られた時もこのような順番で作られたのだろうか?

そもそも太極拳は自分の身を守るための護身武術であり、
健康体操として生まれたものではない。

自分の身を守るためにはまず健康でなくてはならない。
氣を練り体を鍛える。
それによって強さが得られる武術となる。

敵が攻めてきた時にどうやって身を守るか?
まずそこから考える。
二人で手を合わせながら、いろいろやってみる。
いわゆる散手。
力に対し力で対抗しようとするなら筋力を鍛えねばならないが、
女性や老人には限界がある。
だから力を使わない武術が必要になる。

では力を使わないためにどのような練習法が必要か?
そこで編み出されたのが推手という方法。
手を合わせなければ決して力の加減を知ることはできない。
力を使わないでどのようにして相手の力を制することができるか?
ここで柔らかさが必要になってくる。
「柔よく剛を制す」ということ。

柔らかい力が大きな力を操ることが出来ることはわかった。
では、その技や柔らかい力をどのようにして練り上げることができるか?
ここで套路(型)を組むことが考えられる。
套路の良いところは一人で練習できるということ。

しかし、それは柔らかい力を使えるようにするための鍛錬法であることを忘れてはいけない。
一人で套路ばかり練っていても本当の柔らかさを得ることはできない。

だから、套路と推手と散手をバランスよくやることが大事だと私はいつも言う。

太極拳の健康効果は世界中の医学界でもかなり知られるようになってきた。
頭痛、肩こり、腰痛等に留まることなく
癌やパーキソン病、認知症、線維筋痛症などの難病を克服した例は多い。

その太極拳が他の健康法と大きく異なる点は、
二人で行う鍛錬法があるということ。

無駄な力が入っているかどうかを知るためには推手をやるのが一番手っ取り早い。
だから推手をしっかり行えば太極拳の上達は速い。

無駄な力が抜けると
ゆるみが生まれ、
それにより
邪気を洗い流し、
元気の源である氣を多く取り込むことができる。

これこそが絶大な健康効果を生み出す太極拳だと私は信じる。

自分の太極拳に無駄な力が入っていないかどうか?

それを確認するためにも太極拳の一面だけを行うのではなく
総合的に行うことを強くすすめる。

2018年11月27日火曜日

体が教えてくれたこと

先日、十数年ぶりに体調を崩してしまった。
楽しみにしていた武者修行も残念ながら延期。

気功と太極拳を始めて、今まで一度も体調を崩さなかったわけではない。

喉を傷めたり
頭痛がしたり
寒気がしたり

そんな症状が起きたら、
必ず無理をせずにすぐに栄養をとり、しっかり体を休めることにしている。
そうすれば一晩で回復する。

人間は毎日ウイルスと闘っている。

前にも話したかもしれないが、
もしタイムマシンが発明されたとして未来に行ったら、すぐに死んでしまうと思う。
それは、今の自分はこれから次々と生まれる新ウイルスに対する抗体を持っていないから。
もし未来に行けるとしたら、宇宙に行くのと同じように宇宙服を着なければいけないだろう。

いわゆる「今」元気でいられるのは、
常にさらされているウイルスとの闘いに勝っているからであり
それこそが人間の生命力だと思っている。

なぜ私は体調を崩してしまったんだろう?
その後何度も考えた。
皆の健康を願って気功と太極拳を行っているのに私が倒れてしまったら意味がない。

その答えは、自分自身の気功と太極拳が出来ていなかったから。

毎日指導に追われ、
起きている間はずっと会の運営のための仕事を行い、
事務仕事だけではなく、
人と接する仕事だけに、良いこともあればそうでないことも頻繁に起きる。

そういう時私はその場をやり過ごすということを好まない。
無論、自分とは関係ないことはスルーするが、
そうでないことは正面から解決しようと努力する。
そういう性格らしい。

だから問題を問題としてそのまま放置することはしたくない。
今解決できるのならすぐに行動し、
すぐに解決できないことは長期的な計画を立てて一つ一つ解決していく。
そういうことを頭で考えるのではなくすべてノートにつけている。
ノートをつける理由は、常に頭をすっきりさせておきたいから。

いわゆる、人のため・自分のため・メンテナンスノートだ。

しかし問題は常にひとつではない。
重なることもしばしば。

そうなると私は自分のための鍛錬ができなくなる。
いわゆる完全な仕事人間になってしまい、修行者ではなくなってしまう。
そんな日々が重なり体調を崩してしまった。

今回のことで学んだことは、
仕事に懸命になることは大事だが、
「自分の時間をつくる」ということは絶対必要だということ。

それから私は毎日自分の時間をつくるようにした。
調子がいい。

結局、
教える太極拳と学ぶ太極拳は違う。
教えることは自分のための健康法にはなっていないということ。

気功を行っている時間は全てを忘れることが出来
自分としっかり向き合うことができる。
自分の内面と対話することができる。
邪気(ストレスや疲労)が溜まっていればそれらをしっかり払い、
体の中にエネルギーをしっかり取り込む。

これからはどんなに忙しくとも
自分の時間を作ると決めた。

2018年11月23日金曜日

套路を減らそう

かつて何千円、何万円、いや何十万もしたものが
今では百均やコンビニで安価に買える時代になった。
電池や電球、腕時計、電卓・・

電池も高級品で、当時は単三電池2個買っただけでも裕福な気分になったものだ。
アルカリ電池などは高価で手が出なかった。
腕時計はデジタル時計なら当時1万円以上は当り前。
今ではそのデジタル時計が100円で買える。
電卓も同じ。
電卓のテレビCMを見てはいつか欲しいなと夢見ていた。

それどころかティッシュペーパーですら貴重品だった。
ティッシュ1枚使うのにも罪悪感を感じたものだ。
鼻をかむのも躊躇した程なのに、
こぼしたものをふき取るのにティッシュを使う時など親の目を盗んで使ったものだ。

とにかく今は何でも安く手に入る時代。
お陰で家の中は物だらけ。
買っても幸福感すら感じず、どこに何があるかも、何を買ったかすらもどんどん忘れていく。

これほど物が溢れてくると、今度は減らしたくなってくる。
人間ってとことんわがままだ。
物に囲まれるのが幸せだと思っていたのに、シンプルな生活を求めることに幸せを求める時代になってきている。


太極拳も同じ。
最初はたくさん套路を覚えたくなる。
次々とレパートリーを増やしたくなる。
しかし増えてくると今度はストレスを感じるようになる。
増えすぎて練習しきれなくなるからだ。
「練習しないと忘れてしまうのではないか?」という強迫観念にかられ、
罪悪感を感じるようになる。

ストレスを解消したくて始めた太極拳なのにこれでは本末転倒。

私は太極拳だけでも今までに簡単なものも含め8つの套路を覚えた。
楊式、陳式、孫式、呉式、双辺、24式、42式、入門などなど。
その内6つは断捨離した。
理由はかんたん。
たくさん覚えるよりひとつを極めたかったから。

私が師を選ぶ基準はなんでもできるマルチプレーヤーの先生より、
ひとつのことに卓越している先生に付きたいと思う。
そして私もそのような先生になりたいと思う。

形意拳にしても、たくさんの套路を覚えたが、
今は五行拳と十二形拳しか練習してない。

その五行拳にしても漫然とやるのではなく、1回の動作にじっくり時間をかける。
私が家で行う形意拳は音もせずまるで太極拳のようにゆっくり。

速い動きもやれば出来るのだが、あえてしない。
呼吸が乱れるような練習をしても身に付くのは功夫ではなく多少の筋肉だけ。

速い練習をしなくては速く動けないのでは?と思うかもしれないけど
そんなことはない。
普段ゆっくりしか動かない私も絶対乗り遅れてはいけない電車に乗り遅れそうになると、
走っている若い学生たちをゆうに追い抜くほどのスピードで走れるし、
階段も2段跳びで駆け上がることができる。
そんな私は50過ぎのいわゆる中年男。

人間イザとなれば普段以上の力を出せるということ。
だから練習はゆっくりでいいし、ゆっくりの方が早く確実に身につく。

八卦掌も8つの基本以外はやるつもりはない。
8つあれば十分。
あとは自然と応用技が使えるようになってくる。
(まだ研究段階だが・・)

そんなわけで、ごちゃごちゃになっていた私の武術レパートリーも、かなりスッキリした。

今では「やろう」とするより「やらない」と思うようにしている。

練習をしないのではない。
すべきことを決めて、それに集中するということ。
「あれもこれもやらないと」などと考えていては集中どころかストレスが増えるだけ。

例えば今日、私は閃電手と五行拳と十二形拳だけをかるく行った。
あと走圏だけをやろうと思ってる。

八極拳の名手李書文の有名な言葉に
「千招有るを怖れず、一招熟するを怖れよ」というのがあるが、
多くの技を覚えるより一つを極めよという意味になる。
確かに李書文は圧倒的な強さだった。

「半歩崩拳あまねく天下を打つ」と言われた、
崩拳の達人、郭雲深や尚雲祥は崩拳だけで敵全員を倒したと言われるが
その姿勢や生き様にも憧れる。

さて、ストレスを感じる套路コレクターになるか?
それとも一つを極める達人を目指すか?



2018年11月6日火曜日

スローインスローアウト

なんとなく聞いたことのあるような言葉だと思うが、
それは多分、スローインファストアウトではないだろうか?

クルマや二輪でカーブに入る時は十分速度を落として、
カーブから出る時は再度速度を戻すという意味だが、
誰もが知ってる通りカーブでは遠心力が働くから、十分速度を落とさないと曲がり切れず車道から飛び出してしまい危険だということ。

これがトラックやバスなら横転しかねないし、列車でも同様。
台湾での脱線事故にしても、カーブ前で十分速度を落とさなかったため起きた事故であり、乗客をたくさん乗せていると今回のように大惨事になってしまう。

さて、ではスローインスローアウトとは?

これは太極拳を套路を練る時、定式に入る時はスローで入って、スローで出なさいという意味。
これが出来ない人があまりにも多いので、わかりやすくするためにこのように呼んでるが、
略して「スロースロー」と呼んでいる。

そもそも定式とは?

定式とは大方、技が決まった瞬間の形をこう呼んでるが、
太極拳愛好家の方々の中では定式で技を決めると思っている方が意外と多いよう。

ここで考えてみたい。
定式で技を決めるならそれは、空手や少林拳などの剛拳となんらかわらない。
太極拳では受けたり打ったりしない。
特に楊式太極拳では。

受けずにいなし、
打たずに発する。

太極拳の技は一般的に技と思われている定式と定式の間にあり、
定式とは技をかけ終わった後の形となる。

ちょっとややこしい表現になってしまったが、
いわゆる太極拳の技は常に繋がっているということ。

定式前はゆっくり、定式後もゆっくりというのは美しく見せるためではない。
まるでゆったりと舞っているかのような太極拳の動きは精巧な技の連続であり
無駄な動きは何一つない。

技が掛かった瞬間から相手は戦闘不能状態へと導かれる。

定式までゆっくり動くのは、特に楊式太極拳では前述した通り打たない。
ゆっくり動く中で氣を溜め氣を流す。
ゆっくりが目的ではなく、気を溜めたり流したりする内面の動きに時間がかかるから結果ゆっくりになるだけ。

では、定式後もゆっくり動くのはなぜか?

ひとつは、早い動きは相手に動きを察知されやすく不利な状態になりやすいということと、
もうひとつは、技によっては定式が定式ではないからだ。

定式のようで、実は過渡式で、更に技が続く。

だから、定式で技が決まったと思わない方が良い。

検定向け太極拳である簡化太極拳に関しては定式でしっかり見せることを指導される。
それは動作と形を正しく覚えているかどうかを見るためであり、武術とは無関係。

話は反れるが、
簡化太極拳を武術化しようという動きがあるが、簡化太極拳とは本来、中国政府が武術の要素を省き健康のために作った太極拳であるのに、それに武術の要素を付加するのはどうだろう?

「簡化太極拳だって闘えるんだ!」と言っても、それを目的としている人が簡化太極拳を始めるとはとても思えない。

まあ、太極拳をどのように楽しむかは自由なのだが・・

話を戻す。

定式は技が決まった瞬間だけではなく、
技の始まりであり、技の途中でもあるということ。

だから、
スローインスローアウト。
もっといえば途切れることなく連綿と動かねばならない。

これを「相連不断」という。

こんなふうに強さを求めた結果がゆっくりと連綿とした動きになり、
その結果美しい演武となる。

強さを目指すと美しくなるということ。