見せる武術と見せない武術がある。
私は今見せない武術を重視している。
というより、はっきり言ってしまえば今はそれしか興味がない。
これが14年間修行を行ってきて行きついた答え。
見せる武術とは、人に見せて評価を得ようとするもの。
そのため派手な動きが多く、様々な技を駆使し、見るものを圧倒させようとする。
それを行うためには大きな身体能力が求められ
筋トレやストレッチで徹底的に体をつくりあげていく。
そして中には体を壊してしまう者もいるのも事実。
ここで疑問。
武術に怪我はつきものなんだろうか?
私の考えはこう。
本当の武術は怪我しない体をつくっていくことが目的で、
例え怪我をしても自分の力だけで治していく力を身につけるもの。
以前、車のドアに指を挟んでしまい、内出血で指を真紫にしてしまったことがある。
しかし1時間後には紫がピンクになり、2時間後には肌色に戻った。
私はこれが武術だと思っている。
因みに見せない武術とは、人に見られる見られないとうことではなく
自分の動きを読まれてはいけないということ。
本当の武術では動きを読まれること=死を意味している。
キャッキャ飛び回ってる猿と、じっとしている虎とどちらが怖いだろう?
私なら動かない虎には近づきたくない。
子供の頃、飼い犬に噛まれたことがある。
まったく何の前触れもなかった。
大人しくしていると思ったら、いきなり牙をむき出し猛烈に吠えたて顔を噛みつかれた。
あれ以来私は飼い犬であろうと犬が怖い。(そのようなそぶりは見せないが)
見せる武術と見せない武術の違いは、無論、内向重視の鍛錬を行っているかどうかということになるかと思うが、それよりも明らかに違うのは止まる動作。
見せる武術は定式で止まる。
見せない武術は過渡式で止まる。
※定式とは技を決めた瞬間で、過渡式とは定式と定式の間の動作
本当の闘いの場において、定式で止まるなどしたら、それは相手に自分の命を預けるようなもの。
定式とは攻撃した瞬間であり、太極拳などの内家拳では、その状態が一番不利であると教わる。
攻撃するということは相手に手や足を差し出すことであり、内家拳にとってはこれほどありがたいことはない。
先ほど見せない武術では過渡式で止まると言ったが、実際は止まるのではなく溜める。
発勁する前の溜める動作。
たっぷり充電してから、気を発射する。
だから私の太極拳や形意拳は見せる武術の動きとは真逆になっているはず。
定式で止まることはほとんどない。
師匠の動きがまさにそれで過渡式が非常に長い。
武術といってもその楽しみ方は千差万別。
いろんな武術があっていいと思う。
しかし、自ら怪我をしてしまうような武術はどうだろう?
私のような若輩者が口を出すことではないが、それは間違っているといことに気付いて欲しいと思う。(健康志向の強い私として)
やればやるほど健やかに丈夫な体になるのが武術だと、
私はそう思う。