2018年10月25日木曜日

5000回崩されろ

推手をやっている時、
何度説明しても、頑張ってしまう人がいる。

推手では決して頑張ってはいけない。

頑張るというのは「頑な」に「張る」と書く。
張るのではなく緩む。
それも「頑な」にではなく「柔軟に」

推手の感覚を掴むのが早い人は性格が素直。
私が言った通りにやろうとするし、
私がやってる通りに真似ようとする。

あえてこれ以上の上達方法はないと言い切りたい。

推手で上達したかったらどれだけ崩されたか?
崩した数を自慢するのではなく、
崩された数を自慢する。

なぜなら「推手上手は崩され上手」だから。

私はざっと計算しても今まで5000回以上は崩されたと思う。
そしてまだまだ記録更新して行こうと思っている。

崩されるということは、相手を受け入れているということ。
この受け入れる心があれば、おのずといなす力が見えてくる。

逆に相手の突きを拒んで腕ずくで払い除けてもそれは推手ではないし、
太極拳でもない。
それでうまく行ったとしても、それは単なる力自慢に過ぎない。
その力、
自分より力ある人に敵うだろうか?

もう、ここで答えが出てくる。

力では力あるものには絶対勝てないということ。
それなら、力を使わない方法を探す方が懸命ではないだろうか?

柳の枝に雪がどれだけ積もっても折れることはない。
柳の枝はひょろひょろでごくごく細い。
なのに折れない。
それは雪の重さに対抗しようとしていないから。
その重さをそのまま受け入れ、重力に任せそのまま受け流している。

私にとっての負けは、推手で崩されることではない。
力に頼ってしまうことが自分の中では負けなんだ。

だから1万回崩されても私にとっての負け数にはならない。
そうではなく
1万回、相手の力を知ることが出来、
そしてこの方法ではいなせないという発見をしたということになる。

少なくとも私にとっての修行は
学ぶことであり勝つことではない。