最近、普段の鍛錬に表演用の練習を加えて練習をしているが、
前からも思っていたが、やはり確実に勁力が落ちる。
表演は見た目を重視する。
それは見ている人を感動させるためだが、
それはそれで素晴らしいこと。
しかし、見た目を重視すると必ず装飾的な動作や
派手な演武をしようとするためにアウターマッスルと使って演武することになる。
アウターマッスルを使うことが悪いことではない。
驚くようなアクション、美しい演武は見ていて楽しい。
しかし勁力とは別物。
ではここで考えてみよう。
どうして勁力が落ちるのか?
そもそも勁力とはとことんまで脱力してはじめて出せる力。
いわゆる脱力することで地球と一体化するということ。
人間完全に力を抜くと、起きていることすら出来なくなる。
寝ている状態とは、いわば生きながらして死んでいる状態(?)
氣の力を最大限にしようと思ったら、
生死の境に入ることでその力を出せると私は考えている。
「人間死ぬ気になればなんでもできる」と言うではないか。
いずれも勁力が最大限に発揮できるのは極限まで脱力している時。
その状態は表演武術とは全く別の世界だし、
意識も使う力も違う。
演武力を高めようと勁力を意識される方がおられるようだが、
私の経験上、勁力を意識すると演武力が落ちる。
実際に実験してみた。
人生が掛かっている大会だというのに、
引退試合でもある最後の大会は勁力を意識した演武をした。
実験というか、最後ぐらい「自分らしく」やりたかったのだ。
そして過去最低の点数がつけられた。
悔しかったが、想定もしていた。
なぜなら、全く派手さがないのだから、審判にしてみれば良い点数のつけようがない。
タイトルを「ええかっこすると勁力が落ちる」としたが、
派手に見せよう、美しく見せようとすると、自ずと勁力とは関係のない筋肉を使い、
柔らかく見えても、自分の中では硬い動きになる。
もしこんな力で推手をし、打たれたら
恐らく木の葉の如く吹っ飛ばされてしまうだろう。
このことは最近、表演を意識して八卦掌の練習をし始めたことで改めて確信した。
かっこつけようとすると脱力でなくなる。
よって、私が目指す八卦掌ではなくなる。
だから、見る人には申し訳ないが、華麗な演武は捨てることにした。
やってやれないことはないのだが、自分を偽りたくない。
素直に生きたいと思って武術をはじめたのに、
嘘をつきたくない。
誰が認めてくれなくとも、私は脱力した演武を自分自身でとても気に入っている。
伝統武術=無骨 と思われがちだが、
私は全くそんなこと思わないし、
それよりも、
川のせせらぎや風になびく木の枝葉や草花、舞い落ちる雨や雪。
そんな自然界にある動きを目指したい。