2017年1月28日土曜日

最近のあれこれ

今日で140回達成。
目標は300回。

体のコンディションを調整しながら行っているので目標達成は難しいだろうか。

しかし、当時の私はこんなものではなかった。
競技太極拳の頃はそのために1000回は練習した。

地獄のような練習プログラムを自分で組み、それを毎日こなした。

会う人会う人が応援してくれた。
周りすべてが良い人ばかりだった。

とはいうものの中には冷やかす者もいた。

が、何を言われようが関係ない。
自分が決めたことは最後まで全うするのみ。

嫌がらせを受けたこともあるが、そんなことで動じることもない。
気が済むだけやればいい。
時間を無駄にするだけのこと。

今日、練習中にある人と会ってしばらく話し込んだ。
某連盟で太極拳三段の方。
とてもきさくで良い方だった。

何度も私の動きや姿勢、軸のことなどを褒めてくださる。
自分の中ではまだまだなのだが。

あまり自分では意識してないのだが、
思えば私が以前通っていた道場では先輩方全員姿勢が良かった。
まずそれに驚かされた。

その姿勢の良さが一番如実に表れたのは推手の時だった。
圧倒的に強い。

姿勢が良いと強いということを知った。

そんな先輩の後姿を見て私も頑張ろうと思った。

話は戻るが、
今日、練習を終えクタクタになって自宅に帰る途中、道端で弟子のFさんに会った。
私と目が会うなり、直立姿勢で包拳礼。
Fさん、とてもいい目してた。

良い弟子と出会えたと思えた瞬間だった。

弟子の期待に応えるためにも更に頑張らねばと。

因みに、私が主催する会は、良い人ばかり。

陰で人の悪口を言う人は一人もいない。
露骨に無視したり、
嫌がらせや意地悪する人も一人もいない。
無論、派閥もない。

というより、そういう人を私は許さない。
武術家以前に人間として失格。

皆、お互いを認め合い、称え合い、励まし合い、助け合い、そして一人一人が陰で努力している。

本当に理想的な会だし、
皆のことを誇りに思う。

2017年1月25日水曜日

発勁如虎

「はっけいじょこ」

読んで字のごとく発勁は虎の如くという意味。

今年に入ってから打ち始めた形意拳。
十二形拳、閃電手、その他諸々。

やればやるほど心地よい疲労感と爽快感。

そして肩がどんどん軽くなる。
気功体操をするより今の私は形意拳のほうが体がほぐれる。

崩拳を打ち出す前、
パワーを溜める。

これを蓄勁という。

天地と一体化し、パワーをチャージする。
フル充電状態になったら一気に下腹(あたり)から打ち出す。
この打ち出す感覚が実に気持ちいい。

拳が大砲の弾のように発射され、
それに腕が付いていくかのよう。

形意拳をやり込むと、脱力の重要性がもっともっと分かるようになる。

拳は打つものではなく、打ち出されるもの。
虎が一気に獲物に襲いかかるように。

放鬆することは武術的に大切なことだが、
それよりなにより、放鬆は気持ちいい。

肩のこる武術から離れ、今はそれが何より楽しい。

2017年1月23日月曜日

心が支配する勁力

勁は気によって作り出される力。

そして気を生み出すのは意。

その意を生み出すのは心。

心が意を生み、
意が気の流れをつくり、
その気が勁を生み出す。

勁力を強くするには心を強くすること。

その心を鍛えるにはどうすればいいのだろう?

鍛錬しかない。

日々鍛錬。

当会で行っているのはそのための、気功であり、套路であり、推手であり、散手。

単に筋力を強くしたいなら筋トレをすればいい。

しかし勁力は違う。

筋トレではなく心トレ。

心を鍛えるために鍛錬を行う。


因みに勁力というのはなかなかの厄介者。

筋力は安定しているかもしれないが、
勁力は心が支配しているだけに、その時の心の状態に依存する。

辛いことがあっても、
うまくいかないことがあっても、
くよくよしない。

常に自分の可能性を信じ、一歩一歩前進あるのみ。

一個一個積み上げたものは簡単には崩れないし、強固なものになる。

大事なことは信じること。

信念山をも動かす。

焦りは禁物。

日々鍛錬しかない。

2017年1月21日土曜日

今という時間は二度と帰ってきません。

後で後悔がないよう。

今を大切に生きる。

当会は常に進化しています。
その進化の過程を共に楽しめるのは今。

それでもあなたは映画の結末だけを観たいですか?

今を大切に。

2017年1月18日水曜日

無こそ最強なり

今日、弟子の前で形意拳のある套路を披露した。

しかし自己採点は決してよくない。
そしてその良くない原因もわかってる。

それは、
いいところを見せようとしてしまったこと(笑)

私もまだまだだなと思った。

いいところを見せようとすること自体が
禅でもなければ武術でもなくなっている。

良い時の自分は、何も考えていない。
自分の身に自分を任せている。

無極式(直立状態)から三体式(形意拳の構え)に入る時、
無の状態でならなくてはならない。

私の感覚で言うなら、
無極の状態から太極に入る時にふわーっと自分の体が気化するような感覚になり、
広げた手を下ろしていくと、またスーッと気化した体が元に戻り、
それと同時に゛なにか”が体に入ってくる。

後はその体内に入ってきたものに、やりたようにやらせる。
私の体を使って。

もし出来ない動作があったとしたら、それは練習しかない。
なりたい自分に従い、それを克服する。
そしてそれが出来る自分になってあげる。

その何者かのために。

だから、演武と言うものは立った時に決まるといっても過言ではない。
少なくとも私の中では。

決して、カッコいいところを見せようなどと思わないこと(苦笑)

演武が始まればわかる。
人間の域を超えない力任せの演武になるから。

繰り返すが、
無にならなければ、そのパワーは入ってこない。

競争心、闘争心、虚栄心、
こんなものはゴミ箱行き。

こんなものを持っていると折角のパワーが入ってこない。

無こそ最強なり。

2017年1月17日火曜日

多芸は無芸

多芸は無芸という諺がある。

私の好きな言葉。

その一方、器用貧乏という言葉もある。

実は私は20代の頃、
自分で言うのもなんだが、雑学も割と豊富で仕事も趣味も割となんでも器用にこなすことができた。
そのことで周りからはよく関心されたものだが、
その反面恐ろしいほど貧乏だった(苦笑)
財布の中身はいつも小銭ばかり。
器用貧乏という言葉がこれほど実感できたことはない。

いろいろこなせてしまうから何でも自分でやってしまう。
その結果、自分の仕事が増え、辛くなり、結局長続きせずに辞めてしまう。
だからいつまでたっても手に職がつかない。

そして30代からは変わろうと努力した。
どう努力したかというと、不器用になろうと。
真剣にそう思った。

器用は憧れられるが愛されない。
下手をすれば妬まれることにもなりかねない。
しかし不器用は違う。

不器用と言っても努力しない不器用ではなく努力する不器用。
何をやっても不器用で下手なのだが、
ひとつでもずば抜けた才能の持ち主がカッコいいと思った。

本気で憧れた。
それからというもの、私は毎日のように念じた。
不器用になりたい不器用になりたいと・・

するとどうだろう?
本当に不器用になってしまった(笑)

それまで出来たことが出来なくなった。
知識がどこかにふっ飛んでしまい、絵も字も工作も歌もなにもかも下手になった。
滑舌も悪くなり、喋りもかみかみ状態に。

この時に思った。
人間の凄さを。
願えば叶うということをこれほど実感したことはない。

因みになぜ私は不器用になりたかったかというと、
一番は、自分が器用だと他人の不器用さに苛立ちを感じてしまうから。
こういう自分が嫌だった。

しかし不器用になるとなんと素晴らしいんだろう。
人の不器用さに苛立ちを感じるどころか愛らしささえ感じるようになる。
そして人を理解する力が豊かになり
同時に人を愛することができるようになる。

これこそが私のなりたかった人間像。

器用さと引き換えに大切なものを手に入れた。

さて、ここで本題だが、
これは私の武術にしてもそう。

多くの武術を学ぼうとは思わない。
多くの武術を出来る人を凄いとは思うが全く憧れない。
私の好きなタイプはその流派しかできないけど、達人級の能力を持っている人。

私はそういう武術家になりたい。

私が目指す武術は静かな武術。
楊式太極拳と河北形意拳。

多彩にたくさんの技を使えるより、必殺技をひとつ持っていれば良いという考え。
そのためには立禅と楊式太極拳と河北形意拳だけで十分と考える。

河北形意拳も五行拳だけで良いと思っている。
そもそも形意拳は五行拳しかなかったのだから。

楊式太極拳の十三勢と五行拳、
これだけでも十八になる。

私にとっては多すぎるぐらいだ。

十二形拳も練習しているが、それは技を習得するためではなく、
どちらかといえばウォーミングアップに近い。

覚えた套路や技をどんどん削いで行き、最後には一つにしたいと思っている。

磨き抜かれた゛ひとつ”は全てに勝るのではないだろうかと。

2017年1月16日月曜日

引力と仲良く

今年に入ってからまだブログを書いてないことに気づいた。
書きたいことはいろいろあるが、
ひとまず今回は引力について感じたことを書こうと思う。

地球には引力がある。
引力があるからこそ体が丈夫になる。
引力が人間に与える恩恵は大きい。

しかし体が衰えてくるとこの引力が人間に様々な支障を与える。

体力の衰えと共に腰が曲がってきたり、
頭を支えきれず首が下がってきて肩こりが生じたり、
歩くのが辛くなり、体重を支えきれず体の節々が痛み出す。

体だけではない。
肌も引力に従い、弾力を失った肌は下へ下へと垂れて来る。
老化現象の始まりだ。

私は過去に大きな交通事故でむち打ちになり、その後遺症は今も尚続いている。
整形外科医にかかった時に先生に言われたことは、「肩こりは引力との喧嘩」と仰られた。
確かにそうだ。

引力によって支えきれなくなった体をなんとか支えようと筋肉を使う。
短時間ならまだいい。
起きている間ずっとその筋肉を使わなければならないのだ。
コリが生じて当然。

辛いが仕方ない。
この体と付き合っていくしかない。

しかし逆に考えれば、首を少しでも傾けると酷い首の痛みと肩の痛みに襲われるから、首を真っすぐにしようとする。

首を真っすぐにすることを虚霊頂頸(きょれいちょうけい)という。
この虚霊頂頸を普段の生活から心がけると、首の痛みや肩こりから解放され、
それだけでなく生活そのものが楽になる。

なぜなら首を真っすぐに伸ばすことで軸が真っすぐになるからだ。
軸が真っすぐになれば、余分な筋力を使わずに済む。
小さな力で動くことができるようになる。

因みにこれは太極拳では絶対必要なこと。
太極拳では化勁を使えなければ太極拳とは言えない。
太極拳では相手の攻撃を受けずに流す。
この時に軸が重要になる。

今日の散手の時間では「撫でる」という表現を使ってみた。

この化勁を使うと、自分はほとんど力を必要としない。
それなのに相手を崩すことができる。

戦おうとしたり、対抗意識を燃やしたら失敗する。
太極拳は中国で生まれた最高の護身術。
戦うために編み出された武術ではない。

当会のことをネットで「戦えるのか?」と書き込んでいる方がおられるが、
一体誰と戦おうというのか?
太極拳は喧嘩の道具ではない。

というより戦おうとしている精神そのものがすでに太極拳ではない。

技を習得するために何年も立禅を行い、
天地と繋がり、
悟りを得、
人間として生まれてきた意味と目的を知る。

これを解脱という。

この境地に至って初めて、
戦わずして相手の戦意を喪失させることが出来ると私は思っている。

太極拳で得られることは、美しい演武やカッコいい演武ではない。
それはあくまでも過程であり、目的ではない。

今までにない感動の歓びが得られる境地に至ることこそが目的であり
それを広め、多くの人々とその境地に向かうことこそが世界平和に繋がると信じる。

そして、
その世界に至ると「争う」ということそのものが完全消失する。

これは私の過去の体験談であり、
今度は武術というジャンルでその境地に向かう修行を行おうとしている。

***

書いているうちに書きたいことと違う内容になってしまった・・
またこの続きは次に機会に書こうと思う。