2017年1月17日火曜日

多芸は無芸

多芸は無芸という諺がある。

私の好きな言葉。

その一方、器用貧乏という言葉もある。

実は私は20代の頃、
自分で言うのもなんだが、雑学も割と豊富で仕事も趣味も割となんでも器用にこなすことができた。
そのことで周りからはよく関心されたものだが、
その反面恐ろしいほど貧乏だった(苦笑)
財布の中身はいつも小銭ばかり。
器用貧乏という言葉がこれほど実感できたことはない。

いろいろこなせてしまうから何でも自分でやってしまう。
その結果、自分の仕事が増え、辛くなり、結局長続きせずに辞めてしまう。
だからいつまでたっても手に職がつかない。

そして30代からは変わろうと努力した。
どう努力したかというと、不器用になろうと。
真剣にそう思った。

器用は憧れられるが愛されない。
下手をすれば妬まれることにもなりかねない。
しかし不器用は違う。

不器用と言っても努力しない不器用ではなく努力する不器用。
何をやっても不器用で下手なのだが、
ひとつでもずば抜けた才能の持ち主がカッコいいと思った。

本気で憧れた。
それからというもの、私は毎日のように念じた。
不器用になりたい不器用になりたいと・・

するとどうだろう?
本当に不器用になってしまった(笑)

それまで出来たことが出来なくなった。
知識がどこかにふっ飛んでしまい、絵も字も工作も歌もなにもかも下手になった。
滑舌も悪くなり、喋りもかみかみ状態に。

この時に思った。
人間の凄さを。
願えば叶うということをこれほど実感したことはない。

因みになぜ私は不器用になりたかったかというと、
一番は、自分が器用だと他人の不器用さに苛立ちを感じてしまうから。
こういう自分が嫌だった。

しかし不器用になるとなんと素晴らしいんだろう。
人の不器用さに苛立ちを感じるどころか愛らしささえ感じるようになる。
そして人を理解する力が豊かになり
同時に人を愛することができるようになる。

これこそが私のなりたかった人間像。

器用さと引き換えに大切なものを手に入れた。

さて、ここで本題だが、
これは私の武術にしてもそう。

多くの武術を学ぼうとは思わない。
多くの武術を出来る人を凄いとは思うが全く憧れない。
私の好きなタイプはその流派しかできないけど、達人級の能力を持っている人。

私はそういう武術家になりたい。

私が目指す武術は静かな武術。
楊式太極拳と河北形意拳。

多彩にたくさんの技を使えるより、必殺技をひとつ持っていれば良いという考え。
そのためには立禅と楊式太極拳と河北形意拳だけで十分と考える。

河北形意拳も五行拳だけで良いと思っている。
そもそも形意拳は五行拳しかなかったのだから。

楊式太極拳の十三勢と五行拳、
これだけでも十八になる。

私にとっては多すぎるぐらいだ。

十二形拳も練習しているが、それは技を習得するためではなく、
どちらかといえばウォーミングアップに近い。

覚えた套路や技をどんどん削いで行き、最後には一つにしたいと思っている。

磨き抜かれた゛ひとつ”は全てに勝るのではないだろうかと。