今日、弟子の前で形意拳のある套路を披露した。
しかし自己採点は決してよくない。
そしてその良くない原因もわかってる。
それは、
いいところを見せようとしてしまったこと(笑)
私もまだまだだなと思った。
いいところを見せようとすること自体が
禅でもなければ武術でもなくなっている。
良い時の自分は、何も考えていない。
自分の身に自分を任せている。
無極式(直立状態)から三体式(形意拳の構え)に入る時、
無の状態でならなくてはならない。
私の感覚で言うなら、
無極の状態から太極に入る時にふわーっと自分の体が気化するような感覚になり、
広げた手を下ろしていくと、またスーッと気化した体が元に戻り、
それと同時に゛なにか”が体に入ってくる。
後はその体内に入ってきたものに、やりたようにやらせる。
私の体を使って。
もし出来ない動作があったとしたら、それは練習しかない。
なりたい自分に従い、それを克服する。
そしてそれが出来る自分になってあげる。
その何者かのために。
だから、演武と言うものは立った時に決まるといっても過言ではない。
少なくとも私の中では。
決して、カッコいいところを見せようなどと思わないこと(苦笑)
演武が始まればわかる。
人間の域を超えない力任せの演武になるから。
繰り返すが、
無にならなければ、そのパワーは入ってこない。
競争心、闘争心、虚栄心、
こんなものはゴミ箱行き。
こんなものを持っていると折角のパワーが入ってこない。
無こそ最強なり。