2017年12月29日金曜日

意力が威力に変わる

昨日午前、稽古納めを終え、
その後弟子との今年最後の稽古を行った。

弟子の意気込みは増すばかりで、それと同時にどんどん勁力を上げている。
速い突きはことごとくかわし、あらゆる攻撃に対しての柔軟性も身につけ始めている。
いなす力だけではなく、発勁力も確実に上げている。

私は基本、相手の稽古台になる時は自分の勁力を試すことはしない。
最終的に勁を勁で返すことはやってみせるのだが、
それまでは感覚を掴んでもらうための相手役に徹するようにしている。

勝負をしているのではなく
稽古をしているのだから当然と言えば当然なのだが。

散手での発勁は、あの小さな体からは考えられないパワーがこちらに伝わり
踏ん張らなければ簡単に吹っ飛ばされる。

話を聞くと、学生時代、勉強も運動も苦手だった上に大人しかったため
人に見下されたり馬鹿にされたりすることが多かったらしく
それだけに「強くなりたい」という気持ちが人一倍強かったようだ。

その念願は今の時点でも十分叶っていると思う。
彼女は本当に強くなった。

そんなこんなで彼女には速い突きは通用しなくなってきたので、
次なる段階の稽古を始めた。

そして私もようやく腰を据えて推手ができるようになってきた。

まず推手で大事なことは、姿勢と脱力。
姿勢の良さは強さに比例し、姿勢の悪さは勁力を下げる。
姿勢が悪いと、相手に隙を与え、いなすことも出来ず、打つこともできない。
姿勢は大事。

次に脱力。
力んでると相手に攻撃の機会を与えることになる。
打たれまい、崩されまいと頑張るのは逆。
力を使おうとすると、それを相手に利用されてしまいそしてその力で今度は自分が崩されてしまう。

打たれまい、崩されまいという意識は太極拳では全く役に立たない。
そんなものはドブに捨てよう。

大事なことは、自分という存在を固体としてみないこと。
液体でもない。
気体でもない。

あるのは魄だけで、相手の魂を感じ、
そして起きていることを素直に受け入れ、それを自分の魄に任せる。
そんな感覚。

意が氣を作り出し
氣が勁を生む。
勁はパワーであり、その威力は無限大。
その力は筋力を遥かに凌ぐ。

太極拳が益々おもしろくなる。

太極拳を踊りやスポーツとして楽しむのは自由だが、
本当は皆、不思議な力を手に入れたいと思っているはず。

アニメやゲームだけの世界に終わらず、
それをリアルで体験できるならこんなにおもしろいことはないし、
少なくとも私は生涯かけてやりたいと思う。


2017年12月28日木曜日

欧米人が伝統に拘る理由

ふと思ったのだが、
欧米人が制定拳を行っているをほとんどみたことがない。

一方、伝統拳では白人や黒人などの外国人が多い。
これは太極拳に限らず日本の伝統武道に関しても同じことが言える。

(これはあくまでも私の経験上であり決して全てではない)

アメリカは自由の国。
自由を愛するが故に常にクリエイティブなことにチャレンジする。

一方、ヨーロッパはその国々を見ればわかるとおり
歴史や伝統を重んじる民族(国)が集まっている。

こう考えると、これらの国々の人々に制定拳が合わないように感じるのは気のせいだろうか?

そもそも
制定拳のルーツは?
なぜ制定権が生まれた?
その理由は?

私が知る限り制定拳の名人や達人というのを聞いたことがない。
制定拳で天下を取ったとい話も聞いたことがない。
それもそのはず、制定拳は護身武術としてつくられたものではないからだ。

江戸時代、武士が国を治めていた時代は終わり刀を取り上げられ、
その後剣術、剣道として伝統が受け継がれた。
太極拳もまた、文化大革命の時に武術の要素を省き健康体操として世に広めるため政府の指令によってつくられた。

しかしだ、
伝統武術を伝えて行こうという動きは人目には触れなくとも確実に受け継がれようとしている。
YouTubeなどで見られる武術はごく一部で、そのほとんどが表面的なものに過ぎず、私の知る限り伝統を受け継ぎながらも更に進化させるべく修行を積む者は決して少なくない。

いずれも日本は欧米と比べるとそのほとんどが制定拳の武術愛好家。
太極拳発祥の地である中国も同じく、かつて名手だった著名な武術家も代を受け継ぐごとに表演武術に成り代わってきているように思う。

太極拳に対する一般的なイメージは「健康体操」か或いは「踊り」 と思っている人がほとんど。
どちらでも構わない。
しかしそれはあくまでも太極拳の副産物であり主なるものではない。
太極拳の目的は己を鍛えることにあると思うから。

人間が病気にならず健康でいられるのは、常に体内で免疫細胞が病原菌と闘っているから。
その闘いに敗れると、それを病気や死と言い、逆に勝てば健康と言う。
いわゆる闘わずして生き残る道はないということ。

だから武術として行う太極拳こそが最強の健康法であると私は信じるし、
その証拠としてこれまで数々奇跡的な体験をしてきた。

今後日本はどうなるのだろう?

制定拳を行うのは、太極拳を始める入門としては大変優れていると思う。
そして次のステップとして最強の健康法を手に入れるためにも伝統太極拳を始めて欲しいと思う。

人間は医療の進歩と共に、人間自身も進化している。
あらゆる病原菌に対する抗体を持ち、犠牲者を出しながらも進化している。

ここまで私が話した理由、
察して頂けるだろうか?

武術は敵から自分や家族を守るために生まれたが、
自分自身と闘うことでも武術は大変優れる。

だから、
少なかろうが、
受けいれられなかろうが、
有名でなかろうが、
元来の武術としての太極拳を伝えて行きたいと思っている。

2017年12月22日金曜日

禅に戻る

太極拳は元々、道教から生まれた武術だと言われる。
いわゆる元は禅であったということ。

禅とは瞑想することで悟りを得るための業で
瞑想とは無我無心の状態のこと。

又、悟りとは煩悩(ぼんのう)から解放され神と繋がること。(全知全能の状態)
更に、煩悩とは自分の心を不安定にする要素(欲望や妄想)

あるダンサーが太極拳を見て舞踊だと言ったという。
それは舞踊化した太極拳を見てそう思ったのだろう。
本来、太極拳は禅であり、護身武術なのである。

仮に私が太極拳の套路を練る時に何を意識するかというと
軸と脱力と気の流れだ。

なぜこれらを意識して動くかと言うと、
套路は高次元護身武術である太極拳の鍛錬方法の一種であり踊りではないから。

あえて高次元と言ったが、
それは単に見た目の動きだけを重視しているからではないからである。

ヨガも最近ではパワーヨガやホットヨガなど様々な種類があるが、
私が学んだヨガは自己の能力を最大限に引き出すためのスピリチュアルヒーリングであり
柔軟性を高めるための体操ではない。

私の知る限り人間の持つ霊的センターである7つのチャクラを開発することが目的である。
最終ステージである7つ目のチャクラが開いた時に悟りを得ると言う。

ヨガを世に広めるために、ファッション性を取り入れたり、
美容やダイエットなど多くのニーズに応えるため、
本来のヨガから気軽に楽しめるヨガへと多様化してきたことを見ていると、
武術もまた同じ道を辿っているように見える。

先月、師の元で稽古させて頂いたが、
師は決して私の演武が上手いとか下手といった表現をされることはない。

その代わり言ってくださることは、
「丹田が出来てきた」といったいわゆる内面的なこと。

私は太極拳を美しく演武出来るように修行しているのではなく
丹田を鍛え、丹田を開発するために修行している。
だから師のお言葉は実に嬉しい。

ヨガも太極拳もチャクラや丹田を開発していくということでは共通している。

共通している点は・・
第2チャクラ=下丹田(かたんでん)
第4チャクラ=中丹田(ちゅうたんでん)
第6チャクラ=上丹田(じょうたんでん)

ヨガは会陰である第1チャクラから開発していくが、太極拳では下丹田から開発していく。

更に太極拳では天地人(てんちじん)という考えがあり、
その3つの丹田と更に天と地を繋ぐ。
ヨガでも同様に7つのチャクラと天と地と繋がることがテーマとなっている。

太極拳ではその基本を立禅で鍛え、立禅から学ぶが、
坐禅やヨガの瞑想もそれと同じものだといえるだろう。

実は今回私がお話したかったのは
「太極拳は一体なにであるか?」ということ。

太極拳もまた多様化し舞踊やスポーツとして親しまれるようになってきた。
しかし本来の太極拳は踊りでも運動でもない。

太極拳を普及させるために様々な方法でアプローチするのは良いことだと思うが、
その根源や目的意識を見失ってはいけないと思う。
これが私が伝統太極拳に強く拘る理由であり、いずれ伝統が見直される時期が来ると信じている。

太極拳は禅に戻る。

それは物質世界に飽きた人類が精神世界に戻ろうとしている流れに沿うものであり
今後多くから求められることになるからである。

2017年12月16日土曜日

背中がきれい?

昨日、Kさんの個人レッスン中に、
「先生は背中がきれいですね」と言われた。

背中がきれい?

最初ピンとこなかったが、話を聞いているうちになんとなく意味がわかってきた。

いわゆる背中がピンと伸びてるというだけでなく
その中にゆるみを感じるということらしい。

言われてみれば、私の背中は硬かった。
もっと遡れば姿勢も悪かった。

子供の頃、小児喘息で、発作が起きた時にその辛さを少しでも和らげるため
丸めた布団の上においかぶさるようにし、そして背中をまるめる。
どうやらこの癖がそのまま残ってしまったようだ。

それが太極拳を始めてから姿勢が良いと人から言われるようになった。
しかし今から思えば最初の頃の姿勢は決して良くなかった。

私が本格的に姿勢を正そうと思ったのは
先輩方の真っすぐな背中を見てからだった。
もう、それだけでスゴイと思った。

デキる先輩は姿勢がいい。
演武がカッコいいだけでなく、推手も圧倒的に強い。

それからだ。
本格的に姿勢矯正に取り組みだしたのは。

これが意外と苦労した。
なぜなら姿勢を正そうとするとどうしても力みが生じてしまうからだ。

肩を上がらないようにするのもそうだった。
今のように自然と肩を落とすことはできず、力を入れて肩を下げていた。
しかし今思えばそれで良かったのだ。

姿勢を良くするためには長年の悪い姿勢を直さなくてはならないわけだから
単にゆるめるだけではそうはならない。

鏡を見ながら格闘の日々が続く。
どうすれば先生や先輩のように姿勢が良くなるのか?

物理的に体のあちこちを突き出したり引っ込めたり・・
あるいは、背中にトンボのような羽がついていて、それを下に下ろしているようにイメージをしてみたり、
或いは背中がどろどろ溶けていくようにイメージしてみたり・・
立禅を行う時は、前を向いたり横を向いたりしていつも姿勢チェックをしていた。

鏡を見ながらの練習をすすめない先生もおられるようだが、
私は絶対鏡を見ることをすすめる。

私は美容の仕事をしていた時、女性にいつもこうアドバイスしていた。
「鏡をみなさい」と。
見たくても見たくなくてもとにかく鏡を見る。
そしてその変化をしっかり観察する。
そして次に大事なことは「変化に気付くこと」
変化に気付くことができればやる気につながる。
やる気になってしまえば、どんどんきれいになっていく。

これは姿勢改善も同じ。
人間嫌なものは見たくないもの。
しかしそこから逃げていたらいつまでたっても改善されることはない。

そしていつまで鏡を見続けたか?
もちろん姿勢が直るまで。
いや、それでもやめなかった。
気を許すとすぐにまた元の悪い姿勢に戻ってしまうからだ。

だから、姿勢が直ってからも、時折チェックすることを欠かさなかった。

それで結果どうなったか?
姿勢が良くなると套路も推手も散手も全て良くなる。
まるっと良くなってしまうのだ。

太極拳と言えば、ゆるめることとかやわらかく動くことをよく言われるが、
真っ先にやらなければならないのは姿勢。
姿勢がすべてを良くしてくれるからだ。

姿勢が良くなってしまえば、あとはゆるめることに専念すればいい。
そうすると背中の真ん中をすぅーっと氣が通るようになる。
今度はその「氣」が背中を自然に真っすぐにしてくれる。

太極拳の始まりはここからなんだ。

2017年12月15日金曜日

50歳からの太極拳

昨日の教室で最近入会された方の歳を尋ねると70歳とのこと。
また、現在80歳の方もおられる。
どちらも男性である。

20代の方も80代の方も男女問わず一緒に気功を行い、
太極拳で型を練り、
推手を行い、
散手を行っている。

因みに推手とは太極拳の最も基本的な技術を身につけるための二人で行う太極拳で
散手とはいわゆる技の練習のこと。

この20代も80代も一緒になって
推手や散手で対練が出来るのが太極拳のおもしろさだと思う。

例えば、腕相撲なら高齢者は若い人に敵わないだろう。
しかし推手となると話は違う。
なぜなら力を使う方が不利になるからだ。

もし相手が太極拳初心者なら力で勝つことができる。
しかし伝統の太極拳を幾年か嗜んでいる人なら、素早い突きもことごとくいなされてしまうだろう。

太極拳で大事なことは、
力を抜くこと。
そして柔らかくなること。

女性や高齢者に太極拳が向いていることが頷ける。

私が太極拳を始めたばかりの時、
どうやらガチガチだったようで、まずそのことを先輩から指摘された。

太極拳は見た目も闘うというより、まるで踊っているかのように見えるのに、
さらに力を抜くようにと教えられたことが私にとっては驚きだった。
「これで一体どうやって戦うんだ?」と。

実際、先生に技を掛けられると、空を打たされ宙を舞うことになる。

もう、これまで何度も書いてきたことだが、
私が太極拳に対し強烈な興味を持ったのはこのことが大きい。

弱そうに見えるのに強い。
カッコいい。

太極拳は50歳からと先輩に教わったが、
実際50半ばになってみてその意味がようやくわかってきた。

良く言えば力が抜けてきたということになるが
いわゆる体を動かすことがめんどくさくなっているということ。

かつて喧嘩っ早かった自分が今は喧嘩するのもめんどくさい。
パワーが有り余ってるから遠回りばかりしていた自分が
今ではいかにラクにできるかと考える。

余計なことに気を取られることなく、
必要なことだけに目を向けられるようになったとも言えるだろうか。

太極拳で散手を行う時も早くて華麗な技よりも、
ほとんど動かないで相手を崩す方法を選んでしまう。

先日、ある人に下勢(かせい)の使い方を聞かれたので、やって見せたが、
正直言うと面倒だった・・(苦笑)
しゃがんで、立ち上がって蹴るなんていう大技は力ある若い人に任せて、
私はラクをして相手を崩せる単鞭(たんべん)や提手上勢(ていしゅじょうせい)などを最近好んでる。

こんなことを言うと、
まるで練習せずにラクして強くなりたいと思ってるように思われるかもしれないが、
そうではない。
ラクに技を掛けられるようにするためには地味な練習が必要。
それが立禅であったり、基本功であったり。

特に私の中では立禅は最高に楽しい。
ただ立つだけの鍛錬だが、得られることは実に多い。
動いている時には気づけないことに気づくことができる。

先程、立禅を行いながら思ったことは、
「これだけでもいいのでは?」ということだった。

その意味を話すと長くなりそうなので、ひとまず今回はこの辺で。

2017年12月10日日曜日

飛んでいる矢は止まっている

ゼノンのパラドックスに「飛んでいる矢は止まっている」という説があるが、
これは時間という概念からその一瞬は止まっているということを示している。

実際に飛んでいる矢を早いシャッター速度で撮影すれば静止して見える。
当たり前と言えば当たり前なのだが。

これとはまた意味が違うのだが、
私は太極拳の練習をしている時、いつもこの矢のことを思い浮かべる。

いわゆる、その一瞬一瞬は止まっている矢のごとく、
立禅(站椿功)の連続であるということ。

太極拳はゆっくり動く。
その意味はゆっくり動かなければ鍛えられない筋肉を鍛え、
極限まで力を抜きゆっくり動くことで氣の力を強めることができるから。

それに太極拳の動きは常に円であることから、
早い動きで練習してしまうと円ではなく直線に近づいてしまうことにも気づくだろう。

円の動きをしっかり体に染み込ませていくには
ゆっくり動くのが最良の方法であることもわかる。

本日、当会で3度目の検定試験を行った。
1度目、2度目と比べると全体的にレベルが上がったと確信した。

特に嬉しかったのは、かつて何度言ってもゆっくり動くことをせず、
まるで早く終わらせてしまいたいと言わんばかりに速くて雑な動きだった人が
今回の試験ではとてもゆっくり丁寧に動こうとしたこと。

私はいつも言う。
「早く上達したかったらゆっくり練習すること」

しかし、何度言っても早く上達したいからと早く動いてしまう。
そして、いつも同じところで同じ間違いをしてしまう。

もうこれは仕方のないことなのだと思った。
せっかちな性格がそのまま出てしまうということ。

そこで私はゆっくり動くことから、静止することをすすめる。
立禅というのは決まったポーズとは限らない。
自分で立禅をつくってしまっていいのだ。
自分の苦手がわかったら、その形の立禅を行えばいい。

少なくとも私はこうして自分の苦手を克服してきた。

止まっている矢のごとく、静止する鍛錬を行う。
そもそも站椿功(立つ鍛錬)は、最初に站椿功があったのではなく
正しい動きを身につけ、勁力を上げるために生まれた鍛錬法であると。

動いてしまうとついつい筋力に頼ってしまうが、
静止すれば立つための筋力だけで済むので、沈む感覚を養うことができる。

こんなふうに、太極拳をやり込んでいけばいくほど、立禅(站椿功)の重要性に気付く。

頭ごなしに「立つ練習をしなさい」と指導するのではなく
「なぜ立つことが重要なのか」と自分で気づくことが大事だと思う。