先日弟子に尋ねた。
「最近、私の演武、下手になってないか?」と。
その答えは、全くそんなことはないとのことだった。
なぜこんな質問をしたか?
理由は二つ。
一つは、最近、全くカタチを気にしなくなったから。
もう一つは、指導する上である程度の演武力は必要だと思ってるから。
私は14年目にしてようやくカタチの世界から抜け出すことが出来た。
最初はなんでもカッコから入り、先生の真似から始める。
「先生のように柔らかくカッコよく演武できるようになりたい」
そう思って、先生の後姿を追いかけてきた。
演武力を身につけるため、積極的に演武会や大会、試合など片っ端から出た。
演武力をつけるには人前で演武するのが一番だと思ったから。
確かにそれでそこそこの演武力はついた。
人から良い評価をもらうことも増えた。
しかし、私は太極拳の演武力を身につけるために始めたのではない。
それはあくまでも手段であり、目的ではなかった。
とはいうものの多くの人から注目を浴び、良い評価を頂き、
それによって全く気持ちが浮ついていなかったかと言うと嘘になる。
その浮つきかけていた自分を真正面からぶった斬ってくれたのが我が恩師。
久しぶりに拝見した師が套路を練る姿は、大会等で見るソレとは全くことなる異次元の世界だった。
己を意のままに操り、
空間を操り、
その力を使って見えない敵と闘っているように見えた。
もう、本当に例えようのないほどの衝撃だった。
それは感動ではなくショックだった。
その日の帰りの新幹線で私はとめどもなく落ち込んだ。
目的を見失うことはなかっただろうが、
師は遠回りしそうな自分を本来の目的へと引き戻してくださった。
確かにのんびりはしてられない。
40から始めた太極拳。
人前で行う太極拳にばかり力を入れていたら、内功に専念する時間はどんどん減って行く。
そして今、ようやく腰を据えて内功重視の鍛錬ができるようになった。
站椿功を行っている時、
套路を練っている時、
見ているのは鏡ではなく内面。
どこから入れて、
どこから出すか。
入力と出力。
浄化と増幅。
推手をしている時も、相手ではなく相手の内面を見るようになって、自分の推手が変わった。
かつての自分はテクニックで相手を崩そうとしていた。
しかし今は違う。
「どう崩すか?」ではなく、
「崩した」という未来に戻るという感じだろうか。
現在から未来ではなく、
未来に戻るための現在。
とはいうものの、熟練者相手にはそんなことを思う余裕はない。
ただただ学ばせて頂きたいと思うだけ。
私の今の力は単に過去の自分よりも少し腕が上がったというだけで、
今の自分とは比べ物にならないほど大きな力を持っている先輩や師は大勢おられる。
話は戻って、
いずれも鏡を見なくなったことで、
見た目を捨てた自分は今無様な演武になっているのではないかという、
ちょっとした不安が過ったということ。
そんなわけで昨日の稽古風景を動画に撮ったので先程それを観たが
私の演武はなにもかわってなかった。
いわゆる演武力が落ちたということではなくという意味で。
実際はかなり変わった。
それを自分で言うのもおこがましいので割愛するが、
ようやく「内外相合」と「動中求静」の意味が少し解ってきたかな?ということ。
このどちらも文字としては理解できるが、
本当にこの意味が理解できるのには長い長い時間がかかるのだろう。
解ったとは言い切れないが、
解りかけたような気がするまでに15年かかった。
これからまたどんな発見が出来るのか楽しみだ。