複雑な想いで挑んだ試合だったが、
結果は惜しくも0.01ポイント差でメダル逃し全国10位。
メダルまでの点差を知るまでは自分ではやり切ったし悔いはないと思ったが、
この点差を知った時、決断がぐらついた。
悔いはないはずだったのに悔しい想いがこみ上げてきて、
その日はホテルのベッドに横たわりながらも明け方3時半まで寝れなかった。
この0.01という数字は私に何を語りかけているのか?
来年もう一度チャレンジし、リベンジを果たせということなのか?
それとも私の決断を揺るがす罠なのか?
会場内では何人かの選手の方と言葉を交わしたが、
いわゆるこうして自分が出続けるのは、交流することができるから。
そして、自分の実力を知る機会になるということだった。
或いは、目標がないと怠けてしまうし、練習する機会が得られる。
目標があるからこそ頑張り続けることが出来るなどの意見もあった。
私もそう思う。
だからこそ誰からすすめられることなく4年前に個人として試合出場を決めた。
あえて、得意な種目ではなく苦手な種目や新しい套路を選ぶのも実力を上げるための機会とするため。
だからこそ自分にとって本当に価値ある4年間だった。
全日本の選手ともなると私が知る限りは先生方がほとんど。
いわゆるチャレンジし続ける先生が集まる場所ということになる。
そういう意味では大変刺激になる機会となる。
そうと解っていても、私には競技太極拳を辞めなければならない理由がある。
あえて言うなら、どんな大会にも主宰側の意図するものがあり、
それによりどのような選手に高得点を与えるかという傾向がある。
だからこそ上を目指すならその対策をしなければならない。
その対策が自分にとってプラスになるものであれば続けるべきだろう。
しかしそうでない場合は自分にとってマイナスになってしまう。
本来、太極拳とは生きるか死ぬかという戦いを迫られた時に使う拳法であり、
相手が武器を持っているならば、一瞬の隙に斬られ死ぬことになる。
太極拳は競技として誕生したのではなく
自分や家族、大切な仲間を守るため、
敵から身を守り生き抜くための武術として生まれた。
それがなぜ健康体操として普及したか?
それは武術として優れた太極拳は
ゆっくりとした動作によって気を練ることが出来、
それがゆえに体中にエネルギーが満ち溢れ、
丈夫な身体を作り上げることのできる優れた健康法であるから。
いわゆる強さを求めることは健康になるということ。
同時に敵から身を守るために考えられた太極拳独自の化勁の動きは常に螺旋や円の動きで、それがまた美しい。
前にもブログに書いたが、強さを求めるからといって喧嘩に強くなることを目指すのではない。
そもそもこの歳になって体を張った喧嘩をする機会などもうあり得ないだろう。
そうではなく、強さを求めることによる健康法は絶大なパワーがあり、
それは同時に美しさを導き出すということ。
しかも、競技では決して得られない別の世界を垣間見ることが出来る。
それはその道の修行を積んだ者が得られる世界。
私はそれを体験してしまったから、
これまで行った競技太極拳は目的ではなく手段として行ってきた。
人生の半分以上が闘病生活だった私としては、太極拳は最高の健康法であり、
怪我や病気の元になって欲しくないという強い想いがある。
だからこそ、自分の使命を果たすために自分の選んだ道を進もうと。
競技に参加される方々には勝利を祈ると共に是非怪我のないトレーニングを行って欲しいと願う。
私如きが言うことでないことは解っているが、
太極拳は老若男女問わず自分の身を守るために編み出された武術であることを今一度見直して欲しい。
そんな想いで一杯なのである。
***
あるSNSに私の試合での演武を公開したが、あれは私が目指す太極拳ではない。
しかし、私は自分と葛藤しながらも怪我をしないギリギリのラインでトレーニングを積み最後まで郷に従った。
「本番直後ぶっ倒れてもいい」
そんな覚悟でコートに向かった。
それを知っている仲間は、私の気持ちを知っているだけに感動してくれ、そして泣いてくれた。
ありがとう。。
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あるSNSに私の試合での演武を公開したが、あれは私が目指す太極拳ではない。
しかし、私は自分と葛藤しながらも怪我をしないギリギリのラインでトレーニングを積み最後まで郷に従った。
「本番直後ぶっ倒れてもいい」
そんな覚悟でコートに向かった。
それを知っている仲間は、私の気持ちを知っているだけに感動してくれ、そして泣いてくれた。
ありがとう。。