2016年8月27日土曜日

心意気

心意気(こころいき)という言葉がある。
辞書で調べると、「盛んでいさぎよい気だて・気まえ」という意味になる。

この言葉の意味は想像以上に深い。

これを武術的視野から見ると・・

心によって意が動きだし、
意が気を導き、
気が勁を生み出す

ということになる。

もしかしたら心意気の良い人は勁力が強いのかもしれない。

内功を練り出してから、勁(筋力ではない力)を生み出す時に体の中で何が起きているか感じようとしている。

例えば力強い拳を突き出そうとする。
もちろん筋力ではなく脱力した状態で。

この時何が必要かは体が教えてくれる。

大砲にしろ、ミサイルにしろ砲台や発射台がしっかりしていないと、力強く飛ばすことは出来ない。
もし砲台がグラグラだったら砲丸はその威力を失ってしまうだろう。
だから地面にしっかり固定する。

これと同じように、人間も地面にしっかり固定しなければならない。

しかし足を地面に固定することはできない。
地面を掴むこともできない。

ここでゆるむことが求められる。
足を地面に打ちこむことは出来ないが、緩めば足裏と地面との繋がりが大きくなる。

もし人間の体が100%水なら、引力に従って地面に浸透していくだろう。
しかし現実的でない。

ではどうすればいいか?

それは地面に意識を打ちこむこと。
意識ならいくらでも打ちこむことができる。

意識を打ちこめば気が流れる。
気が流れれば勁が生み出される。

この力を利用するのが太極拳を始めとする内家拳で使われる勁力による力(と私は解釈する)

こんな風に自分の体に問いかけてみると様々な発見があっておもしろい。

これも立禅の大きなメリットだと思う。

動くと心も体も動くことに意識が傾いてしまうが、
動かない禅によって得られることは非常に大きい。

2016年8月26日金曜日

宗教から生まれた武術

昨日、ある公共施設内で立禅を行っていたら、ある若い女性が近くに寄ってきて座り込み
ずっと私のことを眺めている。
私が立禅を行っている時は、瞑想状態に入っているため、
周りで何が起ころうが気にならないし、逆に言えば気にすることも出来ない。

それに、ある意味、別の世界に入っているので、
人とコミュニケーションが出来る状態でもない。

私は話し出すと割合、喋る方なのだが、
こと立禅や太極拳等で気を練っている時は完全に周りとの気(人の気)は断ち切った状態になっている。

立禅を行い、太極気功で気を練り、一息つこうと思ったら、その女性が近づいてきて、「何教ですか?」と尋ねられた。

どうやら私は宗教の修行を行っているように見えたらしい。
無の状態からまだ戻ったばかりで、私は言葉をうまく出すことが出来なかった。

しかし、考えてみれば、太極拳は武術に気功の要素を取り入れ編み出されたものであり、
老子が伝える道教から生まれたと言われている。

傍から見れば、不思議なことをしている人に見えるのだろう。
しかし、私はそれが太極拳の一番の魅力だと思っている。

太極拳の美しい演武も良いが、私が太極拳に一番惹かれたのは演武ではない。
その神秘性だ。

見た目はやわらかくゆらゆら踊っているように見えるのに、
それが力となった瞬間強大なパワーに変わる。

多分その女性はその神秘性に興味を持ったのではないかと勝手に思っている。

私は自主練の時はストレッチや筋トレはほとんど行わない。
太極拳は柔軟性や筋力で戦う武術ではないから。

立禅により、脱力し、無になり、そして自然と一体化する。
その自然を味方につけて戦うのが太極拳。

いや、実際は戦わない。
戦っているのは相手であり、こちらはその力を相手に返しているだけ。
戦わずして自分の身を守れる太極拳。
言葉で言い表せないほどカッコイイ。

太極拳は道教から生まれたと言われる。
だから神秘性があって当然なのだ。

戦っているように見えないのに、美しく、神秘性があり、しかも強い。

そういう自分はまだまだ筋力に頼ってしまうことがある。
本物の太極拳に少しでも近づけるようこれからも更に修行を積みたいと思っている。

2016年8月25日木曜日

愛がもたらすこと

これまでブログに何度も書いてきたが、
私は指導する立場として演武力も必要だと感じ、自主的に目標を掲げそのためにそれなりの努力をしてきた。

そのため演武会等に積極的に参加し、先生や先輩方の演武を研究させて頂いた。
そこで思ったこと。

自分や家族、仲間を守るために生死をかけた戦いで発展してきた武術。
そこには現在、平和国ニッポンでは考えられない、壮大な愛があったように思う。

私は男だから、本能的に「守らねば」という意識が常にある。
その時に自分の身の危険など全く考えない。
いや、正確に言えば自分が危険な目に遭うなどとは一切思わない。
だから今まで仲間や家族、大切な人たちを守るために様々な戦いに挑んできた。(暴力ではなく)
そしてそれはこれからも変わることはないと思う。

その壮大な愛が生んだ武術。

今では芸術として楽しむ時代になった。
美しい演武は人に感動を与える。
人は感動によって生きがいを感じ、生きる活力を得るように思う。
だから表演武術も素晴らしいと思う。

かくいう私も年老いた母を喜ばせたくて、カッコいい演武を見てもらおうと頑張った頃もある。
まだまだ長生きして欲しいと思っているが、動ける間にとことん頑張ろうと。
それが私を生んでくれたお礼だと思ったから。

私に子はいないが、自分の生徒が試合出場し、想像以上の点数をとった時は本当に嬉しかった。
入賞こそ逃したが、それでも本番中、最後まで諦めない姿勢に感動させられた。
本人曰く、先生に恥をかかせたくない。だから少しでもいい演武をしたかったと。
彼女はその意地を私に見せてくれた。

また今年の春に行われた太極拳フェスティバルも素晴らしかった。
2年ほどの先輩会員さんから始めてまだ数か月の会員さんも混ざって最後まで頑張った。
そして本番奇跡が起きた。
リハーサルでは一度も曲のサイズに合わせて演武を終えることが出来なかったのに、あの緊張の場面でそれをやってのけた。
私は感動のあまり涙を抑えるのが大変だった。

表演がこれほど人に感動を与えるのは、古来武術が発展した時代の愛の力が根付いているからではないだろうかと考える。

しかし、だからといって武術の力量を演武力だけで見てはいけないと思う。
少なくとも私は、一見無骨に見える演武であろうと、その中に美と強さを感じる。
そんな風に見えるようになったのも本格的に内功を練るようになってからだが。

いずれも私は自分に従い表演武術にかける時間を意図的に減らし内功を練ることに力を注いでいるが
それはこれから起こることの準備である。
今までそうであったように、時代の大きな流れには決して誰も逆らうことは出来ない。

タイムマシンで過去を変えると未来も変わるというが私はそうは思わない。
大河に蟻が一匹落ちようが落ちまいが川の流れは何も変わらない。
「大は小を兼ねる」ということ。

今までほとんど知られなかった地が世界遺産に認定されるとそこへ人が大勢詰めかける。
伝統ある地は守らねばならない。
それと同じように、伝統武術が見直される時代がもう目の前までやってきている気がしてならない。

愛の力は永遠というが、
かつて家族や愛する人のために命を懸けて戦った武術家の心が今も生きており
その伝統が見直される時代が来ると。


2016年8月22日月曜日

五行千本

昨日、1カ月ぶりぐらいに仲間と練習。
私は用事で1時間程遅れたのだが、仲間はその間に五行拳を200本打ったと言う。
流石だと思った。

そう言えば最近の私は五行拳を十分打ててない。
やってもせいぜい100本程度。
練習メニューが多いからだが、最近、立禅に時間を掛けるようになったからだろうか。

いずれも今一度練習メニューを組み直す必要がありそうだ。

立禅は抜かせない。
その成果は仲間と打ち合いや崩し合いをして明確だった。
仲間が立禅の効果に違いないと言ってくれた。

そして仲間も五行拳を200本打ったばかりだろうか、以前より勁力が上がっていた。

ここで意外な共通点をみつけた。
(意外でもないのだろうが)

立禅も無になれる業だが、
五行拳もまた無になって打ちこめる。

「無こそ力なり」
と思う今では、この二つは欠かせないと思った。

今は新しいことを覚えるより、覚えたことを徹底的に繰り返し行う方が楽しいし、
一点に力を注ぐ鍛練を行っている武術家に名人と言われる人物は多い。

五行拳を1000本打つといいらしいが
確かに毎日五行拳を1000本も打てば名人になれそうな気がする。

限られた時間で何に重点を置くかで5年後10年後が大きく変わってきそうだ。
未来は過去の積み重ねだから。

2016年8月18日木曜日

力では勝てない推手

推手は腕力では決して相手を崩すことはできない。
力いっぱい打とうと思えば、相手の体をすり抜け後ろ側にすっ飛んでしまう。

古い映画になるがゴーストという映画が好きだった。
死んで肉体を失ってしまった夫が奥さんを危険から守るために戦う。

ゴーストになってしまった夫が身に付けた力は、
肉体はないのに相手を打つ力を身につけたこと。
愛する奥さんが危険な目に遭っているのを、なんとか助けたくてその不思議な力を身に付けた。
ここが最初の感動シーン。

推手でも同じことが言える。
推手の熟練者に対し攻撃をしかけると、すでにそこに相手の体はない。
幽霊になったゴーストに対して思いっきり殴りかかるようなものだ。
そのまま打った方向にすっ飛んでしまうか、或いは力を吸い取られたかと思うや否や、今度は打ち返されて反対方向に吹っ飛ばされる。

ここで推手は腕力が通用しないということがわかる。

学生の頃、男子の中で流行ったのが腕相撲。
腕の力を試すのに腕相撲が一番わかりやすい。
病弱で華奢だった私は腕相撲はクラスでも下から数えたほうが早いぐらい弱かった。
そのため腕立て伏せを行い鍛えようと思ったこともあるが、いつの間にかやめてしまった。

いずれも力さえあれば腕相撲は強くなる。
しかし推手は違う。

同じ腕試しでも力を使うと逆に負けてしまう。
逆に言えば、腕相撲は力のハンデがある限り勝つことは出来ないが
推手なら誰にでも強くなることができるということ。

ここに推手の楽しさがある。

相手と手を合わせ、円を描くように手を動かす。
円を描くというより自然と円の動きになると言おうか。

その円の中で相手を感じ、攻撃を仕掛けてこられたらいち早くそれを察知し、
そして、その力を逆に利用する。

しかし、実際はそううまくはいかない。
こんなことを考えている暇はないからだ。

私が指導の時によく言うことは、「推手も禅」であるということ。
無にならなければ、相手を感じることは出来ないし、またその力を逆利用することもできない。
考えていては絶対に間に合わないのだ。

これもまた推手の楽しさのひとつ。

以前、私は推手全国大会準優勝の方と手を合わせる機会があったが、
やはり2位まで登りつめられただけのことはあり、圧倒的に強かった。
腕は柔らかくも重くも変幻自在。
打てばスルリといなされ、また、油断すると何メートルも吹っ飛ばされる。

決して腕力ではない。
勁力なのだ。

いわゆる、推手なら、老若男女問わず誰でも強くなることができるということ。
仮に相手が怪力の持主だからといっても、
推手の達人であれば老人であっても勝つことができるところがおもしろい。

当会では来年には会内で推手大会を行う予定をしている。
楽しい推手を通して様々な方と交流を図って頂ければと思うからです。

内気で打つ。外気で打つ。

体内を巡っている気を内気という。
一方、体外にある気を外気という。

太極拳も形意拳も、この気を以て打つことになる。

しかし、ひとえに気で打つといっても、様々な種類がある。

今回は、内気と外気について少し触れてみたいと思う。

内気で打つのは体内を流れる気で打つことになる。
体内に巡っている気を、打ちたい方向に流せばいい。

ここで最も大事なことは、体を十分緩めること。
緩めず体を硬くすると気の流れが阻害されるだけで、気で打つことはできない。

そして、気で打つ時の感覚は、打とうとするのではなく打たされるという感覚。
脳から筋肉に指令を送って打つのではない。

丹田から発生した気が、パワーとなるために体の中のあるルートを介して拳へと流れる。
ややこしい説明になってしまったが、
これは知ることではなく感じるものだと思うから。

実際、筋肉で打つ時も、いちいち脳から指令を送って筋肉を動かそうなどと思うだろうか?

この感覚を掴むには、実際に気を打てる師に打ってもらうしかないと思う。
私もそれでその感覚を身につけた。
無論すぐにではなく、その後試行錯誤を繰り返してのことだし、
まだまだ大きなパワーなど出せない。

次に外気で打つということだが、
外気を味方につけると、次々と不思議な現象が起きる。

触れることなく相手の攻撃を捌き、触れることなく相手を打つことができるということ。
無論私にはまだその力は備わっていない。
その力を身につけたくて立禅と套路を繰り返し行っている。

因みにこれらの力は人にダメージを与えるだけでなく
自分や他人の痛みを取り去ったり、治癒力を上げ損傷した細胞の修復を早めることもできる。

「手当て」というが、
頭が痛い時、歯が痛い時、お腹が痛い時、
手を当てると痛みが和らぐがそれがその証拠。
気の力は自分の身を守るためだけではなく、傷ついた自分の体を治すこともできる。

このように太極拳を始めとする内家拳は非常に奥が深い。



追記

20世紀末期、21世紀は物欲に飽き、癒しを求め精神世界を求める人が圧倒的に多くなると予言された。

私もその一人。

物を買うことに今はほとんど興味ない。
20世紀最大の発明品であるパソコンにしても当時百万近くしたものが今では数万円で買える時代。
当時何万円もした電卓やデジタルウォッチが今では100円で手に入る。
物の価値がどんどん下がっている。
モノに囲まれて豊かさを感じた時代は既に終わっているのだ。

太極拳はモノではない。
禅であり、武術であり、最高の健康法だ。
体ひとつあればいつでもどこでもできる。

これからは確実に伝統武術が見直される時代に入る。
現代人が今求めているのは見えるものではなく見えないもの。
未知なる内面の世界なのだ。

物欲がなくなれば人は争うことをやめ、
禅により煩悩を消すことが出来れば自分が傷ついたり人を傷つけようなどとも思わなくなる。

太極拳、またの名を動禅というが、
これにより地球が自然を取り戻し、世界が平和になると私は信じている。

2016年8月16日火曜日

推手リレー

当会では套路(型)の練習以外に、気功、基本功、推手、散手を行っているが
約2時間の中にこれだけのメニューを盛り込むのには理由がある。

どれも全て重要であり、
伝統スタイルをそのまま受け継いできているからだ。

10年前と異なり、今は出版物や動画、DVDなども豊富で太極拳を知る機会はいくらでもある。
それで独学する者もいるだろう。

しかし、それで太極拳を本当に学ぶことが出来るだろうか?
私からの答えはNOだ。

太極拳が他の拳法と圧倒的に違うのは化勁があること。
化勁が使えなければそれは太極拳とは言えない。

化勁とは読んで字の如く、化する勁。
即ち、相手の力に逆らわず吸収したり力の方向を変えたりする特殊な技。

化勁で一番解りやすいのは闘牛士の技。
赤い布で突進してくる牛を導き、そしてその力を無力化する。
もし牛とまともに正面衝突すれば一瞬であの世行だろう。

人間もまた体格の差や力の差がある。
この差を埋めてくれるのが化勁。

そしてその化勁を鍛えるためには推手が最高のトレーニング方法となる。

推手も散手も一人では出来ない。
相手が必要。
しかし相手がいればいいか?

実力のないもの同士が行っても推手レベルが上がることはないだろう。

だから当会では推手経験の長い会員さんと
始めてまもない会員さんとペアを組んで推手を行うようにしている。

ところで、今回のタイトルにした推手リレーとは?

それは推手によって、私は太極拳の創始者と推手を行ったことになるということ。

伝統太極拳では必ず推手を行う。
そしてそれによって化勁や発勁方法を体で学ぶ。
この推手が弟子から弟子へと受け継がれ、私のところまで伝わってきたということ。
これは本当に凄いことだと思う。

楊式太極拳の創始者は楊露禅だが、そこから数えると私は7代目というとになる。
わずか5人を介して推手を行ってきたことになる。

これは大変貴重なことであり、お金だけでは決して買えないもの。
私としてはこのリレーを止めたくないと思っている。

先祖を敬うように、創始者への感謝の気持ちがあるから。
私を病気や心の病を救ってくれたのは楊式太極拳だから、楊式太極拳普及のために多大なる力を尽くしてきて頂いた創始者や老師、先生方に心から感謝を述べたい。

そして私のこの感謝の気持ちは決して誰にも消すことはできないだろう。

2016年8月12日金曜日

技ではなく立禅・套路から入る理由

映画「推手」で、太極拳の達人である主人公が、弟子が技を教えて欲しがるから指導を辞めるというシーンがある。

なぜだろう?と思った。

その理由が後になってわかった気がする。

仮に立禅も套路練習も行わないでいきなり技だけを覚えたとする。
多分、その技は使うことができないだろう。

太極拳の技はカタチではなく、基本が出来ていなければ使えない。

このことを説明しようとするとかなり難しい話になりそうなので、
簡単に言えば、太極拳の技は力を使ってかけるのではないからということ。

もし力を使う技ならその場で覚えてその場で使えるだろう。
しかし太極拳は違う。
力を使おうとすると技の威力がなくなり、
或いはそのことで相手の力に負け自分が崩れてしまうことになるだろう。

こういうことを経験するためにも推手や散手はとても重要だと思う。
いわゆる技を覚えるためだけではなく、基本の重要性を知るためにという意味でも。

太極拳の技を技として使えるようになるには、まず立つことが要求される。
なぜなら手や脚の威力で戦うわけではないから。

立つといってもただ立つのではなく、正しく立ち、そして極限までゆるめる。
よく「地球の力を借りる」という言葉が使われるが、
逆に言えば自分が地球の一部だと感じることだと思う。

大きな岩を動かすことは出来ないし、その岩を殴ったり蹴飛ばそうとすると自分が痛い目に遭うだろう。
岩はなにもしていないのにだ。

これは自分に言い聞かせるためのことだが・・
太極拳で強くなりたかったら、まずは立つこと。
ひとすら立つ。

立てなければ技は使えない。

次に套路を練って練って練りまくる。
師匠曰く、「套路に全てが入っている」と。

套路もまた立てなければ、ゆっくりぶれずに動くことはできない。
踵脚や擺連脚だけが片足になるのではなく、
ほとんどの技が両脚で立ってるように見えて実際に相手を打つ時は片足で立つ形になる。

因みに踵脚や擺連脚で大事なのは上げる方の脚ではなく、上げない方の脚。
「脚が上がらない」と良く聞くが
脚が上がらないのではなく、上げない方の脚で立ててないから。

長くなりそうなのでこの辺にするが
立禅と套路をやり込んで行くことで、太極拳の実力は確実に上がっていく。

その実力とは単に技が上手く使えるようになるというだけのことではなく
体を支える力を養い、
免疫力を上げ、
中から外へと細胞に活力を与え
そのことで肌にハリ艶を与え、
そして心の安定が得られる。

やはり太極拳は素晴らしい。

2016年8月10日水曜日

最近感じたこと

最近、会員さん達のレベルが凄いと感じる。

わずか2年ぐらいの歴で、ここまでバランス良く立つことが出来るかということで驚かされたり、
3ヶ月半という早さで伝統楊式太極拳を覚え、早くも内面で起こる感覚に酔うことができたり、
短期間で勁力を身につけ、重い打ち方が出来ると思えば、触れるか触れないかという感じの打ち方が出来たり・・

とにかく驚かされることが多い。

これらのことは私が10年以上かけてようやく最近身に付けたことなのに
始めたばかりの会員さんが早くもその力を身につけ始めている。

私はこのことが嬉しくてならない。
なぜなら、そうなって欲しいと本気で思っているから。

そのうち私を超えるのも時間の問題だろう。

というより、私自身がまだまだ未熟だし、これから本格的な修行を行おうとしているところだ。

私は決して人より優れているとか、強いとか、上手だとか全く思わない。
謙遜しているのではなく、本当に思っている。

大会でメダルを獲得した時ですら、なぜ自分なんかが?と思った。
どう見ても、皆私より優れている。

私は今、毎日のように太極拳指導しているので、世間的にみれば講師という立場。
だが、〝先生になってはいけない”と思っている。
自分でも先生らしくないなと感じることすらある。

ただ、申し訳ない。
礼儀に関してだけは厳しくさせていただいている。

決して教わったことではなく、礼儀なくして学びの場は生まれないと思っているから。
友達のような関係になって損をするのは私ではなく学ぶ側。
敬意を払って欲しいのではない。
損をして欲しくないのだ。
限られた人生、一番大切なものは時間だと思うから。

いずれも私は会員さんも自分と同じ修行者と考える。
私はただ、それを少しだけ先に進んできただけ。
私に近づいてきてくれれば私もまた実力を上げる機会が得られる。
これは感謝すべきこと。

今後どうなっていくかがとても楽しみだ。

2016年8月9日火曜日

揺れる立禅

伝統太極拳では套路(型)の練習をする前に必ず立禅を行う。
これをやるのとやらないのでは全く違う。

因みに立禅を筋トレだと思っている方もおられるようだが、私の解釈は違う。
呼んで字の如く〝禅”なのだ。
禅とは邪念を払い、無になること。

仮に立禅を行わないで套路を行うとカタチだけの動きになってしまう。
これを否定するわけではないが
私の経験上で言えば肩がこってしまう。

私は子供の頃から酷い肩こり症。
だから、肩がこることをすると極度なストレスを感じる。

ストレスを発散したくて行っている太極拳がいつのまにか体を硬直させ、
それがストレスになるのなら全く意味がない。

しかし、立禅を行ってから套路に入ると全然違う。
套路に命が宿る。

立禅は少なくとも15~20分程度するのが良い。

ここで大事なことは、姿勢、呼吸、心

まず正しい姿勢をつくる。
次にゆったりとした自然呼吸を行う。
睡眠中の腹式呼吸と同じで、意識した呼吸は行わない。
次に邪念を払い意識を丹田に沈める。

私の場合ここで3つのことを行っている。

一つは意識的に体内に気を巡らせる。
もう一つは無になる。
最後のひとつはそれによって体内に起こる変化を感じる。

時によっては、素晴らしい景色を思い浮かべあたかも自分がそこにいるようにイメージすることもある。

ところで立禅で大事なことはじっとしようとしないこと。
じっとしようとすると必ず力みを生みだしてしまう。
じっとするのではなく、姿勢を正し、脱力する。

例えばこんにゃくを縦にして立てることはできない。
しかし真ん中に串を通せば立たせることができる。
この串を中心軸とし、後はこんにゃくのように柔らかくなることをイメージする。

とにかくじっとしようとしてはいけない。
ゆるみの世界を楽しむという感じ。

先日、師匠の後ろで立禅を行ったが、気が付くと師匠の体がゆらゆら揺れている。
その動きは決して意図的なものではなく、自然に動き出したものだと感じた。

体の周りに気が集まってくると、なんともいえない柔らかいものに包み込まれているような感覚に入る。
幸福感を感じる。
そしてその気(外気)や体内の気(内気)にゆらぎを感じる。
その気の中では水の中で波にゆられ揺れるのと同じように、ゆらゆら揺れ出す。

立禅というと真っ直ぐじっと立たなくてはいけないように感じるかもしれないが、違う。
回ってるコマが静止して見えるように、動いているのだが止まって見えるだけ。
止まろうとしてはいけないということ。

この辺が体感できるようになると立禅がもっともっと楽しくなるはず。
因みに私は今、立禅を行うのが一番楽しい。

重いは強いなのか?

推手を行う上で、相手と手を合わせると熟練者ほど腕がずっしり重い。
まるで砂袋のようだ。

でも、重ければいいのか?

私は違うと思う。

何人かの先生方と推手をしたことがあるが、
熟練しているからと言って重いわけではない。
正確には「重くもできる」ということ。

私の場合、もし重い腕の相手と推手する時は、それに負けじと重くしようとはしない。

気は自分の意識によって、
固体にも液体にも気体にも自在に変化させることができる。
更に、光やプラズマにも。

砂袋に対して砂袋で対抗しようとしてはいけない。
臨機応変に対応できなければ意味がないということ。
少なくとも私はそう教わった。

鉄にもなれば、水にもなり、空気にもなる。
打つ時は、鉄、水、風、その他****

私が師と推手した時に感じるのは重さではない。
その真逆。

触れている感覚がない。
もっと言えば手が触れていなくとも操られてしまう。
身動きとれなくなる。

そして、次の瞬間、腕が別のモノに変化する。
突風だったり、水圧だったり、鉄の棒だったり、**だったり。

重い=強いというイメージがあるようだが
少なくとも私が最も強いと思うのは、その重さをもない〝無”の状態。

あると思っている腕は実際はないのだ。
物質を量子(素粒子)レベルでみれば、「ない」のと同じなのだから。

2016年8月4日木曜日

静かな太極拳と形意拳

当会で行っている太極拳は楊式太極拳。
そして形意拳は河北派形意拳。

意外な共通点をみつけた。

そもそも楊式太極拳のルーツは陳式太極拳。
動きも派手で、楊式太極拳の次に愛好家も多い。

陳式太極拳に関しては私はほんのかじった程度だが、
動きがダイナミックな上に発勁動作が明勁なので、動きが派手でカッコイイ。

一方、楊式太極拳に明勁はなく、すべてそれらを中に入れ暗勁とした。
(簡単に説明すると明勁とは明らかに打つと解る発勁動作で暗勁とは打つことが解らない発勁動作)

いずれも、暗勁にした理由は楊式太極拳の創始者である楊露禅が無敵の太極拳をつくろうと考えたことが始まりだと思われる。

先程も言ったが陳式の動きは派手でダイナミック。
特に二路(陳式には一路と二路の2種類の套路がある)は長拳や少林拳を彷彿させるような大きく素早く力強い動き。
ところが楊式はとても武術とは思えないほどゆっくりと柔らかい動き。
ここがとても重要。

楊露禅が考えたことは、「技を見せない」ということなのではないかと。

実際、師匠がすっと近づいて来ても何の警戒心も働かない。
近づいてきたことすら気が付かないこともある。
しかし次の瞬間、吹っ飛ばされたり、床に叩きつけられたり、腹に気を打ちこまれたりする。
これが楊式太極拳の怖さ。

一方、形意拳だが、
山西派から派生したのが河北派。
いわゆる河北派のルーツは山西派ということになる。

こちらも山西派が「動」なら河北派は「静」という感じで、風格にかなりの違いがある。
見栄えは山西派の方が派手でカッコイイ。
一方、河北派はシンプルで動きも静か。

この静かな形意拳である河北派形意拳。
楊式太極拳に通じるものがある。

山西派の発勁動作が明勁に対し、河北派はどちらかというと暗勁。

見た目は本当に戦っているのか?と思うほど力強さを感じない。
これが怖い。

河北派の跟歩は前足で踏ん張ることはしない。
自分の体をただ相手に近づけるよう進むだけ。
そして拳を打ち出すことはせず、前にすーっと出すような動き。

しかしその破壊力は計り知れない。

私はこの静かな河北派形意拳に楊式太極拳同様、強烈な興味を抱かざるを得ない。
強くなさそうなもののほうが怖いからだ。

気をつけてください

勁力は無意識の時こそ最大の威力がでます。

長年、気功で内功を練っている方は安易に人に手を出してはいけません。
自分では力を出してないつもりでも、相手に大きな衝撃を与えます。

そのまま後ろに飛ばされるだけならいいでしょう。
しかし転倒して頭でも打ったら大事です。

手加減しようとすると余計にパワーが増します。

普通は、手加減=力を抜くことだと思うでしょう。
しかし、勁力は筋力に反比例して増大します。

今日、危うく弟子に怪我させてしまうところでした。

手加減しようと思うなら、力を抜くのではなく、
逆に筋力を使ってブレーキを掛けないといけません。

仲間同士で打ち合いをした拳友曰く、
私の場合、体内に衝撃を与えるのは崩拳で打った時らしいです。
ただ拳を前に出すだけ。

相手を遠くに飛ばす時は打擠です。
私の場合は双按よりもパワーがでるようです。

いずれも勁力の差がある相手には筋力を使ってブレーキを掛けないといけないということを
今日つくづく感じました。

気功(正しい方法で)を毎日実践されている方は、知らず知らずのうちに勁力を身につけます。
くれぐれも気を付けてください。

(自分に言い聞かせるために書きました)