2016年11月30日水曜日

体重を補うもの

私はいつも願望を口にするようにしている。
そうすることで今まで数々の願望を叶えてきた。

といいつつ唯一敵わない願望がある。

それはあと5キロ太ること。
このたった5キロ増やすことが出来ず35年経過した。

本当のことを言えばあと10キロは欲しい。
しかし高望みしても無理だと解ってるから遠慮して5キロ増を目指している。

ところで何故私は太りたいか?

ひとつは、脂肪が少ないため冬は人より寒く感じ、しかも冷えやすい。
もうひとつは、脂肪が少ないため椅子に座った時に直接骨がぶつかり尻が痛い。
長時間ずっと座り続けると尻から冷えが伝わり、それが腰にも来る。
あとは、顔がこけて見えるのが好きではない。

と、くだらない理由ばかりあげてしまったが、今私が太りたいと思う理由は
痩せていると重量を生かした勁にどうしても限界が生じてしまうから。

今まで様々な相手と推手をしたり散手をさせていただいたが
その時に感じることは重い人はやはり衝撃に耐える力に長けているということ。
軽い人に比べると重い相手を崩すことは難しくなる。

それにもうひとつ感じたことは
重い方が沈む力に長けているから、安定感が違う。
これを感じたのは、重いリュックを背負って片足を上げてみた時。
明らかに安定して立てる。

私は普段足代わりに250ccバイクに乗っているが、
250ccより教習所の400㏄の方が安定して走行できたし、
逆に50㏄に乗るとフラフラしてしまう。
又、750㏄に乗ってる友人に聞いたところ、250㏄より750㏄の方が操作がラクだと言っていた。

いわゆる単車のように片足で立つ場合、
重い方がバランスが良いと言うことになる。

といっても、体型はそうそう変わるものではないから無理やり太ろうとも思わない。
軽いなら軽いことを生かそうと。

まず軽くてよいことは俊敏性に長けていること。
あと、沈む力が弱くとも浮く力は強くなる。

重さがない分俊敏性でカバーしようというわけ。

先日なんとなくYouTubeを観ていたら、
「戦艦大和VSイージス艦」というタイトルの動画があったが割とおもしろかった。

イージス艦は戦艦のような装甲がない分、
大和の砲弾を浴びればひとたまりもなく撃沈されてしまう。
しかしイージス艦はレーダー性能と俊敏性に優れる。
それを生かし、相手の砲撃を交わしながら迎撃できるというわけ。

私は大和にはなれないが努力次第でイージス艦にはなれるだろうか?

レーダー、即ち相手の動きを読む力。
これを武術用語で聴勁(ちょうけい)と言うが、これも細身の人の方が長けているように思う。
関係ないかもしれないが、私は幼いころから超敏感肌。
人間リトマス紙と言われるほど敏感で、花粉が一個肌に付着しただけでもその重さを感じてしまう。

それに、浮く力。
太極拳の勁は沈む力だけではない。
浮く力を利用して打つ勁もある。
因みに勁とは筋力ではない力のこと。

例えば、高探馬(こうたんま)
これは浮きあがる力を利用して勁を発する。
それに分脚(ぶんきゃく)や踵脚(とうきゃく)、
白鶴亮翅(はっかくりょうし)や金鶏独立(きんけいどくりつ)もそうだ。

とかく勁といえば沈む力が強調されがちだが、
浮く力を利用する勁もあるということ。

そうでなければ結局武術は体格が良い人が有利ということになってしまう。

この浮く力の運用方法に関してはまたの機会に書くとして、
いずれもどんな体型にもそれを生かした力(勁)の出し方があるということ。
〇〇だから損ということはないのだ。

そんなことは言いながら、やっぱりあと5キロは欲しい・・

少なくとも練習着や表演服を注文する時は痩せてみられるのが嫌なので
着太りをめざし10キロ逆サバ読んで注文している(苦笑)

2016年11月26日土曜日

推手の上達法

推手の上達法というタイトルにしたが、
私はそれを具体的に教わったことがない。

あるとすれば、
上級者にたくさん崩されることだろうか。

そして、崩されたことに感謝すること。

私は師に崩されたり飛ばされたりするため
武者修行のため約550キロ先まで稽古に通っている。
少なくとも私は10年間ずっと崩され続けてきた。

崩されることにより師は何が良くないかを教えてくださる。
だから崩されなければ推手は決して上達できない。

そもそも勝つことだけを考えるなら、
内家拳には向かないと思う。

内家拳修行者は禅によって*煩悩(ぼんのう)を捨てる修行をする。
勝とうと思うこと事態が煩悩なのだ。

*煩悩=心をかきみだす妄念や欲望のこと

崩されたことに腹を立てない。
対抗しようとしない。

そもそも、この精神状態そのものが既に負けている。

こんな気持ちで推手をしたら、力任せの推手になってしまい、
もはやそれは推手とは言わない。

もし上級者相手に腹を立て思いきり打ちこんでみたらわかる。
気が付けば自分が崩され飛ばされることになるだろう。

こんなことをいつも言ってるのだが
未だに腹を立て対抗しようとする方がおられる。

私は先日、稽古中に冗談のように「仏の心で」と言ってみた。
皆笑っていたが、実は冗談ではない。

仏様は人様に腹を立てたり、仕返しをしようとしたりなどなさらない。
あるがままに受け入れる。
これこそが仏の心。

太極拳を修行すること
是即ち心を修行すること。

2016年11月25日金曜日

形意拳専用シューズ

形意拳専用シューズが欲しい。
しかしそんなものは売っていない。

形意拳に太極拳専用シューズは向いていない。
下手をすると体を壊す。

太極拳は薄氷の上を歩くよう動くので足への衝撃はほとんどない。
だから靴底が割と固く薄く平らにできている。

しかし形意拳はその真逆。
氷を割らないようにではなく、割るぐらいに脱力しなければならない。
土の上や板間なら衝撃を吸収してくれるが、
コンクリート上に張られたPタイルは衝撃をほとんど吸収しない。
そもそも人間はコンクリートやアスファルトの上を歩くようにはできていない。

だから、膝を痛めたり腰を痛めたりする人が相次ぐ。
見た目柔らかそうに見えても薄いビニールシートの下は硬いコンクリート。

そんなところで、跟歩したり、震脚をしたりするとその衝撃はモロに膝や腰にくる。

その証拠に、まだ2年ぐらいしか履いていない太極拳専用シューズのインソール部分は指先部分と踵部分にぼっこり穴が空き、更に靴底が薄くなってしまった。
因みにこのシューズは1万円前後で、かなり丈夫。
しかし形意拳ではもたない。

更に言えば、2千円前後の安価なカンフーシューズなら1週間ともたない。
すぐに靴底や靴先が壊れる。
まるでトイレットペーパーのように使い捨てという感じだ。

ということで今回私がチョイスした形意拳専用シューズはランニングシューズ。
テニスシューズやバスケットシューズも良いのだろうが、
靴底の形状からしてランニングシューズが最も適していると思った。

ランニングシューズはつま先が反りあがっているので、
独立歩には向いてないが、跟歩には向いている。
ランニング同様につま先で蹴りだしやすい。
それにソール部分が厚く柔らかくつくられているので踵への衝撃も緩和してくれる。

しかもこのアディダスのランニングシューズは
まるで雲の上を歩いてるかのようにふんわりショックを和らげてくれる。

これならガンガン練習できそうだ。


左:新品シューズ 右:2年間使用したシューズ
新しく購入したランニングシューズ



2016年11月22日火曜日

自由になるため正しく覚える

先日ある会員さんが「太極拳難しいです・・」と。

誰もが最初に思うこと。
動きがゆっくりだからやさしく感じる。
しかし実際にやってみると、なかなか思うようにいかない。

太極拳の型は曲線を描きながら次々と動きが変化する。

曲線の動きは強く美しい。
だからこそ太極拳に憧れる人が後を絶たないのだと思う。

しかしその曲線がネックなのだ。

直線ならA地点からB地点へ真っ直ぐ線を引けばいい。
しかし曲線の場合はそうはいかない。
A地点からB地点までどのような曲線を描くのか
その度合いを測るため更に点を増やさねばならない。
A、B、C、D、E・・
それでもそれらを直線で引いてしまうと多角形になるだけで曲線にはならない。

しかも太極拳ではその曲線の中に螺旋の動きも入る。
その回転の速度やタイミングもその動きによって異なる。

最近、太極拳をCGを使ってアニメ化している映像をよく目にするが、
あのプログラミングは大変だと思う。
なぜならコンピューターは曲線を処理することをもっとも嫌がるからだ。
たくさんのデータを打ちこまねばならない。
いずれも、直線的な動きの空手やボクシング系のものと比較すると、
やはりどこか動きがぎこちない。

何が言いたいのかと言うと、
曲線は直線に比べ圧倒的に情報量が多いということ。
太極拳が不老長寿健康法として知られるのは、
これらを頭と体を使って覚えていくからどちらも衰える暇がないのだ。

そして太極拳が難しいのは覚える方だけではない。
教えるのも大変だ。
太極拳の動きを口で説明しようとすると膨大な量の言葉を発っしなければならない。
非常に体力がいる。

無論学ぶ側はその膨大な量の言葉を覚えきれるわけがない。
しかし手本となる動きと言葉を使うことで少しでも早く覚えてもらおうと私は努力している。
全部覚えてもらおうと思って言葉を使っているのではない。

目から入る情報と耳から入る情報の両方でインプットし、
大方忘れたとしても、どちらかの断片が残っていればそれで良いと思っている。

太極拳を教えることはマッチで炭に火をつけようとするようなもの。
非常に忍耐が必要で、私もまた衰える暇がない。

いずれも太極拳を正しく覚えてしまえば、
その先には素晴らしい世界が待っている。
それは山頂に登りつめおいしい空気を吸いながら絶景を眺めるような気分。
解放されたような自由な世界。

だからこそ、休まず弛まず続けて欲しいと思う。
9合目や8合目で下山しないで欲しいと思う。

私も頑張るから皆も是非付いて来て欲しい。

2016年11月16日水曜日

なぜ形意拳は平起平落か?

私が教わった河北派の形意拳では、
常に足裏が地面に対して平らであることと教えられた。
これを平起平落(へいきへいらく)という。

つまり、足を上げる時も下す時も足裏が地面に対して並行であること。
かといってすり足を使うわけでもない。

これが結構難しい。

普段、人間はつま先で蹴りだし踵から着地して歩いている。
二本足で歩くようになってからずっとだ。

その習慣があるため、最初はなかなか苦労する。

いずれも、なぜ平起平落なのか?という疑問にぶつかる。

失敗も含め鍛錬を続けるうちに、
こんな答えが見つかった。

形意拳では独特の歩法を使う。
跟歩(こんぽ)と言われるもの。

すーっと滑り出すように前足を出し、後ろ足がそれについてくるのがそうだ。

前に体を進める時に大事なことは太極拳と同じく脱力。
脱力しているので当然、後ろ足が着地した時にその足に体重がのる。

もしこの時に踵から着地するとどうなるか?

この時に大事なことは、なにがなんでも腰を反らせず真っ直ぐにしておくこと。
そうしなければ、ドスンと踵から着地した衝撃で腰に体重がかかり腰に負担をかけることになる。
いや、実際は体重以上。

浮いた足を着地させるわけだから、落下の重力が働いている。
調べて計算してみないと解らないが、
少なくとも体重の数倍の重力が働いていると思われる。

もし、この着地地点に体重計があれば壊れてしまうかもしれない。
だから銭湯などに置かれている体重計には「静かに載りましょう」と書かれている。

河北派の跟歩では後ろ足が床に着いた時バンッと音がする。
落下した音だ。

いずれも、着地する時は足裏全体で着地しないと、
踵、膝、腰に負担を掛けてしまうのは力学上でも明確だ。

因みに、この落下する力を利用して打っているのではない。
脱力しているから落下するのであり、それは二次的に起きていること。

簡単に言ってしまえば、河北派形意拳は人間大砲のようなもの。

拳で打つのではない。
拳で打たないから体全体の重さが拳に加わる。

これが相手にヒットすればひとたまりもない。

拳が相手に当たっているのに、腕を鍛えずして、腕を鍛えた者以上に破壊力を発揮する。
これこそが河北派の驚異的なパワーだと思う。

先日、公民館イベントで、虎形拳と馬形拳を披露したのだが、
その跟歩の衝撃で相手が勢いよく6~7メートルぐらい吹っ飛んだ。
勢いもつけず、ちょっと踏み込んで打っただけなのだが。

楊式太極拳は受けない。
河北派形意拳は打たない。

どちらも見た目の派手さはないが恐ろしい拳法だと思う。

2016年11月15日火曜日

筆者の一日

やりたいことが山のようにあるのに、
やりたいことがどんどん増えて行く。

50過ぎてこんなにワクワクすることがあったとは。

病弱で無気力だった0代
やりたいことが見つかりそれに没頭した10代
常に新しいものを求めそれを音楽という形で広めようとした20代
昼夜問わず事業に徹し人との関わり方をとことん学ばされた30代
新しい自分の可能性に挑戦した40代
そして、50代の今は伝統武術の世界で新しい挑戦をしようとしている。

いずれも20代は音楽の世界で新時代を築こうとし、
30代はIT革命によって新時代を、
40代は自分自身を見つめ直す内面の探求

そして私が今考えていることは、
誰もが心身共に病を克服し、平均寿命を延ばすことに貢献したい。
日本は現在も長寿大国だが更にその記録を更新したい。

60代になっても体に負担を掛けず、
むしろ健康になる仕事を与えられる環境をつくりたい。
そして、気功と太極拳によって100歳以上まで生きれることを身をもって証明したい。
私の目標は110歳。
恐らく今後更に上を目指すことになると思う。

もし私が平均寿命で死ぬとしたら、あと27年しか生きられないことになる。
既に余命宣告されているようなもの。

冗談じゃない。
まだまだ私にはやりたいことが山ほどある。
80なんかで死んでなるものか。

私はまだ人生の折り返し地点にきていない。
人生これからなんだ。
そして私の周りにいる人たちも巻沿いにしようと思っている。
健康になって健康な状態で長生きしてもらおうと。

そんなことを考えていると寝ても眠れなくなる。

起きたらすぐに仕事を始め、
仕事が終わったら寝る。

ずっとこんな生活をしている。

自分でも本当に日本人らしいと思ってしまう。

私は毎日何をしているのだろう?
リストアップしてみることにした。

  • サークルでの講師としての仕事
  • プライベートレッスンでの講師としての仕事
  • ホームページ制作と更新作業
  • 写真素材探しと撮影
  • 動画撮影と編集
  • Facebookの更新(ほぼ毎日)
  • Facebookのコメント返信
  • ブログの更新(1ヶ月約8回ペース)
  • チラシ、ポスター作り
  • チラシ配り、ポスティング等のPR活動
  • イベント企画・運営
  • 会員さんからのメールの返信
  • 新クラス開設のための準備
  • 実績作りのための試合向け練習
  • 東京への武者修行
  • プライベートレッスンの動画撮影と編集
  • 練習場所の手配と支払
  • 指導力を上げるための自主練と研究
  • 表演服の受注発注
  • 昇級試験の準備
  • 教則ビデオ作り
  • 施設挨拶回り
  • 発表会用の演出と構成考案
  • 健康づくりのために役立つプログラム考案
等々

あげだしたらキリがないが、
毎日多数の仕事をこなしてパソコンの中もデスクの上もファイルだらけでごった返している。
その合間に息抜き代わりに居間で気功、太極拳、形意拳などの練習を行っている。

休む間なし。
というより一人で行う気功の時間や太極拳の時間が、私にとって唯一の至福の時間。

そして稽古の時に仲間の笑顔を見ることが私にとっての一番の活力。

いつも私のことをサポートして頂いてありがとう。

2016年11月14日月曜日

風の太極拳と水の太極拳

当会で行っている太極拳は楊式太極拳と双辺太極拳。

この違いを一言で言うならどのように表現すればいいだろう?
今までずっと考えてきた。

難しい話は抜きにして、感じたままに言うなら

楊式太極拳は「風の太極拳」
双辺太極拳は「水の太極拳」

楊式太極拳が何故、風なのかというと、

まず套路を練る時、気を感じながら、
そしてその気の感触を味わいながら連綿と動いて行く。
風がなくとも風のような感触を味わい、そして自らも風を起こす。

沈む太極拳ではなく空気に溶ける太極拳という感じだろうか?

推手の時は、相手と触れる感覚が風になびく柳の枝が触れ合うよう。
風で相手の攻撃をいなし、風で打つ。

散手の時は、そよ風のような横風で体を煽られ、
その後、突風に打たれ体が宙に舞う。

私は体重が軽いので、突風に煽られるとしばしば体が宙に浮く。
春一番に吹かれた時も、路肩の手すりにつかまらなければ
糸の切れた凧のように飛ばされていただろう経験もある。
楊式の技で飛ばされるとそのような感覚がある。

だから楊式太極拳を極めようとするなら、「風になれ」ということになると思う。

一方、双辺太極拳は、まるで自分の体が液化したかのように溶けながらゆっくり動いて行く。
師匠の演武は溶けだした水が体から滴り落ちるような感じにも見える。

いつも稽古の時に説明することだが人間の体の60~70%は水で出来ている。
だから硬直した筋肉をゆるめてやることで水のようになることができる。
水は引力に従い上から下へと流れて行く。

だからトロトロ溶けながら套路を練るような形になる。
こちらも楊式にはない気持ち良さがある。
水になるにしても風になるにしても無心になれる。

ベッドに横たわり眠りに入る瞬間、
人間の体の水分が背中側に移動していく感覚を感じる方は少なくないと思う。
それが立っている状態で起きる。

水分が下へ下へ、
足裏にまで落ちて行く。

推手の時、相手と手を合わせると、相手の手が異様に重く感じる。
これ即ち水になっているということ。
双辺推手ならではの感覚。

散手の時は楊式の時のように飛ばす技は少ない。
水の重さを使って上から下へ落としたり、水圧のように打ちこむ。
楊式で打たれた時は気持ちいいが、
双辺で打たれると骨が折れるのではないかというほど痛い。

双辺太極拳を極めようとするなら、「水になれ」ということだと思う。


双辺は脱力することで水になる。
楊式は脱力することで風になる。

人間の体は不思議だ。

中国では人間の体は気と血と水で出来ていると考えられてきた。

その気を使うのが楊式で、水を使うのが双辺。

どちらも体に良く、
そして強くなれる。

太極拳は本当に楽しい。

2016年11月10日木曜日

気の交流

私は「気」という言葉をいつも口にする。

気は目に見えない。
だから便利なんだ。

方程式で言えば、ある数値をXとする。
答えは出てる。
ではXは?

このXこそが気の正体。

気を作り出すレシピがあるとすれば、
それは「円」を意識すること。

直線からは作り出せない気。
楊式太極拳の動きは、平円、立円、螺旋から成り立っている。
だから美しい。

それだけではない。
この円の動きこそが大きなパワーを生み出す。

地球は止まることなく常に回っている。
そして地球も太陽の周りを回っている。
そしてその太陽系も銀河の中で回っている。
すべて円の動き。

風呂釜の栓を抜くと、排水口で水は渦を巻き起こす。
何故だか考えたことがあるだろうか?

答えは、地球は回っているから。
誰が知らなくとも水はそれを知っている。

即ち円を描くことは宇宙と繋がるということ。

だから楊式太極拳は気持ちいいんだ。


今日、弟子のMさんと一緒に双辺太極拳の全套路を通した。
実に気持ち良かった。

Mさんを肉眼で見ていてもあまり感じないが、
一緒に套路を行うことによって感じるものがある。
それは、とても落ち着いた安らかな気。

雑念も邪念もない澄み切った気。
それを一種のテレパシーのようなもので感じることができる。

何人かの会員さんがMさんの隣で套路を行うと気持ちが良いという理由がわかった。
Mさんは今年になってある決断をし、
ある柵から解き放たれたかのように太極拳を心底楽しんでいる。

雑念や妄想があると消えてしまうこの澄み切った気。

もし、ここで、「美しく演じよう」とか「カッコよく見せよう」とか思うと
あっという間に消えてしまうだろう。

これこそが無の境地だと思う。

そういえば最近Yさんの演武も変わった。
やはりスーッと気が落ち放鬆しているのが見ていてもわかる。

いずれも太極拳は頭で動くものではない。

もし宇宙と繋がりたかったら手っ取り早い方法がある。

頭を空にすること。


私は太極拳の時代は必ず変わると信じている。
何故なら、その太極拳で得られることは誰もが手に入れたいと思うものだから。

2016年11月7日月曜日

風になり風で打つ

昨日、公民館フェスタは大盛況で終わることができた。

気功レクリエーション
楊式太極拳レクリエーション
推手講座
太極拳、形意拳、八卦掌の技のデモンストレーション
楊式太極拳演武
双辺太極拳演武
楊式刀演武
楊式剣対練演武

と、かなり豪華なメニュー。

公民館のイベントでこれだけのことをしようとする理由は、
来場者の方はもちろん
会員さん達に太極拳の楽しさを存分に伝えたかったから。

終わってから「楽しかったです!」とたくさんの声を頂いた。
感動のあまり泣いてくださった方もおられた。

昨日までずっと不安と期待が入り交じった状態だったが、
その声ですべてが吹っ飛び、
自分の中でも一つの仕事をやり終えたという達成感を味わえた。

私自身も最後の楊式剣の演武では様々な想いが込みあげ、
何故か鳥肌が立ちっぱなしで、ところどころ涙を堪えるのに必死だった。

終わってから、何人かでちょっとした打上風のお茶会を開いたが、
最近入会されたばかりの会員さんが楊式剣の演武を観てこんなことを話してくれた。

「風のようでした」と。

まさに風になることこそが私のテーマ。
とても嬉しかった。

それに
「技を掛けるとき全然力を使ってないように見えたんですが、あれは気を使ってるんですか?」と尋ねられた。

私は答えに戸惑ったがその場では
「何も考えないこと」
「自分に任せること」と伝えた。

技は掛けようと思うと何故か失敗する。

そしてひとつイメージするとすれば、
相手を人と思わず空気のようなものと思い、
そして自分は風になる。

風になり風で打つ。

師匠に打たれた時がまさにそういう感じがったから。

私はその風のように打たれる感覚が気持ち良くて仕方ない。
もし本気で闘おうとしている敵に遭遇した時に、
この風打ちを仕掛ければ一瞬で相手は戦意を忘れ笑顔になるのではないかと思う。

実際に、私も打たれた方も何故か笑ってしまう。

私の目指す武術は、相手に負けたと思わせるものではなく
相手が喜ぶような武術を極めて行きたいと思う。

寒い冬が過ぎ春一番に打たれると気持ちいい。
春が来た!という何とも言えない幸せな気分になる。

そのような春一番が打てるようになりたい。

2016年11月2日水曜日

上達する人は崩され上手

先日、当会で初めて二人で行う太極拳である推手と散手の交流練習会を行った。

推手(すいしゅ)とは一言で言えば、
太極拳では絶対必要な聴勁と化勁を身につける練習方法。
このこと自体はテクニックだが、それだけではない。

本当の達人は勝っても相手に嫌な思いをさせない。
むしろ相手に喜びを与える力を持っている。

それを教えてくれたのは私の師匠。
師匠に崩されたり、飛ばされたりすると不思議な程気持ちがいい。
そして師匠の優しさを肌で感じることができる。

これこそが私がやりたい太極拳だと思った。

いわゆるテクニック以上に大切なことは理解し合うこと。
思いやりをもって接することだと私は思っている。

推手で勝って、相手が本気で嫌な思いをしたとして、それで楽しいだろうか?
喜べるだろうか?
少なくとも私は全然楽しめない。
それどころか相手を傷つけてしまったことで自分自身も心を痛めてしまうだろう。

当会の稽古では毎回推手を行うが、
楽しい雰囲気になるよういつも気を払っている。

そして私はいつものように言う。
「対抗しようとしないように」
「思いやりをもって」

推手は勝ち負けを決める勝負ではない。
理解を深め思いやりの精神を培うもの。

勝とうとして躍起になり我を貫こうとしたり、
負けてなるものかと必死になったりすると推手は全く上達しない。

そもそも太極拳はそのような攻撃を想定して編み出された拳法だから。

勝とうとすると負け、
負けたくないと思うと勝てないのだ。
(このことを論理的に科学的に説明することも出来るが、私の色ではないので割愛する)

とにかく自分より上手い人にどんどん崩してもらう。
その時、崩された相手に感謝できる人であれば、推手はみるみる上達するだろう。

推手でも散手でも大事なことは、相手を理解し、許すこと。
そして相手を受け入れる。

これこそが推手であり太極拳。

推手で上達したかったら、
「勝ちたい」「負けたくない」という気持ちを捨てましょう。

いつもいうことだが、太極拳は禅なのだから。