2013年10月18日金曜日

気についての意識と無意識

いつもサークルで言うことなのですが、気は意識しないと集まってきません。
内なる気も外にある気も感じることはないです。
そもそも誰でも感じることができないからこそ価値があるのです。

気を操れるようになるためにはそれなりのトレーニングが必要です。
トレーニングなくしていきなり気を操れる人はいません。
ただ、元々持ってる気が強い人と弱い人はいるようです。

私は、30代ビジネスで寝る間も惜しんで頑張っている時は気が出まくっていると人から良く言われました。
気功をしなくても気は出るのです。
その気を私は「やる気」と呼んでます。

でも、やる気ってなんでしょう?
どこからやってくるのでしょう?
やる気は目に見えるでしょうか?
やる気は頭で感じるのではなく腹で感じます。
腹に気が集まっているのです。

やる気によってパワーが出ます。
いわゆる、「気」とはパワーという風にも例えられます。

なら、パワーとは?
パワーは筋力だけによって発せられるものでしょうか?

もし筋力だけでパワーが出せるのであればバーベルは常に持ち上げられることになります。
しかしコンディションが悪いと持ち上がりません。
持ち上げようという「気力」がなければその筋力を使えないということになります。

因みに中国武術は、気を使わなくたって、物理の法則と筋力だけでも十分戦えます。

一方、気を使える人は技は必要ないと言われています。
触れただけで相手を飛ばしたり、深刻なダメージを与えることができるからです。(内臓破裂で死に至ることもあると言われます)
触れ合うのは皮膚と皮膚ではなく、気は体を貫通するから怖いのです。(勁力と言われています)

私は筋力も勁力もどっちも好きですし、どちらも好んでそれらが使えるよう練習しています。

会員さんの中には、気を感じることができた人、
気を感じようと努力している人、
努力しない人、
はなっから信じない人、
本当に様々でいろんな人間模様が見れて楽しいです。

たとえば、誰でもがスプーン曲げができるでしょうか?
私はできません。
なぜならその能力がないし、トレーニングもしていないからです。
でも、トレーニングすれば曲がるだろうなとは思っています。
やらないのは他にやりたいことが山ほどあるからです。
いずれも、スプーン曲げは誰でもが出来ないからこそできる人を凄いと思えるのです。

私が気を信じるのは、体感してしまったからです。
最初に就いた師に、“プレゼント”と称する気を腹にもらいました。
殴られたのではありません。腹に拳を触れられただけです。
翌日まで腹痛が続きました。

それに私には気の波動が見えます。
そんなのウソに決まってる!と思われる方もおられるでしょう。

冒頭の話に戻りますが、人は意識したことだけに注意を向けることができる生き物です。
花が好きな人は、道端に咲いている花が見えます。
しかし花に興味のない人にはみえません。
同じ道を歩いているのにです。

音楽の好きな人なら、例え小さな音でもきれいな音楽が流れてくるとすぐにわかります。
しかし音楽に興味のない人は、他の雑音しか聴こえないでしょう。

デパートに行って、女性ならファッションばかりに目が行くでしょう。
男は小物関係に目が行きます。

目や耳から入ってくる情報はすべて自分が意識しているからこそです。

だから、「気」も意識しなくては感じることはないです。
「感じません」という方は意識してないからです。
というより気の存在そのものを否定しているのでしょうね。

「気」は別に神秘的なものでも霊的なものでもありません。

というより人間そのものもが気なのです。
肉体は固体ではありますが、そもそもそのタンパク質にしてもスカスカなのです。
ミミズのようなものがひょろひょろと並んだような形をしています。
更に、タンパク質そのものも原子と電子から成り立っており、更にスカスカです。
体中、いや宇宙の万物そのものがスカスカの空間だらけなのです。

量子論で考えてみてもそうだし、そうなると気というものは宇宙そのものだということにたどり着きます。

話が怪しくなってきたのでこの辺で失礼します。(笑)