2016年12月29日木曜日

楊式で始まり楊式で終わる

2016年1月1日0:00

楊式太極拳で始まった一年がまもなく幕を閉じようとしている。

今年はあまりにもいろんなことがあった。

自分自身のこと
サークルのこと

恐らく自分が本気なのか徹底的に試されたのだろう。


一月  弟子のこと
二月  発表会メンバーの故障
三月  参加者急減
四月  運営危機
五月  武術の転機
六月  競技のこと
七月  記録更新成らず
八月  森ノ宮スタジオの契約解除
九月  伝統への想い
十月  不休の日々
十一月 精神力との戦い
十二月 新たなる挑戦


悪いことばかりではない。
嬉しいこと、楽しいこと、良いこともたくさんあった。
しかし、悪いことは自分自身を強くする。

かつて私が過去味わったことのないほど自信喪失したのは
慢心によるもの。

慢心が一番恐ろしい。

だから悪いことは自分にとって最高の贈り物なのかもしれない。

実は今の私は武術以外に鍛えなくてはいけないことがある。
誰も信じてくれないのだが、
人前に立つこと。

過去、数多くの舞台に立ち、司会や講演等も行ってきた私だが
ある事件を境に完全に自信を失ってしまった。
その後は人と会うことを避け、長期間引き籠ることに。

このことがまだ克服できていない。

来年の目標は未来ではなく過去の自分を取り戻すこと。
本来の自分を取り戻すこと。

そのような気持ちもあり
今日は楊式太極拳を30分以上かけて練ってみた。
こんなにゆっくりと套路に集中できたのはどれぐらいぶりだろうか。

今年もあと2日。

今年一年を振り返り、
来年に向け過去の自分を取り戻し、
そして、新しいことにも挑戦していきたい。

2016年12月20日火曜日

なんでもいい

私が太極拳を始めたばかりの頃、様々な疑問にぶつかった。

そしてそのことを師に尋ねると
返ってくる答えは大概決まってこうだった。

「なんでもいいんだよ」

私は師のこういうアバウトなところが好きだった。
(今もだが)

難しい質問に対して返ってくる返答は
難しい答えではなく、その真逆だった。

私は31歳の時から独立事業主となり、多くの人材を育成してきた。
伸びて行く人もいればそうでない人もいた。

そしてそれぞれ共通することがある。

伸びる人の共通点。
それは素直さ。
すぐに実行に移す。
なにも考えてない。
とにかく、やってみよう!精神。

逆に伸びない人の共通点。
考えてばかりでなかなか実行に移さない。

これは太極拳にも共通することだと思う。

私は立禅の時いつも言うのだが、
「頭を空に」と。

人間は考える生き物だが、
人が考えている時は過去のデータを参照している。

しかしどうだろう?

新しいことをやろうとしているのに過去のデータが参考になるだろうか?

今からやろうとしていることは、やってみなくてはわからないこと。
未知のことをやろうとしてるのに経験を元に考えても無駄なのだ。
というより無駄であることに気付いて欲しい。

もう、考えるのはよそう。
考えたって答えなんか出やしない。

とにかく何度も何度も繰り返し練習する。
それしかない。

繰り返し練習しているとそのうち気づきが得られる。
自分がまだ経験してない未知の知識を得ることができる。
それには練習しかない。

「なんでもいい」
の意味は
「なんでもいいから練習しなさい」という意味なんだと思った。

2016年12月19日月曜日

好きになることのパワー

「好きこそ物の上手なれ」という諺がある。

誰しも苦手部分は多かれ少なかれ必ずあると思う。

それを克服する方法もいろいろあると思う。

その中でも私が思う最も手っ取り早い方法。

それは、好きになること。

套路を通していて苦手部分に近づいてくると、ついつい「嫌だな」と思ってしまう。

苦手と思う部分を嫌だなと思ってしまうと、相手も嫌がる。
だから上手くいかない。

そして、
そう思ってるうちは一向に苦手部分を克服できない。

噓でもいいから、苦手な部分を「好きで好きで堪らない!」と思ってみよう。

どうだろう?

今までとは何か違った感覚があるはず。

好きという想いは相手をひきつける力がある。
好きという感情の中には楽しさがある。

そう思うことで、身体がその楽しいイメージに引き寄せられ
苦手だった部分が難なく上手くこなせるようになったりする。

苦手とうまく付き合う方法。

それは好きになること。

2016年12月14日水曜日

教えたくない軸の話

本当は教えたくないのだが、
姿勢がなかなか良くならない方のためにお話ししようと思う。

姿勢を正す。

かつて姿勢を正すといえば
胸を張り、
腰を反らせ、
尻を突きだすような姿勢を求められた。

とにかく「背中を丸めるな!」と。

しかし、私は気功の時間に、「まるめなさい」と指導する。

正確に言えば、丸めるのではなく、
背中が反っているから、真っ直ぐにしようとしても真っ直ぐにならないからだ。

私は指導の時、こんな風に言葉をいろいろ工夫するようにしている。
何故なら皆に太極拳で健康になって欲しいし、強くなって欲しいからだ。

とにかく仙骨から頸椎にかけて定規で引いたように真っ直ぐにする。

これを立身中正(りっしんちゅうせい)という。

しかし、これの意味を知っている人がどれだけいるだろう?

私からの答えは

背筋をまっすぐにするだけで病気知らずになる。
背筋をまっすぐにするだけで肌がきれいになる。
背筋をまっすぐにするだけで頭が冴え心が強くなる。
背筋をまっすぐにするだけで美しい演武に変わる。
背筋をまっすぐにするだけで強くなれる。

とにかくいいことづくめなのだ。

これらをすべて医学的、物理的、霊的に説明することも出来るが、
ここでひとつ、その証拠となる実験をしてみよう。

牛乳の蓋、又はペットボトルの真ん中に穴をあけ、そして爪楊枝を通しコマをつくる。

回してみよう。
きれいに回っただろうか?

もしうまく回らない場合は中心がずれているからだ。

太極拳も同じ。
中心軸がずれるとうまく動けない。
なぜなら太極拳は円の動きだから。

そして、もうひとつ。

うまく回らない理由がある。
それは爪楊枝が曲がっている場合。
仮に頭の部分を切れてしまわない程度に少し曲げてみよう。

それでうまく回るだろうか?

こんなふうに軸がずれたり軸が歪んでいるとコマはうまく回らない。

当会でスワイショウを行うのは、単に身体をほぐすためだけでない。
中心軸を自分で知るため。

腰を反らせたり、首を傾けたりしてうまく回れるだろうか?

太極拳の戦術として欠かせないのが化勁。
化勁は軸が出来ていないと使えない。
その軸感覚は準備運動で行うスワイショウで養うことができる。
だからスワイショウを適当にはして欲しくない。
手を回せばいいってことではないのだ。

いずれも軸が出来ていなければ化勁は使えない。
化勁が使えなければ太極拳にはならない。
受けて打つなら、それは他の剛拳となんらかわりない。

柔よく剛を制す

それは化勁を使うことで剛を制することができる。

ここで勘違いして欲しくないのだが、柔とは体の柔軟性ではない。
体が柔らかいからといって太極拳が強くなるわけではない。
開脚が出来るからと言って、化勁が上手くなるわけではない。
柔らかいの意味が違うのだ。

話が反れそうなので戻すが、

いずれも、姿勢を正すことは想像以上に重要で、
そして何より多くの利益を生み出す。

当会では、まずこの姿勢を徹底的に指導する。
出来ていなければ何度でも指摘し、正しい姿勢になるまで繰り返し指導する。

何度も言うが、皆に健康になって欲しいからだ。
強さと美しさは健康の上に成り立つものだから。

2016年12月13日火曜日

棍を始めた理由

私が棍を始めた理由はやはり孫悟空だろうか。(笑)

長い棒を自在に操ってる姿はかなり惹かれるものがあった。

私は剣道もしていたことがあるが、
同じ道場の女性が稽古していた薙刀に憧れたりもした。
長い棒をしなやかに操り、それが魅力的に見えた。

短い棒の方が確かに実用的と言えば実用的だ。
カサや杖、ステッキなどがそのまま護身用の武器になる。

しかし棍の歴史は古く、原始時代から狩猟や戦のために使われていたのだそう。
要するに人類が誕生した時から棍は存在するということになる。

そして石器時代になると、棍の先に尖った石を括りつけ槍とした。

確かに獲物を捕らえようと思えば、短い棒より長い棒の方が遠距離操作できる。
こんなことは知識がなくとも、誰でもすぐに思いつきそうなことだ。

いずれも実際、棍を始めてみると想像以上に楽しい。

まずは基本中の基本である劈棍(へきこん)
真っ直ぐに立てた棍を単に打ち下ろすだけ。

この単調な動きを何度も何度も繰り返し行う。
これがすこぶる楽しい。
何度でもやりたくなる。

コツとしては振り下ろした時に棍の先である棍梢(こんしょう)がぶれないようにすること。
ブンと振り下ろしてピタリと止める。
最初はこれがなかなか難しい。
しかし繰り返し練習を行っていると、ピタリと止められるようになる。

他にもいろいろな打ち方があるが、どれも楽しい。

私が行う棍は形意棍。
元々形意拳は棍から生まれた拳法だという説がある。
形意棍を始めてみると、確かに頷けるものがある。

形意拳は内家拳では最強の拳法と言われるが、
それは刀も剣も棍もすべてそうだと思う。

形意拳の歩法と棍の動作が組み合わさって、棍に大きな力が発生する。
決して腕の筋力で生み出した力ではなく、
地球の力を最大限に使う。

形意棍は棍術のような跳躍動作などの派手な動きはない。
至ってシンプル。

しかし、棍梢に伝わる力を感じる時、この形意棍の力強さを実感する。
パワーを感じる瞬間と言おうか。

今度の日曜日に基本棍法練習会なるイベントを行う。
ここではその基本的な動作を繰り返し練習しようと思う。

棍は腕で操作するのではない。
体全身を使う。
棍の練習を行っているとすぐに夢中になれ、ついつい時間が経つのを忘れてしまう。

明らかに太極拳とは違った楽しさがあり、
やり終えた後、妙にスッキリし、ストレスも吹っ飛ぶ。

外の温度は今5度前後。
それでも外で棍の練習をしているといい汗をかく。
実に気持ちいい。

2016年12月7日水曜日

15秒で体はほぐれる

私が稽古中によく言うこと。

「心がゆるめば体がゆるむ」

なぜなら体は心が支配しているから。

逆を言えば体がゆるめば心もゆるむ。
体と心は繋がっているのだ。

気持ちが固くなってると動きも固くなる。
動きが固いと心まで固くなってくる。

だから私は稽古中の雰囲気づくりに気を払っている。

緊張した空気は心を委縮させ、体を委縮させてしまう。

稽古にイライラを持ちこまない。
私が一番許さないこと。

放鬆放鬆!と怒鳴っている先生がおられる。
失礼だがその先生は放鬆の意味を知っておられるのだろうか?
怒鳴っているあなた自身が放鬆していないのに、
生徒が放鬆できるはずなどない。

言葉だけでは伝わらないのは
心が伴っていないから。

その気になれば15秒で体はほぐれる。

ゆっくり手を広げながら、ゆっくり息を吸う。
ゆっくり手を降ろしながら、ゆっくり息を吐く。
これだけで体はゆるゆるになる。

大事なことは、「気持ちいい」と感じること。

体は心が支配しているのだから。

2016年12月6日火曜日

最速の上達法

最速の上達法。

それは
素直さ。

素直は最強だということをわかってない人は意外に多い。

損してるなと思ってしまう。

逆に言えば素直になることは損だと勘違いしてる人もいる。

素直はなんでも吸収できる。
教わらなくとも盗む力もある。
アンテナの感度が半端ではない。
集中力、学習力、記憶力
どれもこれもマックス状態に。

逆に頑固は伸びない。
変わりたくないと思ってるから頑固になる。
吸収できない。
アンテナ受信しない。
今までの経験だけで動こうとする。
そもそも変わりたくないのなら上達するわけがない。

頑固はカッコイイと思ってる方、
勘違いも甚だしい。

私が頑固になるのは死んであの世に行ってから。
生きてる間は死ぬまで素直でいようと思う。

何故なら死ぬまで成長し続けたいから。

因みに素直でないということは、
自分に対して嘘をつくのもそうだ。

実力もないのに実力があるように見せる。
逆に実力があるのに実力がないように見せる。
こんなことをする時代はとうに終わっている。

今は自分に素直になること。
あらゆる師に素直になること。
ピュアになること。
そういう時代なんだ。

ハードボイルドとか
おバカキャラとか
そういう時代ではないのだ。

自分らしく生きる。
これが一番賢いし、これこそが21世紀に生き方。

いつまで意地をはるのか?
いつまで自分を偽るのか?

すでに死へのカウントダウンは始まってるのに、
時間を無駄にするのはよそうではないか。

生まれてきたことに感謝しようではないか。

肉体がある限り自分の可能性に挑戦しようではないか。

2016年12月4日日曜日

春日初の第一回昇級試験

会を立ち上げて3年と8ヶ月。
ようやく昇級試験が出来るまでになった。
今とてもドキドキしている。

立ち上げ当初
会員は2人
青空太極拳参加者2人
公民館フェスタ参加者4人

そして今、
会員数77人となった。

その中から受験者17人
この中から春日伝統太極拳を引っ張って行ってくれるリーダーが誕生する。
ようやく夢の実現。


当会で行う昇級試験は5級から套路試験以外に推手と散手が副科として加わる。
2級からは武器が副科として加わる。
1級に至っては当会で行っている4種目の套路と推手と散手をマスターしたということになる。

前回のブログでも書かせて頂いたが、
太極拳を行う上で推手と散手は必要不可欠。
これからがなければ本当の意味で太極拳の意味や原理を知ることはできないだろう。

そして初段からは勁力試験を行う。
そのためにいくつかのユニークなテストを検討している。

いずれも勁力が使えなければ太極拳を習得したことにはならない。
そして勁力を開発しよういう過程には自ずと体がどんどん健康に向かう原理が備わっている。

これが春日流の有段者。
健康でなければ武術家とは言わない。


そして明日、
私にとっても初めて試験官となる。
試験を受けるのも緊張するが採点するのも緊張する。
公正な点数をつけるためにも非常に責任を問われる。

ひとつ言えることは私一人が採点するのではないということ。
会員全員の代表として私が採点することになる。

誰が見ても納得する採点でなくてはならないからだ。


いずれも明日、受験者の方々は
これまでの練習成果を遺憾なく発揮し最善を尽くして頑張って欲しいと思う。

心から応援しています。

2016年12月2日金曜日

気・套・推・散

当会では、気功、套路、推手、散手の順で毎回稽古を行っている。
この4つは太極拳を行う上で絶対に欠かせないもの。

気功から入る理由は、体をゆるめる理由もあるが、それだけではない。

単に鬆身効果を狙うだけの簡単なものだと解釈するのは危険でさえあると思う。
その理由は今後ゆっくり書いていきたいと思うが、
気功で得られることを言葉にするのは難しい。

私は長く美容関係の仕事に携わっていたが、
美容液や高級クリームの効果を最大限にしたかったらまず洗顔に力を入れること。
これは鉄則。

顔を洗うということは単に顔をきれいにするだけではなく、
肌に栄養を入れるためには絶対必要なのである。

普段、かんたんな洗顔では落ちない肌表面の垢や毛穴に詰まった汚れ。
これらを取り除かなければ1万円の美容液の効果は2000~3000円になってしまうだろう。
逆に正しい洗顔を行ってやれば2万円の効果、3万円の効果だって得られる。

何が言いたいかと言うと、
まずは浄化することが大事ということ。

私は自主練の時も必ず気功を行ってから始める。
まずは体を清めることから。

このことは気功でしか得ることはできない。
普通に準備運動やストレッチを行っただけでは浄化を行うことはできない。

まずは身も心もフラットな状態にする。
そして太極拳を体にじっくり浸透させていく。

この順番は非常に重要。
逆に気功を行わないで太極拳をしようとすると調子が狂うし、
本当の放鬆(ほうしょう)は得られない。

そして、次に推手(すいしゅ)、散手(さんしゅ)という順に稽古を行う。

推手と散手は太極拳の質を確実に高めてくれる。

因みに推手を行わなくては太極拳が太極拳になることはない。

なぜ太極拳はあのようにゆっくりやわらかく動くのか。
そのことが本当の意味で理解できるようになる。

あの動きは空気を受け入れ、空気を導き、そして空気を動かしている。
推手はそれを相手と手を合わせることによって、その意味を知ることになる。

散手もしかり。
これを単なる技の練習と思うのは危険だと思う。
単なる技の掛け合いだと思うなら、それは太極拳にはならない。

推手で学んだことを散手に生かすことができる。
逆に推手を行わないで散手だけをしてもこれまた太極拳にはならない。

太極拳の達人が技を掛けると、まるで魔法を掛けられたように人が吹っ飛んで行く。
或いは、手を触れただけで相手がその場で崩れ落ちる。
それは単に力学だけではなく禅によって得られる力が加わるからである。

とまあ、こんなことを気付くようになっただけで、
私の修行はまだまだ始まったばかり。

とにかく、太極拳を修行する上で、「気・套・推・散」は必要不可欠であることだけは伝えておきたい。

2016年11月30日水曜日

体重を補うもの

私はいつも願望を口にするようにしている。
そうすることで今まで数々の願望を叶えてきた。

といいつつ唯一敵わない願望がある。

それはあと5キロ太ること。
このたった5キロ増やすことが出来ず35年経過した。

本当のことを言えばあと10キロは欲しい。
しかし高望みしても無理だと解ってるから遠慮して5キロ増を目指している。

ところで何故私は太りたいか?

ひとつは、脂肪が少ないため冬は人より寒く感じ、しかも冷えやすい。
もうひとつは、脂肪が少ないため椅子に座った時に直接骨がぶつかり尻が痛い。
長時間ずっと座り続けると尻から冷えが伝わり、それが腰にも来る。
あとは、顔がこけて見えるのが好きではない。

と、くだらない理由ばかりあげてしまったが、今私が太りたいと思う理由は
痩せていると重量を生かした勁にどうしても限界が生じてしまうから。

今まで様々な相手と推手をしたり散手をさせていただいたが
その時に感じることは重い人はやはり衝撃に耐える力に長けているということ。
軽い人に比べると重い相手を崩すことは難しくなる。

それにもうひとつ感じたことは
重い方が沈む力に長けているから、安定感が違う。
これを感じたのは、重いリュックを背負って片足を上げてみた時。
明らかに安定して立てる。

私は普段足代わりに250ccバイクに乗っているが、
250ccより教習所の400㏄の方が安定して走行できたし、
逆に50㏄に乗るとフラフラしてしまう。
又、750㏄に乗ってる友人に聞いたところ、250㏄より750㏄の方が操作がラクだと言っていた。

いわゆる単車のように片足で立つ場合、
重い方がバランスが良いと言うことになる。

といっても、体型はそうそう変わるものではないから無理やり太ろうとも思わない。
軽いなら軽いことを生かそうと。

まず軽くてよいことは俊敏性に長けていること。
あと、沈む力が弱くとも浮く力は強くなる。

重さがない分俊敏性でカバーしようというわけ。

先日なんとなくYouTubeを観ていたら、
「戦艦大和VSイージス艦」というタイトルの動画があったが割とおもしろかった。

イージス艦は戦艦のような装甲がない分、
大和の砲弾を浴びればひとたまりもなく撃沈されてしまう。
しかしイージス艦はレーダー性能と俊敏性に優れる。
それを生かし、相手の砲撃を交わしながら迎撃できるというわけ。

私は大和にはなれないが努力次第でイージス艦にはなれるだろうか?

レーダー、即ち相手の動きを読む力。
これを武術用語で聴勁(ちょうけい)と言うが、これも細身の人の方が長けているように思う。
関係ないかもしれないが、私は幼いころから超敏感肌。
人間リトマス紙と言われるほど敏感で、花粉が一個肌に付着しただけでもその重さを感じてしまう。

それに、浮く力。
太極拳の勁は沈む力だけではない。
浮く力を利用して打つ勁もある。
因みに勁とは筋力ではない力のこと。

例えば、高探馬(こうたんま)
これは浮きあがる力を利用して勁を発する。
それに分脚(ぶんきゃく)や踵脚(とうきゃく)、
白鶴亮翅(はっかくりょうし)や金鶏独立(きんけいどくりつ)もそうだ。

とかく勁といえば沈む力が強調されがちだが、
浮く力を利用する勁もあるということ。

そうでなければ結局武術は体格が良い人が有利ということになってしまう。

この浮く力の運用方法に関してはまたの機会に書くとして、
いずれもどんな体型にもそれを生かした力(勁)の出し方があるということ。
〇〇だから損ということはないのだ。

そんなことは言いながら、やっぱりあと5キロは欲しい・・

少なくとも練習着や表演服を注文する時は痩せてみられるのが嫌なので
着太りをめざし10キロ逆サバ読んで注文している(苦笑)

2016年11月26日土曜日

推手の上達法

推手の上達法というタイトルにしたが、
私はそれを具体的に教わったことがない。

あるとすれば、
上級者にたくさん崩されることだろうか。

そして、崩されたことに感謝すること。

私は師に崩されたり飛ばされたりするため
武者修行のため約550キロ先まで稽古に通っている。
少なくとも私は10年間ずっと崩され続けてきた。

崩されることにより師は何が良くないかを教えてくださる。
だから崩されなければ推手は決して上達できない。

そもそも勝つことだけを考えるなら、
内家拳には向かないと思う。

内家拳修行者は禅によって*煩悩(ぼんのう)を捨てる修行をする。
勝とうと思うこと事態が煩悩なのだ。

*煩悩=心をかきみだす妄念や欲望のこと

崩されたことに腹を立てない。
対抗しようとしない。

そもそも、この精神状態そのものが既に負けている。

こんな気持ちで推手をしたら、力任せの推手になってしまい、
もはやそれは推手とは言わない。

もし上級者相手に腹を立て思いきり打ちこんでみたらわかる。
気が付けば自分が崩され飛ばされることになるだろう。

こんなことをいつも言ってるのだが
未だに腹を立て対抗しようとする方がおられる。

私は先日、稽古中に冗談のように「仏の心で」と言ってみた。
皆笑っていたが、実は冗談ではない。

仏様は人様に腹を立てたり、仕返しをしようとしたりなどなさらない。
あるがままに受け入れる。
これこそが仏の心。

太極拳を修行すること
是即ち心を修行すること。

2016年11月25日金曜日

形意拳専用シューズ

形意拳専用シューズが欲しい。
しかしそんなものは売っていない。

形意拳に太極拳専用シューズは向いていない。
下手をすると体を壊す。

太極拳は薄氷の上を歩くよう動くので足への衝撃はほとんどない。
だから靴底が割と固く薄く平らにできている。

しかし形意拳はその真逆。
氷を割らないようにではなく、割るぐらいに脱力しなければならない。
土の上や板間なら衝撃を吸収してくれるが、
コンクリート上に張られたPタイルは衝撃をほとんど吸収しない。
そもそも人間はコンクリートやアスファルトの上を歩くようにはできていない。

だから、膝を痛めたり腰を痛めたりする人が相次ぐ。
見た目柔らかそうに見えても薄いビニールシートの下は硬いコンクリート。

そんなところで、跟歩したり、震脚をしたりするとその衝撃はモロに膝や腰にくる。

その証拠に、まだ2年ぐらいしか履いていない太極拳専用シューズのインソール部分は指先部分と踵部分にぼっこり穴が空き、更に靴底が薄くなってしまった。
因みにこのシューズは1万円前後で、かなり丈夫。
しかし形意拳ではもたない。

更に言えば、2千円前後の安価なカンフーシューズなら1週間ともたない。
すぐに靴底や靴先が壊れる。
まるでトイレットペーパーのように使い捨てという感じだ。

ということで今回私がチョイスした形意拳専用シューズはランニングシューズ。
テニスシューズやバスケットシューズも良いのだろうが、
靴底の形状からしてランニングシューズが最も適していると思った。

ランニングシューズはつま先が反りあがっているので、
独立歩には向いてないが、跟歩には向いている。
ランニング同様につま先で蹴りだしやすい。
それにソール部分が厚く柔らかくつくられているので踵への衝撃も緩和してくれる。

しかもこのアディダスのランニングシューズは
まるで雲の上を歩いてるかのようにふんわりショックを和らげてくれる。

これならガンガン練習できそうだ。


左:新品シューズ 右:2年間使用したシューズ
新しく購入したランニングシューズ



2016年11月22日火曜日

自由になるため正しく覚える

先日ある会員さんが「太極拳難しいです・・」と。

誰もが最初に思うこと。
動きがゆっくりだからやさしく感じる。
しかし実際にやってみると、なかなか思うようにいかない。

太極拳の型は曲線を描きながら次々と動きが変化する。

曲線の動きは強く美しい。
だからこそ太極拳に憧れる人が後を絶たないのだと思う。

しかしその曲線がネックなのだ。

直線ならA地点からB地点へ真っ直ぐ線を引けばいい。
しかし曲線の場合はそうはいかない。
A地点からB地点までどのような曲線を描くのか
その度合いを測るため更に点を増やさねばならない。
A、B、C、D、E・・
それでもそれらを直線で引いてしまうと多角形になるだけで曲線にはならない。

しかも太極拳ではその曲線の中に螺旋の動きも入る。
その回転の速度やタイミングもその動きによって異なる。

最近、太極拳をCGを使ってアニメ化している映像をよく目にするが、
あのプログラミングは大変だと思う。
なぜならコンピューターは曲線を処理することをもっとも嫌がるからだ。
たくさんのデータを打ちこまねばならない。
いずれも、直線的な動きの空手やボクシング系のものと比較すると、
やはりどこか動きがぎこちない。

何が言いたいのかと言うと、
曲線は直線に比べ圧倒的に情報量が多いということ。
太極拳が不老長寿健康法として知られるのは、
これらを頭と体を使って覚えていくからどちらも衰える暇がないのだ。

そして太極拳が難しいのは覚える方だけではない。
教えるのも大変だ。
太極拳の動きを口で説明しようとすると膨大な量の言葉を発っしなければならない。
非常に体力がいる。

無論学ぶ側はその膨大な量の言葉を覚えきれるわけがない。
しかし手本となる動きと言葉を使うことで少しでも早く覚えてもらおうと私は努力している。
全部覚えてもらおうと思って言葉を使っているのではない。

目から入る情報と耳から入る情報の両方でインプットし、
大方忘れたとしても、どちらかの断片が残っていればそれで良いと思っている。

太極拳を教えることはマッチで炭に火をつけようとするようなもの。
非常に忍耐が必要で、私もまた衰える暇がない。

いずれも太極拳を正しく覚えてしまえば、
その先には素晴らしい世界が待っている。
それは山頂に登りつめおいしい空気を吸いながら絶景を眺めるような気分。
解放されたような自由な世界。

だからこそ、休まず弛まず続けて欲しいと思う。
9合目や8合目で下山しないで欲しいと思う。

私も頑張るから皆も是非付いて来て欲しい。

2016年11月16日水曜日

なぜ形意拳は平起平落か?

私が教わった河北派の形意拳では、
常に足裏が地面に対して平らであることと教えられた。
これを平起平落(へいきへいらく)という。

つまり、足を上げる時も下す時も足裏が地面に対して並行であること。
かといってすり足を使うわけでもない。

これが結構難しい。

普段、人間はつま先で蹴りだし踵から着地して歩いている。
二本足で歩くようになってからずっとだ。

その習慣があるため、最初はなかなか苦労する。

いずれも、なぜ平起平落なのか?という疑問にぶつかる。

失敗も含め鍛錬を続けるうちに、
こんな答えが見つかった。

形意拳では独特の歩法を使う。
跟歩(こんぽ)と言われるもの。

すーっと滑り出すように前足を出し、後ろ足がそれについてくるのがそうだ。

前に体を進める時に大事なことは太極拳と同じく脱力。
脱力しているので当然、後ろ足が着地した時にその足に体重がのる。

もしこの時に踵から着地するとどうなるか?

この時に大事なことは、なにがなんでも腰を反らせず真っ直ぐにしておくこと。
そうしなければ、ドスンと踵から着地した衝撃で腰に体重がかかり腰に負担をかけることになる。
いや、実際は体重以上。

浮いた足を着地させるわけだから、落下の重力が働いている。
調べて計算してみないと解らないが、
少なくとも体重の数倍の重力が働いていると思われる。

もし、この着地地点に体重計があれば壊れてしまうかもしれない。
だから銭湯などに置かれている体重計には「静かに載りましょう」と書かれている。

河北派の跟歩では後ろ足が床に着いた時バンッと音がする。
落下した音だ。

いずれも、着地する時は足裏全体で着地しないと、
踵、膝、腰に負担を掛けてしまうのは力学上でも明確だ。

因みに、この落下する力を利用して打っているのではない。
脱力しているから落下するのであり、それは二次的に起きていること。

簡単に言ってしまえば、河北派形意拳は人間大砲のようなもの。

拳で打つのではない。
拳で打たないから体全体の重さが拳に加わる。

これが相手にヒットすればひとたまりもない。

拳が相手に当たっているのに、腕を鍛えずして、腕を鍛えた者以上に破壊力を発揮する。
これこそが河北派の驚異的なパワーだと思う。

先日、公民館イベントで、虎形拳と馬形拳を披露したのだが、
その跟歩の衝撃で相手が勢いよく6~7メートルぐらい吹っ飛んだ。
勢いもつけず、ちょっと踏み込んで打っただけなのだが。

楊式太極拳は受けない。
河北派形意拳は打たない。

どちらも見た目の派手さはないが恐ろしい拳法だと思う。

2016年11月15日火曜日

筆者の一日

やりたいことが山のようにあるのに、
やりたいことがどんどん増えて行く。

50過ぎてこんなにワクワクすることがあったとは。

病弱で無気力だった0代
やりたいことが見つかりそれに没頭した10代
常に新しいものを求めそれを音楽という形で広めようとした20代
昼夜問わず事業に徹し人との関わり方をとことん学ばされた30代
新しい自分の可能性に挑戦した40代
そして、50代の今は伝統武術の世界で新しい挑戦をしようとしている。

いずれも20代は音楽の世界で新時代を築こうとし、
30代はIT革命によって新時代を、
40代は自分自身を見つめ直す内面の探求

そして私が今考えていることは、
誰もが心身共に病を克服し、平均寿命を延ばすことに貢献したい。
日本は現在も長寿大国だが更にその記録を更新したい。

60代になっても体に負担を掛けず、
むしろ健康になる仕事を与えられる環境をつくりたい。
そして、気功と太極拳によって100歳以上まで生きれることを身をもって証明したい。
私の目標は110歳。
恐らく今後更に上を目指すことになると思う。

もし私が平均寿命で死ぬとしたら、あと27年しか生きられないことになる。
既に余命宣告されているようなもの。

冗談じゃない。
まだまだ私にはやりたいことが山ほどある。
80なんかで死んでなるものか。

私はまだ人生の折り返し地点にきていない。
人生これからなんだ。
そして私の周りにいる人たちも巻沿いにしようと思っている。
健康になって健康な状態で長生きしてもらおうと。

そんなことを考えていると寝ても眠れなくなる。

起きたらすぐに仕事を始め、
仕事が終わったら寝る。

ずっとこんな生活をしている。

自分でも本当に日本人らしいと思ってしまう。

私は毎日何をしているのだろう?
リストアップしてみることにした。

  • サークルでの講師としての仕事
  • プライベートレッスンでの講師としての仕事
  • ホームページ制作と更新作業
  • 写真素材探しと撮影
  • 動画撮影と編集
  • Facebookの更新(ほぼ毎日)
  • Facebookのコメント返信
  • ブログの更新(1ヶ月約8回ペース)
  • チラシ、ポスター作り
  • チラシ配り、ポスティング等のPR活動
  • イベント企画・運営
  • 会員さんからのメールの返信
  • 新クラス開設のための準備
  • 実績作りのための試合向け練習
  • 東京への武者修行
  • プライベートレッスンの動画撮影と編集
  • 練習場所の手配と支払
  • 指導力を上げるための自主練と研究
  • 表演服の受注発注
  • 昇級試験の準備
  • 教則ビデオ作り
  • 施設挨拶回り
  • 発表会用の演出と構成考案
  • 健康づくりのために役立つプログラム考案
等々

あげだしたらキリがないが、
毎日多数の仕事をこなしてパソコンの中もデスクの上もファイルだらけでごった返している。
その合間に息抜き代わりに居間で気功、太極拳、形意拳などの練習を行っている。

休む間なし。
というより一人で行う気功の時間や太極拳の時間が、私にとって唯一の至福の時間。

そして稽古の時に仲間の笑顔を見ることが私にとっての一番の活力。

いつも私のことをサポートして頂いてありがとう。

2016年11月14日月曜日

風の太極拳と水の太極拳

当会で行っている太極拳は楊式太極拳と双辺太極拳。

この違いを一言で言うならどのように表現すればいいだろう?
今までずっと考えてきた。

難しい話は抜きにして、感じたままに言うなら

楊式太極拳は「風の太極拳」
双辺太極拳は「水の太極拳」

楊式太極拳が何故、風なのかというと、

まず套路を練る時、気を感じながら、
そしてその気の感触を味わいながら連綿と動いて行く。
風がなくとも風のような感触を味わい、そして自らも風を起こす。

沈む太極拳ではなく空気に溶ける太極拳という感じだろうか?

推手の時は、相手と触れる感覚が風になびく柳の枝が触れ合うよう。
風で相手の攻撃をいなし、風で打つ。

散手の時は、そよ風のような横風で体を煽られ、
その後、突風に打たれ体が宙に舞う。

私は体重が軽いので、突風に煽られるとしばしば体が宙に浮く。
春一番に吹かれた時も、路肩の手すりにつかまらなければ
糸の切れた凧のように飛ばされていただろう経験もある。
楊式の技で飛ばされるとそのような感覚がある。

だから楊式太極拳を極めようとするなら、「風になれ」ということになると思う。

一方、双辺太極拳は、まるで自分の体が液化したかのように溶けながらゆっくり動いて行く。
師匠の演武は溶けだした水が体から滴り落ちるような感じにも見える。

いつも稽古の時に説明することだが人間の体の60~70%は水で出来ている。
だから硬直した筋肉をゆるめてやることで水のようになることができる。
水は引力に従い上から下へと流れて行く。

だからトロトロ溶けながら套路を練るような形になる。
こちらも楊式にはない気持ち良さがある。
水になるにしても風になるにしても無心になれる。

ベッドに横たわり眠りに入る瞬間、
人間の体の水分が背中側に移動していく感覚を感じる方は少なくないと思う。
それが立っている状態で起きる。

水分が下へ下へ、
足裏にまで落ちて行く。

推手の時、相手と手を合わせると、相手の手が異様に重く感じる。
これ即ち水になっているということ。
双辺推手ならではの感覚。

散手の時は楊式の時のように飛ばす技は少ない。
水の重さを使って上から下へ落としたり、水圧のように打ちこむ。
楊式で打たれた時は気持ちいいが、
双辺で打たれると骨が折れるのではないかというほど痛い。

双辺太極拳を極めようとするなら、「水になれ」ということだと思う。


双辺は脱力することで水になる。
楊式は脱力することで風になる。

人間の体は不思議だ。

中国では人間の体は気と血と水で出来ていると考えられてきた。

その気を使うのが楊式で、水を使うのが双辺。

どちらも体に良く、
そして強くなれる。

太極拳は本当に楽しい。

2016年11月10日木曜日

気の交流

私は「気」という言葉をいつも口にする。

気は目に見えない。
だから便利なんだ。

方程式で言えば、ある数値をXとする。
答えは出てる。
ではXは?

このXこそが気の正体。

気を作り出すレシピがあるとすれば、
それは「円」を意識すること。

直線からは作り出せない気。
楊式太極拳の動きは、平円、立円、螺旋から成り立っている。
だから美しい。

それだけではない。
この円の動きこそが大きなパワーを生み出す。

地球は止まることなく常に回っている。
そして地球も太陽の周りを回っている。
そしてその太陽系も銀河の中で回っている。
すべて円の動き。

風呂釜の栓を抜くと、排水口で水は渦を巻き起こす。
何故だか考えたことがあるだろうか?

答えは、地球は回っているから。
誰が知らなくとも水はそれを知っている。

即ち円を描くことは宇宙と繋がるということ。

だから楊式太極拳は気持ちいいんだ。


今日、弟子のMさんと一緒に双辺太極拳の全套路を通した。
実に気持ち良かった。

Mさんを肉眼で見ていてもあまり感じないが、
一緒に套路を行うことによって感じるものがある。
それは、とても落ち着いた安らかな気。

雑念も邪念もない澄み切った気。
それを一種のテレパシーのようなもので感じることができる。

何人かの会員さんがMさんの隣で套路を行うと気持ちが良いという理由がわかった。
Mさんは今年になってある決断をし、
ある柵から解き放たれたかのように太極拳を心底楽しんでいる。

雑念や妄想があると消えてしまうこの澄み切った気。

もし、ここで、「美しく演じよう」とか「カッコよく見せよう」とか思うと
あっという間に消えてしまうだろう。

これこそが無の境地だと思う。

そういえば最近Yさんの演武も変わった。
やはりスーッと気が落ち放鬆しているのが見ていてもわかる。

いずれも太極拳は頭で動くものではない。

もし宇宙と繋がりたかったら手っ取り早い方法がある。

頭を空にすること。


私は太極拳の時代は必ず変わると信じている。
何故なら、その太極拳で得られることは誰もが手に入れたいと思うものだから。

2016年11月7日月曜日

風になり風で打つ

昨日、公民館フェスタは大盛況で終わることができた。

気功レクリエーション
楊式太極拳レクリエーション
推手講座
太極拳、形意拳、八卦掌の技のデモンストレーション
楊式太極拳演武
双辺太極拳演武
楊式刀演武
楊式剣対練演武

と、かなり豪華なメニュー。

公民館のイベントでこれだけのことをしようとする理由は、
来場者の方はもちろん
会員さん達に太極拳の楽しさを存分に伝えたかったから。

終わってから「楽しかったです!」とたくさんの声を頂いた。
感動のあまり泣いてくださった方もおられた。

昨日までずっと不安と期待が入り交じった状態だったが、
その声ですべてが吹っ飛び、
自分の中でも一つの仕事をやり終えたという達成感を味わえた。

私自身も最後の楊式剣の演武では様々な想いが込みあげ、
何故か鳥肌が立ちっぱなしで、ところどころ涙を堪えるのに必死だった。

終わってから、何人かでちょっとした打上風のお茶会を開いたが、
最近入会されたばかりの会員さんが楊式剣の演武を観てこんなことを話してくれた。

「風のようでした」と。

まさに風になることこそが私のテーマ。
とても嬉しかった。

それに
「技を掛けるとき全然力を使ってないように見えたんですが、あれは気を使ってるんですか?」と尋ねられた。

私は答えに戸惑ったがその場では
「何も考えないこと」
「自分に任せること」と伝えた。

技は掛けようと思うと何故か失敗する。

そしてひとつイメージするとすれば、
相手を人と思わず空気のようなものと思い、
そして自分は風になる。

風になり風で打つ。

師匠に打たれた時がまさにそういう感じがったから。

私はその風のように打たれる感覚が気持ち良くて仕方ない。
もし本気で闘おうとしている敵に遭遇した時に、
この風打ちを仕掛ければ一瞬で相手は戦意を忘れ笑顔になるのではないかと思う。

実際に、私も打たれた方も何故か笑ってしまう。

私の目指す武術は、相手に負けたと思わせるものではなく
相手が喜ぶような武術を極めて行きたいと思う。

寒い冬が過ぎ春一番に打たれると気持ちいい。
春が来た!という何とも言えない幸せな気分になる。

そのような春一番が打てるようになりたい。

2016年11月2日水曜日

上達する人は崩され上手

先日、当会で初めて二人で行う太極拳である推手と散手の交流練習会を行った。

推手(すいしゅ)とは一言で言えば、
太極拳では絶対必要な聴勁と化勁を身につける練習方法。
このこと自体はテクニックだが、それだけではない。

本当の達人は勝っても相手に嫌な思いをさせない。
むしろ相手に喜びを与える力を持っている。

それを教えてくれたのは私の師匠。
師匠に崩されたり、飛ばされたりすると不思議な程気持ちがいい。
そして師匠の優しさを肌で感じることができる。

これこそが私がやりたい太極拳だと思った。

いわゆるテクニック以上に大切なことは理解し合うこと。
思いやりをもって接することだと私は思っている。

推手で勝って、相手が本気で嫌な思いをしたとして、それで楽しいだろうか?
喜べるだろうか?
少なくとも私は全然楽しめない。
それどころか相手を傷つけてしまったことで自分自身も心を痛めてしまうだろう。

当会の稽古では毎回推手を行うが、
楽しい雰囲気になるよういつも気を払っている。

そして私はいつものように言う。
「対抗しようとしないように」
「思いやりをもって」

推手は勝ち負けを決める勝負ではない。
理解を深め思いやりの精神を培うもの。

勝とうとして躍起になり我を貫こうとしたり、
負けてなるものかと必死になったりすると推手は全く上達しない。

そもそも太極拳はそのような攻撃を想定して編み出された拳法だから。

勝とうとすると負け、
負けたくないと思うと勝てないのだ。
(このことを論理的に科学的に説明することも出来るが、私の色ではないので割愛する)

とにかく自分より上手い人にどんどん崩してもらう。
その時、崩された相手に感謝できる人であれば、推手はみるみる上達するだろう。

推手でも散手でも大事なことは、相手を理解し、許すこと。
そして相手を受け入れる。

これこそが推手であり太極拳。

推手で上達したかったら、
「勝ちたい」「負けたくない」という気持ちを捨てましょう。

いつもいうことだが、太極拳は禅なのだから。

2016年10月28日金曜日

パワーあるものを見る

私は修行の一環として

パワーあるものだけを見、
パワーあるものを食べ、
パワーあるものだけに触れるようにしている。

パワーがあるものは・・

美しい朝焼けや夕焼け
きれいな青空
美しい星空
美しい山並み
きれいな川
美しい海
名作映画
名画
美しい美術品・芸術品
美しい建造物

食べ物に関しては・・

有機野菜

あとは、一緒にいて元気になれる人


逆にマイナスパワーとなるものを見たり、食べたり、触れたりすることを避けている。

因みにSNSを行っている時に見たくなかったもの。

汚らしいものが写ってる写真
残酷なものが写ってる写真
下品な写真
極端な顔の加工写真
酒、煙草の写真
下品な言葉遣いの文章


これらを見る度に気分が悪くなっていた。
いわゆるパワーをとられ毒が入り込んだ状態に。

SNSには美しい写真を投稿している人もいれば、そうでない人もいる。


私が知る限り短命な武術家もいる。
恐らく上記のようなものに触れたり口にしたりしているからだろう。
知らず知らずのうちに体は毒されていく。
そしてほとんどの人はそれに気付けず重い病気にかかることになる。


私は気功の時間に良く話すことだが、
体を浄化しなければ元気の源であるパワーを得ることはできない。

元気とは、文字通り、元の気。
すなわち生まれたばかりの頃のほとばしるパワーがあった時の状態。
その状態に戻ることこそ武術家としての修行だと認識している。


カラダに良いことをすること、
即ち悪いものを断つということ。

今、自分が好んでいるものが本当に良いものなのだろうか?
それを断つことによりもっともっと素晴らしい世界に行けることは確か。
今自分が良いと思っているものよりもっともっと凄いものがある。

私がその道案内役として
これからも修行を続けながら指導していきたいと思う。

太極拳の到達点

太極拳を始めたら
まず最初に太極拳の姿勢や動作を正しく覚える。

正しい姿勢と動作は健康増進に繋がり、
楽しみながらも体力を養い体を丈夫にすることができる。

太極拳は万能薬とも言われるが、
老化防止としても最高の健康法。

逆に正しい姿勢や動作を覚えなければ
健康どころか体に支障をを与えてしまうことになりかねないし
太極拳の原理を知ることもできないだろう。

未経験者は決して独習などせず必ず師について習うべき。


ところで、太極拳の到達点は?

ひとつの套路(型)を覚えたら終わりなのだろうか?

そんなことはありえない。

太極拳に終わりはない。
逆に言えば生涯楽しみながら続けられる最高の健康法。


もし、ひとつの到達点があるとしたら
それは体調に変化が訪れた時だと思う。

風邪をひかなくなった。
足腰が丈夫になった。
肌がきれいになった。
ぐっすり眠れるようになった。
前向きになった。

いろいろあると思うが
それらの変化を実感できたのなら正しい姿勢と動きを習得したといえるだろう。

演武が上手にできるようになったからといって、
決して太極拳を習得したことにはならない。
武道も武術も健康になっていかなくては絶対におかしいのだ。

不健康になっていくのなら
体に悪影響を及ぼす、酒、煙草、暴飲暴食、不摂生となんら変わりない。

もし仮に、太極拳の名人や達人が怪我や病気ばかりしていたらどうだろう?
誰も太極拳をやろうとは思わないだろう。

もしそうなってしまっているとしたら間違っているということ。
すぐにでも師に相談し修正すべき。


太極拳を始めて元気と健康を手に入れたのなら、
それは太極拳をひとつ習得したことになると思う。

これこそが真の武術家への道だと私は思う。

2016年10月27日木曜日

心に伝わるHP

IT革命と言われた1999年、
私は縁あってIT普及のためのリーダー格として活動させて頂いた。

コンテンツはいわゆるホームページ。
そのネットワークはあっという間に広がり半年も経たないで2万人の組織に。

その傍らで、Eコマースの分野でも活動させて頂いた。

Eコマースとはいわゆる仮想ショッピングモール。
今で言うAmazonや楽天市場など。
そちらは2週間で150人、半年後には700人近い事業組織に。

当時は講演で日本各地を飛び回った。

ホームページといえば今では大手企業は必ず公式サイトを持っているが
その時代はまだまだ出遅れている企業がほとんどで、ネット上はガラガラ状態。
本当に閑散としていた。

私はこの仮想世界を賑わせることに不眠不休で取り組んだ。

その理由は?
遊ぶ金欲しさに始めたのではない

馬鹿げていると思うかもしれないが、
SF映画の観すぎと思われるかもしれないが、
頭がおかしくなったと思うかもしれないが、

その理由は、地球を救うため。

IT革命以前の地球はその情報伝達方法をペーパーベースで行っていた。
貴重な紙資源。
情報伝達のため紙を使いまくり、
そのため森林伐採に拍車がかかり、
そうすることで地球のCO2はどんどん増えて行くことになる。

そのことにより地球温暖化が進み
北極や南極の氷が溶け始め10年後には海面が1~2メートル上昇すると予測されていた。

そうなると海抜ゼロメートル地帯はもちろん、
東京湾に面した地域も海に沈むことに。

私は一刻も早くITを広めねばと思った。
これが私の原動力。

いずれもそのためにITに関わることを徹底的に勉強した。
今言われるSEOに関しても、そのような言葉すらない頃から勉強していた。

今は、自分のHPやブログのアクセスを上げるために
様々な方法を使っておられるようだが、
正直私は興味ない。

いや、まったくSEO対策していないわけではないが、
私の場合一度タグを入れたら大概それでおしまい。
そんな小細工をするより、私のHPの文章を読んで欲しいと、ただそれだけ思う。

私としては、少しでも心のこもった夢のあるHPにしていきたい。

先日、某会社から電話があり、貴方様のHPは検索エンジンでの順位が低いから当社でキーワードを考えさせて頂くと言う内容だった。
内訳は10キーワードで月々2万円を2年契約。
いわゆる48万円を分割払いする形になる。

お断りした。

何故、太極拳を全く知らない人間にお金を払ってまでキーワードを考えてもらわなくてはならないのだ?

そもそもキーワードは頭で考えるものではなく、
心で考えるものだと思うし、
自分の口から出てきたその言葉そのものがキーワードなんだ。
心のないキーワードを使って動員したところ、心がないことがバレるのは時間の問題。
それって人を騙していることにならないか?

前にも話したが、私は言いたいことしか書かないし、必要なことしか書かない。
そういう裏から手を回す的な手段が好きではないのだ。

先日、体験に来られ入会された方がこんなことを話してくれた。
「HPで感じた印象とほとんど違いがなかったので迷わず決められました」と。
これこそが私が願っていること。

レストランのメニューを見て注文したら、
「想像していたものと違った」なんて経験はないだろうか?

コソコソしない。
太極拳を通して人類に良い影響を与えることを広めようとしているのだから堂々とやっていきたい。

これが私が真面目過ぎると言われる所以だが、
残念ながらこればかりは生まれつきだから仕方ない。

そのような訳で、これからも心のこもったHP作りをしていこうと思う。

*****

最近重い内容ばかりになってしまっているが
今度は軽い内容にしたいと思います(汗)

2016年10月26日水曜日

火のように

とろ火の場合、調整が難しい。

消えるか消えないか。
風が吹けばたちまち消えてしまう。

今の私は意識的にとろ火にしている。

なぜそうしているかというと、強火だと焦げてしまうから。
この調整が実に難しい。


火は、風に弱く、水にも弱い。

しかし火力が強ければ、
少々の風や、水にも負けず燃え続けることが出きる。


昨夜、立禅で瞑想中に見たビジョン。
それはまっすぐに燃える炎。

楊式太極拳は水にも風にも例えることができるが、
火に例えるならまっすぐに伸びる炎。

炎を揺らさずに動くことができるか?

そんな自分になりたい。

2016年10月25日火曜日

いつでも気軽にお越しください

たまたま調べ物をしていたら、
ネット上で当会のことを書いておられる板を見つけました。

当会はまだ始まって3年半程の若いサークル。

伝統スタイルを継承しつつも、
状況を見ながら様々なことを試験的に取り組んでいます。

無論、会員さんの健康を第一に、尚且つ楽しんで頂ける環境作りをです。

人の噂程あてにならないものはありません。

当会に興味がおありなのであればいつでも気軽にお越しください。
体全身でその空気を感じて欲しいです。

喜んでお待ちしています。

2016年10月24日月曜日

三昧への道

三昧(さんまい)とは雑念が一切なく精神集中が深まりきった状態。

悟りの境地に達することができ、
すべてが理解でき、
全く恐れのない世界。

例えようのない幸福感だけに満ちた世界。

この世界に辿り着くのは知識だけでは不可能。
厳しい修行を積んだものだけが達することのできる境地。


不要なものが消え、
それらが全く見えなくなり、
必要なこと、欲しいものを猛烈な速度で引き寄せる。
奇跡奇跡の連続で鳥肌が立ちっぱなしに。


いつしか私は雑念に囚われ、
気が付けばこの世界に舞い降りてきてしまい
また妄想に囚われている。


今は意識を集中するため考える暇を失くす努力をしている。

スマホ、パソコン、ゲーム、テレビ、DVD・・
これらのものがちっぽけに感じ、

他人の行動が気になったり、人を羨んだり、妬んだり・・
これらが完全消え失せる。


だから私は立禅を行う。

姿勢を正し
息を整え体を極限までゆるめる
そして・・・


またあの世界に戻りたい。

これが私の目標であり原動力。

2016年10月23日日曜日

つくらない飾らない

套路を練る前考えること。

良い演武をしよう
美しく演じよう
上手にやろう
カッコよくやろう

そのようなことは一切考えない。

思うことはただ一つ。

溶けたい。

それだけ。

2016年10月21日金曜日

リンクが消えました

先日突然、リンクが全部消えてなくなってしまいました。

すぐに修復作業にとりかかったが何度行っても復活できず。
どうやら完全に消えてしまったよう。

いずれも、今の私は心の中では山籠もり状態。

良い意味で今までたくさんの方々に刺激を頂いてきたが
今は内功と自分の仕事に専念したいと思います。

何故、急にリンクが全部消えてしまったか原因不明だがこれも起こるべくして起こったと捉え
私のことや当会のことを頻繁に書いてくれている弟子のブログだけリンクを貼っておくことにしました。

今まで私に力を与えてくださった方々に心から感謝します。
今の自分があるのは皆様のお蔭です。

2016年10月20日木曜日

推手も禅、散手も禅

太極拳は一体何の部類に入るのだろう?

格闘技?
武道?
武術?
舞踊?
芸術?
スポーツ?
健康体操?

説明する時にいつも困る。
しっくりくるジャンルがないのだ。

もちろん太極拳は武術なのだが、
近代武術はスポーツとして解釈されていることを考えるとそれもまたしっくりこない。
(あくまでも私の中では)

私の場合、太極拳は「禅」だと思っている。

禅とは?

頭を空にして、
気を丹田に沈め、
煩悩(ぼんのう)を解き放つこと。

煩悩とは妄想や欲望のこと。

私の経験上、頭で物事を考えるとロクなことにならない。
といったら言い過ぎかもしれないが、
少なくとも套路を練っている時に考え事をするとどこをやっているのか解らなくなる。

簡化太極拳であれば繰り返し動作がないから、演武している最中迷子になることはないだろうが、
伝統太極拳の場合は繰り返し動作が多いから、集中が切れるとどこをやっているのかわからなくなる。

いわゆる伝統太極拳は集中力を試されているのだ。
逆に言えば集中力を養っているともいえる。

集中とは読んで字の如く真ん中に集まるということ。
真ん中とは?
丹田。

何が集まるのか?
私の解釈では気。

丹田に意識を集める。
すると気が集まる。
それこそが集中している状態。

推手の時も考えると、相手に崩されやすくなる。
相手の素早い攻撃を脳で処理して対応しようとしても決して間に合わない。

散手の場合は、考えると技が出なくなる。
技の練習をする時は、まず自分の中で套路の中の技の動きをイメージする。
「上手くやろう」とか「上手くできるかな」とか余計なことを考えると失敗する。
これ即ち煩悩。

とにかく何も考えず自分に任せる。

こうして考えると、推手も散手も禅なのだ。

太極拳。
またの名を「動禅」と言う。

太極拳は禅なのだ。

2016年10月15日土曜日

日本人として

武術とはかけ離れたようなタイトルになってしまったが

私が半世紀以上生きてきて、
70種以上の仕事に携わってきて、
世界をいろいろ旅してみて、
いつも思うこと。

日本人に生まれて良かったと。

日本で生まれ
日本で育ち
そして日本人の精神を学んできた。

まだまだ未熟な私だが日本人としての誇りを持っている。

私は縁あって、今は太極拳の講師をすることになったが、
中国武術といえど、私は日本人。
どう頑張っても中国人にはなれない。

私はアメリカにも憧れたことがあったがどう頑張ってもアメリカ人にはなれない。

日本は古来から東西の国々から影響を受け今の文化が成り立っている。

私が今まで感じてきたように東洋文化に憧れ
そして西洋文化にも憧れてきたのだと思う。
当時の建築物やファッションを見ればわかるとおり。

いま目にしているほとんどの建物、車、家具、電化製品・・
これらすべて西洋文化ではなかろうか?

そうかといえば、寺があり、禅があり、
そして葬祭の9割以上が東洋から渡ってきた仏式で行われる。
祝い事も、建国記念日があれば、クリスマスや、最近ではハロウィンまで。

日本にいると世界中の文化を楽しめる。

それに
日本が世界から最も憧れられるものは?

それは四季。

日本には四季がある。

夏は海で南国気分を味わえ、冬は雪の上でスキーを楽しめる。
こんな贅沢な国はないのだ。

どんなに夏が好きといってもずっと夏だったらどうだろう?
暑さには慣れるだろうが夏の有難みはわからないだろう。
そうかと思えば、夏を憧れずっと寒い中で生きていかなければいけない国だってある。

私はカナダに住んでいたこともあるが、
カナダの人口のほとんどはアメリカの国境付近だという。
少しでも温かいところへということらしい。

いずれも、日本に住んでいると東西からの刺激と四季の刺激を得ることが出きる。
日本人が世界一努力家であることはこのことが大きいと思う。

世界地図で見ると本当にちっぽけな島国なのに、
世界が最も恐れる大国、ロシアとアメリカを相手に闘っている。
勝ち目がないと解っていても
真を貫き通すために闘ってきた戦士たちの想いはどのようなものだったのだろう?

話が大きくならないうちに本題に入りたいと思う。

私が太極拳に関して思うこと。
太極拳もまた日本に適したスタイルがあるということ。

日本の武道を見ても、どれもシンプルで力強い。

剣術と剣道
少林拳と空手
太極拳と合気道

比較すれば歴然。

先程お話しした通り、生まれ変わりでもしない限り日本人が中国人になることは出来ない。
それよりも誇り高い日本人なのだから日本人として太極拳を捉えてもいいのではなかろうか?

日本の技術は世界でもトップレベルと言われる。

日本人は東洋文化と西洋文化をうまく取り入れ、
日本人の気質に、四季があることが後押しし、
日本風に作り変えるのにとても優れているからだと思う。

どの国に行っても日本車が走っているのがその証拠。
燃費が良く性能が良いからだ。

だから太極拳も日本の武として進化しなければならないと思う。

中国武術の技巧的な技に日本人の心、精神を吹き込みどんどん磨きを掛ける。
そして完成したものが日本ならではの最強の太極拳になると私は信じる。

そんな無謀な夢を抱きながら今日もまた修行に励もうと思う。

2016年10月12日水曜日

なぜ立つか?

もう何度この話題をとりあげたか覚えてないが、
とにかく今は立つことが一番楽しい。
最近、套路を通すことはほとんどない。

立てば立つほど、
太極拳が太極拳になり、
形意拳が形意拳になる。

立つのは美しい演武をするためではない。
これは実践者でなければ決してわからないと思う。

立てば立つほど力が増す。
筋トレをしなくとも、
立つだけで、パワーが増す。

立つ時に意識すること。
いろいろあるが、
一番大事なのは〝立とうとしないこと”
だろうか?

植物や木は立とうとして立っているのだろうか?
立とうとしなくとも、自然と地に根を張り、そして天に向かって真っ直ぐ伸びていく。

植物や木は自分自身を支えるための筋肉はない。
なのに立っている。

軸で立つこと。
これ即ち、自然に最も近いカタチになるということ。

人間の知能が高まるのは立って歩けるようになってから。

二本足で立とうとすると自然と足の裏は地に繋がろうとする。
そして頭上は自然と天に向くことになる。

天と地に繋がる感覚。
これほど気持ちいいものはない。

2016年10月10日月曜日

心によってもたらすもの

昨夜、帰宅したのは日付が変わってから。
終電近くの電車はほとんど座ることが出来ないので立ちっぱなし。
クタクタになって帰ってきた。

午前から大阪に向かい、新しい練習場所の見学と契約手続き。
その後は、2時間個人レッスンの指導をし、天満で大阪稽古指導。
終わってからかるく一服し、その後は終電近くまでポスティング。

天満と言えば飲み屋街。
土曜の夜ともなると、すごい人だかり。
あちこちのお店からワイワイガヤガヤ楽しそうな声が漏れ、
その中をかすめながら、スタッフのMさんとポスティングに向かう。

人が遊んでいる間もこちらは仕事。
もうここ数年、飲みに行ったり遊びに行ったりしていない。
(まあ、そもそも私は飲めないのだが・・)

とにかく、一人でも多くの人に太極拳を伝えたい。

なぜそこまでして太極拳を伝えたいと思うか?
それは私が太極拳を始めた理由。

一日中パソコンに向かって仕事をしていたことによりどんどん体力が衰え、
それと同時に精神力まで衰えて行くのがわかった。
気がつけば仕事三昧で、30代にして5分と歩けないほどの体に。

その時に出会ったのが伝統楊式太極拳。
始めてからというもの私はみるみる体力と精神力を取り戻した。

もし私が楊式太極拳と出会ってなければ病気で死んでいたかもしれない。
それほど私の体はガタガタだった。

私にとって一番辛いことは人が苦しむこと
病気。

病気で苦しんで欲しくない。
31年の闘病生活を送ったから病気の辛さはよくわかる。

残された人生を楽しく過ごして欲しい。
笑いながら死んで、あの世に行っても笑って過ごして欲しい。

体調が悪いとか、怪我をしたとか聞くと辛くなる。
元気になって欲しい。

だから、私は自分が元気を取り戻した楊式太極拳を一人でも多くの人に広めたいと思っている。

そんな想いもあり、今回、三国志祭りで行った楊式太極剣のPVをつくった。
撮影時間は恐らく2時間分はあろうかと思う。
その中からひとつの作品につくりあげるため様々なシーンを拾い出し、
それを音楽に合わせ繋ぎあわせた。

制作時間は約10時間。
食事をとることも忘れる程熱中して作業に取り組んだ。

あのPVはウケ狙いでも、自己満足のためでもない。
今回共演してくれたMさんへのご褒美でもあったが
とにかく、一人でも多くの人に楊式太極拳の素晴らしさを伝えたかった。

心に伝わるもの。
決してカタチやテクニックではなく。
ハートを感じて欲しかった。

私は基本的に心が動かなければ動かない。
仮に、100万払うからPVをつくってくれといわれても心が動かなければ断っていただろう。

心が動かないことはしない。
それが自分なりの生き方なんだ。

前事業で頑張っていた時、知人である見込み客にこんなことを言われた。
「お前は真面目過ぎる」「もっとうまくやれ」と。

私は言い返してやりたかった。
「真面目で何が悪い!」と。

その後私の事業は小さいながらも成功を遂げ
その頃、ある仕事仲間からある依頼を受けた。
会社を立ち上げるからシステムを作って欲しいと。
報酬は1000万は出せるとのことだった。
私は迷わずその場で断った。

もしかしたら私は大馬鹿なのかもしれない。
その1000万円があれば新事業を始められたかもしれない。
しかし私がその会社を手伝うことは、私自身のグループを裏切ることになる。
だから断った。

1000万円もらっても自分自身に嘘をつくのは嫌なんだ。

話は変わるが、
音楽活動をしていた頃、自分たちの音楽を世の中に広めたい一心で毎週のように新宿駅前でストリートライブを行った。
発電機2台を導入し大音量のロックサウンドを新宿の街中に轟かせた。

今では東京でのストリートライブは違法となってしまったが、
実は密かに私は責任を感じている。
その後のストリートミュージシャン達に対し申し訳ないことをしてしまったと。。

いずれもその時に集まってくれた一人のリスナーが言ってくれたことを20年以上経った今でも忘れない。

「魂を感じた」と。

まさにそうだった。
自分達は音楽を聴いて欲しかったのではない。
ハートを感じて欲しかった。

実は今でもそれは変わらない。
上手い演武をしたいんじゃない。
演武を通して生きざまを見て欲しいと思っている。

生きることに真剣であること。
人々を救うことに真剣であること。

何人かの会員さんは「先生についていきます」と言ってくれる。
またある会員さんは「春日が愛おしい」と言ってくれる。
「何でもっと早く入会しなかったのか後悔しています」と言ってくれた会員さんも。

これらの言葉が私にとってどれほど励みになるか。

私もまた「春日を選んで良かった」と死ぬ間際に言ってもらいたいと思っている。
それが自分の使命だと思っているから。

私にとっての休日はまだまだ先になりそうだ。

***

ここまで読んでくださってありがとうございます。

伝統楊式太極剣PV 「もう一つの神話」

2016年10月4日火曜日

当会が伝統スタイルに戻した理由

当会を立ち上げた3年半前、
「今までにない楽しくも実践的な太極拳サークルをつくろう!」という想いで始めた。

時代のニーズに応え、やさしく体に負担の少ない楊式太極拳をベースとし、気功、基本功などを行いながら、同時に推手と散手を取り入れた。

実際私が伝統教室で習った散手は楊式太極拳の技ではなく、他の柔術系の護身術。
確かに実戦的だが、楊式太極拳の技を生かさなければ勿体ないと考えた。

しかし、太極拳と言えどその戦術はかなりえげつない。
目をえぐったり、鼓膜を潰したり、後頭部を打ち砕いたり、顔の皮は剥ぎ取ったり、肘や膝などを砕いたり・・残酷極まりない。

又、もっと恐ろしいことに、これら外傷だけに留まらず、勁を使うので、内部を破壊することができる。
心臓、腎臓、膀胱、腸、胃、肺などあらゆる臓器にダメージを与え破裂させてしまう。
出血量が多ければ致死量に至るということになる。
非常に恐ろしい。

いずれもこれらは生死を掛けた戦いの場面で使われる戦術で、護身術としては向かない。
護身術では相手に戦意喪失させることが目的。
大怪我どころか命にかかわるような技は絶対使ってはならない。

だから、当会では相手に重度なダメージを与えるような攻撃を省き、
護身として使える技の研究を行っている。
太極拳で体を鍛え、太極拳で身を守る。
これが当会のテーマ。

さて、話が脱線しないうちに戻すことにする。

立ち上げ当初は、楊式太極拳が終わったら、刀、剣、双辺太極拳の3つから選べるようにしていた。
それが今風だと思ったから。

しかしやってみて解ったことは、やはり徒手(素手)での練習をしっかり練ることが大事だということ。
楊式太極拳をさらっと覚え、すぐに武器を持っても、なかなか使いこなせない。
武器を持つことは誰にでも出来るが、それはあくまでも持って振り回しているだけで、正確に言えば振り回しているのではなく振り回されてしまう。

武器は手の延長と言われるが、いわゆる体の一部にならなければならない。

私は元ベーシストだが、楽器が体の一部にならなければ自分のハートをそのままサウンドにすることはできない。
これと同じように武器も体の一部にならなければ思いのままに操ることは出来ないということ。

だから伝統形式に戻すことにした。
ちょっとやっては飽き、次々とおもしろそうなものに手を出してしまう。
そんなことを繰り返していても、本当の武術の身体操作法を身につけることは出来ないし、
本当の意味での勁を知ることはできないと思う。

勁は美しく演武するための力ではない。
私が思う勁は、この力が相手に伝わるとどうなるかと考えさせられるチカラである。

私としては本当の武術を身につけて欲しい。
しかも現代版の武術として。

今は昔とは違う。
素手や刀を剣を振り回して戦うことなどない。
内乱では飛び道具で戦い、国同士では爆弾やミサイルを使用する。

飛んできた球やミサイルを化勁でかわすことができれば別だが、そんなことは100%無理。

自分に出来ること。
身近なトラブルを自分自身で守る。
それが護身術。

徒手をしっかり練り上げ、武器が使えるようになれば手に持ったものはなんでも同じになる。
カサだろうが、ハンドバッグだろうが、ベルトだろうが、杖だろうが。

武器は手で扱うものではない。
それを覚えるために徒手をしっかり練り、そして武器術を覚える。

これこそが現代風の本物の武術の教えだと私は信じる。

体の使い方、丹田の使い方を身につけることが大事。
3年半指導してきてそういう考えに至った。

もし武器をやりたかったら、それは〝お楽しみ”としてとっておいて徒手を頑張る。
そうすることで自然と基本が身に付くということ。

これが私なりの会員さんへの思いやりであり愛情だと思っている。

2016年10月3日月曜日

ありがとう

待ってくれてありがとう。
解ってくれてありがとう。
応援に来てくれてありがとう。
声をかけてくれてありがとう。
協力してくれてありがとう。
立ててくれてありがとう。
頑張ってくれてありがとう。

昨日はたくさんお礼を言いたくなる日だった。


10月2日
私にとって4度目になる三国志祭り中国武術大会

初回はJ老師の生徒として一人で出場させて頂き、とても良い経験をさせて頂いた。
そして仲間達と一緒に同じ舞台で頑張れたことが嬉しかった。

二度目は会の代表として一人で出場した。
自分の会の名に恥じない演武をしようと思っていただけにそのプレッシャーは大きかった。
J老師も仲間達も私の演武を賞賛してくれ、そして勇気を頂いた。

三度目はJ老師の教室で出会ったMさんと二人で初の共演に挑んだ。
Mさんもまた会の名に恥じない演武をするため今までの娯楽を全てキャンセルし
唯一の余暇をすべて武術稽古に注ぎ頑張ってくれた。
J老師ご夫妻が心から賞賛してくださり、またもや勇気を頂いた。

そして四度目の昨日。
武術仲間達が私達を応援しに来てくれた。
何かのついでではなく、わざわざ私達のために来てくれた。
本当に嬉しかった。

Hさん、最後まで応援してくださってありがとうございます。
すぐに動画もアップしてくださり、何度も何度も繰り返し観させて頂きました。

そしてAさん、声をかけてくださって本当に嬉しかったです。
お花もとても嬉しかったですが手書きのメッセージがとても心に染みました。
こんな気まぐれで書いているようなブログをいつも読んでくださり本当に感謝です。
私の内面を評価して頂けたことが何より嬉しかったです。

サークルの皆さんも遠くから駆けつけてくれて嬉しかったです。
応援に来てくれたことも嬉しかったが、今までの私のことを理解してくれたことも嬉しかった。


私はこれまで講師としての下積み期間として試合や演武会に一人で挑んできた。
自分にとって真剣勝負であり、遊びの要素は微塵もなかった。
試合に全身全霊で挑みたかったし集中したかった。

だからサークルの皆さんには大変申し訳ないと思ったが、来場はご遠慮頂いてきた。
「先生の演武を見たい」「応援に行きます」という有難い気持ちを返すようで辛かったが、
一人一人、丁寧に私の心境や理由を伝えた。

そのことを理解してくれたことが嬉しかった。
本当に良い仲間に出会えたと思った。

その後私は自分が目指そうとする演武に矛盾を感じ、競技太極拳を辞める決心をした。
理由は今まで何度か話した通りである。

そして今度は私が会員の皆さんを舞台に送り出す側になろうと。
私にとっての準備期間を待ってくれたこと、
やさしい仲間に出会えたことに心から感謝したい。


今年もまだ2ヶ月以上あるが
今の時点でも本当にいろんなことがあった。

今年始まってしょっぱなから出鼻を挫かれるような出来事が続き、
その後のサークルの運営危機、
全日本では小数点差での敗退、
近畿大会でもまさかのミスでメダル逃し
ようやく仲間が増えてきた森ノ宮クラスの急なクローズ、
その他にも個人的なトラブルの数々・・
とことん叩きのめされた。

しかし、そんなことがあるたびに良い出会いがあり、仲間との結束力が強くなったことを感じた。

それに、大阪では場所が変わっても辞める人はひとりもいなかった。
場所が森ノ宮から天満のスタジオに変わり、2~3人ぐらいになってしまうのでは・・
と最悪のケースを予想していたが、その予想は見事に裏切られた。
その場所で待っていたのは仲間全員の笑顔だった。
本当に嬉しかった。


昨日は出場者の方々からも温かい声をかけて頂き、とても楽しい時間を過ごすことが出来た。
そしてなにより主宰者の先生の力強い志にとても共感を得た。

本当にありがとうございました。
これからも頑張りますのでよろしくお願いします。



2016年9月30日金曜日

放手

今までひとつだけしっくりこなかった用語がある。

いわゆる肩肘身体をゆるめながら気を流し勁が使えるようにする訓練法。
流派によって様々な呼び方をするが、当会では放手と呼ぶことにする。

放つとは発射するという意味があるが、発射する前には溜める必要がある。

水道の蛇口をひねると勢いよく水が飛び出すが、それは常に水圧がかかっているから。
マンションなどで言えば、屋上に貯水タンクがあり、それによって水圧を生み出している。
水は上から下へ流れるからだ。

これが放手。

その他にも放つという言葉には
放出、放射、放水、放火、放電、放光などの言葉がある。

因みに、勁力とは筋力ではない力。
打とうと思うと出ない力。

どうしても最初は、これまでの習慣で頭で考えて動こうとする。
頭で考えて動こうとすると動くのは筋肉。

ではどうすれば勁を使うことが出来るか?

私もまだまだ研究段階だが、その辺のことを当会では指導している。

いずれも先程言ったように、溜めなければ発することはできない。

だから気功が大事なのだ。

気功を行わない太極拳は本当の意味での太極拳にはならない。
だからといって太極拳ではないという意味ではない。
形から入るのも良いと思う。

いずれも気功を行うと、
自律神経の働きを高め、治癒力を高め、細胞が若返り、体に元気が蘇ってくる。
非常にメリットが多い。

当会が気功を重視する理由だ。

2016年9月27日火曜日

悪口は陰でお願いします

人は他人が理解できないと、他人を悪く言うことがある。
逆を言えば、悪口を言うということは他人を理解できていないと言うこと。

理解できないということは勉強不足ということ。
だから理解できるようになるために人に揉まれながら学んで行けばいい。

避けてばかりいては決して学ぶことは出来ないし、楽しくなる人生もつまらないものになってしまうかもしれない。

人は誰でも人より優位に立ちたい。
しかし他人を悪く言ったり、蹴落とそうとする行為は好ましくないと思う。
それで本当に自分に実力が備わるだろうか?

人生とは修行と私は考える。

他人を悪く言ったり蹴落としたりしようとする行為は自分の非力さを認めているようなもの。
意味がない。

仮にそのような方法で自分が上に行けたとして、その位置の重圧に耐えることが出来るだろうか?
上には上にしか解らない辛さがある。

適材適所。
人は常に自分の相応しい位置にいる。
まずそのことに感謝しよう。

上に行きたければ修行すればいい。
そもそも、己を鍛えなければ上の世界の重圧に耐えることなどできない。

***

因みに私は普段感情が一定している。
理由もなく機嫌が悪くなったりすることはない。
どちらかといえば私は普段いつも機嫌がいい。

なぜなら毎日が楽しいから。

いや、厳密に言えば楽しくないこともたくさんある。
悩んだり、悔やんだり、心を痛めたり・・

しかしそれらにはすべて理由があり、私はそこから逃げようとはしない。
何故辛い想いをしなければいけないのかその原因をなんとか探そうとする。

探そうと思わなければみつかることはない。
しかしその原因が解った時、その辛さは幸福感に変わる。

人を理解すること。
人を許すこと。

***

約35年前、住み込みのバイトで貯めた33万円を握りしめ、成功を夢見て上京。
しかし3ヶ月でそれを使い果たし、それからはカーテンも布団もない6畳一間のアパートに住み
食べることもできなかった私は飲食店でバイトし、まかないだけで空腹を抑えた。
どうしても空腹が抑えられない時は、飲食店裏のゴミを漁ったこともあった。
冬は毛布一枚にくるまって朝まで凍えながら、寝ても寝れない夜を何度も過ごし
昼間は腹が減らないようバイトの時以外は極力動かないようにしていた。

これが私の東京での音楽生活の始まり。

いずれも私は一度も勤めたことがない。
いつも一から。


前事業もポケットマネー4千円からスタートした。
しかしそれから約600人の組織リーダーになり、顧客数も3000人を超えた。
年商は約60万から十数年後には約5000万円へ。
6畳一間のボロアパートから日本とカナダの両生活が出来るように。

いずれも始める時はいつも一人。
だから、良いことも悪いことも全て自分の身に降りかかる。
逃げることは出来ない。

その中で学んだことは大きい。

しかし人生、七転八倒。
かつての組織は完全崩壊し、私自身も燃え尽きてしまった。
当時、生きる意欲さえ失いかけていた頃に出会ったのが太極拳。

これが私にとって第三の人生。
約10年の下積みを経て、ひとつの夢を抱き一人でサークルを立ち上げた。

その後の経過は決して順風満帆ではない。
本業である事業はメーカー側により取引を打ち切られ、生活は一気に大転落。
サークル運営を維持するために、老後資金としてコツコツ貯めていた貯金を全て投じ、それでも賄えず借金生活突入。
食もままならず、半世紀以上も生きてきて、またもや惨めな生活に。

何故そこまでして太極拳サークルを維持したかったか?

それは、皆の笑顔を見続けたかったから。
皆の笑顔こそ私にとっての生きがいだから。

今も尚、自分自身との闘いは続いている。

***

私のことを悪く言うのは構わない。
ただ、悪口は陰でお願いしたい。

生きること、夢を達成させることに必死なんだ。


とはいうものの、先程も言ったように私は今起きていることをすべて理解している。
まだまだ未熟な私だが、それぐらいの人生は歩んできたと胸を張って言える。

生まれてきたことに感謝し、
生きている間に出来る限りのことをしよう。
いつもそう思っている。


とてつもなく、とりとめもない文章になってしまった。。

ここまで読んでくださってありがとうございます。

2016年9月25日日曜日

空気と闘う

来月、再来月行われるイベントのために久し振りに散手単練を行った。

散手は技の練習。
単練はひとりで行う練習。

いわゆる、空気を相手に闘う。

普段行っている太極拳の套路(型)は、流れがスムーズになるよう、
また元の位置に戻ってこれるようにつくられている。

套路はいわゆる数ある技をネックレスのように繋ぎあわせたものだが、
実際、闘うことを想定して技の練習を行うとまた違った動きになってくるのがわかる。

私は20代の頃ずっと作曲、編曲活動を行ってきたが、
その際に注意しなくてはいけないのは
ひとつの曲としてきれいにまとめるために、ある程度きまったルールを守らなくてはならない。

それは起承転結をつくることと、
あとは極端に音量のばらつきが出ないよう配慮すること。
リズムもきちんと整えないといけない。
そうでなくては、曲にならず、ただただ不快な音になってしまう。

リズムを整えることをクオンタイズといい、
音量のばらつきを抑えることをコンプレッションという。

楊式太極拳も同じく、同じリズムで演武を行う。
これにより気を練ることができ、体内エネルギーのレベルを上げることができる。

また、太極拳の演武では肩の高さを一定に保つことも大事。
肩が動くと敵に動きを読まれるからであり、
同時に高さを一定に保つことにより足腰を鍛えることが出来る。
それになにより美しい演武となる。

音楽も音の粒立ちを揃えると聴きやすくなるが、太極拳でも一定に保つことで得られるメリットは多い。

話がそれそうなので戻すことにする。

散手単練を鏡の前で行って思ったことだが、
套路にはない独特の美しさがある。
動きながら考えることは、小さな力で大きな力が得られるようにすることだが、
その時に美しく動こうなどと微塵にも考えていない。

だが套路を演武するよりもはるかに美しい。
少なくとも私はそう感じた。

前にもブログでとりあげたが、いわゆる「強いは美しい」
太極拳を武術として体を鍛え技を練れば、それそのものが芸術にもなるということ。
しかも体を丈夫にする。

しかし現実はどうだろう?
単に美しく動こうとして怪我をする人があまりにも多い。

何故こうなってしまったのだろう?

太極拳を行って健康になるのなら私は内外問わず心から応援したいが、
体を壊してしまうのならそのやり方が間違っているということを受け入れ
すぐさま止めて欲しいと思う。

そう願ってやまない。

2016年9月23日金曜日

気のパワー

昨日、ついうっかり車のドアに指を挟んでしまった。
勢いよく閉めようとしたドアに挟まったので、その時の痛みはかなりのものだった。

親指の腹の部分は内出血し、どす黒い紫色に。
爪の付け根あたりからは出血。

しかし、不思議なことに血が流れ落ちることはなく、
そのままあずき大ぐらいの大きさに膨れそのまま固まった。

指の痛みがジンジンからドクドクに変わり、
私は指に気を送った。

その後著しく変化が起きた。
約30分程で紫色だった指が赤に変化し、60分程でピンク色に。

そして今朝起きたらほとんど解らないぐらいになっていた。
指を強く抑えても痛くもない。

50代にしてこの凄まじい治癒力。

気功を行うと体が強くなると言われるが、怪我や病気の治りもすこぶる早くなる。
これは治癒力が高くなっている証拠。

大事なことは自分の偉大なる力を信じることだと思う。

2016年9月20日火曜日

この季節こそ気功

先日、会員さんの前でも話したことだが、私はこの季節必ず体調を崩していた。
いわゆる季節の変わり目。

それがなくなったのは気功と太極拳を始めてから。

ちょっと喉がいがらっぽくなったり、体全体が熱っぽくなったりするのだが、
気功をするといつしか消えてしまう。

当会で行っている気功に激しい動きはない。
ひたすら体をゆるめ、
そして立禅により気を巡らせながら溜めて行き、
そしてそれを今度は放出させる。

当会で行っている気功は健康効果も非常に高いが、
同時に勁力を増大させることもできる。
いわゆる病気をしない体づくりに留まるとなくその上を行けるということ。

気功を行うと、気血の巡りがよくなる。
じっと立っているだけでも、じんわり汗ばんでくるほど体が熱くなる。
まるでお風呂上りのようだ。
いわゆる、これは気血の巡りがよくなっていることを示す。

人間は常に病原菌と闘っている。
その戦いに敗れると病気になり、完全に破れるとこの世を去ることになる。
なぜ闘わなければならないかというと、常に自分自身が強くあるため。

もし、地球上にウイルスがなかったとしよう。
そうすると戦う必要がなくなってしまう。
恐らく人間の寿命は半分、いやそれ以下になるだろう。

いずれもその道の研究から体温が上がると免疫力が上がることが解っている。
気功を行うことは体温を上げるだけでなく気血の巡りがよくなるから
更に大きな効果が得られると考えられる。

そのようなわけで気功は誰にでもおすすめ。
筋トレをしないのに気功だけで体が強くなる。

私はたまに武術仲間や弟子に思いっきり体を殴ってもらう。
体や脚もガンガン蹴ってもらう。

因みに私の胸板は薄くアバラが見えるほど。
確かに打たれれば赤くなるがすぐに引く。
なによりも痛みをほとんど感じない。

心も体も強くするには闘うことが大事。
無論、自分自身と。

2016年9月13日火曜日

進化する伝統拳

太極拳は大きく分けて伝統拳と制定拳に分かれます。

伝統拳は創始者から伝わる伝統太極拳が親族、伝人、継承者、弟子によって受け継がれてきました。
ご存知の通り400年前にビデオなどあるわけもなく、師から弟子へと伝わってきたということになります。

特に歴史に残る名手といわれる武術家達は、師から技を盗みそれを何年もかけ鍛練し技を磨く者が多かったと言われます。
楊式太極拳の創始者である、楊露禅ですら最初は陳式太極拳の稽古風景を盗み見し、技を覚えたと言い伝えられています。

一方、制定拳は競技や検定用として制定された太極拳なので、姿勢や動作などきめ細かな指定があり、それによって誰が行っても動作が統一されるよう制定されています。
制定されていることによって審査しやすく、又、集団演武を行う際も全員の動きに統一性が生まれ見た目も美しいです。

さて、伝統拳と制定拳の套路(型)はずっと同じスタイルが守られているでしょうか?
いいえ。
私が知る限り伝統拳も制定拳も常に進化と退化を繰り返しています。

因みに、以前もブログでお話ししましたように、進化が良く、退化が必ずしも悪いとは限りません。

因みに伝統拳の進化とはどういうものでしょう?
それは師のお考えによって異なります。
健康を重視する師であれば、武術的要素を省き体に負担がなく覚えやすいものに変えていくでしょうし、逆に武術志向の高い師であれば、積極的に体を鍛え高度な技を練れるように変えていくでしょう。

このように伝統拳は受け継がれていくことによって進化と退化を繰り返しているのです。
健康効果を重視することが進化とするなら、武術志向の師にとっては退化と考えるでしょうし、
逆に武術的要素を重視することが進化なら、健康志向の師にとっては体に負担が掛かることを懸念し退化と考えるかもしれません。
いずれもこれらは私が解釈することではなく、師によって考えは異なるということです。

私はこれらがどちらに傾くことなく、健康効果を十分得ながらも、強く美しい太極拳であるよう研究し、しかも学び手が戸惑うことのないよう今の伝統スタイルを極力維持しています。
いわゆる私が勝手に套路に変更を加えたりすることはありません。

仮に多少ぶれたとしても最小限にとどめていますし、どちらが正しいとか間違いというものではなく、どちらも武術的視野からみれば正しいのです。

但し、今後設立予定の武術班ではその理念や目的に従い、進化していく太極拳を行う予定で、
いわゆる強く美しく生きた太極拳を目指します。


ところで制定拳はどうでしょうか?

制定拳は基本的に武術的要素よりも、どちらかといえば健康効果を狙ったもので、先程も話したように採点しやすいよう細かく制定されています。(少なからずとも制定拳を経験した私の勝手な解釈です)

とはいうものの、年々変わっているのも事実です。
高齢者の愛好家が多いことから、体への負担を最小限にしようという配慮でしょう。

又、最近では勁力を養うため内面も重視しながら極力ゆっくり動くようにと指導しているようです。
これらのことから察するに制定拳もまた伝統スタイルに近づけて行こうという動きがあるように感じています。

いずれにしても、時代と共に変化していくのはごく自然なことです。
伝統拳も制定拳もその時代にあったスタイルを求めそれを広めようという動きがあります。

だから、「套路を覚えたからもういい」ということはないのです。

人も時代も太極拳も常に進化しているのです。

2016年9月9日金曜日

心を柔らかく

指導していると
なかなか柔らかく動けず悩んでおられる方がおられる。

その時、感じることは心が硬くなっているということ。

だからリラックスしてもらうことを考える。

柔らかい口調で話かけてみたり。
つまらない冗談言ってみたり。
肩を叩いてみたり。
肩を揉んでみたり。
体をさすってみたり。

リラックスリラックス・・

心の緊張は体の緊張に繋がり、
それによって肩がこり、
筋肉の硬直で血行不良が起こり
体調を崩しやすくなったり
美肌が損なわれたり・・

とにかく、何一ついいことないのだ。

リラックスすることの楽しさ、素晴らしさを知って欲しい。

リラックスすることは美容、健康に繋がるだけでなく、
強くもなれる。


体の緊張を解くにはどうすればいいか?
それは心の緊張を解けばいい。

心の緊張を解くにはどうすればいいか?
それは体の緊張を解けばいい。

とにかくリラックスリラックス

2016年9月8日木曜日

まず聞くこと

私は人とコミュニケーションを図る際に必ず質問をします。

体調どうですか?
お仕事どうですか?
ご家族の方は元気ですか?
最近どこか出かけられましたか?

などなど。

何故質問するかというと、
単純に気になるからであり、
その方に関心があるからです。

逆に私の方から自分の話をペラペラ喋ることはありません。
それが相手にどんな影響を及ぼすか少なからずとも経験から学んできたからです。

これと同じように太極拳でもまず聞くことが大事です。
聞かなければ相手のことを知ることはできません。
知ることが出来なければどんな対応をしてよいかわかりません。
どんな対応をしてよいか解らなければ相手に何を与えてよいかもわかりません。

こんなふうに考えると
太極拳の原理は社会人が日常生活でごく一般的に行っていることだということがわかります。

太極拳では相手に勝とうと思ってはいけません。
そもそも負けを知らなければ勝ち方もわかりません。

また、太極拳で相手を打ったとしてもそれは勝つことを意味するわけではありません。
相手の闘争心を沈めることが目的です。
言い換えれば和解を求めているわけです。

私の太極拳の解釈は
「聞く、許す、導く、与える」です。

これを太極拳の用語に置き換えると
「聴勁、走勁、化勁、発勁」です。

相手を知り、
相手の行動を許し、
相手に心の傷を負わせない方向に導き、
最後に相手がもう手を出さなくてもいいように与えます。

相手に心の傷を負わせないとは、相手に打たせないということです。
打たれれば怪我をします。
血が出たり、骨が折れたりするかもしれません。
それで打ったほうは本当に満足するでしょうか。

戦争で生き残った方々のお話を聞くと、
戦争とはいえ同じ人間を殺さなければならなかったことを悔やみ、償いようのない罪の意識を一生持ち続けるのだそうです。
生き残ることが幸せとも限らないということです。


聴勁(ちょうけい)とは相手を知ること。
走勁(そうけい)とは逆らわず許すこと。
化勁(かけい)とは導くこと。
発勁(はっけい)とは与えること。

私はこのように解釈します。

太極拳が平和をもたらしますように。

2016年9月7日水曜日

形意拳は低燃費?

先日の日曜日、第三回目の入門形意拳の部を行った。

前回までは三体式、歩法、劈拳までの内容だったが、今回は鑚拳と崩拳の練習も行った。

皆さんとても真剣に取り組まれいつもの空気とは明らかに違った。

形意拳もまた禅。
同じ動作を何度も何度も繰り返すので忘れることがないし、無心で打つことが出来るのが形意の最大の特徴。

複雑な表演用套路では決して得られないハイな状態に入ることができる。

さて、当会で練習している河北派の形意拳。
先日稽古前にお話ししようと思っていたのだが、話をするより体を動かした方が良いと思い詳しい話は割愛した。

私が伝えたかったことは、形意拳はとても低燃費であること。
他の中国武術は走ったり跳んだり回ったり、とにかく激しい動きが多い中、形意拳は「これで本当に人を倒すことが出来るのか?」というほどシンプルかつ静かな拳法。

なぜ動きが小さいか?
それは内功を練り気を以て打つから激しく動き回る必要がないのだ。

先程も練習場で、6つの套路を何度も繰り返し練習した。
1分程のインターバルを挟みながら約2時間ほぼぶっ通しで練習。
しかし、全く息が切れることがない。
なのにじんわりいい汗をかく。

ほどよい疲労感が心地いい。
丁度いい運動をしたような感じだ。

形意拳は力学的にも非常に科学的で合理的な拳法。
それに気功の要素が含まれているから、筋力をほどんど必要としない。
意をもって打つ。

だから息切れしない。
心拍数が上がり酸欠になることもない。
酸欠にならないから常に脳と体全身に新鮮な酸素が送り込まれる。
だから、ふらつくこともなく常に気をしっかり持つことができる。

形意拳はいわば武術のハイブリッドカーのような感じ。
体力の消耗は最小限なのに、一打必倒と言われる程のパワーを出すことが出来る。

これほど低燃費な拳法は他にないのではなかろうか。

2016年9月6日火曜日

太極拳で膝の痛みが消えた

その後気が付いたことだが膝の痛みが消えた。
完全に消えた。

結局解ったことは
見栄えの良い美しい演武をしようとすると膝を痛めてしまうということ。

決して競技用太極拳を否定するわけではない。
若い人はどんどんやればよいと思う。

しかし50過ぎてくると、体の中で作られにくくなるものや減っていくものがある。
自然現象でありこれに逆らうことはできない。

50代には50代の太極拳があり、
60代には60代の太極拳がある。
年代と共に変えていくのが自然なことであると思う。

ただ、どんなスポーツにも引退時期があるが、太極拳に限ってはない。
死ぬまでできる。

しかし、それはあくまでも年相応の太極拳を行った場合だ。

悲しいかな男の性というか、
「まだまだ若い奴には負けん」みたいなものがどこかにある。
そして無理をして膝や腰や筋を痛める。

私が考えることは逆。
私が若い人たちに憧れたり妬んだりするのではなく、
逆に若い人たちが憧れる様な
歳を重ねてきたものでなければ出来ないものを見せて行きたい。

私には経験がないが
話を聞く限り華道や茶道に通じるものがあるように思う。

それは若い時にはなかった根気や持続性。
この歳になってくると自己顕示欲や虚栄心もなくなってくる。
それを逆に生かし、地味すぎてやりたくなかったことに専念できる歳になったということ。

私の場合はそれが立禅。
今、禅の世界にずっぽりはまっている。

しかも立禅を行えば行うほど強くなる。
それは決して派手でカッコイイ技が決められるようになるということや、
力強い突きや蹴りが出来るということではない。

技が見えないのに強い。
突きの速度が遅いのに相手を簡単に崩すことができる。
力を使ってないのに何メートルも相手を飛ばすことができる。

こういうことをやるのに適した年齢になってきたように思う。
しかも若い頃のように「若いうちに」というような焦りもない。

死ぬまでにコツコツと積み上げて行きたいと言うような考えになってくる。

私が太極拳から離れられなくなった理由。
私が最初に所属していた会の大先輩が仰った言葉。
「太極拳は棺桶に入る直前が一番強い」と。

これは一般常識を覆すようなことだ。
歳をとればとるほど弱くなると考えがちだが、こと伝統太極拳に限ってはその逆。

因みにここは強調しておきたい。
これは伝統太極拳に限ったこと。
伝統太極拳は人前で演武を披露することを目的としているのではなく、己を鍛えるための太極拳。

鍛えるといっても筋肉モリモリになるのではない。
痩せこけていても強くなる。

そして高齢者にとっての最大の悩みである膝も腰も丈夫になる。
脳も活性化され、若々しくなる。
恐らく太極拳程、高齢者に適した鍛練法なないのではなかろうか?

いずれも私はその生き証人になりたいと思っている。

2016年9月3日土曜日

楊式太極拳の絶大な美肌効果

これは明言できることですが、
気功と太極拳を行うと確実に肌がきれいになります。
特に楊式太極拳の美肌効果は絶大です。

私は20年近く美容関係の仕事をしていたので、
自分も他人も含め無意識に肌チェックをしてしまう習慣があります。
決して鏡が好きなのでもなく、ナルシストでもありません。
自分を過剰評価したり過小評価することもありません。

ただ、講師という立場から最低限の身だしなみはしなくてはと思っているので
毎日、肌や髪の手入れは簡単ながら行っています。

因みに鏡の前でチェックするのは・・

どんな生活をすれば?
どんなものを食べれば?
どんな基礎化粧品を使えば?

肌にどんな変化が現れるか、それを20年間研究してきました。

だから鏡を見ることは私にとっては仕事だったわけです。
そしていつしか肌を見るだけでその方の健康状態が解るようにもなりました。

私は太極拳の美肌効果を確かめたくて、太極拳を行う前の顔を鏡で良くチェックしてみました。
そして20分以上かけ、楊式太極拳を一通り終えてからもう一度鏡を見ました。

それはハッキリと実感できるほど
明らかに肌のハリ、艶、透明感が変わっていました。

具体的には
ほうれい線が目立たなくなり、
目尻が上がり、
まぶたにハリがうまれ目がぱっちりに。
くすんだ肌に透明感が得られ、
しかも血色もよくなり、美白効果も。
確実に美肌効果を確認しました。

今度機会があれば、どなたかモデルになって頂きビフォーアフターの画像を公開したいと思っています。

多分このようなチェックをする方はおられないのではないでしょうか?

これは顏だけではありません。
気功も太極拳も全身の血行を促します。

いわゆる体まるごと美肌効果があります。

女性会員さんのお顔を見ていると入会された頃に比べ明らかに変わってきた方を多くお見受けします。
今の私の立場から、あまりそのことに触れることはありませんが
私の中では女性がよりいっそうきれいになることはとても嬉しいことです。
表情まで変わってきますね。

ということで、只今モデル募集中です。(笑)

2016年9月2日金曜日

FBとブログについて

武術とは全然関係ない話ですが、
これまで積極的に行ってきたFacebook

武術関係の友達が増え、お互いに励まし合ったり刺激し合ったりして、
確実にプラスになりました。
懐かしい友達とも再会できたり、Facebookのメリットは大きかったように思います。
自分で自分を追い込むために自主練の記事を積極的に投稿したりもしました。

しかし、いつしか友達が増え過ぎ、
Facebookにとられる時間がどんどん増えていきました。
買った本も読まずにそのまま放置。
計画していた仕事や練習も進まない状況で、いつしかFacebookが大きなストレスに。

禁煙と同じように減煙しようとしてもなかなかうまくいかにようにFacebookも同じでした。
そこでプライベートのFacebookを当分辞めることを公言しました。
(サークルのページは今も更新中です)

それからというもの私は完全に自由になりました。
今は勉強も練習も捗るばかりです。
スマホを見る時間も激減しました。

実はスマホの小さな画面でいろいろ閲覧したり、入力したりするのはかなりのストレスでした。
スマホを手放すと人間これほど自由になれるのかと思いました。

以前、今のようにスマホ病になる前、ケータイ病にもかかりました。
ケータイが普及し始めた約20年前頃、
電話が鳴るのが嬉しかったはずなのに、
いつしかひっきりなしに電話が鳴り続け私の生活どころか睡眠時間さえも奪われるまでになりました。
私はどんどん痩せこけ頭痛、肩こりが酷くなり、めまいや立ちくらみなども起こるように。

ケータイもパソコンもスマホも文明が生み出した素晴らしいツールですが、
使い方を誤ると確実に体を悪くしてしまいます。

スマホの画面ばかり覗いていると、いい出会いも逃してしまうかもしれません。
美しい風景を見逃してしまうかもしれません。

もしかしたらスマホにマインドコントロールされてしまい、自分らしさを失ってしまうかもしれません。
検索すれば何でもその場ですぐに情報が得られる時代。
自分の中でイメージを膨らませるチャンスを失い、芸術的な能力が低下してしまうかもしれません。

因みにブログに関しては、プロフィールでも書いている通り、覚書として書き綴っています。
決してアクセスを狙ったものではありません。
私の記事に共感してくださる方が一人でもいれば十分満足なのです。
もっと言えば、私ひとりが満足すればいいとも思っています。

人に読んでもらおうと思うと、自分らしい文章ではなくなってしまうし、
そうなってくるとブログを書く意味がなくなってしまいます。

だから、見たもの、感じたこと、思ったことしか書きません。
人からの評価を得たくて書いているのではありません。
あくまでも、「自分らしさ」を失わないよう書き留めているだけです。

いずれも愛読して下さっている方には感謝申し上げます。
つたない文章ですが今後とも宜しくお願いします。

2016年8月27日土曜日

心意気

心意気(こころいき)という言葉がある。
辞書で調べると、「盛んでいさぎよい気だて・気まえ」という意味になる。

この言葉の意味は想像以上に深い。

これを武術的視野から見ると・・

心によって意が動きだし、
意が気を導き、
気が勁を生み出す

ということになる。

もしかしたら心意気の良い人は勁力が強いのかもしれない。

内功を練り出してから、勁(筋力ではない力)を生み出す時に体の中で何が起きているか感じようとしている。

例えば力強い拳を突き出そうとする。
もちろん筋力ではなく脱力した状態で。

この時何が必要かは体が教えてくれる。

大砲にしろ、ミサイルにしろ砲台や発射台がしっかりしていないと、力強く飛ばすことは出来ない。
もし砲台がグラグラだったら砲丸はその威力を失ってしまうだろう。
だから地面にしっかり固定する。

これと同じように、人間も地面にしっかり固定しなければならない。

しかし足を地面に固定することはできない。
地面を掴むこともできない。

ここでゆるむことが求められる。
足を地面に打ちこむことは出来ないが、緩めば足裏と地面との繋がりが大きくなる。

もし人間の体が100%水なら、引力に従って地面に浸透していくだろう。
しかし現実的でない。

ではどうすればいいか?

それは地面に意識を打ちこむこと。
意識ならいくらでも打ちこむことができる。

意識を打ちこめば気が流れる。
気が流れれば勁が生み出される。

この力を利用するのが太極拳を始めとする内家拳で使われる勁力による力(と私は解釈する)

こんな風に自分の体に問いかけてみると様々な発見があっておもしろい。

これも立禅の大きなメリットだと思う。

動くと心も体も動くことに意識が傾いてしまうが、
動かない禅によって得られることは非常に大きい。

2016年8月26日金曜日

宗教から生まれた武術

昨日、ある公共施設内で立禅を行っていたら、ある若い女性が近くに寄ってきて座り込み
ずっと私のことを眺めている。
私が立禅を行っている時は、瞑想状態に入っているため、
周りで何が起ころうが気にならないし、逆に言えば気にすることも出来ない。

それに、ある意味、別の世界に入っているので、
人とコミュニケーションが出来る状態でもない。

私は話し出すと割合、喋る方なのだが、
こと立禅や太極拳等で気を練っている時は完全に周りとの気(人の気)は断ち切った状態になっている。

立禅を行い、太極気功で気を練り、一息つこうと思ったら、その女性が近づいてきて、「何教ですか?」と尋ねられた。

どうやら私は宗教の修行を行っているように見えたらしい。
無の状態からまだ戻ったばかりで、私は言葉をうまく出すことが出来なかった。

しかし、考えてみれば、太極拳は武術に気功の要素を取り入れ編み出されたものであり、
老子が伝える道教から生まれたと言われている。

傍から見れば、不思議なことをしている人に見えるのだろう。
しかし、私はそれが太極拳の一番の魅力だと思っている。

太極拳の美しい演武も良いが、私が太極拳に一番惹かれたのは演武ではない。
その神秘性だ。

見た目はやわらかくゆらゆら踊っているように見えるのに、
それが力となった瞬間強大なパワーに変わる。

多分その女性はその神秘性に興味を持ったのではないかと勝手に思っている。

私は自主練の時はストレッチや筋トレはほとんど行わない。
太極拳は柔軟性や筋力で戦う武術ではないから。

立禅により、脱力し、無になり、そして自然と一体化する。
その自然を味方につけて戦うのが太極拳。

いや、実際は戦わない。
戦っているのは相手であり、こちらはその力を相手に返しているだけ。
戦わずして自分の身を守れる太極拳。
言葉で言い表せないほどカッコイイ。

太極拳は道教から生まれたと言われる。
だから神秘性があって当然なのだ。

戦っているように見えないのに、美しく、神秘性があり、しかも強い。

そういう自分はまだまだ筋力に頼ってしまうことがある。
本物の太極拳に少しでも近づけるようこれからも更に修行を積みたいと思っている。

2016年8月25日木曜日

愛がもたらすこと

これまでブログに何度も書いてきたが、
私は指導する立場として演武力も必要だと感じ、自主的に目標を掲げそのためにそれなりの努力をしてきた。

そのため演武会等に積極的に参加し、先生や先輩方の演武を研究させて頂いた。
そこで思ったこと。

自分や家族、仲間を守るために生死をかけた戦いで発展してきた武術。
そこには現在、平和国ニッポンでは考えられない、壮大な愛があったように思う。

私は男だから、本能的に「守らねば」という意識が常にある。
その時に自分の身の危険など全く考えない。
いや、正確に言えば自分が危険な目に遭うなどとは一切思わない。
だから今まで仲間や家族、大切な人たちを守るために様々な戦いに挑んできた。(暴力ではなく)
そしてそれはこれからも変わることはないと思う。

その壮大な愛が生んだ武術。

今では芸術として楽しむ時代になった。
美しい演武は人に感動を与える。
人は感動によって生きがいを感じ、生きる活力を得るように思う。
だから表演武術も素晴らしいと思う。

かくいう私も年老いた母を喜ばせたくて、カッコいい演武を見てもらおうと頑張った頃もある。
まだまだ長生きして欲しいと思っているが、動ける間にとことん頑張ろうと。
それが私を生んでくれたお礼だと思ったから。

私に子はいないが、自分の生徒が試合出場し、想像以上の点数をとった時は本当に嬉しかった。
入賞こそ逃したが、それでも本番中、最後まで諦めない姿勢に感動させられた。
本人曰く、先生に恥をかかせたくない。だから少しでもいい演武をしたかったと。
彼女はその意地を私に見せてくれた。

また今年の春に行われた太極拳フェスティバルも素晴らしかった。
2年ほどの先輩会員さんから始めてまだ数か月の会員さんも混ざって最後まで頑張った。
そして本番奇跡が起きた。
リハーサルでは一度も曲のサイズに合わせて演武を終えることが出来なかったのに、あの緊張の場面でそれをやってのけた。
私は感動のあまり涙を抑えるのが大変だった。

表演がこれほど人に感動を与えるのは、古来武術が発展した時代の愛の力が根付いているからではないだろうかと考える。

しかし、だからといって武術の力量を演武力だけで見てはいけないと思う。
少なくとも私は、一見無骨に見える演武であろうと、その中に美と強さを感じる。
そんな風に見えるようになったのも本格的に内功を練るようになってからだが。

いずれも私は自分に従い表演武術にかける時間を意図的に減らし内功を練ることに力を注いでいるが
それはこれから起こることの準備である。
今までそうであったように、時代の大きな流れには決して誰も逆らうことは出来ない。

タイムマシンで過去を変えると未来も変わるというが私はそうは思わない。
大河に蟻が一匹落ちようが落ちまいが川の流れは何も変わらない。
「大は小を兼ねる」ということ。

今までほとんど知られなかった地が世界遺産に認定されるとそこへ人が大勢詰めかける。
伝統ある地は守らねばならない。
それと同じように、伝統武術が見直される時代がもう目の前までやってきている気がしてならない。

愛の力は永遠というが、
かつて家族や愛する人のために命を懸けて戦った武術家の心が今も生きており
その伝統が見直される時代が来ると。


2016年8月22日月曜日

五行千本

昨日、1カ月ぶりぐらいに仲間と練習。
私は用事で1時間程遅れたのだが、仲間はその間に五行拳を200本打ったと言う。
流石だと思った。

そう言えば最近の私は五行拳を十分打ててない。
やってもせいぜい100本程度。
練習メニューが多いからだが、最近、立禅に時間を掛けるようになったからだろうか。

いずれも今一度練習メニューを組み直す必要がありそうだ。

立禅は抜かせない。
その成果は仲間と打ち合いや崩し合いをして明確だった。
仲間が立禅の効果に違いないと言ってくれた。

そして仲間も五行拳を200本打ったばかりだろうか、以前より勁力が上がっていた。

ここで意外な共通点をみつけた。
(意外でもないのだろうが)

立禅も無になれる業だが、
五行拳もまた無になって打ちこめる。

「無こそ力なり」
と思う今では、この二つは欠かせないと思った。

今は新しいことを覚えるより、覚えたことを徹底的に繰り返し行う方が楽しいし、
一点に力を注ぐ鍛練を行っている武術家に名人と言われる人物は多い。

五行拳を1000本打つといいらしいが
確かに毎日五行拳を1000本も打てば名人になれそうな気がする。

限られた時間で何に重点を置くかで5年後10年後が大きく変わってきそうだ。
未来は過去の積み重ねだから。

2016年8月18日木曜日

力では勝てない推手

推手は腕力では決して相手を崩すことはできない。
力いっぱい打とうと思えば、相手の体をすり抜け後ろ側にすっ飛んでしまう。

古い映画になるがゴーストという映画が好きだった。
死んで肉体を失ってしまった夫が奥さんを危険から守るために戦う。

ゴーストになってしまった夫が身に付けた力は、
肉体はないのに相手を打つ力を身につけたこと。
愛する奥さんが危険な目に遭っているのを、なんとか助けたくてその不思議な力を身に付けた。
ここが最初の感動シーン。

推手でも同じことが言える。
推手の熟練者に対し攻撃をしかけると、すでにそこに相手の体はない。
幽霊になったゴーストに対して思いっきり殴りかかるようなものだ。
そのまま打った方向にすっ飛んでしまうか、或いは力を吸い取られたかと思うや否や、今度は打ち返されて反対方向に吹っ飛ばされる。

ここで推手は腕力が通用しないということがわかる。

学生の頃、男子の中で流行ったのが腕相撲。
腕の力を試すのに腕相撲が一番わかりやすい。
病弱で華奢だった私は腕相撲はクラスでも下から数えたほうが早いぐらい弱かった。
そのため腕立て伏せを行い鍛えようと思ったこともあるが、いつの間にかやめてしまった。

いずれも力さえあれば腕相撲は強くなる。
しかし推手は違う。

同じ腕試しでも力を使うと逆に負けてしまう。
逆に言えば、腕相撲は力のハンデがある限り勝つことは出来ないが
推手なら誰にでも強くなることができるということ。

ここに推手の楽しさがある。

相手と手を合わせ、円を描くように手を動かす。
円を描くというより自然と円の動きになると言おうか。

その円の中で相手を感じ、攻撃を仕掛けてこられたらいち早くそれを察知し、
そして、その力を逆に利用する。

しかし、実際はそううまくはいかない。
こんなことを考えている暇はないからだ。

私が指導の時によく言うことは、「推手も禅」であるということ。
無にならなければ、相手を感じることは出来ないし、またその力を逆利用することもできない。
考えていては絶対に間に合わないのだ。

これもまた推手の楽しさのひとつ。

以前、私は推手全国大会準優勝の方と手を合わせる機会があったが、
やはり2位まで登りつめられただけのことはあり、圧倒的に強かった。
腕は柔らかくも重くも変幻自在。
打てばスルリといなされ、また、油断すると何メートルも吹っ飛ばされる。

決して腕力ではない。
勁力なのだ。

いわゆる、推手なら、老若男女問わず誰でも強くなることができるということ。
仮に相手が怪力の持主だからといっても、
推手の達人であれば老人であっても勝つことができるところがおもしろい。

当会では来年には会内で推手大会を行う予定をしている。
楽しい推手を通して様々な方と交流を図って頂ければと思うからです。

内気で打つ。外気で打つ。

体内を巡っている気を内気という。
一方、体外にある気を外気という。

太極拳も形意拳も、この気を以て打つことになる。

しかし、ひとえに気で打つといっても、様々な種類がある。

今回は、内気と外気について少し触れてみたいと思う。

内気で打つのは体内を流れる気で打つことになる。
体内に巡っている気を、打ちたい方向に流せばいい。

ここで最も大事なことは、体を十分緩めること。
緩めず体を硬くすると気の流れが阻害されるだけで、気で打つことはできない。

そして、気で打つ時の感覚は、打とうとするのではなく打たされるという感覚。
脳から筋肉に指令を送って打つのではない。

丹田から発生した気が、パワーとなるために体の中のあるルートを介して拳へと流れる。
ややこしい説明になってしまったが、
これは知ることではなく感じるものだと思うから。

実際、筋肉で打つ時も、いちいち脳から指令を送って筋肉を動かそうなどと思うだろうか?

この感覚を掴むには、実際に気を打てる師に打ってもらうしかないと思う。
私もそれでその感覚を身につけた。
無論すぐにではなく、その後試行錯誤を繰り返してのことだし、
まだまだ大きなパワーなど出せない。

次に外気で打つということだが、
外気を味方につけると、次々と不思議な現象が起きる。

触れることなく相手の攻撃を捌き、触れることなく相手を打つことができるということ。
無論私にはまだその力は備わっていない。
その力を身につけたくて立禅と套路を繰り返し行っている。

因みにこれらの力は人にダメージを与えるだけでなく
自分や他人の痛みを取り去ったり、治癒力を上げ損傷した細胞の修復を早めることもできる。

「手当て」というが、
頭が痛い時、歯が痛い時、お腹が痛い時、
手を当てると痛みが和らぐがそれがその証拠。
気の力は自分の身を守るためだけではなく、傷ついた自分の体を治すこともできる。

このように太極拳を始めとする内家拳は非常に奥が深い。



追記

20世紀末期、21世紀は物欲に飽き、癒しを求め精神世界を求める人が圧倒的に多くなると予言された。

私もその一人。

物を買うことに今はほとんど興味ない。
20世紀最大の発明品であるパソコンにしても当時百万近くしたものが今では数万円で買える時代。
当時何万円もした電卓やデジタルウォッチが今では100円で手に入る。
物の価値がどんどん下がっている。
モノに囲まれて豊かさを感じた時代は既に終わっているのだ。

太極拳はモノではない。
禅であり、武術であり、最高の健康法だ。
体ひとつあればいつでもどこでもできる。

これからは確実に伝統武術が見直される時代に入る。
現代人が今求めているのは見えるものではなく見えないもの。
未知なる内面の世界なのだ。

物欲がなくなれば人は争うことをやめ、
禅により煩悩を消すことが出来れば自分が傷ついたり人を傷つけようなどとも思わなくなる。

太極拳、またの名を動禅というが、
これにより地球が自然を取り戻し、世界が平和になると私は信じている。

2016年8月16日火曜日

推手リレー

当会では套路(型)の練習以外に、気功、基本功、推手、散手を行っているが
約2時間の中にこれだけのメニューを盛り込むのには理由がある。

どれも全て重要であり、
伝統スタイルをそのまま受け継いできているからだ。

10年前と異なり、今は出版物や動画、DVDなども豊富で太極拳を知る機会はいくらでもある。
それで独学する者もいるだろう。

しかし、それで太極拳を本当に学ぶことが出来るだろうか?
私からの答えはNOだ。

太極拳が他の拳法と圧倒的に違うのは化勁があること。
化勁が使えなければそれは太極拳とは言えない。

化勁とは読んで字の如く、化する勁。
即ち、相手の力に逆らわず吸収したり力の方向を変えたりする特殊な技。

化勁で一番解りやすいのは闘牛士の技。
赤い布で突進してくる牛を導き、そしてその力を無力化する。
もし牛とまともに正面衝突すれば一瞬であの世行だろう。

人間もまた体格の差や力の差がある。
この差を埋めてくれるのが化勁。

そしてその化勁を鍛えるためには推手が最高のトレーニング方法となる。

推手も散手も一人では出来ない。
相手が必要。
しかし相手がいればいいか?

実力のないもの同士が行っても推手レベルが上がることはないだろう。

だから当会では推手経験の長い会員さんと
始めてまもない会員さんとペアを組んで推手を行うようにしている。

ところで、今回のタイトルにした推手リレーとは?

それは推手によって、私は太極拳の創始者と推手を行ったことになるということ。

伝統太極拳では必ず推手を行う。
そしてそれによって化勁や発勁方法を体で学ぶ。
この推手が弟子から弟子へと受け継がれ、私のところまで伝わってきたということ。
これは本当に凄いことだと思う。

楊式太極拳の創始者は楊露禅だが、そこから数えると私は7代目というとになる。
わずか5人を介して推手を行ってきたことになる。

これは大変貴重なことであり、お金だけでは決して買えないもの。
私としてはこのリレーを止めたくないと思っている。

先祖を敬うように、創始者への感謝の気持ちがあるから。
私を病気や心の病を救ってくれたのは楊式太極拳だから、楊式太極拳普及のために多大なる力を尽くしてきて頂いた創始者や老師、先生方に心から感謝を述べたい。

そして私のこの感謝の気持ちは決して誰にも消すことはできないだろう。

2016年8月12日金曜日

技ではなく立禅・套路から入る理由

映画「推手」で、太極拳の達人である主人公が、弟子が技を教えて欲しがるから指導を辞めるというシーンがある。

なぜだろう?と思った。

その理由が後になってわかった気がする。

仮に立禅も套路練習も行わないでいきなり技だけを覚えたとする。
多分、その技は使うことができないだろう。

太極拳の技はカタチではなく、基本が出来ていなければ使えない。

このことを説明しようとするとかなり難しい話になりそうなので、
簡単に言えば、太極拳の技は力を使ってかけるのではないからということ。

もし力を使う技ならその場で覚えてその場で使えるだろう。
しかし太極拳は違う。
力を使おうとすると技の威力がなくなり、
或いはそのことで相手の力に負け自分が崩れてしまうことになるだろう。

こういうことを経験するためにも推手や散手はとても重要だと思う。
いわゆる技を覚えるためだけではなく、基本の重要性を知るためにという意味でも。

太極拳の技を技として使えるようになるには、まず立つことが要求される。
なぜなら手や脚の威力で戦うわけではないから。

立つといってもただ立つのではなく、正しく立ち、そして極限までゆるめる。
よく「地球の力を借りる」という言葉が使われるが、
逆に言えば自分が地球の一部だと感じることだと思う。

大きな岩を動かすことは出来ないし、その岩を殴ったり蹴飛ばそうとすると自分が痛い目に遭うだろう。
岩はなにもしていないのにだ。

これは自分に言い聞かせるためのことだが・・
太極拳で強くなりたかったら、まずは立つこと。
ひとすら立つ。

立てなければ技は使えない。

次に套路を練って練って練りまくる。
師匠曰く、「套路に全てが入っている」と。

套路もまた立てなければ、ゆっくりぶれずに動くことはできない。
踵脚や擺連脚だけが片足になるのではなく、
ほとんどの技が両脚で立ってるように見えて実際に相手を打つ時は片足で立つ形になる。

因みに踵脚や擺連脚で大事なのは上げる方の脚ではなく、上げない方の脚。
「脚が上がらない」と良く聞くが
脚が上がらないのではなく、上げない方の脚で立ててないから。

長くなりそうなのでこの辺にするが
立禅と套路をやり込んで行くことで、太極拳の実力は確実に上がっていく。

その実力とは単に技が上手く使えるようになるというだけのことではなく
体を支える力を養い、
免疫力を上げ、
中から外へと細胞に活力を与え
そのことで肌にハリ艶を与え、
そして心の安定が得られる。

やはり太極拳は素晴らしい。

2016年8月10日水曜日

最近感じたこと

最近、会員さん達のレベルが凄いと感じる。

わずか2年ぐらいの歴で、ここまでバランス良く立つことが出来るかということで驚かされたり、
3ヶ月半という早さで伝統楊式太極拳を覚え、早くも内面で起こる感覚に酔うことができたり、
短期間で勁力を身につけ、重い打ち方が出来ると思えば、触れるか触れないかという感じの打ち方が出来たり・・

とにかく驚かされることが多い。

これらのことは私が10年以上かけてようやく最近身に付けたことなのに
始めたばかりの会員さんが早くもその力を身につけ始めている。

私はこのことが嬉しくてならない。
なぜなら、そうなって欲しいと本気で思っているから。

そのうち私を超えるのも時間の問題だろう。

というより、私自身がまだまだ未熟だし、これから本格的な修行を行おうとしているところだ。

私は決して人より優れているとか、強いとか、上手だとか全く思わない。
謙遜しているのではなく、本当に思っている。

大会でメダルを獲得した時ですら、なぜ自分なんかが?と思った。
どう見ても、皆私より優れている。

私は今、毎日のように太極拳指導しているので、世間的にみれば講師という立場。
だが、〝先生になってはいけない”と思っている。
自分でも先生らしくないなと感じることすらある。

ただ、申し訳ない。
礼儀に関してだけは厳しくさせていただいている。

決して教わったことではなく、礼儀なくして学びの場は生まれないと思っているから。
友達のような関係になって損をするのは私ではなく学ぶ側。
敬意を払って欲しいのではない。
損をして欲しくないのだ。
限られた人生、一番大切なものは時間だと思うから。

いずれも私は会員さんも自分と同じ修行者と考える。
私はただ、それを少しだけ先に進んできただけ。
私に近づいてきてくれれば私もまた実力を上げる機会が得られる。
これは感謝すべきこと。

今後どうなっていくかがとても楽しみだ。

2016年8月9日火曜日

揺れる立禅

伝統太極拳では套路(型)の練習をする前に必ず立禅を行う。
これをやるのとやらないのでは全く違う。

因みに立禅を筋トレだと思っている方もおられるようだが、私の解釈は違う。
呼んで字の如く〝禅”なのだ。
禅とは邪念を払い、無になること。

仮に立禅を行わないで套路を行うとカタチだけの動きになってしまう。
これを否定するわけではないが
私の経験上で言えば肩がこってしまう。

私は子供の頃から酷い肩こり症。
だから、肩がこることをすると極度なストレスを感じる。

ストレスを発散したくて行っている太極拳がいつのまにか体を硬直させ、
それがストレスになるのなら全く意味がない。

しかし、立禅を行ってから套路に入ると全然違う。
套路に命が宿る。

立禅は少なくとも15~20分程度するのが良い。

ここで大事なことは、姿勢、呼吸、心

まず正しい姿勢をつくる。
次にゆったりとした自然呼吸を行う。
睡眠中の腹式呼吸と同じで、意識した呼吸は行わない。
次に邪念を払い意識を丹田に沈める。

私の場合ここで3つのことを行っている。

一つは意識的に体内に気を巡らせる。
もう一つは無になる。
最後のひとつはそれによって体内に起こる変化を感じる。

時によっては、素晴らしい景色を思い浮かべあたかも自分がそこにいるようにイメージすることもある。

ところで立禅で大事なことはじっとしようとしないこと。
じっとしようとすると必ず力みを生みだしてしまう。
じっとするのではなく、姿勢を正し、脱力する。

例えばこんにゃくを縦にして立てることはできない。
しかし真ん中に串を通せば立たせることができる。
この串を中心軸とし、後はこんにゃくのように柔らかくなることをイメージする。

とにかくじっとしようとしてはいけない。
ゆるみの世界を楽しむという感じ。

先日、師匠の後ろで立禅を行ったが、気が付くと師匠の体がゆらゆら揺れている。
その動きは決して意図的なものではなく、自然に動き出したものだと感じた。

体の周りに気が集まってくると、なんともいえない柔らかいものに包み込まれているような感覚に入る。
幸福感を感じる。
そしてその気(外気)や体内の気(内気)にゆらぎを感じる。
その気の中では水の中で波にゆられ揺れるのと同じように、ゆらゆら揺れ出す。

立禅というと真っ直ぐじっと立たなくてはいけないように感じるかもしれないが、違う。
回ってるコマが静止して見えるように、動いているのだが止まって見えるだけ。
止まろうとしてはいけないということ。

この辺が体感できるようになると立禅がもっともっと楽しくなるはず。
因みに私は今、立禅を行うのが一番楽しい。

重いは強いなのか?

推手を行う上で、相手と手を合わせると熟練者ほど腕がずっしり重い。
まるで砂袋のようだ。

でも、重ければいいのか?

私は違うと思う。

何人かの先生方と推手をしたことがあるが、
熟練しているからと言って重いわけではない。
正確には「重くもできる」ということ。

私の場合、もし重い腕の相手と推手する時は、それに負けじと重くしようとはしない。

気は自分の意識によって、
固体にも液体にも気体にも自在に変化させることができる。
更に、光やプラズマにも。

砂袋に対して砂袋で対抗しようとしてはいけない。
臨機応変に対応できなければ意味がないということ。
少なくとも私はそう教わった。

鉄にもなれば、水にもなり、空気にもなる。
打つ時は、鉄、水、風、その他****

私が師と推手した時に感じるのは重さではない。
その真逆。

触れている感覚がない。
もっと言えば手が触れていなくとも操られてしまう。
身動きとれなくなる。

そして、次の瞬間、腕が別のモノに変化する。
突風だったり、水圧だったり、鉄の棒だったり、**だったり。

重い=強いというイメージがあるようだが
少なくとも私が最も強いと思うのは、その重さをもない〝無”の状態。

あると思っている腕は実際はないのだ。
物質を量子(素粒子)レベルでみれば、「ない」のと同じなのだから。

2016年8月4日木曜日

静かな太極拳と形意拳

当会で行っている太極拳は楊式太極拳。
そして形意拳は河北派形意拳。

意外な共通点をみつけた。

そもそも楊式太極拳のルーツは陳式太極拳。
動きも派手で、楊式太極拳の次に愛好家も多い。

陳式太極拳に関しては私はほんのかじった程度だが、
動きがダイナミックな上に発勁動作が明勁なので、動きが派手でカッコイイ。

一方、楊式太極拳に明勁はなく、すべてそれらを中に入れ暗勁とした。
(簡単に説明すると明勁とは明らかに打つと解る発勁動作で暗勁とは打つことが解らない発勁動作)

いずれも、暗勁にした理由は楊式太極拳の創始者である楊露禅が無敵の太極拳をつくろうと考えたことが始まりだと思われる。

先程も言ったが陳式の動きは派手でダイナミック。
特に二路(陳式には一路と二路の2種類の套路がある)は長拳や少林拳を彷彿させるような大きく素早く力強い動き。
ところが楊式はとても武術とは思えないほどゆっくりと柔らかい動き。
ここがとても重要。

楊露禅が考えたことは、「技を見せない」ということなのではないかと。

実際、師匠がすっと近づいて来ても何の警戒心も働かない。
近づいてきたことすら気が付かないこともある。
しかし次の瞬間、吹っ飛ばされたり、床に叩きつけられたり、腹に気を打ちこまれたりする。
これが楊式太極拳の怖さ。

一方、形意拳だが、
山西派から派生したのが河北派。
いわゆる河北派のルーツは山西派ということになる。

こちらも山西派が「動」なら河北派は「静」という感じで、風格にかなりの違いがある。
見栄えは山西派の方が派手でカッコイイ。
一方、河北派はシンプルで動きも静か。

この静かな形意拳である河北派形意拳。
楊式太極拳に通じるものがある。

山西派の発勁動作が明勁に対し、河北派はどちらかというと暗勁。

見た目は本当に戦っているのか?と思うほど力強さを感じない。
これが怖い。

河北派の跟歩は前足で踏ん張ることはしない。
自分の体をただ相手に近づけるよう進むだけ。
そして拳を打ち出すことはせず、前にすーっと出すような動き。

しかしその破壊力は計り知れない。

私はこの静かな河北派形意拳に楊式太極拳同様、強烈な興味を抱かざるを得ない。
強くなさそうなもののほうが怖いからだ。

気をつけてください

勁力は無意識の時こそ最大の威力がでます。

長年、気功で内功を練っている方は安易に人に手を出してはいけません。
自分では力を出してないつもりでも、相手に大きな衝撃を与えます。

そのまま後ろに飛ばされるだけならいいでしょう。
しかし転倒して頭でも打ったら大事です。

手加減しようとすると余計にパワーが増します。

普通は、手加減=力を抜くことだと思うでしょう。
しかし、勁力は筋力に反比例して増大します。

今日、危うく弟子に怪我させてしまうところでした。

手加減しようと思うなら、力を抜くのではなく、
逆に筋力を使ってブレーキを掛けないといけません。

仲間同士で打ち合いをした拳友曰く、
私の場合、体内に衝撃を与えるのは崩拳で打った時らしいです。
ただ拳を前に出すだけ。

相手を遠くに飛ばす時は打擠です。
私の場合は双按よりもパワーがでるようです。

いずれも勁力の差がある相手には筋力を使ってブレーキを掛けないといけないということを
今日つくづく感じました。

気功(正しい方法で)を毎日実践されている方は、知らず知らずのうちに勁力を身につけます。
くれぐれも気を付けてください。

(自分に言い聞かせるために書きました)

2016年7月26日火曜日

2年かけて6式まで覚える

当会にとても熱心な会員さんがおられます。
正確な年齢は知りませんが恐らく80歳近い方だと思われます。

当会に通い始められて丁度2年になりますが、
なかなか覚えられないと苦悩されながらも、それでも欠かさず毎週通われます。
そして毎回お礼のメールを頂きます。

その都度私は
「日増しに良くなってきているのでこれからも是非頑張ってください」
とお返事します。

伝統楊式太極拳は以下の順で覚えて行きます。

1.起勢(きせい)
2.攬雀尾(らんじゃくび)
3.単鞭(たんべん)
4.提手上勢(ていしゅじょうせい)
5.白鶴亮翅(はっかくりょうし)
6.楼膝拗歩(ろうしつようほ)

Kさんは2年で6つの型まですすみました。

確かにどちらかといえばゆっくりペースでしょう。

しかし、武術の世界には「不怕千招会、就怕一招精」という諺があります。
千の技よりも一つの技を極めた者の方が強いという意味です。

だから6つも覚えれば十分なのです。

元々、太極拳は攬雀尾(らんじゃくび)から出来たという話を聞いたことがあります。
逆に言えば攬雀尾(らんじゃくび)だけでの十分戦えるということになります。

たくさん技を覚えたからといって、それらすべてを駆使できるわけではありません。
確かにカンフーアクション映画を見ていると、様々な技が飛出し派手な戦いが延々と繰り広げられますが、
あれはあくまでも映画の中での世界です。
少なくとも私が教わった太極拳の戦いは一瞬で終わります。

武術としてでなくとも
健康法としても、起勢を延々繰り返すというのも良いし、
攬雀尾を繰り返すというのも良いです。

覚えられないことを悲観することなんて全くありません。
一つの技を極めてこそ達人なのですから。
それに、気功と太極拳を行っているだけでも、内外共に体は若返っていきます。

その証拠にそのKさんは、姿勢がとてもよくなってきました。
熱心に稽古に通われ、どんどんスリムになられている会員さんもおられます。

どのような形でもいいのです。
とにかく太極拳を楽しんで欲しいと思います。

2016年7月23日土曜日

太極拳はどこを使って戦う?

私が始めて師の太極拳の演武を見た時、
それはまるで踊っているように見えとても武術には見えなかった。

私が思った疑問は、「一体どこをどう使って戦っているんだろう?」と。
いわゆる技が全く見えてこなかったわけです。

一番最初に習う起勢にしても、
次に習う攬雀尾にしても何をしているかさっぱり解らなかった。

人間は経験していないことはわからないのである。(当り前のことだが)

しかし実際師に技を掛けてもらうと、何が何だかわからないうちに飛ばされていたり床に叩きつけられたりしている。

この時に太極拳への興味が大きく膨らんだ。
いわゆる、太極拳は技が見えないのである。

私は師に尋ねた。
「太極拳ってどこを使って戦うんですか?」と。
その答えは「体全部」とのことだった。

ますます私の太極拳への興味は増すばかり。

前回ブログに書いた通り、伝統楊式太極拳には37の技で構成されている。
しかも一つ一つの技には3~5つぐらいの用法がある。
仮にひとつの技に対し3つで勘定しても111の技があるということになる。

「そんなにはとても覚えられない」と思うだろう。

しかし、套路を練りながら研究を進めていくと、ある法則が見えてくる。
それが太極拳八法と言われるもの。

実は太極拳の技は8つの動作でつくられている。
それを相手の動きに対し対応するためたくさんの技があるのである。

因みに太極拳で攻撃に使う部位はどこだろう?

手ひとつとっても、指先、掌、拳、手の甲、手首
5種類?
いいえ。
指先ひとつとっても四本の指をまっすぐ伸ばした状態で突く動作、
二本指で突く動作、
それに指をつまむようにして指先で突く動作など状況に応じ様々に変化する。

掌も拳も同様。

あとは、肘、肩も使う。
いや、一の腕も使うし二の腕部分も使う。
いわゆる腕全体が武器といことになる。

腕は自分の意識によって槍にも剣にも棍にも鈍器にもなる。

あとは、腰(尻)、膝、踵、つま先、土踏まず、足の小指側側面、
それに頭も使う。
直接攻撃には使わないが、腹や胸、背中を使うこともある。

つまり体丸ごとが武器ということになる。

だから套路を練る時は体全体を使わなければいけない。

因みに太極拳ではこれらの部位を強くするために外面的な鍛練は一切行わない。
それなのに、意識によって体が固体にも液体にも気体にも変化させることができる。

その鍛練法とは?

それが気功。
気功は健康やリラクゼーション効果だけ得られるのではない。
それを目的で行うのは大いに良いことだし、私もそれを目的に行っている。
しかし、それは同時に体を強くすることができるのである。

因みに武器を持たずに戦おうとすることを丸腰という。
しかし太極拳ではその丸腰こそ無敵なのだ。

無論、銃の球を跳ね返したり避けたりすることはできないが、
危険を察知する力を養うことはできる。

こんな風に考えると
太極拳程あらゆる効果が得られる武術は他にないのではなかろうかと。

***

いろいろ語ってしまったが、あくまでもこれは私が体験したことであり、
私自身が体全体を自由に変化させ技を使えるわけではない。
あくまでもそのための修行を今行っているところである。

2016年7月22日金曜日

楊式太極拳は108式?37式?

伝統楊式太極拳の呼び方は様々。

因みに伝統楊式太極拳と楊式太極拳も異なる。

単に楊式太極拳と呼ぶものは、制定された24式、40式、48式、88式も含まれるからだ。
24式は主に検定用として用いられ、40式、48式、88式は競技用として用いられる。

そして、伝統楊式太極拳の呼び方も、楊家太極拳、楊氏太極拳とも呼ばれる。

そもそも伝統楊式太極拳は創始者である楊露禅(ようろぜん)が編み出したもの。
楊家といえば楊露禅の家族という意味になるだろうし、
楊氏といえば楊露禅そのものを指す意味になるだろう。

他にも鄭氏太極拳(ていしたいきょくけん)というものもある。
これも楊式太極拳の部類に属する。

鄭氏太極拳は楊式太極拳第3代伝人である楊澄甫老師の弟子鄭曼青が創始したもので
108式からなる伝統楊式太極拳から重複する技を省き簡化したもの。

また、伝統楊式太極拳もまた、套路はほぼ同じだが、
108式とも呼ばれれば81式、85式とも呼ばれる。

更に同じ108式でも鶴形、虎形、蛇形と三種類ある。
更に更に、架式(かしき)が異なることで、大架式、中架式、小架式とこれもまた三種類ある。
(架式とは腰の位置を意味し、大架式は大きな歩幅で低い架式であることが特徴)

ここまでくると何が何だかわからなくなる。

因みに当会では最も一般的な85式と呼んでいる。
85式はいわゆる鶴形の大架式だ。

世界的にもっとも愛好家が多く、あらゆる病気を治癒させるパワーがあることが世界中の臨床試験で証明されている。

さて、この伝統楊式太極拳、85式だが、実際に85の技から成るのだろうか?
いいえ。
先程もお話ししたように重複した動作が多く含まれる。

重複した動作を省くと37つの技から成ることがわかる。
いわゆる85式は37式だということ。

その中から、よく似た白蛇吐信(はくじゃとしん)を蔽身捶(へいしんすい)に加えると36
更に予備勢(よびせい)を省くと35の技で構成されているということになる。

85式というとたくさん覚えなくてはいけないような気がするが
実際は35の技から成るのである。

もし1日一つずつ覚えていけば35日、即ち1ヶ月ちょっとで覚えられることになる。
だから、そんなに気がまえなくとも良いということ。

ラジオ体操第一は13の体操から成るから、ラジオ体操の約2.7倍と考えれば良い。

しかも太極拳ならゆっくりした動作で普段鍛えにくい老化した体を支える深層筋を鍛えることができるし、
気のチカラでカラダを丸ごと丈夫にすることもできる。
転びにくくなり、転んでも怪我しにくくなる。
これはラジオ体操では得られないこと。

どうでしょうか?

108式とか85式というと、難しそうに感じるかもしれませんが、
37式なら覚えられそうな感じがしませんか?
しかも護身術として使える技が凝縮されています。

2016年7月19日火曜日

動かない武術

中国武術というと激しい動きを連想するかもしれないが、
その中でも動かない武術もある。

私の知る限りでは、意拳、太極拳、心意拳、詠春拳など。

動かないで思い出したが、
先日の伝統大会において詠春拳で出場されている方がおられた。
広いコートのど真ん中に立ち、一歩も動かずひたすら手型技を披露された。
私はその方の心意気と勇気に心を打たれた。

なぜなら、伝統大会と言えど、コートいっぱいに大きく動いた方が高得点が得られる。

走り回ったり、
無数の拳を打ち出したり、
飛んだり、
回ったり、
片足や低い姿勢でピタリと静止したり。

要するに派手さが評価される。
なので入賞された選手の方々の演武はアクションスターさながら華やかそのもの。

確かに私も派手な武術に憧れたことはあるが、
これらはいわゆる無酸素運動。
わずか1~2分でも急激に心拍数が上がり、呼吸が激しくなる。
体力の消耗も激しく、長時間動くことは出来ない。

約40年間ほどんど運動らしいこともせず、小児喘息で体力もなく
その上、肝機能も弱いからお酒もほとんど飲めないし、とにかく疲れやすい。

だから太極拳を選んだ。

「動」と「静」に分けるなら「静」の武術。

これが実に気持ちいい。
動きがゆっくり静かなので表演の世界で目立つことはないかもしれないが、
有酸素運動だからいつまでも動くことが出来るし、動けば動くほど気持ち良くなる。
しかも有酸素運動は脂肪燃焼率が高いからどんどん痩せる。

最近「静」の鍛練を行うようになって私はどうやら痩せたようだ。
半年ぶり、一年ぶりに会う人会う人に「痩せた?」と聞かれる。

そんなことはともかく、
昨夜は、サークルで双辺太極拳をじっくり練った。
改めてその気持ち良さに感動した。
やっぱり私が求めているのはこれだと。

そして、帰宅し五行拳も行ったが、
ほとんど動かず、しかもゆっくり、
意識の働きによって気がどう流れるかを感じながら打つ。

打つと言っても、打ってはいない。
意を打つ。

これもまた最高に気持ちいい。
緩めば緩むほど強くなる内家拳。

気持ちよく行いながら、スリムな体型になり、しかも強く美しくなれる太極拳と形意拳は本当に素晴らしい。

形意拳といっても表演用の形意拳とは全く違う。
というより、私としてはどんどん剛拳化している形意拳をみていて嘆かわしくなる。

形意拳もまた静なる武術。
激しく動き回る武術ではない。

少なくとも私は先日の伝統大会で、形意拳の演武をやり終えた後呼吸が乱れることはなかった。
残念ながら高い点数を頂くことは出来なかったが、自分らしい演武が出来てとても満足している。



2016年7月18日月曜日

受けない打たない

私が師から教わった、楊式太極拳は、「受けない打たない」だ。
それを体感した時、これだ!と思った。

私は身長171センチ、
体重は55キロないと思う。
いわゆる痩せ過ぎ体型。

体重55キロの人間が体重200キロ以上の人に勝てるだろうか?
或いはバーベル50キロしか持ち上げられない人間が250キロ持ち上げられる人に勝てるだろうか?
物理的にはどう考えても不利。

前にも少しブログで触れたことがあるかもしれないが、
必ずしも自分の好きな師の戦法が自分に適しているとは限らない。
だから最終的には自分にあった技法を研究していかねばならないだろう。

私が楊式太極拳を選んだのは、これら体格の差や筋力の差が全く関係ないからだ。

世の中見渡してどうだろう?
関取やプロレスラーのような体格の持主はそうそういない。
電車に乗っても一車両の中にそのような人がいない確率の方が圧倒的に高い。

ほとんどの人が平均体重、平均身長。
特に日本人は世界的に見ても身長が低いし痩せた人が多い。

楊式太極拳なら小柄な女性やお年寄りでも難なく始められ、
しかも内功を練ることで、丈夫なカラダを身につけることが出来る。
しかも筋力ではなく、見えない力である勁力を身につけることができる。

一見、華奢で弱そうな人物がひとたび太極拳モードに入ると一変して強くなるなんてカッコイイではないか。

師匠の体型はガッシリタイプではなくどちらかといえば小柄。

私が打ってかかると、さっと身をかわされ、その瞬間手が触れるのだが
当たる感覚がなく、気が付けば自分の体を自由に操られている。
この感覚が強烈にカッコイイ。

推手を行っても、かつての師匠の腕はとても重かったが、今はその逆。
かといって軽いのでもない。
これ以上のことは奥義に触れることになると思うので割愛するが、
私の言葉で言うなら、気を自在に操っているという感じだろうか。

当会の触れ込みは「大地に根付き、天を舞う」としているが
まさにそのような感じ。

***

昨日、近畿大会を終え帰ってきたが、
大会で行う自分の動きは今話ししたソレではない。
見えない世界を見せる世界で行っても無意味だからだ。

どちらも素晴らしいと思うが、私は見えない世界を徹底的に掘り下げて行きたい。

ようやく私は本格的な修行に入れる。

2016年7月16日土曜日

飽きてしまうということ

これまで何人かの会員さんが途中で飽きてしまいフェードアウトされた。
残念だがこればかりは仕方ない。

一方、毎週2回ずっと通い続けている会員さんもおられる。
本当に熱心だと思うしとても感心させられる。

そもそも飽きるとはどういうことだろう?

仮に私はカレーが好きだが、さすがに毎日食べると飽きる。
しかし、ごはんやみそ汁は飽きることがない。

私が思うに、武術の套路(型)をおかずにしてしまってはいけないと思う。
太極拳で言う套路は気を練り技を練るための鍛練法だからだ。
いわばごはん。

ごはんは生きて行くためには最低限必要なもの。

当会では、養生功を行った後は、毎回楊式太極拳を通す。
いつまで通すか?

答えは一生。

私にとってはごはんを食べなければ生きていけないのと同じで
楊式太極拳を行わないと調子が狂う。

そもそも極意とは、極めた結果得られるものであり、
極めるためには毎日の努力が必要ということになる。

ごはんをゆっくりゆっくり噛んで食べると米本来のうまみが滲み出てくる。
それと同じように楊式太極拳をゆっくりゆっくり練り込んで行くと、どんどん気持ち良さが増してくる。

この気持ち良さを体感せずして辞めてしまうのはあまりにももったいない。

そもそも何故今回このような記事を書きだしたか?

私は試合のために楊式太極刀をこの4年間で5000回以上は行ってきたと思う。
この回数が多いか少ないかはわからないが、
短期間にあまり同じ套路ばかりを繰り返し行うといい加減飽きてくる。
この現象こそが私にとっての危険信号。

太極拳とは生涯を通じて行うものであり、套路はその鍛練法。
鍛練法を飽きてしまってはその道を極めることなどできるはずがない。

だからこそ私はペースを緩めることにした。

ひとつの套路を短期間に集中的に行うのも良いが、その分飽きが来るのも早まる。
健康法として始めた太極拳が飽きてしまったら意味がない。

結局、焦らず毎日コツコツ続けることが大事ということになる。

そして、毎日なにか発見がある。
この発見することがなにより楽しい。

2016年7月15日金曜日

自由スタイル

当会の方針は自由です。

自由と言っても、何を行っても自由と言う意味ではありません。

当会では会員が習ったことを家でも復習できるように豊富な教材を用意しています。
しかもこの教材は無料です。

無料だからといって価値がないのではありません。
お金も時間も労力も掛かっています。

無料にする理由は、「わかる人にはわかる」という形にしたいからです。

仮に1万円の本があったとします。
恐らく大切に扱うでしょう。
しかしそれを読むとは限りません。
本棚に大事にしまって、いつか読もうとそのまま忘れてしまうかもしれません。

私の知る限り、意欲ある方は教材をとても上手に利用します。

もうひとつ。

当会では、教材をこちらから提供することはありません。
申し出た会員のみ(段階的に)提供するようにしています。

何でもそうですが、必要とする人にとっては価値あるものになりますが、
そうでない人にとっては単なるゴミになってしまうからです。

お腹がすけば食料を買いに行きます。
そしてありがたく頂くことでしょう。

でも、もらいものならどうでしょう?
確かにもらった時は嬉しいが、
いつか食べようと思いながらもそのまま腐らせてしまうことはありませんか?

当会は伝統の教室なので、
套路は目標ではなく修行のための鍛練法のひとつに過ぎません。
目標は、「武術を極める」ことです。

だから、当会でお教えするのは楊式太極拳と双辺太極拳と形意拳のみです。
套路だけではありません。
それぞれの推手や散手も同時に学びます。

因みに推手とは、相手の動きを素早く察知する能力を開発する鍛練法であり、
尚且つ、相手の攻撃を自分の攻撃に転じる術を体で学びます。

また散手は、套路で学んだ技を実際に使えるようにする練習法です。
2人1組となり、何度も何度も繰り返し練習し技を体得していきます。

推手も散手も他の習い事では味わえない楽しさがあり、
コミュニケーション方法としても大変優れます。
またこれらを行うことによって、気功、歩型、歩法、身法、手法、眼法、基本功、套路の意味を深く知ることができます。

これこそが伝統スタイルが長年受け継がれている意味であり理由です。

話を戻しますが、
当会が自由スタイルで行う理由は先程もお話しした通り、
必要としている人へ必要な情報を受け取ってもらうためです。

待っていてもなにももらえません。
いえ、先程もお話ししたように、もらったものはそれだけの価値としてか人間は認識しないのです。

押し付けることもなければ、無理に与えることもありません。

当会では常に本人の意思を尊重します。

2016年7月12日火曜日

ここには書けない理由がある

先週末、全日本から帰ってきた。

複雑な想いで挑んだ試合だったが、
結果は惜しくも0.01ポイント差でメダル逃し全国10位。

メダルまでの点差を知るまでは自分ではやり切ったし悔いはないと思ったが、
この点差を知った時、決断がぐらついた。
悔いはないはずだったのに悔しい想いがこみ上げてきて、
その日はホテルのベッドに横たわりながらも明け方3時半まで寝れなかった。

この0.01という数字は私に何を語りかけているのか?
来年もう一度チャレンジし、リベンジを果たせということなのか?
それとも私の決断を揺るがす罠なのか?

会場内では何人かの選手の方と言葉を交わしたが、
いわゆるこうして自分が出続けるのは、交流することができるから。
そして、自分の実力を知る機会になるということだった。

或いは、目標がないと怠けてしまうし、練習する機会が得られる。
目標があるからこそ頑張り続けることが出来るなどの意見もあった。

私もそう思う。
だからこそ誰からすすめられることなく4年前に個人として試合出場を決めた。

あえて、得意な種目ではなく苦手な種目や新しい套路を選ぶのも実力を上げるための機会とするため。
だからこそ自分にとって本当に価値ある4年間だった。

全日本の選手ともなると私が知る限りは先生方がほとんど。
いわゆるチャレンジし続ける先生が集まる場所ということになる。
そういう意味では大変刺激になる機会となる。

そうと解っていても、私には競技太極拳を辞めなければならない理由がある。

あえて言うなら、どんな大会にも主宰側の意図するものがあり、
それによりどのような選手に高得点を与えるかという傾向がある。
だからこそ上を目指すならその対策をしなければならない。

その対策が自分にとってプラスになるものであれば続けるべきだろう。
しかしそうでない場合は自分にとってマイナスになってしまう。

本来、太極拳とは生きるか死ぬかという戦いを迫られた時に使う拳法であり、
相手が武器を持っているならば、一瞬の隙に斬られ死ぬことになる。

太極拳は競技として誕生したのではなく
自分や家族、大切な仲間を守るため、
敵から身を守り生き抜くための武術として生まれた。

それがなぜ健康体操として普及したか?

それは武術として優れた太極拳は
ゆっくりとした動作によって気を練ることが出来、
それがゆえに体中にエネルギーが満ち溢れ、
丈夫な身体を作り上げることのできる優れた健康法であるから。

いわゆる強さを求めることは健康になるということ。
同時に敵から身を守るために考えられた太極拳独自の化勁の動きは常に螺旋や円の動きで、それがまた美しい。

前にもブログに書いたが、強さを求めるからといって喧嘩に強くなることを目指すのではない。
そもそもこの歳になって体を張った喧嘩をする機会などもうあり得ないだろう。

そうではなく、強さを求めることによる健康法は絶大なパワーがあり、
それは同時に美しさを導き出すということ。

しかも、競技では決して得られない別の世界を垣間見ることが出来る。
それはその道の修行を積んだ者が得られる世界。

私はそれを体験してしまったから、
これまで行った競技太極拳は目的ではなく手段として行ってきた。

人生の半分以上が闘病生活だった私としては、太極拳は最高の健康法であり、
怪我や病気の元になって欲しくないという強い想いがある。

だからこそ、自分の使命を果たすために自分の選んだ道を進もうと。

競技に参加される方々には勝利を祈ると共に是非怪我のないトレーニングを行って欲しいと願う。
私如きが言うことでないことは解っているが、
太極拳は老若男女問わず自分の身を守るために編み出された武術であることを今一度見直して欲しい。
そんな想いで一杯なのである。

***

あるSNSに私の試合での演武を公開したが、あれは私が目指す太極拳ではない。
しかし、私は自分と葛藤しながらも怪我をしないギリギリのラインでトレーニングを積み最後まで郷に従った。
「本番直後ぶっ倒れてもいい」
そんな覚悟でコートに向かった。
それを知っている仲間は、私の気持ちを知っているだけに感動してくれ、そして泣いてくれた。

ありがとう。。

2016年6月28日火曜日

昇級試験について

早ければ2016年12月、遅くとも2017年7月に昇級試験を実施することを検討しています。
10級から1級までは健康増進目的の試験
初段以上は武術目的の試験とします。

昇級試験に関しては、サークルを立ち上げる前から計画していたことですが、
結論から言いますと「皆様の健康を心から願うから」です。

そのためにはどうすれば良いか?
今までにいろいろと考えてきました。

まずは気軽に参加してもらえるサークルにすること。
そのために会費を安くし、自由参加制としました。

次に楽しいサークルにすること。
決して義務的なものではなく、足が自然と教室に向かうような、稽古そのものを楽しんでもらえるよう、その環境作りに力を注いできました。

又、発表の場を設け、それを練習意欲に役立てて頂くこと。

全ては皆様の健康を願ってのことです。

ラジオ体操にしてもカードを持って行きスタンプを押してもらうことが楽しみでした。
その結果、朝早くに体を動かし健康増進することができました。
このちょっとしたことが大病を回避し、寿命を延ばす結果になったと思います。

病気は辛いです。自分だけではありません。周りも辛いのです。
自分中心の考え方はいけません。
自分も周りの人たちの幸せも考えるならまず自分が健康になることです。
31年間闘病生活を送った私はそれを痛いほど経験しました。

正しい歩法は足腰を丈夫にし、正しい身法は健康に役立ちます。
正しい眼法、呼吸法、放鬆によって心のリラクゼーションが得られ体だけでなく心の病を消し去り元気を呼び戻します。

これらが審査項目となります。

いわゆる級を上げていく努力は即ち同時に心身共に健康になるというものです。

昇段試験にしてもしかり。
武術として太極拳に取り組むことは強くなるだけでなく、更なる健康を手に入れることができます。
それに強くなることは美しくなることでもあります。

そしていずれ誰もが手に入れたいと思うような素晴らしい境地に達することを目的としています。

これが当会の昇級試験、昇段試験を行おうとする理由であり目的です。

心の中に太極拳への意欲の火が灯れば、それは健康街道まっしぐら、人生を謳歌できるということになります。

いかがでしょうか?

もちろん試験に参加するか否かは自由です。
全てはあなた次第です。

2016年6月22日水曜日

見えない光

先々月の師匠稽古に参加させて頂いた時、
師匠が「自分が光になる感覚」と仰った。

やはりそうかと。

私は最近、立禅気功を行う時、特に光になるイメージに集中している。
そして、実際私の中で起こることは光よりもプラズマのようなものが発生いる感覚に近い。
これが何なのか今の私にはまだ解らないが、
とてもエネルギーに満ちた状態になる。

そんな風に意識しなくとも、自分が光になれたのは未だに一回だけである。
あれは、私の進むべき道を示してくれたお導きだと思っている。
とても貴重な体験だった。

以前もブログに書いたが、その時の状態は全く恐れも闘争心もない世界。
相手の動きがすべて手の取るようにわかり、
相手の攻撃をいなそうとするのではなく、いなしている自分がいるという感覚。
そして打とうとするのではなく打つべきタイミングで打っている自分がいる感覚。
いわゆる無の状態。

これが体内に光が宿った時の神秘的なパワー。

因みに光は物質ではない。
エネルギーだ。
それに光はまっすぐ進む。

強力な光を体に当てれば、その光(光子)は体内を貫通するだろう。
手の平に懐中電灯をかざすと手の甲に光が漏れてくるのと同じように。

そして、光に似たもの。
それは電磁波だったり放射線だったり。
X線にしろ、体内を貫通するから体内の写真を撮ることができる。

このように考えると体内で起こるプラズマのようなものは気の感じ方の一つではないかと。
その状態で筋力を最大限ミニマム状態にして、
ゆっくりゆっくり手を前に差し出すと、
掌から磁力の束のようなものが発射されているように感じる。

あいにくこの状態に持って行くためには、立禅を何十分と行った後だ。
これを数秒でチャージする力を身につけられればと思う。

いずれも非常に集中力が必要。
立禅で無の状態にならなければ得られない。
だから立禅を行う時は仕事のことも生活のことも心配事も一切考えてはいけない。
逆に言えばそれらから解放される時間でもある。

それにしても、私が一時でも得た、あの光の無限のパワー。
あの感覚は忘れようにも忘れられないし、
いずれ自在にそのパワーを使えるようになりたい。


どうも最近話がマニアックになってしまうが、
この世界に入るともう引き返すことが出来ないぐらいハマります・・

2016年6月20日月曜日

楊式気功で急速疲労回復

土曜日は仲間と野外で6時間に及ぶ対打練習を行ったので、
さすがに翌日に疲れが出た。

しかも、前線が近づくと気圧の変化で体調がおかしくなる。
頭に血が上らなくなり、体全身がだるくなる。
40代半ばぐらいまではこんなことはなかったのだが・・

そんなこんなで太極拳をする元気もでなかったが、
気功なら・・と思い始めてみた。

今回は、楊式気功を行ってみた。
楊式気功とは便宜上そう呼んでるが、大成気功とは少し違う。

大成気功が水のように流れる感じなら、
楊式気功は空気(外気)を操る感じだろうか?
体を動かすことで気流を生み出すような感覚がある。

特に時間は計ってないが、多分40~45分ぐらいは行ったと思う。

気功を行う前はまるで時差ボケのように立ちくらみするほどの状態だったのが
気功後はしゃきっと立てるようになり、頭もスッキリ。
元気復活。

放置していた仕事も捗った。

すると、また楊式気功をしたくなった。
やはり40~45分ぐらいだろうか。
すると、更に元気に。
疲労感もどんどん消えて行く。

また、デスクに向かい仕事を始めた。

一段落したところで、またもや楊式気功がやりたくなった。

すっかり気功中毒(笑)

そして、今度は気の流れを強く意識してみた。
すると部屋の中なのに、肉体と空間との境界線が徐々に消え始め、
空間に溶け込んでいく感覚が強くなった。
手は電気が走っているようにビリビリし、
掌からは磁力線のようなものが束になって放出されている感覚を得る。

もはや疲労感はなく、
元気も通り越し、
体全体にエネルギーが渦巻くような状態に至る。

結局、合計120分以上行った計算になる。
しかし、まだまだやりたい気分だ。

やればやるほど元気になる気功。
そのパワーはどれだけでも増大する感覚。

時間さえあれば一日中でもやっていたいほどだ。

2016年6月17日金曜日

選手活動は4~5年と決めていた

間もなく4度目の全日本となる。

私は大会出場を決めてから4~5年で引退すると決めていた。
なぜなら私の目標はアスリートではないから。

私は指導者となるため、これからの時代、それなりの演武力が必要だと感じていた。
だから大会出場を決めた。

そして、
初出場の頃から2年間は体がボロボロになるまでトレーニングした。
なぜなら引退時期を決めてからスタートしたからだ。

膝はガタガタで痛みが治まらない。
そのうち足首まで痛み出す。
しまいには、ふくらはぎまでもが悲鳴を上げだす。

最後は鉛のような重い体を引きづりながら、
ただただ精神力だけでトレーニングを行った。
疲れ果ててそのまま練習場で寝込んでしまったことも何度もある。

筋肉痛が直らないうちに更に過酷なトレーニング。
筋肉疲労が回復しないうちに過酷なトレーニング。

慢性筋肉痛と筋肉疲労と闘いながらの毎日だった。

辛かったがその成果はなんとか表れた。
全日本では毎年4位ずつ順位を繰り上げ、去年は全国ベスト10入りを果たした。

奈良では拳術で3年連続優勝。
近畿大会では伝統器械で銀メダルを獲得。
伝統大会では拳術で銅メダルを獲得した。

そして、今年の全日本だが、
これまで行ってきたようなトレーニングはしないことにした。

必要以上に筋肉を酷使すると体内のフリーラジカル(活性酸素)が増加し寿命が縮まるからだ。
フリーラジカルは老化を促進させる。
陸上選手が短命と言われるがそのせいだ。
これは私が目指していることとは真逆だ。

それにもうひとつ解ったことは
試合向けのトレーニングを行うと勁力が衰えてくる。
これは実体験からわかったこと。

そもそも勁力とは筋力ではない力。
筋力を鍛えると勁力が衰える、
というより勁力の感覚が掴みにくくなるというほうが正しいだろうか?

筋力があると筋力に頼ってしまう。
すると勁力を上げるための感覚を掴む機会を失ってしまうことになる。

以上のような訳で、当初の計画通り、今年で太極拳選手人生にピリオドを打つ。
今年のテーマは「初心に戻る」
そして「自分らしく」だ。

私の目標は110歳以上まで生きること。
気功によって長寿を獲得すること。
その生き証人となること。

これは金メダルをとりに行くより私にとって重要なこと。

当会では、筋肉を酷使する練習は行わない。
息が切れるようなトレーニングや、筋肉が悲鳴を上げるようなストレッチも行わない。

それどころか基礎代謝を上げ、免疫力を向上させる練功を行う。
免疫力が上がれば老化、癌化を促進するフリーラジカルを減少させることができる。

現に気功や伝統楊式太極拳を行ったあとは、疲れるどころか逆に元気になる。
気功によって、生まれたばかりの頃の元気を地球と宇宙からチャージするからだ。

同じ太極拳でも寿命を縮める太極拳と
寿命を延ばすことが出来る太極拳があるとは皮肉なものだ。

私からの願いは、気功と太極拳によって
健康になって欲しい、
丈夫な体になって欲しい、
勁力を身に付けて欲しい、
長生きして欲しい。

少なくとも私の元にやって来られる会員さんには出来る限り最善を尽くしたいと思っている。

2016年6月16日木曜日

意拳気功の威力

昨日、一番弟子であるMさんとあらゆる稽古を行った。
推手、対打、散手、打ち合い、崩しあい。

2年前弟子として志願してきたMさんは
ちょんと指先で押すだけで枯葉のようにどこまでも飛んでいった。
投げても、崩してもその度にぶーぶー(笑)
意地悪でしているわけではないのだが・・(笑)

しかし今のMさんは違う。
拳も掌も打たせるとやたら重い。
ふわっと手を前に出しているだけなのに。
身長155ぐらいの小さな体から発せられるチカラとはとても思えない。

昨日は掌ではなく拳で胸を打ってもらった。
全く遠慮がない(笑)
私は5回目でストップをかけた。
ヤバイと思った。

そのMさんは、これまで忙しくて練習は出来なくとも気功だけは毎日行ってきたという。

当会で行っている気功は意拳の創始者がつくられた、意拳気功。
意拳、またの名を大成拳とも言われたので大成気功ともいう。

立つだけの鍛錬で、パワーを身につける。
力学では決して証明できない世界だと思う。

2016年6月5日日曜日

今、気功が一番楽しい

以前、ブログにも何度か書いたことがあるが
私は気功が一番好きではなかった。

そもそも体を動かしたくて始めた太極拳。
じっとしているなんて退屈で仕方なかった。

しかし、今は気功が一番楽しい。

空間と同化していく感覚が堪らなく気持ちいいし、
これほどの快楽があるだろうか?と思うほど幸福感を感じる。

立禅に入り体をゆるめると、スーッと気が沈み、無の状態に入る。
そのうち、内気(体内の気)と外気(体外の気)がスパークし合い、手がチリチリしてくる。

体がトロトロになってきて、
そのうち体が気化したかのように大自然と同化する感覚に至る。

太極拳もまた気功。
外気との摩擦を感じる。

推手もまた気功。
相手の気を感じる。

散手もまた気功。
気に包まれた体で相手を感じ、そして気を放つ。

当会では今2種類の気功を行っている。
ひとつが「水」なら、もうひとつは「空気」だろうか。
名付けて、水の気功と空の気功。

柔らかい空気に包まれ無の状態で気持ち良く太極拳を練っていると、
まわりの様々な気を感じる。

柔らかい気を出している人。
そうでない人。

私としてはこの感覚を誰にでも味わって欲しいと思う。

2016年5月26日木曜日

頭が良くない方が太極拳に向いている?

いきなり不躾なタイトルお許しください。

以前も少しお話したが、太極拳がなかなか覚えられないという方が多いと言うこと。

確かに簡化太極拳に対し伝統太極拳は技の数も多く演武時間も長い。
だから、太極拳を始めて行った時、思ったより覚えられないので、「こんなにたくさん覚えられない・・」と思ってしまうのだろう。

しかし逆を言えばそれだけ楽しみがあるということ。
すぐに出来てしまってはおもしろくない。
釣り糸を垂らした瞬間に大魚が釣れてしまったらおもしろくない。

苦労して覚えたものは覚えた時に感動があり、
たっぷり時間をかけて習得したものは一生の宝になる。

本題に入るが

私は決して頭がよくない。
勉強が苦手で学生時代は赤点ばかり。
自慢ではないが0点をとったこともある。
成績表を親に見せるのが毎回怖く、父に見せると真っ赤な顔で怒鳴られ殴り倒された。
(今では有りえないと思うが当時は普通でした)

勉強が出来ないからといって運動ができたわけでもない。
のろまな上にボール恐怖症。
とことん運動音痴で学生時代体育の時間が嫌いで嫌いで仕方なかった。
体育授業のある前日は憂鬱で毎回地獄のような思いをした。

その上、無口で人と接することを怖がっていた。
だから休み時間はいつもひとりぼっち。
学校がつまらなくて仕方なかった。
だからたまに仮病を使って学校を休むこともあったほど。

とまあ、以上が私の暗い学生時代(笑)

太極拳に関しても最初は本当に苦労した。
先生と一緒ならなんとかついていけるのに、一人になると何も思い出せない。
あまりにも思い出せない自分にビックリしたほど(笑)

そんな私でも伝統楊式太極拳を覚えました。
いえ、正確に言えば今でも間違うことはありますが・・(笑)

いわゆる
太極拳は頭で覚えるものではなく体で覚えるものだということ。

人間は習慣で動く生き物。
今まで繰り返し行ってきたことが潜在意識に伝えられ、それがセルフイメージとなり、その人の人格形成を行い、習慣や癖を作り出す。

どんなに頭で解っていても思うように動けないのは潜在意識に入ってないから。
仮にすらすら覚えたとしても、きっと忘れるのも早いでしょう。

だから腰を据えてゆっくりゆっくり覚えて行けばいいのです。
その方が確実に潜在意識に刻み込まれていくから。
人間は潜在意識に逆らうことはできません。
潜在意識に支配されているのです。

逆を言えばその潜在意識を利用すればいいということ。
潜在意識は繰り返しに弱いので、ただただ何度も何度も繰り返し練習すればいいのです。


先日、仲間とちょっとした組手を行いました。
隙を見て間合いを詰める実験。

私が攻撃側で、隙を与えないよう相手の動きを見ながら突きや蹴りでけん制する。
しかし、次にどのような動きをしようかと考えていると、気がつけば相手は目の前に。
いわゆる考えることが相手に隙を与えてしまうということ。

実戦の場面では決して考えてはいけない。
無心になることが大事。

相手に技が決まるのは考えた技ではなく、いつの間にか出た技。
いわゆる得意技。

打ち合いの練習でも、私の突きの威力を相手に最も感じてもらえるのは無心で打った時。
威力を出してやろうと考えるとパワーが死んでしまう。
そう考えることが力みを生み、本来持ってる勁力を妨げてしまう。


前回の記事で弟子に胸を打ってもらった話をしたが、
そのMさんの気功歴は約2年。
毎日毎日行っていると言う。

その2年前と比べ驚くほど勁力が上がっていた。

その掌打には、か細い腕から繰り出されるパワーとは思えないほど重い衝撃が私に伝わってきた。
しかもその衝撃は震動となって体内にまで入ってきた。

因みにMさんは普段、突きの練習や筋トレを行っているわけではない。
ただただ、毎日気功を行い、楊式太極拳を練ってきたのだ。

そういうMさんも学生時代勉強と運度が苦手だったということ。


最後に

太極拳に求められるのは頭脳でも運動神経でもない。
太極拳に求められるのは
日々の鍛練
そして、何も考えないこと。

無心こそ最強と言えよう。